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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
2章

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39/48

できること


 結衣は、すぐに切り替えた。力で抜けない。打撃を正面から通せない。

 なら、狙う場所を変えるしかない。


 どれほど強靭な肉体でも、構造上の弱点はある。

 人型を取っている以上、完全な竜の姿よりも可動域は人間に近い。

 関節もある。喉もある。目もある。神経の集まる場所もあるはずだ。

 真正面から砕けないなら、急所を突く。


 結衣は踏み込んだ。

 白い魔力を足裏に集中させ、地面を滑るように距離を詰める。


 抜き手。


 拳ではなく、指先を揃えた突き。狙いは首。気管。

 人間相手なら、絶対に使えない技だった。

 当たれば、ただでは済まない。最悪、命に関わる。


 候補生時代の訓練でも、形だけは教えられていた。

 実戦では封じるべき技として。

 相手を止めるためではなく、相手を壊すための攻撃として。

 だが、今は違う。


 目の前にいるのは人ではない。

 竜王だ。遠慮する余裕などなかった。


 結衣の指先が、グラシャラボラスの首筋へ走る。

 白い魔力が、爪のように指先へ集まる。

 速い。人間相手なら、反応する前に届いていた。


 だが。


 グラシャラボラスは、首を軽く動かしただけだった。

 ほんのわずか。必要最低限。

 それだけで、結衣の抜き手は空を切る。


 指先が、竜王の喉元をかすめる。

 皮膚に触れたかどうかの距離。届かない。


 けれど、それも想定の内だった。

 外されることは分かっていた。


 この一撃で決まるとは思っていない。

 大事なのは、首を動かさせること。意識を上へ向けさせること。

 結衣は抜き手を外した勢いを殺さない。


 踏み込んだ足に体重を乗せたまま、膝を跳ね上げた。

 狙いは股間。人型である以上、構造は近いはず。

 竜であろうと。王であろうと。男の形を取っているなら、弱点である可能性は高い。そう信じて、迷いなく打ち込む。


 殺すための攻撃ではない。止めるための攻撃でもない。

 動きを奪うための攻撃。


 わずか一瞬でも、グラシャラボラスの体が硬直すればいい。

 その隙に、麗奈が斬る。

 オブスキュリテが赫塵を撃ち込む。

 結衣がさらに踏み込む。

 だが、その膝すらも届かなかった。


 グラシャラボラスの膝が、横から動く。結衣の膝へ、竜王の膝が叩きつけられた。

 重い衝撃。


「っ……!」


 結衣の脚が横へ弾かれる。

 関節が嫌な方向へ持っていかれかける。骨が軋み、筋肉が引きつる。

 わずかに体勢が崩れた。

 普通なら、そこで終わっていた。


 グラシャラボラスは追撃できたはずだ。

 結衣の腹を蹴り抜くことも、頭を掴んで地面へ叩きつけることもできた。

 だが、竜王はすぐには動かなかった。

 代わりに、楽しげに笑った。


「迷いのない急所狙い」


 低い声。そこには怒りがない。

 侮辱されたと感じた様子もない。卑怯だと責める色もない。

 むしろ、喜んでいた。


「いいぞ」


 褒めている。本当に、褒めている。

 人間の少女が、自分を殺すために手段を選ばないことを。

 真正面からでは届かないと悟り、喉を突き、股間を潰そうとしたことを。

 竜王は、心から面白がっていた。命のやり取りを。


 人間の少女が、自分より遥かに強大な存在を倒そうとしていることを。

 そのために、綺麗な戦い方など捨てていることを。それが愉快で仕方ないのだ。


 結衣は奥歯を噛んだ。

 褒められて喜ぶ場面ではない。

 だが、苛立ちに飲まれる場面でもない。


 相手は強い。信じられないほど強い。

 それでも、こちらの狙いは見えている。


 急所を守った。防いだ。

 つまり、無意味ではない。


 結衣は崩れた体勢を強引に戻す。

 次に、ハイキック。狙いは側頭部。

 こめかみ。脳を揺らす。視界を奪う。

 意識を一瞬でも飛ばす。


 白い魔力が、結衣の脚に走る。

 腰を回し、軸足を踏みしめる。足首から膝へ、膝から股関節へ、力を通す。

 結衣の脚が、しなるように跳ね上がった。


 だが。


 グラシャラボラスも応じた。まるで、遊びに付き合うように。

 竜王の脚が上がる。同じ高さ。同じ軌道。


 ハイキック。


 結衣の蹴りと、グラシャラボラスの蹴りが空中でぶつかった。

 結果は明白だった。

 鈍い音が響く。結衣の脚が弾かれた。


「っ……!」


 大木を蹴ったような衝撃。

 いや、それよりも硬い。


 足首から、膝へ。膝から、股関節へ。痛みと痺れが一気に駆け上がる。

 強化魔法で保護していなければ、骨が折れていた。いや、保護していても危うい。関節の奥に、嫌な熱が残る。

 結衣の重心がわずかに浮いた。


 その瞬間。

 グラシャラボラスの掌底が、顔面へ飛んできた。

 速い。

 大振りではない。今度は近い距離から、短く打ち出された一撃だった。


 結衣は首だけで避けた。体ごと動かす余裕はない。首を倒し、鼻先を逸らす。

 掌が、顔のすぐ横を通る。鼻先をかすめた。

 熱い。皮膚が削られた感覚。


 避けた。そう思った瞬間。

 掌底の軌道が変わった。

 肘が折れる。手首が返る。

 振り抜いたはずの腕が、まるで別の生き物のように戻ってくる。


 裏拳。

 結衣の目が見開かれる。

 避けきれない。体勢は浮いている。脚は痺れている。

 首を倒したばかりで、次の回避に移れない。


 防御。間に合わない。

 オブスキュリテの防壁が、結衣の頬の横に一枚だけ展開した。赤黒い薄膜。

 だが、それも一瞬で砕けた。

 衝撃のほとんどを殺しきれない。


 グラシャラボラスの拳が、結衣の頬へ叩き込まれた。

 音が消えた。視界が横へ跳ねる。頬の骨が軋み、口の中が切れる。

 体が浮く。地面が消える。

 結衣の体は、横へ吹き飛ばされていた。


 ただ殴られただけではない。

 小型の車に横から突っ込まれたような衝撃。

 空中で、結衣は必死に意識を繋ぎ止めた。


 落ちるな。意識を手放すな。

 今、力を抜けば、地面に叩きつけられて終わる。

 結衣は空中で体を捻った。痛む脚を無理やり下へ向ける。

 白い魔力を足裏へ集める。

 地面が迫る。結衣は両足を叩きつけた。


 止まる。

 いや、止めた。


 靴底がアスファルトに食い込む。地面に二本の深い跡が刻まれる。それでも勢いは消えない。

 結衣の体がさらに後ろへ滑る。

 足首が悲鳴を上げる。膝が折れかける。

 それでも、倒れない。

 数メートル滑って、ようやく止まった。


「は……っ」


 息が漏れる。

 口の中に、血の味が広がっていた。鉄の味。

 舌先で触れると、頬の内側が切れている。奥歯も少し軋んでいる。

 結衣は血を吐き捨てた。赤い唾が、アスファルトに落ちる。


 無造作な一撃だったはずだ。そこに高度な技術があったわけではない。

 洗練された型でもない。計算し尽くされた連撃でもない。

 掌底から裏拳へ。動きとしては単純。


 ただ、速い。

 ただ、重い。

 ひどく重い。

 グラシャラボラスの一撃一撃は、受けるたびに体の内側へ響く。


 骨に残る。筋肉に残る。魔力の流れまで乱される。

 何度も受けられるものではない。


 結衣は左手で頬を軽く拭った。指先に血がつく。

 視界の端では、グラシャラボラスが笑っている。楽しそうに。まだ余裕を残して。

 それでも、結衣は構えを解かなかった。


 痛みを呼吸で押し込める。脚の痺れを、魔力で無理やり支える。

 頬の熱も、口の中の血も、今は無視する。


 倒れていない。まだ動ける。

 なら、戦える。


 結衣はもう一度、白い魔力を拳へ灯した。



「結衣先輩……!」


 麗奈は、その戦いを見ていることしかできなかった。


 結衣が踏み込む。

 避ける。殴る。弾かれる。受ける。血を吐く。

 そのすべてが、あまりにも速い。


 足の運び。拳の軌道。

 グラシャラボラスの腕が動く瞬間。

 結衣がそれを紙一重で避ける瞬間。

 自分の目では追いきれない瞬間すらある。


 音が遅れて届く。

 拳が交差した後に、空気が破裂する。

 蹴りが空を裂いた後に、瓦礫が砕ける。

 防壁が砕けた音を聞いた時には、もう次の攻防に移っている。


 これが、結衣先輩の戦い。

 これが、エースの領域。


 麗奈は剣を握りしめた。

 割って入らなければ。自分も戦わなければ。

 ここにいる以上、見ているだけではいられない。


 足が、一歩前へ出る。

 その瞬間だった。襟首を後ろから掴まれた。


「待ちなさい」


 冷たい声。オブスキュリテだった。

 麗奈は振り向く。


「何を――!」


「あなたじゃ割って入れないわ」


 オブスキュリテは、結衣から目を離さずに言った。

 麗奈の襟首を掴んでいるのは片手だけ。もう片方の手は、絶えず動いている。

 指先が赤黒い光を描く。結衣へ防御術式を飛ばす。

 砕ける。すぐに次を張る。


 赤い防壁。衝撃緩和の薄膜。

 魔力補助の細い線。姿勢制御の補助術式。

 それらが、結衣の動きに合わせて何度も組み直されていた。

 ただ防壁を張っているだけではない。


 結衣が踏み込む瞬間には、脚へ負荷を逃がす術式。

 拳を受ける瞬間には、腕の外側へ衝撃を逸らす膜。

 体勢が崩れそうになれば、背中に支えを作る。

 吹き飛ばされれば、足裏へ着地補助を重ねる。


 一瞬でも遅れれば意味がない。

 一枚でも場所を間違えれば、結衣の体が砕ける。

 それを、オブスキュリテは眉一つ動かさず続けていた。


 いや、違う。


 よく見れば、額には汗が滲んでいる。

 呼吸も浅い。唇の端を噛んでいる。

 余裕などない。

 それでも、目は結衣から離れない。


「今、正面から入れば一撃で死ぬ」


「でも、このまま見ていろって言うんですか!」


 麗奈の声が震えた。


「結衣先輩が一人で――」


「無力よ」


 オブスキュリテの声は冷たかった。容赦がなかった。

 麗奈の表情が凍る。


「あなたは、今のあの二人の間に入れるほど強くない」


「っ……」


 言い返せなかった。

 悔しい。腹が立つ。

 だが、否定できない。


 今の結衣とグラシャラボラスの戦いは、自分が割り込める速度ではない。

 間合いへ入った瞬間、巻き込まれる。

 狙われるまでもなく、余波で吹き飛ばされる。


 それが分かってしまう。

 分かる程度には、麗奈も戦ってきた。


「私も前には出られない」


 オブスキュリテは続けた。


「近づいた瞬間に潰される。あの拳を一発でも受ければ終わりよ。だから結衣に防御を張っている」


 そこで初めて、オブスキュリテは麗奈を横目で見た。

 赤い目が、冷たく射抜く。


「あなたができるのは、せいぜいあの竜王の気を散らすくらい」


「気を、散らす……?」


「ええ」


 オブスキュリテは頷いた。


「死角から。多角的な攻撃。直撃させる必要はない。目を向けさせるだけでいい。判断を増やすの。処理しなければならない情報を増やす」


 麗奈は息を呑んだ。


 気を散らす。攻撃を当てるのではなく。倒すのでもなく。決定打になるのでもなく。

 ただ、邪魔をする。

 それが今の自分に求められている役割。

 情けないと思った。


 けれど、オブスキュリテの声に嘲りはなかった。

 事実だけを並べる声だった。


「あの竜王は、技術で戦っているわけじゃない」


 オブスキュリテは、結衣とグラシャラボラスの攻防を見据えたまま言う。


「反応速度と身体能力で押し潰しているだけ。結衣の動きを見てからでも間に合う。防げる。返せる。それだけの肉体性能がある」


 グラシャラボラスが拳を振り下ろす。

 結衣は半身で避けた。そのまま肘を脇腹へ叩き込む。

 だが、浅い。


 竜王はほとんど揺らがず、反対の腕を振る。

 オブスキュリテの防壁が結衣の肩口に展開し、次の瞬間砕けた。

 結衣の体が大きくよろける。それでも倒れず、踏み込む。


「でも、どれほど反応が速くても、意識は一つよ」


 オブスキュリテの声が低くなる。


「あいつが結衣だけを見ていれば、結衣は削られる。いずれ捕まる。防御を張っても、何度も受けられるものじゃない」


「……」


「だから、処理能力を限界まで持っていく」


 その言葉に、麗奈は思わず剣を握り直した。


「結衣の攻撃だけ見ていればいい状況を崩す。あなたは横から、後ろから、上から、下から、あいつに余計な判断を強制しなさい」


 オブスキュリテの指先が鋭く動く。

 赤黒い術式がまた一枚、結衣の左腕へ張られた。


「あなたの一撃が軽くても、防がせればいい。避けさせればいい。視線を奪えばいい。ほんの半秒。いいえ、一瞬でもいい。その一瞬で結衣が動ける」


 麗奈は、グラシャラボラスを見た。

 巨大な魔力反応。圧倒的な肉体。

 結衣先輩ですら、真正面から押されている相手。


 自分の剣が届くとは思えない。

 届いても、傷になるか分からない。


「でも、私の攻撃なんて」


「効かないでしょうね」


 即答だった。胸が痛んだ。

 覚悟していた言葉なのに、実際に言われると息が詰まる。


 麗奈は奥歯を噛んだ。

 分かっている。そんなことは、自分が一番分かっている。

 自分は結衣ではない。姉でもない。

 まだ、誰かの戦いを決められるほど強くない。


 けれど。


「でも、無駄じゃない」


 オブスキュリテは続けた。

 麗奈が顔を上げる。


「あなたは無力であっても、無駄じゃないわ」


 その言葉は、冷たかった。

 優しくはなかった。励ましでもない。慰めでもない。

 頑張ればできる、などと言われたわけでもない。

 あなたなら倒せる、と背中を押されたわけでもない。


 無力。


 そう言われた。

 事実を、突きつけられた。

 それでも。


 無駄ではない。


 その言葉だけが、麗奈の胸に残った。

 無力であることと、無意味であることは違う。


 今の自分に竜王は倒せない。結衣のように殴り合えない。

 オブスキュリテのように戦場全体を支えることもできない。


 でも、視線を奪うことならできる。

 判断を増やすことならできる。

 結衣が一歩踏み込むための、一瞬を作ることなら。


 麗奈は深く息を吸った。

 震えていた指先に、力を込める。


「……分かりました」


 剣を構え直す。


「やってみます」


「やってみる、では遅いわ」


 オブスキュリテは再び結衣へ術式を飛ばした。


「今すぐやりなさい。結衣も、さほど余裕はないわよ」


 その言葉の通りだった。

 結衣はまた、グラシャラボラスの拳をかすめていた。

 頬から血が飛ぶ。肩の防壁が砕ける。体が一瞬沈む。

 それでも、倒れない。

 前へ出続けている。


 麗奈は奥歯を噛んだ。


 怖い。


 自分の攻撃が通じないことも分かっている。

 飛び込めば死ぬかもしれない。

 中途半端な攻撃では邪魔になるかもしれない。

 判断を誤れば、結衣の足を引っ張るかもしれない。


 それでも。

 ここで見ているだけでは、姉に合わせる顔がない。

 姉なら、どうしただろう。

 きっと、怖くても動いた。勝てなくても、届かなくても、必要なら前へ出た。


 麗奈は息を整える。

 正面からは入らない。


 結衣の間合いを邪魔しない。

 竜王の視線が結衣に固定された瞬間を狙う。

 攻撃は浅くていい。防がせる。

 反応させる。見させる。


 自分は決定打にはなりえない。

 なら、決定打を作るために動く。


 麗奈は地面を蹴った。正面ではなく、横へ。

 瓦礫の影を利用し、グラシャラボラスの視界の外へ回る。


 剣に魔力を流す。刃が淡く光る。

 手はまだ震えていた。

 けれど、足は止まらなかった。


 無力でもいい。無駄じゃないなら。

 今は、それで十分だった。


 刃に魔力が走った。

 その一撃は、竜王を倒すためのものではない。

 結衣へ一瞬の隙を作るためのものだった。




 麗奈は、グラシャラボラスの背後へ回り込んだ。

 足音を殺す。呼吸を抑える。

 瓦礫の陰を縫うように、低く走る。


 正面から斬り込む必要はない。

 いや、正面から斬り込んではならない。

 結衣とグラシャラボラスの間合いに入れば、邪魔になる。

 それどころか、巻き込まれて死ぬ。


 オブスキュリテの言葉が、耳の奥に残っていた。


 ――あなたは無力であっても、無駄じゃないわ。


 悔しい言葉だった。

 胸に刺さった。情けなさで、奥歯を噛みしめたくなった。

 けれど、正しい言葉だった。自分の剣では、竜王を倒せない。

 結衣のように、正面から殴り合うこともできない。

 オブスキュリテのように、戦場そのものを支えることもできない。


 ならば、自分の役目は一つ。

 グラシャラボラスの意識を、ほんのわずかでも削ること。

 結衣へ向けられる処理能力を、少しでも奪うこと。


 倒すのではない。揺らす。崩す。

 ほんの一瞬、結衣の攻撃が届くだけの隙を作る。

 それが、今の麗奈にできる戦い方だった。


 麗奈は剣を構えた。その刃に、淡い光が走る。

 周囲の魔力が収束し、彼女の背後に四つの光点が生まれた。


四晶ししょう天律剣陣てんりつけんじん


 低く、魔法名を唱える。光点は結晶へ変わった。


 紅晶。

 蒼晶。

 翠晶。

 黄晶。


 火、水、風、土。


 四つの属性が、それぞれの晶の中で淡く脈打つ。


 紅晶の内部では、炎が花弁のように揺れている。

 蒼晶の中では、水が細い渦を巻く。

 翠晶は風を孕み、微かな唸りを上げる。

 黄晶には、大地の重みを思わせる鈍い光が宿っていた。


 本来なら、前衛の動きに合わせて属性攻撃を差し込み、敵の足を止めるための技だった。

 決定打ではない。

 だが、手数はある。今必要なのは、その手数だった。


 麗奈は息を吸う。

 結衣が、正面でグラシャラボラスの拳をかわす。

 オブスキュリテの赤黒い防壁が砕ける。

 グラシャラボラスの意識は、結衣へ向いている。


 今。


「撃て!」


 麗奈の命令に、二つの晶が輝いた。

 紅晶から火球が飛ぶ。赤く燃える球体が、空気を焦がしながら一直線に走る。

 黄晶からは石の槍が突き出した。

 鋭く圧縮された岩の槍。地面の破片を魔力で束ね、貫通力だけに特化させた一撃。

 炎と岩が、グラシャラボラスの背へ殺到する。

 タイミングは悪くない。


 結衣の踏み込みと、グラシャラボラスの迎撃。

 その狭間に差し込むように撃った。

 だが、竜王は振り返りもしなかった。ただ、金色の瞳だけがわずかに横へ動いた。

 見られた。それだけで、麗奈の背筋が冷える。


 グラシャラボラスの片手が動いた。

 結衣へ向けていた意識を、ほんの一部だけ割く。

 無造作に、背後へ手を払う。

 火球が弾かれた。紅い炎が空中で砕け、火の粉となって散る。

 続けて、石槍が指先に叩かれた。

 槍の穂先が砕ける。根元から粉々になり、ただの砂利となって地面へ落ちる。

 たったそれだけ。


 振り向きすらしない。構えも変えない。足も止めない。

 麗奈の攻撃は、処理された。

 それ単体であれば、まったく脅威にはならない。


 竜王に傷を負わせるには、あまりにも軽い。

 あまりにも浅い。あまりにも遠い。


 けれど。


 片手を使わせた。視線を一瞬だけ動かした。

 グラシャラボラスの処理が、ほんの僅かに分散した。

 その一瞬で十分だった。


 結衣が踏み込む。

 グラシャラボラスの迎撃の拳が放たれる。

 だが、ほんのわずかに遅い。


 先ほどまでなら、結衣の動きにぴたりと合わせていた拳。

 避けても、次の返しが即座に来ていたはずの一撃。

 その反応に、わずかなずれが生まれた。


 結衣は見逃さない。

 半身になる。拳が頬の横を通り過ぎる。

 風圧が皮膚を裂く。髪が舞う。

 けれど、止まらない。


 結衣は踏み込みの勢いを殺さず、体を沈めた。

 腰を回す。肩を入れる。白い魔力を拳へ集中させる。

 狙いは横顔。

 顎ではない。こめかみでもない。

 まずは視界を揺らす。


 竜王の意識が完全に戻る前に、結衣の拳が振り抜かれた。

 鈍い音が響く。拳が、グラシャラボラスの横顔を捉える。

 初めて、手応えがあった。


 硬い。やはり硬い。

 だが、今度は弾かれただけではない。

 グラシャラボラスの顔が横へ跳ねた。

 足が動く。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 大きく崩れたわけではない。膝をつかせたわけでもない。

 今の竜王は人型だが、それでも根本の質量は尋常ではない。

 それでも、その数歩のよろめきは、確かな成果だった。

 結衣の拳が、初めて竜王の姿勢を崩した。


 麗奈は息を呑んだ。

 自分の攻撃が効いたわけではない。

 だが、自分の攻撃があったから、結衣の拳が届いた。その事実が、胸の奥で小さく火を灯す。


 無力でも。

 無駄ではない。


「ほう」


 グラシャラボラスは、口元に滲んだ血を親指で拭った。

 血。竜王の血。

 ほんの僅かだ。傷と呼ぶにも浅い。それでも、確かに血が出ている。


 怒りではない。竜王の表情に浮かんだのは、むしろ愉悦だった。理解した者の笑み。

 獲物を見下ろす笑みではない。戦いの形を読み取った者の笑み。


「我の処理能力を奪うためか」


 金色の瞳が、麗奈へ向いた。

 麗奈の背筋に悪寒が走る。見られただけで、体が固まりそうになる。

 喉が乾く。指先が冷える。剣を握る手に、汗が滲む。


 だが、グラシャラボラスは麗奈へ向かわなかった。

 向かう必要がない、と判断したのだ。


「ならば」


 彼は、ゆっくりと結衣へ向き直る。


「無視すればよい」


 その言葉に、麗奈の胸が冷えた。


 無視。


 それは侮りではない。

 判断だった。


 麗奈の攻撃は、処理する価値があるから払われた。

 だが、一度理解すれば、優先順位を下げられる。

 多少受けても問題ない。傷になっても浅い。

 それよりも、結衣を潰す方が早い。

 そう判断された。


 麗奈は歯を食いしばる。


「……っ!」


 それでも、止まるわけにはいかない。

 再び剣を振る。四晶が応える。

 紅晶から火球。今度は一発ではない。三つに分裂させ、軌道をずらす。

 黄晶から石槍。地面を這うように低く走らせ、足元を狙う。

 翠晶から風刃。薄く、鋭く、鱗の隙間を削る角度で飛ばす。

 蒼晶から水の槍。直線ではなく、弧を描かせて肩口へ。

 四属性の攻撃が、グラシャラボラスの背へ降り注いだ。


 火球が肩甲骨のあたりで弾ける。皮膚が焦げた。

 石槍が背に突き刺さる。だが、深くは入らない。先端が鱗をわずかに割り、そこで止まる。

 風刃が鱗の隙間を削る。細い傷が走り、黒い血が滲む。

 水槍が肩を打つ。衝撃が広がり、濡れた跡を残す。


 全部、当たった。全部、命中した。

 麗奈は一瞬だけ目を見開く。

 しかし、グラシャラボラスは振り返らなかった。


 足も止めない。結衣だけを見ている。


 火球を受けても。

 石槍を受けても。

 風刃で裂かれても。

 水槍に打たれても。

 ただ、結衣を見ている。


 麗奈は奥歯を噛んだ。

 悔しい。当たっている。確かに届いている。

 火球も、石槍も、風刃も、水槍も。

 どれもグラシャラボラスの肉体に触れている。


 なのに、止まらない。振り返りもしない。

 手で払う価値すらないと、判断された。

 胸の奥が、ぎり、と軋む。


 だが、足は止めなかった。

 ここで止まれば、本当に無駄になる。

 無力だと言われた。

 でも、無駄ではないと言われた。


 なら。


 無視できるなら。

 無視できないところまで、届かせる。


「なら……!」


 麗奈は剣を引いた。呼吸を整える。

 足を開き、腰を落とす。剣を体の中心へ戻す。

 彼女の周囲を浮かんでいた四つの晶が、反応した。


 紅晶。

 蒼晶。

 翠晶。

 黄晶。


 四つの結晶が、麗奈の周囲を高速で回り始める。


 紅。蒼。翠。黄。


 それぞれの光が尾を引き、円を描く。

 その軌跡が、麗奈を中心に四重の輪となって広がった。

 魔力が、重くなる。空気が震える。


 麗奈は剣先を、まず紅晶へ這わせた。

 刃が、晶の表面をかすめる。瞬間、炎が剣身へ移った。

 紅い火が、刃の根元から切っ先へ走る。

 ただ燃えるだけではない。斬撃に焼灼しゃくしょうの性質を与える炎。


 次に、蒼晶。

 麗奈は剣を返し、蒼い結晶へ刃を触れさせる。

 冷たい水の魔力が、炎の上に重なった。


 相反する属性。普通なら、互いに打ち消し合う。

 制御を誤れば、刃の上で魔力が爆ぜる。


 麗奈の手首に痛みが走った。

 けれど、離さない。

 水は炎を消すためではない。熱を閉じ込め、斬撃の形を保つために流す。

 炎が燃やし。水が束ねる。


 次に、翠晶。

 風が刃に宿る。剣身の周囲で、空気が細く鳴った。

 刃が軽くなる。いや、速くなる。

 振った瞬間、斬撃を押し広げるための風。

 届かない距離へ届かせるための推進。


 最後に、黄晶。

 土の魔力が、剣へ沈み込んだ。腕が、ずしりと重くなる。

 先ほどまで軽かった刃が、今度は鉛のように麗奈の手へ圧しかかった。

 斬撃に質量を与えるための重み。


 炎。水。風。土。


 四属性が、一本の剣に集約されていく。


「っ……!」


 麗奈の腕が震えた。制御が重い。


 四つの属性を同時に剣へまとわせるのは、想像以上に負担が大きい。

 少しでも均衡が崩れれば、炎が暴走する。水が刃を鈍らせる。風が軌道を乱す。土の重みで腕が持っていかれる。


 長くは保たない。いや、数秒も無理だ。

 それでも構わなかった。今は長さなどいらない。


 一撃。


 結衣へ繋ぐための、一撃でいい。


 麗奈は、グラシャラボラスの背を見据えた。

 竜王は、まだ結衣だけを見ている。

 無視している。それでいい。

 その判断ごと、斬る。


「四晶剣奥義――」


 麗奈は地面を踏みしめた。

 剣の重さで肩が悲鳴を上げる。魔力の反動で、指先が痺れる。

 それでも、振る。


四象連天斬ししょうれんてんざん!」


 剣を振り抜いた。刃から、四属性を束ねた斬撃が放たれる。


 紅い炎が先頭を走った。

 蒼い水流がその形を包み込む。

 翠の風が斬撃を加速させる。

 黄の土が、その刃に重みを与える。


 ただの遠隔斬撃ではない。

 四つの性質を無理やり一本に束ねた、麗奈の最大火力。


 炎が焼き。水が裂け目へ流れ込み。

 風が押し広げ。土が叩き潰す。


 斬撃は、空気を歪ませながらグラシャラボラスの背へ走った。


「ぬっ」


 初めて、グラシャラボラスが声を漏らした。

 反応が遅れた。完全に無視していたわけではない。

 だが、受けても問題ないと判断していた。

 その判断を、麗奈の一撃が上回った。

 斬撃が背中へ直撃する。


 轟、と炎が弾けた。

 水の刃が鱗の隙間へ食い込む。

 風が傷口をこじ開ける。

 土の重みが、グラシャラボラスの背を叩きつける。

 鱗のように残る皮膚が裂けた。


 火花が散る。黒に近い血が、背中から飛んだ。

 竜王の体が、前へ揺れる。

 わずかに。本当に、わずかに。

 だが、確かに揺れた。

 背を押され、姿勢が前へ流れる。


 ほんの一瞬。普通なら、隙とも呼べないほど短い時間。

 だが、結衣はそれを逃さなかった。


 結衣の目が細くなる。

 脚に、全魔力を集めた。

 右脚。太腿。膝。足首。つま先。

 全身に巡らせていた身体強化を、一箇所へ絞り込む。

 腕の強化を薄くする。胴の防護を削る。呼吸補助すら一瞬だけ切る。

 そのすべてを、脚へ。


 視界が狭まった。音が遠くなる。呼吸が消える。

 あるのは、グラシャラボラスの側頭部までの距離だけ。


 結衣は地面を蹴った。アスファルトが砕ける。白い魔力が、足元で爆ぜた。一気に間合いを詰める。

 グラシャラボラスが振り返ろうとする。

 だが、背中を斬られた直後。

 重心が前へ流れたまま。意識の一部を麗奈へ向けさせられた直後。


 遅い。


 結衣の体が、竜王の横へ入り込む。

 腰を回す。軸足を踏みしめる。右脚が跳ね上がった。


 ハイキック。


 白い魔力をまとった結衣の足が、グラシャラボラスの側頭部を打ち抜いた。

 鈍い音が響く。硬い。まるで岩を蹴りつけたような感触。

 だが、今度は止まらない。


 竜王の頭が、横へ大きく弾かれた。グラシャラボラスの巨躯が揺れる。

 足元が崩れる。まだ倒れない。


 なら、次。


 結衣は着地と同時に軸を回した。

 痛む脚を無視する。痺れる足首を魔力で縛る。

 蹴った反動で揺れる体を、オブスキュリテの姿勢制御術式が後ろから支えた。

 赤黒い補助線が、結衣の腰と背中を一瞬だけ固定する。

 その支えを使い、結衣は逆脚を振り抜いた。


 回し蹴り。

 今度は顔面。


 竜王が反応しようとする。

 腕が上がりかけるだが、間に合わない。

 結衣の蹴りが、グラシャラボラスの顔面を捉えた。

 骨に響く感触。竜王の顔が、反対側へ弾かれる。

 空気が震える。


 それでも、結衣は止まらない。回転を殺さない。

 着地。軸足。腰。膝。足先。

 すべてを繋げる。


 一撃目。


 胴。


 竜王の腹へ、踵が叩き込まれる。

 鱗と筋肉に阻まれる。だが、今度は浅くない。


 麗奈の一撃で揺れた姿勢。

 オブスキュリテの補助で無理やり繋いだ回転。

 結衣の全魔力を脚へ集めた一撃。

 それが、肉の奥へ衝撃を通す。


 二撃目。


 脇腹。


 先ほど拳では届かなかった場所。硬く、厚く、打撃を殺された場所。

 そこへ、今度は蹴りを叩き込む。

 グラシャラボラスの体が、横へ折れた。


 三撃目。


 胸郭きょうかく


 結衣はさらに回る。息を吸う暇はない。吐く暇もない。

 呼吸を捨て、痛みを捨て、ただ脚を振る。

 蹴りが、竜王の胸を打つ。

 重い音。

 今度は、グラシャラボラスの足が浮いた。


 四撃目。


 顎。


 最後の一撃へ、残った魔力を叩き込む。

 結衣の脚が下から跳ね上がる。竜王の顎を、正確に撃ち抜いた。鈍い音が、これまでで一番深く響いた。

 グラシャラボラスの頭が跳ね上がる。巨躯が、ついに後方へ吹き飛んだ。

 人型とはいえ、その体は重い。普通なら、吹き飛ぶはずがない。


 だが、重心を崩し、背を裂かれ、連続で頭部と胴を打たれた竜王は、踏みとどまれなかった。

 道路を削りながら転がる。アスファルトが割れる。

 瓦礫が砕ける。粉塵が巻き上がる。

 そのまま、グラシャラボラスの体は建物の壁へ叩きつけられた。


 轟音。


 壁が砕ける。鉄骨が歪み、コンクリート片が雨のように落ちる。

 粉塵が広がり、竜王の姿を覆い隠した。


 麗奈は肩で息をしていた。


「は……っ、は……っ」


 腕が痛い。剣を振った右腕が、まだ震えている。

 肩の奥が焼けるように熱い。指がうまく閉じない。

 魔力も大きく削られた。


 四つの晶は、彼女の周囲で淡く明滅している。

 先ほどまでの輝きはない。

 紅晶の炎は小さく、蒼晶の水流は細く、翠晶の風は弱まり、黄晶の光も鈍い。

 それでも、麗奈は剣を下ろさなかった。


 粉塵の向こうを見据える。心臓が、うるさいほど鳴っている。


「……当たった」


 声が漏れた。


 自分の攻撃が。竜王に。

 ほんのわずかでも、届いた。

 無視されていた自分の一撃が、グラシャラボラスの姿勢を崩した。

 結衣先輩の攻撃へ繋がった。

 その事実が、胸を熱くする。


 嬉しい、とは違う。

 誇らしい、などと言うにはまだ早い。

 それでも、確かに何かが灯った。


 自分は、ここにいていい。

 戦場に立つ意味がある。そう思えた。


 結衣は、前を見据えたまま口元の血を拭った。

 蹴りを連続で叩き込んだ脚が震えている。

 頬は腫れ、唇の端から血が滲んでいる。

 それでも、結衣は立っていた。


「麗奈ちゃん」


 静かな声だった。戦場の音の中でも、不思議とはっきり届いた。


「ありがとう」


 その一言に、麗奈の胸が熱くなる。喉の奥が詰まった。

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