竜王グラシャラボラス
幾度目かの天雷が、空を裂いた。赤い雷が天へ昇る。
屋上から放たれた赫塵は、血の色をした柱となって雲を撃ち抜いた。
次の瞬間。
上空から、無数の赤雷が降り注ぐ。
雨ではない。槍でもない。
魔力そのものを痺れさせる、赤い裁断の網。
それが飛来する竜たちを貫いた。
竜の翼を打つ魔力が痺れる。浮力を支えていた魔力循環が乱れる。
ブレスを練ろうとしていた喉奥の術式がほどける。
飛行を維持できなくなった竜たちが、次々と墜落していく。黒い巨体が、空から落ちる。
落下のたび、地上が揺れた。道路が砕ける。建物の壁が震える。粉塵が舞い上がる。
そのたびに、各防衛地点の魔法少女たちが一斉に動いた。
剣で切り裂く者。槌で頭蓋を砕く者。砲撃で追撃する者。
防御班が結界で受け止め、近接班が足を止め、遠距離班が喉元や翼の付け根を撃ち抜く。
飛行能力を持つ魔法少女たちは、赫塵の射程を逃れた竜を追い、空中で撃ち落とす。
天上院 瑠璃姫の砲撃が、別の空域を金色に染めている。
半竜化した百乃瀬 彩奈の翼が、竜の群れの間を切り裂いている。
柊 凛の鏡盾が、病院前でブレスを受け止め、跳ね返している。
防衛砲台も機能していた。
砲口が火を噴くたび、魔力弾が空を横切り、竜の群れを押し返していく。
ここまでは、順調と言ってよかった。
オブスキュリテの赤雷で飛行を奪う。落ちた個体を地上班が処理する。
逃れた個体は飛行班と砲台で落とす。
病院前のような重要拠点には、瑠璃姫たち高火力部隊が張りつく。
想定した戦術は、確かに機能していた。
地上の魔法少女たちの士気も、少しずつ持ち直している。
竜は強い。恐ろしい。
だが、倒せない相手ではない。落とせば戦える。連携すれば倒せる。
その実感が、防衛線全体に広がりつつあった。
だが、その中心にいるオブスキュリテの負担は大きかった。
屋上の縁に立つ彼女の額には、汗が浮かんでいる。呼吸も荒い。
肩が上下し、指先に走る赤雷も、最初に比べるとわずかに乱れていた。
広域に赫塵を張る。竜の高度と進路を読み、落下位置を調整する。
地上班のいない区画へ落とさないよう、雷の方向を変える。
味方の飛行班を巻き込まないよう、射線を制御する。
ただ雷を降らせているだけではない。
戦場全体を読み、空の敵を地上の味方へ受け渡している。
それは、想像以上に神経を削る作業だった。
「……さすがに、広すぎるわね」
オブスキュリテが吐き捨てる。
強がるような口調だった。けれど、疲労は隠しきれていない。
風に乱れた髪が頬に張りついている。
腕輪の制御術式も、断続的に光を明滅させていた。
出力が上がりすぎている。負荷がかかっている。それを知らせる警告だった。
結衣はその横顔を見た。
自分たちの役目は、オブスキュリテの監視だ。
彼女が逃げないように。裏切らないように。危険な行動を取らないように。
腕輪がある。制裁術式もある。
けれど、それだけに任せるわけにはいかない。
結衣と麗奈は、彼女のそばにいる監視役だった。
だが、この戦いに限って言えば、それだけではなかった。
護衛。今のオブスキュリテを守ること。
それが、結衣と麗奈のもう一つの役目だった。
オブスキュリテの赫塵がなければ、防衛線は容易に突破される。
竜たちの飛行を止める手段が足りなくなる。
病院も、避難路も、補修班も、すべてが危険に晒される。
彼女は危険な囚人であると同時に、今この瞬間、シティ防衛の要でもあった。
その事実は、結衣の胸に複雑な重さを残す。
赤羽 祈。オブスキュリテ。
敵。囚人。協力者。
そして今は、守らなければならない存在。
たった一人の少女に、あまりにも多くの意味が重なっている。
麗奈も、それを理解しているのだろう。
表情は険しい。剣の柄を握る指にも力が入っている。
だが、オブスキュリテから目を離してはいない。
ただ憎むだけではない。ただ警戒するだけでもない。
守らなければならない対象として、彼女を見ている。
それが悔しいのか。納得できないのか。麗奈の横顔には、苦い感情が浮かんでいた。
それでも、彼女は立っている。逃げずに。目を逸らさずに。
その時だった。空の動きが変わった。
竜の群れの侵攻が、ぴたりと止まった。
それまで防衛線へ向かって突っ込んできていた個体たちが、急に高度を保ったまま旋回を始めた。
赫塵を警戒しているのとは違う。砲台の射線を避けているのとも違う。何かを待っているようだった。
「止まった……?」
麗奈が呟く。
上空で竜たちは旋回している。黒い翼が幾重にも重なり、空に不気味な輪を描いていた。
だが、先ほどまでのように無秩序に突っ込んでこない。咆哮も少ない。
獲物を狙う獣の騒がしさではなく、命令を待つ兵のような静けさがあった。
「これで終わりでしょうか」
麗奈の声には、わずかな期待が混じっていた。
だが結衣は即座に首を振る。
「まだゲートが開いてる」
空を見上げる。複数の裂け目は、まだ閉じていない。
そこから漏れ出す赤黒い魔力も、むしろ濃くなっている。
「油断しちゃだめだよ」
その言葉が終わるのと、ほぼ同時だった。
空の中央に、ひときわ巨大な亀裂が走った。
これまでのゲートとは違う。裂け目が生まれた瞬間、周囲の雲が押し潰されるように歪んだ。
空気が重くなる。屋上の床が、低く震えた。
幅も、深さも、そこから漏れ出す魔力の質も、これまでとはまるで違う。
黒い裂け目が、ゆっくりと開いていく。まるで、空そのものに巨大な傷口ができたようだった。
その奥に、巨大な影が浮かぶ。
結衣の背筋に、冷たいものが走った。心臓が強く鳴る。
まだ見えていない。姿ははっきりしない。それでも分かる。
来る。
今までの竜とは違うものが。
次の瞬間。巨大な竜が、単騎で飛び出してきた。
他の竜とは格が違う。空を覆うほどの翼。黒鉄のような鱗。
頭部から伸びる複数の角。首から背にかけて並ぶ棘。胸元で脈打つ、赤黒い魔力の核。
その眼には、獣の本能だけではない、明確な知性が宿っていた。
竜は、群れの中へ降り立つように空を滑った。
その瞬間、周囲の竜たちが一斉に距離を取る。
まるで道を開けるように。まるで、王族を迎える兵のように。
空気が重くなる。ただ現れただけで、周囲の魔力が震えた。
地上の防衛砲台が照準を合わせる。
だが、撃つ者たちの手が一瞬遅れた。
圧力。
存在感。
それだけで、戦場全体がわずかに凍った。
「……上位個体」
結衣が呟く。口の中が乾いていた。
少なくとも通常の竜ではない。
「落ちなさい」
オブスキュリテが即座に手を掲げた。
疲労を押し殺すように、赤い雷が走る。彼女の指先から、赫塵が伸びた。
巨大な竜へ向かって、一直線に。広域に散らしていた赤雷を、今度は一点へ絞り込む。
相手の飛行制御を痺れさせる。翼を止める。魔力循環を乱す。
先ほどまで、多くの竜を落としてきた一撃。
だが。
竜は、その巨体に見合わぬ俊敏さで身を捻った。
翼を大きく広げるのではない。むしろ一瞬だけ翼をたたみ、空気抵抗を消す。体を横へ滑らせる。
赫塵の軌道を、完全に読んでいた。
赤雷は竜の鱗をかすめただけで、空へ消えた。
「避けた……!」
麗奈が息を呑む。
それは、ただの回避ではなかった。
偶然ではない。反射的な動きでもない。
オブスキュリテの赫塵の性質を理解した上で、最小限の動きでかわした。
赤雷を恐れ、距離を取るのではなく。正確に見切って、避けた。
結衣の背中に、冷たい汗が浮かぶ。
オブスキュリテも、わずかに目を細めた。
竜が、体を大きくのけぞらせた。黒鉄のような鱗が軋む。
巨大な翼が空気を叩き、周囲の雲を乱した。
喉奥に魔力が集まる。
赤黒い光。熱。圧力。
ただの炎ではない。
竜の体内で練り上げられた、高密度の破壊魔力。ブレスの予備動作。
結衣が動くより早く、オブスキュリテが叫んだ。
「ぼさっとしない!」
その手が、麗奈の襟首を掴む。
「えっ――」
麗奈の声は、風にちぎれた。
次の瞬間、オブスキュリテは麗奈を引きずるようにして屋上から飛び降りた。
迷いはなかった。説明もなかった。
ただ、掴んで、引いて、落ちる。
黒い拘束衣が風に翻る。麗奈の体が宙へ投げ出される。
結衣も反射的に地を蹴った。遅れれば死ぬ。そう判断するより先に、体が動いていた。
直後。
竜のブレスが、屋上を薙いだ。白熱した破壊光が、建物の上層部を呑み込む。
音が遅れてきた。
轟音。
耳の奥を叩き潰すような衝撃。防御結界を張る暇などなかった。
ブレスは屋上を削り取り、コンクリートを蒸発させ、鉄骨を飴細工のように曲げていく。
赤く溶けた破片が、空中へ散った。
直撃ではない。
余波だけで、周囲の建物の壁面がえぐれた。窓ガラスが一斉に砕け、爆風が街路へ吹き下ろす。
空気が熱い。肌を焼くような熱風が、落下する三人を追いかけてきた。
三人は地上へ着地した。
結衣は膝を曲げ、衝撃を殺す。身体強化を足へ集中し、アスファルトをわずかに砕きながら踏みとどまった。
麗奈はよろめきながらも、なんとか体勢を立て直した。剣を抜く余裕すらなかった。着地した瞬間、膝が笑いそうになる。
オブスキュリテは小さく舌打ちし、上空を睨んだ。
息は荒い。それでも、視線は竜から外さない。
麗奈は自分たちがいた屋上を見上げた。
そこは、もう形を保っていなかった。屋上の縁は消し飛び、床は大きく抉れている。
鉄骨が赤熱し、溶けたコンクリートが滴っていた。
防衛拠点として使っていた場所が、ほんの一撃で廃墟に変わっている。
背筋が凍る。危なかった。
あんなものを受けていたら。魔法少女とはいえ、ひとたまりもなかった。
変身していようが、防御術式を持っていようが、真正面から受ければ終わりだった。
麗奈は唇を震わせる。さっきまで、自分は何をしていた。竜の動きを見ていた。
だが、反応できなかった。
恐怖で固まっていたのかもしれない。
ブレスの予兆に気づきながら、足が動かなかったのかもしれない。
その結果、オブスキュリテに引きずり落とされた。
よりにもよって。姉の死に関わる相手に。
自分が警戒し、憎み、不要だとまで言った相手に。命を拾わされた。
麗奈は、ぎこちなくオブスキュリテを見る。
「あの」
言葉が詰まる。喉の奥に、悔しさと情けなさが絡まる。
それでも、言った。
「その……ありがとうございます」
オブスキュリテは、ちらりと麗奈を見た。ほんの一瞬だけ。
そして、すぐに視線を竜へ戻す。
「あなたに死なれたら、四条 瑠香に合わせる顔がないだけよ」
麗奈は何も言い返せなかった。
その言葉には、皮肉が混じっていた。
恩を売る気はない。優しさだと思うな。そう突き放すための言葉だった。
けれど、完全な嘘ではない気がした。
四条 瑠香。
姉の名前を出された瞬間、麗奈の胸が詰まる。
オブスキュリテは麗奈を助けた。麗奈には、その意味が分からなかった。
分からないから、何も言えなかった。
空中で、巨大竜が三人を見下ろしている。大きく羽ばたいた。
それだけで、台風のような突風が地上を襲う。車両が揺れ、街路樹がしなり、砕けた瓦礫が吹き飛んだ。
三人は思わず地に伏せる。
「っ……!」
麗奈が歯を食いしばる。
飛んできた破片が結界の残滓に弾かれ、地面に転がる。
結衣は片手で地面を押さえ、顔を上げた。
竜はまだ空にいる。あれを落とさなければならない。
落とさなければ、またブレスが来る。
今度は屋上では済まない。
避難路。防衛拠点。病院。
どこかが消し飛ぶ。
「落ちなさい!」
オブスキュリテが再び赤雷を放つ。疲労の滲む声。
それでも、赫塵は鋭く伸びた。竜の翼を狙い、体内の魔力循環へ食い込もうとする。
だが、竜はまた避けた。
ただ力任せに飛んでいるのではない。こちらの攻撃を読んでいる。
赫塵の軌道を見極め、最小限の動きでかわしている。大きな翼を一瞬だけたたみ、巨体を横へ滑らせる。
赤雷は鱗をかすめ、火花を散らして空へ抜けた。
「また……!」
麗奈の声に焦りが混じる。
オブスキュリテが舌打ちした。額の汗が顎へ伝う。
広域展開の疲労が残っている。集中させても、見切られる。
この竜は、通常個体ではない。
赫塵を知らない敵ならともかく、今の動きは明らかに警戒と分析の結果だった。
そして、竜はまた喉元に魔力を集めた。
ブレス。当たれば死ぬ。
避けても、街がただでは済まない。このまま撃たせるわけにはいかない。
結衣は駆け出した。
「結衣!」
オブスキュリテの声が聞こえた。
だが、止まらない。止まれば撃たれる。
動かなければ、誰かが死ぬ。
結衣は一瞬で間合いを詰める。
地面を蹴り、建物の壁へ走る。垂直の壁面を、身体強化で強引に駆け上がった。
割れた窓枠を足場にし、さらに跳躍。
空中で、何もない場所を蹴った。
足元に、一瞬だけ白い魔力の足場が生まれる。
虚踏。
立体軌道を可能にする、身体強化応用術。
魔力の足場を瞬間的に生成し、それを蹴ることで空中を移動する。
簡単な技ではない。足場は一瞬で消える。強度も安定しない。
生成位置を誤れば、踏み抜いて落ちる。
けれど、結衣は迷わない。
候補生時代、地味だと言われた身体強化。派手な攻撃魔法も、広域制圧も、特殊な術式もない。
それでも磨き続けた。
速く。強く。高く。
届かない場所へ届くために。
彼女はもう一度、虚空を蹴った。さらに上へ。
竜の喉が膨らむ。赤黒い魔力が、口腔の奥で白熱する。
ブレスが放たれる、その直前。
結衣の脚が、竜の顎を蹴り上げた。
「せぇっ!」
全身の強化を右脚に集中させた一撃。
足首。膝。腰。背中。
すべての力を一直線に通し、竜の顎へ叩き込む。
衝撃が結衣の脚へ返ってきた。
硬い。重い。
まるで巨大な鉄塊を蹴ったようだった。
だが、届いた。
竜の顎が強引に跳ね上がる。放たれたブレスは、地上ではなく天へ向かった。
白熱した光が雲を裂き、空の彼方へ消える。
空気が焼ける匂いがした。結衣の頬を、熱がかすめる。
だが、地上には当たらない。逸らした。
その隙を、オブスキュリテは逃さなかった。
「今度は外さないわ」
赤い雷が奔る。体勢を崩した竜へ、赫塵が直撃した。今度は避けられない。
顎を跳ね上げられ、喉の魔力を暴発寸前まで練っていた竜は、一瞬だけ動きが止まっていた。
赤雷が鱗の隙間へ入り込む。
首筋。胸。翼の付け根。背骨に沿う魔力の流れ。
赫塵が、巨体の魔力循環を痺れさせる。
竜が低く唸った。先ほどまでの余裕ある咆哮ではない。苦痛と苛立ちが混じった声。
翼の動きが乱れる。空中で大きく傾く。
飛行を維持できなくなった巨体が、地上へ落ちた。
轟音。
道路が陥没し、粉塵が舞い上がる。地面が大きく揺れ、近くの建物の窓がさらに砕けた。
竜の巨体が滑り、アスファルトに深い溝を刻む。
それでも、完全には倒れていない。
爪を立て、首を振り、なお立ち上がろうとしている。
上位個体。
通常の竜なら、ここで大きく動きを止められていた。
だが、この竜は違う。赫塵を受けても、まだ抗っている。
結衣は空中で姿勢を整え、近くの建物を蹴って地上へ降りる。
右脚が痺れていた。蹴った衝撃が残っている。
だが、立てる。戦える。
麗奈も剣を構えた。さっきまでの震えは、完全には消えていない。
でも、目は竜を見ている。恐怖を抱えたまま、前を向いている。
オブスキュリテは肩で息をしながら、竜を睨んでいる。
赤雷が指先で乱れていた。疲労は濃い。
だが、目は鋭い。
粉塵の中で、竜の巨体が揺らいだ。
最初は、衝撃で視界が歪んでいるだけかと思った。
だが違う。竜そのものが変化していた。
道路を陥没させるほどの巨体。
黒鉄のような鱗。空を覆っていた翼。そのすべてが、音もなく縮んでいく。
巨大な翼が畳まれる。骨格が軋む。
鱗が人の皮膚のような形へ変わり、角が短くなる。
尾が消え、前脚が腕へ、後脚が人の足へと形を変える。
それは、獣が人へ変わるというより、竜という存在が人の形へ凝縮されていくようだった。
圧は消えない。むしろ、増した。
巨大な姿で空にいた時よりも、今の方が近い。近すぎる。
力の密度が、違う。
やがて、粉塵の奥に立っていたのは人型の存在だった。
背は高い。筋骨隆々とした肉体に、黒い鱗が鎧のように残っている。
肩。胸。腕。脛。
急所を守るように、竜の鱗が黒い装甲となって張りついていた。
頭部には短くなった角。瞳は金色。
人の形をしていても、その圧は竜のままだった。
いや、人の姿をしているからこそ、その異質さが際立っていた。
結衣は拳を握る。
目の前にいるものは、人ではない。竜だ。
それも、ただの竜ではない。
「なるほど」
竜は、己の手を握ったり開いたりしながら言った。自分の肉体の感触を確かめているようだった。
指を鳴らす。手首を回す。肩を軽く動かす。
その一つ一つの動きだけで、空気が重く揺れる。
「この雷に当たると、魔力をうまく扱えなくなるのだな」
その声は低く、重い。
ただの獣ではない。明確な言葉と知性。
そして、戦闘中に相手の能力を分析する冷静さ。
「配下が苦戦するのも道理か」
オブスキュリテが眉をひそめる。赤い雷が、指先で小さく弾けた。
竜は彼女へ視線を向けた。金色の瞳が、赫塵の使い手をまっすぐ射抜く。
「まずは貴様を潰させてもらう」
次の瞬間、竜が踏み込んだ。
速い。地面が砕ける。
その音が届くより先に、竜の体が消えたように見えた。
巨体だった時以上に、動きが鋭い。大きさを失った代わりに、速度と密度が増している。
オブスキュリテへ一直線に迫る。
結衣の体が、反射で動いた。考える暇はない。
オブスキュリテを狙われたら終わる。赫塵が止まれば、空の竜たちへの干渉が弱まる。防衛線が崩れる。
だから、止める。
「させない」
結衣は竜の前へ滑り込んだ。
拳を握る。身体強化を全身へ巡らせる。
脚。腰。背中。肩。腕。
すべてを一つの線にして、拳へ集める。
竜も拳を繰り出した。結衣も拳を繰り出す。
互いの顔面へ向けて。
結衣の拳は、速い。候補生時代から磨き続けた、無駄のない一撃。
だが、届かない。
竜の腕の方が長い。そして、速さも重さも尋常ではなかった。
竜の拳が、結衣の顔面を捉える。
その瞬間、結衣は顔と首へ強化魔法を集中させた。
首が折れないように。頭蓋が砕けないように。意識を持っていかれないように。
さらに、背後からオブスキュリテの防壁術式が展開される。
薄い赤黒い壁。赫塵とは違う、簡易防壁。
即席で張られたものだったが、確かに結衣と竜の拳の間へ割り込んだ。
衝撃を、一部受け止める。
それでも。
意識が飛びかけた。視界が白く弾ける。
頭の中で、鐘を打ち鳴らされたような衝撃が響く。
首が嫌な音を立てそうになる。頬の骨が軋む。
歯がぶつかり、口の中が切れた。
結衣の体が後方へ滑った。靴底がアスファルトを削る。強化した脚で踏ん張っても、勢いが止まらない。
数メートル後退して、ようやく止まる。
「結衣先輩!」
麗奈が叫ぶ。
結衣は片膝をつきかけ、踏みとどまった。膝を地面につけてしまえば、立ち上がるのに一瞬遅れる。
その一瞬が命取りになる。だから、耐える。
口の中に鉄の味が広がった。唇の端から血が垂れる。
結衣は手の甲で口元を拭い、血を吐き出した。赤い雫がアスファルトに落ちる。
強化魔法。オブスキュリテの防壁。
その二つを合わせても、この威力。まともに受ければ、本当に首が折れていた。
それを理解した瞬間、背筋が冷たくなる。
だが、同時に。
まだ立っている。まだ戦える。
「驚いたな」
竜が感心したように言う。その声には、明らかな興味があった。
「人間であれば、百人は首を折る一撃だったが」
「あなた」
結衣は呼吸を整えながら立ち上がる。
視界の端がまだ少し揺れている。 だが、目は逸らさない。
「ただの竜じゃないね」
竜は口角を上げた。
「然り」
その声に、周囲の空気が震える。
まるで名前そのものに力が宿っているようだった。
「我は竜王グラシャラボラス」
麗奈の顔色が変わった。
「竜王……」
会議で出てきた名。来る可能性は低いとされていた存在。竜たちを統べる複数の王の一角。
現れれば、通常の魔法少女小隊では止まらないとされた最悪の想定。
それが今、目の前にいる。
予測ではない。資料ではない。遠い星の噂でもない。
竜王グラシャラボラスが、シティの路上に立っていた。
オブスキュリテも目を細める。疲労の色は濃い。
だが、その表情から軽薄さが消えていた。
彼女も理解している。これは、ただの上位個体ではない。
戦場全体の勝敗を変える存在だ。
結衣は拳を握った。血の味が、まだ舌に残っている。
「竜王」
結衣はまっすぐグラシャラボラスを見る。
「なら、あなたを倒せば、この侵攻は止まるの?」
グラシャラボラスは一瞬、目を細めた。まるで、結衣の言葉を品定めするように。
それから、楽しげに笑う。
「我に勝つ気か?」
「勝つよ」
結衣は即答した。迷いはなかった。
恐怖がないわけではない。むしろ、恐ろしい。
一撃で首を折られかけた相手だ。魔力の圧だけで膝が震えそうになる。
それでも、答えは決まっていた。
「このシティを守るために」
グラシャラボラスの笑みが深くなる。獲物を見る笑みではない。玩具を見つけた子どもの笑みでもない。
戦う価値のある相手を見つけた武人の笑み。
彼は大きく腕を広げた。
「ならば誓おう。人の子よ」
その声が、戦場に響く。
遠くで竜と魔法少女たちが戦っている。
砲撃の音。咆哮。通信の声。
それらすら、一瞬だけ遠のいたように感じられた。
「我に勝てば、軍勢を撤退させる」
麗奈が息を呑む。
オブスキュリテも目を細めた。
竜王の誓い。
それがどれほど重いものなのかは分からない。
人間の法が通じる相手ではない。契約書も証人もない。
だが、この男は嘘をついているようには見えなかった。
誇り。武勇。狩りの証。
会議で聞いたゲオルギアスの価値観が、結衣の脳裏をよぎる。
竜王が誓う。それは、彼らの中ではきっと軽くない。
少なくとも、グラシャラボラスはその誓いを遊びで口にしたわけではない。
オブスキュリテが低く言う。
「結衣、安易に信じるのは――」
「信じるしかない」
結衣は小さく答えた。
目はグラシャラボラスから離さない。
「倒せば止まる。なら、倒す」
オブスキュリテは一瞬だけ黙った。
それから、短く息を吐く。
「本当に、単純ね」
「うん」
結衣は拳を構える。
「でも、分かりやすいでしょ」
「呆れるほどにね」
その声には、苛立ちだけではないものがあった。
結衣は一歩前へ出る。
「なら、今すぐ帰ってもらうよ」
グラシャラボラスは、喉の奥から笑った。
「ははは」
低く、重く、楽しげな笑い。
その笑いだけで、周囲の瓦礫が震えた。
「よくぞ吠えた、人の子よ」
金色の眼に、戦意が宿る。
「では示してみせよ。貴様らが守るに値する牙を持つのかどうかを」
竜王が構える。人型でありながら、その構えは人間の武術とは違う。
重心が低い。
腕は長く、爪は鋭い。
足先が地面を掴む。
背中の鱗がわずかに盛り上がり、尾の名残のような魔力が腰の後ろで揺れている。
一歩踏み込めば、またあの拳が来る。
まともに受ければ終わる。
結衣も構えた。頬は痛い。頭はまだ少し揺れている。
右脚には、先ほど竜の顎を蹴り上げた衝撃が残っている。
それでも、構えは崩さない。
麗奈が剣を握り直す。不安はある。怖さもある。
けれど、もう下がらない。
さっきオブスキュリテに助けられた命。
それを、今ここで無駄にはしない。
オブスキュリテの指先に、再び赤い雷が灯る。
赫塵は乱れている。疲労で出力も落ちている。
それでも、彼女は笑った。
空では、まだ竜たちが飛んでいる。
地上では、魔法少女たちが戦っている。
病院前では、瑠璃姫たちが防衛線を保っている。
遠くの防衛地点では、若い魔法少女たちが恐怖を抱えながら竜へ立ち向かっている。
戦場全体は、まだ続いている。
だが、この戦場の中心は、今この瞬間、ここになった。
白瀬 結衣。
四条 麗奈。
オブスキュリテ。
そして、竜王グラシャラボラス。
この戦いの結果が、侵攻全体を左右する。
結衣は呼吸を整える。
怖い。痛い。相手は強い。
けれど、退けない。
グラシャラボラスの足元で、アスファルトが砕ける。
動く。
そう思った瞬間、結衣は身構えた。
麗奈が剣を低く構える。
オブスキュリテの赤雷が、細く空気を裂く。
竜王が、笑う。
「来い、人の子らよ」
シティの命運を賭けた戦いが、始まろうとしていた。




