攻防
『こちら第五防衛地点! 赤雷が落ちません! 飛行竜の突破を許しています!』
『第三区画上空、竜種三体が防衛線を越えました! 砲台で追っていますが、数が多い!』
『広場前、後続が増えています! 赫塵の支援はまだですか!』
管制室に、通信が殺到していた。悲鳴ではない。報告だ。
訓練された魔法少女たちの声。状況を伝え、指示を求め、次の判断を仰ぐための声。
けれど、そのどれにも焦りが滲んでいた。
赤雷が来ない。竜が落ちない。空を裂いて飛ぶ影を、地上から撃ち落とせない。
それまで、かろうじて機能していた防衛戦術が、急速に崩れ始めていた。
「第二区画、防衛線後退!」
「飛行班、迎撃中! ですが手が足りません!」
「対空砲台、第五、第七、過熱警告!」
「病院周辺、避難完了までまだ時間がかかります!」
「第一区画、低空侵入個体を確認! 地上班では追いつけません!」
オペレーターたちの声が重なる。
大型モニターには、シティ全域の防衛状況が映し出されていた。
赤。黄。黒。
危険を示す色が、地図の上でじわじわと広がっていく。
数分前まで、その広がりを抑えていたものがあった。
赫塵・斬虚雷業。
オブスキュリテの赤雷。
広域に降らせれば、飛行竜の魔力制御を乱し、空中姿勢を崩させることができた。
完全に倒せなくとも、翼の魔力循環を乱せば落下する。そこを地上班が叩く。
それが、今の即席防衛線の要だった。その赤雷が、止まった。
「桐生さん!」
オペレーターの一人が振り返る。
「第五防衛地点、突破されます!」
桐生聡はモニターを睨んだまま、表情を動かさなかった。
冷静でいるためではない。冷静でなければ、判断が遅れるからだ。
彼は通信回線を切り替えた。
「オブスキュリテ」
管制室の音が、わずかに沈む。
「何か問題か」
数秒、返答がなかった。その沈黙だけで、管制室の空気が重くなる。
やがて、通信の向こうで爆音が鳴った。
『ええ』
オブスキュリテの声が返る。いつものような余裕は薄い。
皮肉を言うための間さえ、削り取られている。
『大問題よ』
「状況を報告しろ」
『竜王が現れたわ』
その一言で、管制室の空気が凍った。
「竜王……!」
「本当に来たのか」
「位置は!」
「白瀬隊員たちの担当区域です!」
オペレーターが叫ぶ。
モニターの一つに、結衣たちの現在位置が拡大表示された。
第九外縁区画。避難経路からは外れている。
だが、そこを抜かれれば、市街中心部へ直通する。
同時に、現場映像が一部だけ繋がった。
映像は乱れていた。崩れた建物。抉れた道路。立ち込める粉塵。
画面の端で、何か巨大なものが動く。
人型。
だが、人ではない。
濃密すぎる魔力が、映像越しにも空間を歪ませている。
竜王グラシャラボラス。
通常の竜種とは、反応値が違いすぎる。魔力濃度。圧力。存在感。
ただそこに立っているだけで、周囲の術式が軋んでいた。
『悪いけど』
オブスキュリテの声が続く。
映像の奥で、赤黒い光が何度も瞬いた。
赤雷ではない。彼女は、結衣の周囲に防御術式を重ねていた。
薄い赤黒い膜。衝撃を逸らす補助結界。打撃を殺す瞬間防壁。
それらを一秒ごとに組み替え、結衣へ重ね続けている。
竜王の一撃が振るわれるたび、術式が砕ける。砕けた瞬間、次が張られる。
さらに砕ける。また張り直す。
猶予などない。
『赫塵を全域に出している暇はないわ』
通信の向こうで、鈍い衝撃音が響いた。
画面が大きく揺れる。
『今それをやったら、結衣が死ぬ』
管制室の何人かが、息を呑んだ。
白瀬 結衣。
現エース。
シティ防衛の象徴。
この局にとって、戦力以上の意味を持つ魔法少女。
その名前が、死という言葉と並んだ。
「白瀬隊員が竜王と直接交戦しているのか」
「三人では無理です!」
「すぐに応援を送るべきです!」
「遊撃部隊を向かわせます!」
声が上がる。
だが、桐生は頷かなかった。
「待て」
「桐生さん!」
「赫塵がない以上、各地の防衛線は厳しくなる」
桐生の声は冷えていた。冷たいのではない。
熱を入れれば、誰かを選んでしまうからだ。
「遊撃部隊まで抜けば、防衛地点が崩れる。病院、避難施設、外縁区画。守るべき場所は多い」
「しかし、白瀬隊員たちは竜王と交戦中です!」
「分かっている」
桐生は即答した。
分かっている。その言葉は、誰への言い訳でもなかった。
分かった上で、選ばなければならない。
「我々の役目は、個人を救うことではない。人々に被害を出さないことだ」
管制室の空気が、さらに重くなる。
誰も、正面から反論できなかった。
正しいからだ。
そして、正しいからこそ残酷だった。
「むしろ」
桐生はモニターを見据えたまま言う。
「三人で竜王を抑えられているのなら、それは願ったりとも言える」
「何を……!」
幹部の一人が声を荒げる。
「白瀬隊員たちを見捨てる気か!」
「見捨てるとは言っていない」
桐生の目は揺れなかった。
「だが、全戦力を竜王へ集中させれば、その間に民間人が死ぬ。竜王を倒しても、シティが血まみれでは意味がない」
沈黙が落ちる。
通信の向こうでは、まだ各地から悲鳴じみた報告が続いていた。
『第二区画、飛行竜一体が通過!』
『こちら病院前! 上空に影! 迎撃を要請します!』
『赤雷はまだですか! このままだと――』
渡会源二が、静かに通信へ身を乗り出した。
「オブスキュリテ君、聞こえるかい」
『聞こえているわ』
「無理に勝とうとしなくていい」
その声は、いつもの軽さを失っていた。
「その場で引き付けてほしい。君たちが竜王を抑えている間に、こちらは防衛線を立て直す」
通信の向こうで、わずかな沈黙があった。
爆音。粉塵。誰かの短い叫び。
それから、オブスキュリテが笑った気配がした。
『了解したわ』
乾いた声だった。
『つまり私たちは、立派な囮というわけね』
「すまないねぇ」
『謝罪は不要よ』
オブスキュリテは即答した。
『合理的な判断だわ』
そして、少しだけ声を低くする。
『もっとも、合理的だからといって、気に入るとは限らないけれど』
その言葉の直後、通信が激しく乱れた。
現場映像の中で、赤黒い防壁が砕け散る。
結衣が吹き飛ばされかける。
だが、次の瞬間、別の術式が背後に展開し、衝撃を殺した。
オブスキュリテが支えている。広域支援を捨てて。全域の赤雷を止めて。
結衣を死なせないためだけに。
桐生は目を伏せなかった。伏せれば、判断が揺らぐ。
彼は別回線を開いた。
「全魔法少女へ通達」
管制室の全員が一斉に端末へ向かう。
各区画の通信が統合される。ノイズ混じりの回線に、桐生の声が乗る。
「これより赤雷による広域支援は期待できない。対竜防衛プランBへ移行する」
管制室に、短いざわめきが走った。
だが、桐生は止まらない。
「飛行班は各自判断で迎撃。深追いはするな。落とせない個体は進行方向を逸らせ」
「地上班は落着個体の処理と避難施設の防衛を優先。上空の敵に釣られるな」
「対空砲台は過熱限界を超えない範囲で撃て。故障させれば、その区域は完全に空く」
「高魔力資質者保護班は病院周辺を最優先。結界維持班は避難施設の外周結界を三重化しろ」
桐生は一拍置いた。
その一拍で、管制室の全員が理解した。もう、奇跡の支援は来ない。
オブスキュリテの赤雷に頼って竜を落とす時間は終わった。
ここからは、それぞれが持ち場で耐えるしかない。
「赤雷は頼れない」
桐生は告げた。
「各員、自力で持ち場を守れ」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
そして。
『了解! 第五防衛地点、プランBへ移行します!』
『第三区画、飛行班再編! 落とすより逸らします!』
『広場前、地上班は避難路防衛へ移動!』
返答が次々と上がる。
恐怖は消えていない。焦りもある。
赤雷を失った穴は大きすぎる。
それでも、防衛線はまだ死んでいない。
魔法少女たちは動く。
自分たちの足で。自分たちの魔法で。自分たちの判断で。
桐生は、再び竜王の映るモニターを見た。
そこでは今も、三人が戦っていた。
竜王を相手に。シティ全域の防衛を背負わされて。囮として。
だが、それでも。その場に竜王を縫い止めている。
桐生は拳を握った。祈ることはしない。
祈りは、現場の彼女たちに押しつけるには重すぎる。
だから、命令する。判断する。切り捨てるものと、守るものを選ぶ。
それが管制室にいる者の仕事だった。
その頃、結衣はグラシャラボラスの拳を両腕で受け止めていた。
「っ……!」
重い。
ただの拳ではない。竜の質量と魔力を、人型に圧縮したような一撃。
受け止めた瞬間、骨が軋む。
腕に集中させた強化魔法が悲鳴を上げ、オブスキュリテの防壁術式が砕ける。
結衣の体は、そのまま後ろへ滑った。靴底がアスファルトを削り、煙を上げる。
数メートル後退して、ようやく踏みとどまった。
「通信、聞いていたかしら」
背後から、オブスキュリテの声が飛ぶ。
彼女は片手で防御術式を編み直しながら、もう片方の手で赫塵の火花を散らしていた。
額には汗。呼吸は荒い。
それでも、結衣から目を離していない。
「もちろん」
結衣は腕を振り、痺れを散らす。
「なら」
オブスキュリテは、グラシャラボラスを睨んだまま言った。
「どうするべきか、分かるわよね」
「うん」
結衣は頷く。
「あいつを倒せばいいんだよね」
麗奈が目を見開いた。
「何を言っているんですか!」
剣を構えたまま、思わず叫ぶ。
「無茶せずに引き付けておくだけでいいんですよ! 管制もそう言っていました!」
「でも、あいつを倒せば、この侵攻は終わる」
結衣はグラシャラボラスを見据えたまま言った。
「そっちの方が早い」
「ずいぶん自信家なのね、エース様」
オブスキュリテが、冷ややかに言った。
その声には、皮肉が混じっていた。だが、完全な拒絶ではない。
結衣は首を横に振る。
「自信があるわけじゃない」
「なら、どうしてそんなことが言えるのよ」
「祈が力を貸してくれれば、負けない」
オブスキュリテの表情が、一瞬だけ止まった。
火花を散らしていた指先が、わずかに鈍る。
麗奈も息を呑んだ。
戦場の音が、遠くなる。
瓦礫の崩れる音。竜王の足音。どこかで鳴り続ける警報。
そのすべての中で、結衣の言葉だけが、まっすぐに立っていた。
「……」
オブスキュリテは、すぐに眉をひそめた。
「勘違いしないで」
吐き捨てるような声。
「あなたが死ねば、私も殺される。だから手伝うだけよ」
「うん」
結衣は、少しだけ笑った。
「それでいい」
「よくないわよ」
オブスキュリテの声に、苛立ちが混じる。
「あなた、何を納得しているの。私はあなたを助けたいから手を貸すんじゃない。利害が一致しているだけ。管制も私たちを囮にした。あなたが倒れれば、次は私が竜王に潰される。だから仕方なく――」
「うん」
結衣はもう一度頷いた。
「分かってる」
「分かっていない顔ね」
「でも、手伝ってくれるんでしょ」
オブスキュリテは言葉を詰まらせた。
結衣は振り返らない。
ただ、グラシャラボラスを見ている。
竜王は、こちらを見下ろしていた。人型の姿をしていても、その奥にあるものは竜だ。
圧倒的な魔力。踏み潰すための力。支配するための存在感。
普通なら、逃げるべき相手だった。
引き付けるだけでも十分すぎる。管制の判断は正しい。
三人で竜王を倒そうとするなど、無謀だ。
それでも、結衣は拳を握った。
「祈」
「オブスキュリテよ」
即座に訂正が飛ぶ。
だが、結衣は傷ついた顔をしなかった。
「うん」
小さく頷く。
「お願い、オブスキュリテ」
その言い直しに、オブスキュリテはしばらく黙った。
結衣の背中を見る。
細い背中。傷だらけの腕。それでも前へ進もうとする足。
候補生の頃から、そうだった。
才能が足りないと言われても。
魔力量が低いと言われても。
無理だと止められても。
白瀬 結衣は、一度決めたら退かなかった。
その頑固さを、祈は知っている。知っていることが、腹立たしかった。
オブスキュリテは、小さく息を吐く。
「あなたは、一度決めたら頑固なんだから」
声には呆れがあった。苛立ちもあった。
けれど、拒絶はなかった。
「いいわ。防御は私が見る」
オブスキュリテの指先が動く。
結衣の周囲に、複数の術式が展開した。
赤黒い補助結界。衝撃を逃がす薄膜。魔力干渉を逸らす防護陣。
それらが、結衣の腕、脚、胸元、背中へと重なっていく。
「ただし、無茶をしすぎたら見捨てるわよ」
「うん。信じてる」
「だから、そういうところが腹立つのよ」
オブスキュリテは吐き捨てた。それでも、防御術式は解かなかった。
むしろ、さらに一枚。結衣の左腕にだけ、厚く重ねる。
結衣はそれに気づいた。
けれど、振り返らなかった。
今振り返れば、オブスキュリテがきっと怒るから。
代わりに、前を見る。
グラシャラボラスが、ゆっくりと拳を引いた。
次が来る。
結衣は腰を落とし、全身に強化魔法を巡らせた。
背後で、オブスキュリテの赫塵が赤く瞬く。
麗奈が剣を握り直す。
三人の前に、竜王が立つ。
シティ全域を守るための囮。それが管制の判断だった。
だが、結衣は囮で終わるつもりはなかった。
倒す。ここで、竜王を倒す。
自信があるからではない。
隣にいる少女が、背後から力を貸してくれるから。
たとえその理由が、利害でも。生存のためでも。仕方なくだとしても。
今この瞬間、オブスキュリテの魔法は結衣を守っている。
それだけで、十分だった。
最初に踏み込んだのは、結衣だった。迷いはなかった。
この場で立ち止まれば、グラシャラボラスの圧に呑まれる。
距離を取れば、あの巨体の踏み込みに押し潰される。
ならば、こちらから入る。
結衣は地面を蹴った。白い魔力が脚に集まる。
足首。ふくらはぎ。膝。太腿。
肉体強化の魔法が、筋繊維の一本一本へ流れ込んでいく。
次の瞬間、結衣の体が弾丸のように前へ飛び出した。
アスファルトが砕ける。踏み込んだ足跡だけが、地面に白く焦げついたように残る。
距離は一瞬で潰れた。
グラシャラボラスの懐。
普通の竜ならば、そこは死角になる。
巨体であるがゆえに、近づかれれば反応が遅れる。
翼も爪も牙も、内側へ潜り込まれれば扱いづらい。
だが。
目の前にいるのは、ただの竜ではない。人型へ姿を変えた竜王だった。
「速いな」
グラシャラボラスが笑った。その声には、驚きがあった。
だが、焦りはなかった。
まるで、飛んできた小石の速度を褒めるような声だった。
結衣の背筋に、冷たいものが走る。
直後、グラシャラボラスの右腕が動いた。
大きく振りかぶる。肩を引き、肘を開き、拳を後方へ溜める。あまりにも大ぶりな動作。
人間相手なら、隙だらけだった。
攻撃の起点が見える。軌道も読める。踏み込みも荒い。
拳が届く前に、懐へ入り込むこともできる。
腕の内側へ潜って、肘、脇腹、顎へ連打を入れることもできる。
結衣は冷静に見極める。
肩の沈み。腰の捻り。踏み込む足の角度。拳が描く軌道。
周囲の空気が圧縮される感覚。
真正面から受ける選択肢はない。
受ければ折れる。いや、折れるだけでは済まない。
腕ごと胴体を持っていかれる。
結衣は、上体をわずかに傾けた。たった数センチ。
人間同士の戦いなら、ほとんど誤差のような動き。
けれど、結衣にはそれで十分だった。
グラシャラボラスの拳が、頬の横を通り過ぎる。
直撃はしていない。
だが、風が皮膚を裂いた。
「っ」
頬に熱が走る。拳の圧だけで、薄く皮膚が切れていた。
鼓膜が震える。視界の端が揺れる。肺の奥まで空気が押し込まれる。
ただの空振りで、これだ。まともに食らえば、どうなるか。
考える暇はない。
拳を避けたその瞬間こそが、結衣の攻撃の間合いだった。結衣は踏み込む。
狙いは脇腹。
人間なら、肋骨の隙間から衝撃を通せる位置。
呼吸を潰し、体幹を崩し、次の動きを一瞬遅らせる急所。
拳を握る。白い魔力を一点へ集める。
全身強化ではない。一瞬だけ、拳に集中させる。
骨が軋むほど魔力を圧縮し、踏み込みの力を腰へ乗せる。
腰の回転を肩へ伝え、肩から肘、肘から拳へ。
結衣の拳が、グラシャラボラスの脇腹へねじ込まれた。
鈍い音が響く。
だが。
硬い。
「っ……!」
返ってきたのは、肉を殴った感触ではなかった。
石ではない。金属でもない。
もっと嫌な感触だった。
分厚いゴムの塊を、全力で殴ったような感触。
拳は沈む。表面は確かに歪む。
だが、奥へ届かない。
衝撃が内部へ通る前に、何層もの鱗と筋肉に吸い殺される。
拳の骨に、逆に痛みが走った。
結衣の打撃は弱くない。
候補生時代から積み上げた身体強化。
魔力量の少なさを補うために鍛え続けた技術。
今の結衣なら、並の異形の胴体を一撃で砕ける。
それでも。
グラシャラボラスには、浅い。届かない。
グラシャラボラスの口角が上がった。
「軽い」
その一言が、結衣の耳に落ちた。
挑発ではない。評価だった。
だからこそ、重かった。
次の瞬間、グラシャラボラスの脚が動いた。
拳を振り切った体勢から、そのまま腰を回す。人間なら無理のある姿勢。
重心が崩れ、踏ん張りが利かず、蹴りに力など乗らないはずの角度。
だが、竜王の肉体はそれを可能にした。
横薙ぎの蹴り。結衣の首を狙っていた。
「――!」
結衣は即座にしゃがんだ。
判断ではない。反射だった。
頭上を、グラシャラボラスの脚が通過する。
空気が爆ぜた。蹴りそのものは避けた。
だが、風圧だけで髪が大きく跳ねる。数本の髪が切れ、宙に舞った。
遅れて、背後の瓦礫が砕け散る音がした。蹴りの余波だけで、崩れかけていた壁が吹き飛んだのだ。
まともに受ければ、首から上が消える。
結衣は奥歯を噛みしめた。
怖い。怖くないはずがなかった。
一撃一撃が、即死に繋がる。
少しでも見誤れば終わる。少しでも反応が遅れれば、もう立ち上がれない。
けれど、恐怖に足を止める暇はない。
結衣はしゃがんだ姿勢のまま、体を低く滑らせた。
狙いは軸足。下段蹴り。膝の裏。
どれほど強い相手でも、関節の構造は無視できない。
体を支える軸を崩せば、一瞬は止まる。
動きが止まれば、麗奈が斬れる。
オブスキュリテが赫塵を叩き込める。
結衣は蹴った。低く、鋭く。
白い魔力を脚に乗せ、膝裏へ叩き込む。
だが。
グラシャラボラスの脚が戻った。
振り切っていたはずの脚が、信じられない速度で引き戻される。
重いはずの脚。巨大な質量を宿した竜王の脚。
それが、まるで鞭のようにしなった。
結衣の下段蹴りが、グラシャラボラスの足に受け止められる。
硬い音が鳴った。
「っ!」
金属を蹴ったような衝撃が返ってきた。足首から膝へ、痛みが突き上げる。
結衣の体がわずかに浮く。
受け止められた。読まれたのではない。
見てから間に合ったのだ。
結衣は一瞬だけ目を見開く。
速い。異常に速い。
反応速度が、人間のそれを遥かに超えている。
こちらは強化魔法で限界まで肉体を引き上げている。
なのに、グラシャラボラスはそれについてきている。
いや。ついてきているのではない。上回っている。
魔力は痺れているはずだった。
オブスキュリテの赫塵は確かに当たった。あの赤雷は、竜王の魔力制御を乱している。
防御魔術も。身体強化の魔術も。竜王としての大規模術式も。
まともには扱えないはずだ。
だから、人型になったグラシャラボラスは弱体化している。
そのはずだった。
そのはずなのに。
この竜王は、素の身体能力だけで結衣と戦っていた。
結衣の強化魔法を。積み上げた技術を。死角を突く判断を。
ただの肉体で、押し返している。
これが竜王。竜と人との、根本的な身体性能の差。
技術は荒い。洗練された武術ではない。
構えも雑だ。打撃も大振り。
体重移動にも無駄がある。
人間の武術家なら、何度も隙を晒している。
だが、その隙に踏み込んでも、倒せない。
攻撃しても通らない。避けても風圧で削られる。
崩そうとしても、反応速度で潰される。
無駄を補って余りある速度。
筋力。反射。耐久。質量。生命力。
圧倒的な肉体能力。
それだけで、恐るべき暴力だった。
グラシャラボラスは、楽しげに結衣を見下ろした。
「よく動く」
褒めるような声。
だが、そこに対等な敵を見る響きはまだない。
結衣は痛む足を引き、距離を取った。
呼吸が荒い。頬から血が流れる。
拳が痺れている。蹴りを受けた脚にも痛みが残っている。
まだ、数合。
たったそれだけで、結衣の体は削られていた。
それでも、彼女は構えを解かなかった。
結衣は息を吸った。
倒せない。正面からでは、足りない。
けれど。
通じないわけではない。
脇腹を殴った瞬間、わずかに鱗が沈んだ。
膝裏への蹴りを、グラシャラボラスはわざわざ防いだ。
まったく効かないなら、防ぐ必要はない。
なら、隙はある。届く場所もある。
ただ、自分一人では足りないだけだ。
結衣は拳を握り直した。白い魔力が、再び腕に灯る。
グラシャラボラスが笑う。
結衣は前を見たまま、小さく息を吐いた。
怖い。でも、退けない。
退けば、この暴力がシティへ向かう。
だから、ここで止める。止めて、見つける。
この竜王を倒すための、一瞬を。




