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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
2章

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攻防

『こちら第五防衛地点! 赤雷が落ちません! 飛行竜の突破を許しています!』


『第三区画上空、竜種三体が防衛線を越えました! 砲台で追っていますが、数が多い!』


『広場前、後続が増えています! 赫塵の支援はまだですか!』


 管制室に、通信が殺到していた。悲鳴ではない。報告だ。

 訓練された魔法少女たちの声。状況を伝え、指示を求め、次の判断を仰ぐための声。


 けれど、そのどれにも焦りが滲んでいた。

 赤雷が来ない。竜が落ちない。空を裂いて飛ぶ影を、地上から撃ち落とせない。

 それまで、かろうじて機能していた防衛戦術が、急速に崩れ始めていた。


「第二区画、防衛線後退!」


「飛行班、迎撃中! ですが手が足りません!」


「対空砲台、第五、第七、過熱警告!」


「病院周辺、避難完了までまだ時間がかかります!」


「第一区画、低空侵入個体を確認! 地上班では追いつけません!」


 オペレーターたちの声が重なる。

 大型モニターには、シティ全域の防衛状況が映し出されていた。


 赤。黄。黒。


 危険を示す色が、地図の上でじわじわと広がっていく。

 数分前まで、その広がりを抑えていたものがあった。


 赫塵かくじん斬虚雷業ざんきょらいごう

 オブスキュリテの赤雷。


 広域に降らせれば、飛行竜の魔力制御を乱し、空中姿勢を崩させることができた。

 完全に倒せなくとも、翼の魔力循環を乱せば落下する。そこを地上班が叩く。

 それが、今の即席防衛線の要だった。その赤雷が、止まった。


「桐生さん!」


 オペレーターの一人が振り返る。


「第五防衛地点、突破されます!」


 桐生聡はモニターを睨んだまま、表情を動かさなかった。

 冷静でいるためではない。冷静でなければ、判断が遅れるからだ。

 彼は通信回線を切り替えた。


「オブスキュリテ」


 管制室の音が、わずかに沈む。


「何か問題か」


 数秒、返答がなかった。その沈黙だけで、管制室の空気が重くなる。

 やがて、通信の向こうで爆音が鳴った。


『ええ』


 オブスキュリテの声が返る。いつものような余裕は薄い。

 皮肉を言うための間さえ、削り取られている。


『大問題よ』


「状況を報告しろ」


『竜王が現れたわ』


 その一言で、管制室の空気が凍った。


「竜王……!」


「本当に来たのか」


「位置は!」


「白瀬隊員たちの担当区域です!」


 オペレーターが叫ぶ。

 モニターの一つに、結衣たちの現在位置が拡大表示された。

 第九外縁区画。避難経路からは外れている。

 だが、そこを抜かれれば、市街中心部へ直通する。


 同時に、現場映像が一部だけ繋がった。

 映像は乱れていた。崩れた建物。抉れた道路。立ち込める粉塵。

 画面の端で、何か巨大なものが動く。


 人型。

 だが、人ではない。

 濃密すぎる魔力が、映像越しにも空間を歪ませている。


 竜王グラシャラボラス。


 通常の竜種とは、反応値が違いすぎる。魔力濃度。圧力。存在感。

 ただそこに立っているだけで、周囲の術式が軋んでいた。


『悪いけど』


 オブスキュリテの声が続く。

 映像の奥で、赤黒い光が何度も瞬いた。

 赤雷ではない。彼女は、結衣の周囲に防御術式を重ねていた。


 薄い赤黒い膜。衝撃を逸らす補助結界。打撃を殺す瞬間防壁。

 それらを一秒ごとに組み替え、結衣へ重ね続けている。


 竜王の一撃が振るわれるたび、術式が砕ける。砕けた瞬間、次が張られる。

 さらに砕ける。また張り直す。

 猶予などない。


『赫塵を全域に出している暇はないわ』


 通信の向こうで、鈍い衝撃音が響いた。

 画面が大きく揺れる。


『今それをやったら、結衣が死ぬ』


 管制室の何人かが、息を呑んだ。


 白瀬 結衣。


 現エース。

 シティ防衛の象徴。

 この局にとって、戦力以上の意味を持つ魔法少女。

 その名前が、死という言葉と並んだ。


「白瀬隊員が竜王と直接交戦しているのか」


「三人では無理です!」


「すぐに応援を送るべきです!」


「遊撃部隊を向かわせます!」


 声が上がる。

 だが、桐生は頷かなかった。


「待て」


「桐生さん!」


「赫塵がない以上、各地の防衛線は厳しくなる」


 桐生の声は冷えていた。冷たいのではない。

 熱を入れれば、誰かを選んでしまうからだ。


「遊撃部隊まで抜けば、防衛地点が崩れる。病院、避難施設、外縁区画。守るべき場所は多い」


「しかし、白瀬隊員たちは竜王と交戦中です!」


「分かっている」


 桐生は即答した。

 分かっている。その言葉は、誰への言い訳でもなかった。

 分かった上で、選ばなければならない。


「我々の役目は、個人を救うことではない。人々に被害を出さないことだ」


 管制室の空気が、さらに重くなる。

 誰も、正面から反論できなかった。

 正しいからだ。

 そして、正しいからこそ残酷だった。


「むしろ」


 桐生はモニターを見据えたまま言う。


「三人で竜王を抑えられているのなら、それは願ったりとも言える」


「何を……!」


 幹部の一人が声を荒げる。


「白瀬隊員たちを見捨てる気か!」


「見捨てるとは言っていない」


 桐生の目は揺れなかった。


「だが、全戦力を竜王へ集中させれば、その間に民間人が死ぬ。竜王を倒しても、シティが血まみれでは意味がない」


 沈黙が落ちる。

 通信の向こうでは、まだ各地から悲鳴じみた報告が続いていた。


『第二区画、飛行竜一体が通過!』


『こちら病院前! 上空に影! 迎撃を要請します!』


『赤雷はまだですか! このままだと――』


 渡会源二が、静かに通信へ身を乗り出した。


「オブスキュリテ君、聞こえるかい」


『聞こえているわ』


「無理に勝とうとしなくていい」


 その声は、いつもの軽さを失っていた。


「その場で引き付けてほしい。君たちが竜王を抑えている間に、こちらは防衛線を立て直す」


 通信の向こうで、わずかな沈黙があった。

 爆音。粉塵。誰かの短い叫び。

 それから、オブスキュリテが笑った気配がした。


『了解したわ』


 乾いた声だった。


『つまり私たちは、立派な囮というわけね』


「すまないねぇ」


『謝罪は不要よ』


 オブスキュリテは即答した。


『合理的な判断だわ』


 そして、少しだけ声を低くする。


『もっとも、合理的だからといって、気に入るとは限らないけれど』


 その言葉の直後、通信が激しく乱れた。

 現場映像の中で、赤黒い防壁が砕け散る。

 結衣が吹き飛ばされかける。

 だが、次の瞬間、別の術式が背後に展開し、衝撃を殺した。


 オブスキュリテが支えている。広域支援を捨てて。全域の赤雷を止めて。

 結衣を死なせないためだけに。


 桐生は目を伏せなかった。伏せれば、判断が揺らぐ。

 彼は別回線を開いた。


「全魔法少女へ通達」


 管制室の全員が一斉に端末へ向かう。

 各区画の通信が統合される。ノイズ混じりの回線に、桐生の声が乗る。


「これより赤雷による広域支援は期待できない。対竜防衛プランBへ移行する」


 管制室に、短いざわめきが走った。

 だが、桐生は止まらない。


「飛行班は各自判断で迎撃。深追いはするな。落とせない個体は進行方向を逸らせ」


「地上班は落着個体の処理と避難施設の防衛を優先。上空の敵に釣られるな」


「対空砲台は過熱限界を超えない範囲で撃て。故障させれば、その区域は完全に空く」


「高魔力資質者保護班は病院周辺を最優先。結界維持班は避難施設の外周結界を三重化しろ」


 桐生は一拍置いた。

 その一拍で、管制室の全員が理解した。もう、奇跡の支援は来ない。

 オブスキュリテの赤雷に頼って竜を落とす時間は終わった。

 ここからは、それぞれが持ち場で耐えるしかない。


「赤雷は頼れない」


 桐生は告げた。


「各員、自力で持ち場を守れ」


 通信の向こうで、短い沈黙があった。

 そして。


『了解! 第五防衛地点、プランBへ移行します!』


『第三区画、飛行班再編! 落とすより逸らします!』


『広場前、地上班は避難路防衛へ移動!』


 返答が次々と上がる。

 恐怖は消えていない。焦りもある。

 赤雷を失った穴は大きすぎる。

 それでも、防衛線はまだ死んでいない。


 魔法少女たちは動く。

 自分たちの足で。自分たちの魔法で。自分たちの判断で。


 桐生は、再び竜王の映るモニターを見た。

 そこでは今も、三人が戦っていた。


 竜王を相手に。シティ全域の防衛を背負わされて。囮として。

 だが、それでも。その場に竜王を縫い止めている。


 桐生は拳を握った。祈ることはしない。

 祈りは、現場の彼女たちに押しつけるには重すぎる。

 だから、命令する。判断する。切り捨てるものと、守るものを選ぶ。

 それが管制室にいる者の仕事だった。




 その頃、結衣はグラシャラボラスの拳を両腕で受け止めていた。


「っ……!」


 重い。


 ただの拳ではない。竜の質量と魔力を、人型に圧縮したような一撃。

 受け止めた瞬間、骨が軋む。

 腕に集中させた強化魔法が悲鳴を上げ、オブスキュリテの防壁術式が砕ける。

 結衣の体は、そのまま後ろへ滑った。靴底がアスファルトを削り、煙を上げる。

 数メートル後退して、ようやく踏みとどまった。


「通信、聞いていたかしら」


 背後から、オブスキュリテの声が飛ぶ。

 彼女は片手で防御術式を編み直しながら、もう片方の手で赫塵の火花を散らしていた。

 額には汗。呼吸は荒い。

 それでも、結衣から目を離していない。


「もちろん」


 結衣は腕を振り、痺れを散らす。


「なら」


 オブスキュリテは、グラシャラボラスを睨んだまま言った。


「どうするべきか、分かるわよね」


「うん」


 結衣は頷く。


「あいつを倒せばいいんだよね」


 麗奈が目を見開いた。


「何を言っているんですか!」


 剣を構えたまま、思わず叫ぶ。


「無茶せずに引き付けておくだけでいいんですよ! 管制もそう言っていました!」


「でも、あいつを倒せば、この侵攻は終わる」


 結衣はグラシャラボラスを見据えたまま言った。


「そっちの方が早い」


「ずいぶん自信家なのね、エース様」


 オブスキュリテが、冷ややかに言った。

 その声には、皮肉が混じっていた。だが、完全な拒絶ではない。

 結衣は首を横に振る。


「自信があるわけじゃない」


「なら、どうしてそんなことが言えるのよ」


「祈が力を貸してくれれば、負けない」


 オブスキュリテの表情が、一瞬だけ止まった。

 火花を散らしていた指先が、わずかに鈍る。

 麗奈も息を呑んだ。

 戦場の音が、遠くなる。


 瓦礫の崩れる音。竜王の足音。どこかで鳴り続ける警報。

 そのすべての中で、結衣の言葉だけが、まっすぐに立っていた。


「……」


 オブスキュリテは、すぐに眉をひそめた。


「勘違いしないで」


 吐き捨てるような声。


「あなたが死ねば、私も殺される。だから手伝うだけよ」


「うん」


 結衣は、少しだけ笑った。


「それでいい」


「よくないわよ」


 オブスキュリテの声に、苛立ちが混じる。


「あなた、何を納得しているの。私はあなたを助けたいから手を貸すんじゃない。利害が一致しているだけ。管制も私たちを囮にした。あなたが倒れれば、次は私が竜王に潰される。だから仕方なく――」


「うん」


 結衣はもう一度頷いた。


「分かってる」


「分かっていない顔ね」


「でも、手伝ってくれるんでしょ」


 オブスキュリテは言葉を詰まらせた。

 結衣は振り返らない。

 ただ、グラシャラボラスを見ている。


 竜王は、こちらを見下ろしていた。人型の姿をしていても、その奥にあるものは竜だ。

 圧倒的な魔力。踏み潰すための力。支配するための存在感。

 普通なら、逃げるべき相手だった。


 引き付けるだけでも十分すぎる。管制の判断は正しい。

 三人で竜王を倒そうとするなど、無謀だ。

 それでも、結衣は拳を握った。


「祈」


「オブスキュリテよ」


 即座に訂正が飛ぶ。

 だが、結衣は傷ついた顔をしなかった。


「うん」


 小さく頷く。


「お願い、オブスキュリテ」


 その言い直しに、オブスキュリテはしばらく黙った。

 結衣の背中を見る。

 細い背中。傷だらけの腕。それでも前へ進もうとする足。


 候補生の頃から、そうだった。

 才能が足りないと言われても。

 魔力量が低いと言われても。

 無理だと止められても。


 白瀬 結衣は、一度決めたら退かなかった。

 その頑固さを、祈は知っている。知っていることが、腹立たしかった。

 オブスキュリテは、小さく息を吐く。


「あなたは、一度決めたら頑固なんだから」


 声には呆れがあった。苛立ちもあった。

 けれど、拒絶はなかった。


「いいわ。防御は私が見る」


 オブスキュリテの指先が動く。

 結衣の周囲に、複数の術式が展開した。

 赤黒い補助結界。衝撃を逃がす薄膜。魔力干渉を逸らす防護陣。

 それらが、結衣の腕、脚、胸元、背中へと重なっていく。


「ただし、無茶をしすぎたら見捨てるわよ」


「うん。信じてる」


「だから、そういうところが腹立つのよ」


 オブスキュリテは吐き捨てた。それでも、防御術式は解かなかった。

 むしろ、さらに一枚。結衣の左腕にだけ、厚く重ねる。

 結衣はそれに気づいた。

 けれど、振り返らなかった。

 今振り返れば、オブスキュリテがきっと怒るから。


 代わりに、前を見る。

 グラシャラボラスが、ゆっくりと拳を引いた。

 次が来る。

 結衣は腰を落とし、全身に強化魔法を巡らせた。

 背後で、オブスキュリテの赫塵が赤く瞬く。

 麗奈が剣を握り直す。


 三人の前に、竜王が立つ。

 シティ全域を守るための囮。それが管制の判断だった。


 だが、結衣は囮で終わるつもりはなかった。

 倒す。ここで、竜王を倒す。

 自信があるからではない。

 隣にいる少女が、背後から力を貸してくれるから。


 たとえその理由が、利害でも。生存のためでも。仕方なくだとしても。

 今この瞬間、オブスキュリテの魔法は結衣を守っている。

 それだけで、十分だった。


 最初に踏み込んだのは、結衣だった。迷いはなかった。

 この場で立ち止まれば、グラシャラボラスの圧に呑まれる。

 距離を取れば、あの巨体の踏み込みに押し潰される。

 ならば、こちらから入る。


 結衣は地面を蹴った。白い魔力が脚に集まる。

 足首。ふくらはぎ。膝。太腿。

 肉体強化の魔法が、筋繊維の一本一本へ流れ込んでいく。

 次の瞬間、結衣の体が弾丸のように前へ飛び出した。


 アスファルトが砕ける。踏み込んだ足跡だけが、地面に白く焦げついたように残る。

 距離は一瞬で潰れた。

 グラシャラボラスの懐。


 普通の竜ならば、そこは死角になる。

 巨体であるがゆえに、近づかれれば反応が遅れる。

 翼も爪も牙も、内側へ潜り込まれれば扱いづらい。


 だが。

 目の前にいるのは、ただの竜ではない。人型へ姿を変えた竜王だった。


「速いな」


 グラシャラボラスが笑った。その声には、驚きがあった。

 だが、焦りはなかった。

 まるで、飛んできた小石の速度を褒めるような声だった。

 結衣の背筋に、冷たいものが走る。


 直後、グラシャラボラスの右腕が動いた。

 大きく振りかぶる。肩を引き、肘を開き、拳を後方へ溜める。あまりにも大ぶりな動作。

 人間相手なら、隙だらけだった。

 攻撃の起点が見える。軌道も読める。踏み込みも荒い。


 拳が届く前に、懐へ入り込むこともできる。

 腕の内側へ潜って、肘、脇腹、顎へ連打を入れることもできる。


 結衣は冷静に見極める。

 肩の沈み。腰の捻り。踏み込む足の角度。拳が描く軌道。

 周囲の空気が圧縮される感覚。


 真正面から受ける選択肢はない。

 受ければ折れる。いや、折れるだけでは済まない。

 腕ごと胴体を持っていかれる。


 結衣は、上体をわずかに傾けた。たった数センチ。

 人間同士の戦いなら、ほとんど誤差のような動き。

 けれど、結衣にはそれで十分だった。


 グラシャラボラスの拳が、頬の横を通り過ぎる。

 直撃はしていない。

 だが、風が皮膚を裂いた。


「っ」


 頬に熱が走る。拳の圧だけで、薄く皮膚が切れていた。

 鼓膜が震える。視界の端が揺れる。肺の奥まで空気が押し込まれる。


 ただの空振りで、これだ。まともに食らえば、どうなるか。

 考える暇はない。


 拳を避けたその瞬間こそが、結衣の攻撃の間合いだった。結衣は踏み込む。

 狙いは脇腹。

 人間なら、肋骨の隙間から衝撃を通せる位置。

 呼吸を潰し、体幹を崩し、次の動きを一瞬遅らせる急所。


 拳を握る。白い魔力を一点へ集める。

 全身強化ではない。一瞬だけ、拳に集中させる。

 骨が軋むほど魔力を圧縮し、踏み込みの力を腰へ乗せる。

 腰の回転を肩へ伝え、肩から肘、肘から拳へ。


 結衣の拳が、グラシャラボラスの脇腹へねじ込まれた。

 鈍い音が響く。


 だが。


 硬い。


「っ……!」


 返ってきたのは、肉を殴った感触ではなかった。

 石ではない。金属でもない。

 もっと嫌な感触だった。

 分厚いゴムの塊を、全力で殴ったような感触。

 拳は沈む。表面は確かに歪む。

 だが、奥へ届かない。

 衝撃が内部へ通る前に、何層もの鱗と筋肉に吸い殺される。


 拳の骨に、逆に痛みが走った。

 結衣の打撃は弱くない。

 候補生時代から積み上げた身体強化。

 魔力量の少なさを補うために鍛え続けた技術。

 今の結衣なら、並の異形の胴体を一撃で砕ける。


 それでも。


 グラシャラボラスには、浅い。届かない。

 グラシャラボラスの口角が上がった。


「軽い」


 その一言が、結衣の耳に落ちた。

 挑発ではない。評価だった。

 だからこそ、重かった。


 次の瞬間、グラシャラボラスの脚が動いた。


 拳を振り切った体勢から、そのまま腰を回す。人間なら無理のある姿勢。

 重心が崩れ、踏ん張りが利かず、蹴りに力など乗らないはずの角度。

 だが、竜王の肉体はそれを可能にした。

 横薙ぎの蹴り。結衣の首を狙っていた。


「――!」


 結衣は即座にしゃがんだ。

 判断ではない。反射だった。

 頭上を、グラシャラボラスの脚が通過する。


 空気が爆ぜた。蹴りそのものは避けた。

 だが、風圧だけで髪が大きく跳ねる。数本の髪が切れ、宙に舞った。

 遅れて、背後の瓦礫が砕け散る音がした。蹴りの余波だけで、崩れかけていた壁が吹き飛んだのだ。

 まともに受ければ、首から上が消える。


 結衣は奥歯を噛みしめた。

 怖い。怖くないはずがなかった。

 一撃一撃が、即死に繋がる。

 少しでも見誤れば終わる。少しでも反応が遅れれば、もう立ち上がれない。

 けれど、恐怖に足を止める暇はない。


 結衣はしゃがんだ姿勢のまま、体を低く滑らせた。

 狙いは軸足。下段蹴り。膝の裏。


 どれほど強い相手でも、関節の構造は無視できない。

 体を支える軸を崩せば、一瞬は止まる。

 動きが止まれば、麗奈が斬れる。

 オブスキュリテが赫塵を叩き込める。


 結衣は蹴った。低く、鋭く。

 白い魔力を脚に乗せ、膝裏へ叩き込む。


 だが。


 グラシャラボラスの脚が戻った。

 振り切っていたはずの脚が、信じられない速度で引き戻される。

 重いはずの脚。巨大な質量を宿した竜王の脚。

 それが、まるで鞭のようにしなった。

 結衣の下段蹴りが、グラシャラボラスの足に受け止められる。

 硬い音が鳴った。


「っ!」


 金属を蹴ったような衝撃が返ってきた。足首から膝へ、痛みが突き上げる。

 結衣の体がわずかに浮く。

 受け止められた。読まれたのではない。

 見てから間に合ったのだ。


 結衣は一瞬だけ目を見開く。

 速い。異常に速い。

 反応速度が、人間のそれを遥かに超えている。


 こちらは強化魔法で限界まで肉体を引き上げている。

 なのに、グラシャラボラスはそれについてきている。

 いや。ついてきているのではない。上回っている。


 魔力は痺れているはずだった。

 オブスキュリテの赫塵は確かに当たった。あの赤雷は、竜王の魔力制御を乱している。

 防御魔術も。身体強化の魔術も。竜王としての大規模術式も。

 まともには扱えないはずだ。

 だから、人型になったグラシャラボラスは弱体化している。


 そのはずだった。


 そのはずなのに。


 この竜王は、素の身体能力だけで結衣と戦っていた。

 結衣の強化魔法を。積み上げた技術を。死角を突く判断を。

 ただの肉体で、押し返している。


 これが竜王。竜と人との、根本的な身体性能の差。

 技術は荒い。洗練された武術ではない。

 構えも雑だ。打撃も大振り。

 体重移動にも無駄がある。

 人間の武術家なら、何度も隙を晒している。


 だが、その隙に踏み込んでも、倒せない。

 攻撃しても通らない。避けても風圧で削られる。

 崩そうとしても、反応速度で潰される。


 無駄を補って余りある速度。

 筋力。反射。耐久。質量。生命力。

 圧倒的な肉体能力。

 それだけで、恐るべき暴力だった。


 グラシャラボラスは、楽しげに結衣を見下ろした。


「よく動く」


 褒めるような声。

 だが、そこに対等な敵を見る響きはまだない。


 結衣は痛む足を引き、距離を取った。

 呼吸が荒い。頬から血が流れる。

 拳が痺れている。蹴りを受けた脚にも痛みが残っている。


 まだ、数合。


 たったそれだけで、結衣の体は削られていた。

 それでも、彼女は構えを解かなかった。

 結衣は息を吸った。


 倒せない。正面からでは、足りない。


 けれど。


 通じないわけではない。

 脇腹を殴った瞬間、わずかに鱗が沈んだ。

 膝裏への蹴りを、グラシャラボラスはわざわざ防いだ。

 まったく効かないなら、防ぐ必要はない。


 なら、隙はある。届く場所もある。

 ただ、自分一人では足りないだけだ。

 結衣は拳を握り直した。白い魔力が、再び腕に灯る。


 グラシャラボラスが笑う。

 結衣は前を見たまま、小さく息を吐いた。

 怖い。でも、退けない。

 退けば、この暴力がシティへ向かう。

 だから、ここで止める。止めて、見つける。


 この竜王を倒すための、一瞬を。

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