思い出
三人は再びバンへ戻った。ゲート処理は終わった。異形の残存反応もない。
近隣部隊が到着した時には、すでに現場はほとんど片づいていた。
濡れた商業通りには、閉じたゲートの痕跡だけがかすかに残っている。
赤雷の残滓。黒い粒子の消えかけた匂い。雨に洗われていく戦闘の跡。
報告を済ませ、オブスキュリテの魔力制限を再起動し、三人は魔法少女局へ戻ることになった。
再起動の際、オブスキュリテは特に抵抗しなかった。
結衣が端末を操作する。限定解除の表示が消える。
魔力制限具が再び淡く光り、オブスキュリテの魔力の流れを閉じ込める。
赤い火花は、指先から消えた。
麗奈はその一部始終を、じっと見ていた。
解除された時と同じくらい。あるいは、それ以上に真剣に。
本当に封じられたのか。まだ何か隠していないか。
そう疑っているのが、結衣にも分かった。
オブスキュリテは、その視線を受けても何も言わなかった。ただ、退屈そうに腕を組む。
車内には、行きとは別の沈黙があった。墓地へ向かう時のような重苦しさではない。
だが、穏やかでもない。
先ほどの戦闘。
いや、戦闘と呼ぶにはあまりにも一方的だった処理。
それが、三人の間に奇妙な空気を残していた。
オブスキュリテの赫塵は、異形に対して圧倒的だった。ゲートから出てくる敵を赤い雷で痺れさせ、結衣と麗奈が処理する。
それだけで、三つのゲートは短時間で閉じた。
味方としては、これほど頼もしい力はない。
初動対応の負担を減らせる。若手の怪我も減る。結界修復までの時間を稼げる。
理屈の上では、渡会たちの判断は間違っていなかった。
少なくとも、戦力としての有用性は証明された。
けれど。
あの赤雷が三ヶ月前まで自分たちに向けられていたことを、誰も忘れてはいなかった。
麗奈は、窓の外を見ているようで、視線の端ではずっとオブスキュリテを警戒していた。
目を逸らしている。けれど、意識は外していない。
オブスキュリテが少しでも不審な動きをすれば、すぐに反応するつもりなのだろう。
オブスキュリテはそれに気づいているのか、気づいていないふりをしているのか、退屈そうに座っている。
足を組むわけでもなく。窓の外を見るわけでもなく。ただ中央の席で腕を組み、前方を見ていた。
結衣は、小さく息を吐いた。
連携は取れた。それは確かだ。
結衣が前に出る。麗奈が斬る。オブスキュリテが止める。戦術としては機能した。
だが、信頼があるわけではない。
むしろ、問題は山積みだ。
麗奈はオブスキュリテを危険視している。当然だ。
オブスキュリテは麗奈を煽る。これも、ある意味では当然だ。
痛いところを突かれたくないから、先に刃を向ける。
結衣にはそれが分かる。分かるからこそ、余計に胃が痛い。
このまま局に戻って報告だけして終わりにしても、きっと次の現場でまた同じことが起きる。
戦闘中は機能するかもしれない。
でも、そこに至るまでの摩擦が大きすぎる。現場で余計な口論が起これば、判断が遅れる。
麗奈が怒りで視野を狭めれば、危険が増す。
オブスキュリテがわざと協力姿勢を崩せば、全体が乱れる。
少なくとも、一度ちゃんと話しておいた方がいい。
そう思った時、バンは古い商店街の近くを通りかかった。
結衣は、ふと顔を上げた。
見覚えのある角。少し色褪せた看板。雨に濡れた狭い路地。
閉じたシャッターと、小さな喫茶店の軒先。
胸の奥で、懐かしい記憶が小さく揺れた。
候補生時代。訓練帰り。
へとへとになった結衣と、少しだけ不機嫌そうな祈。
安いケーキ。甘い飲み物。何度も座った奥の席。
誰にも見つからない場所みたいで好きだと、祈が言った店。
結衣は一瞬、迷った。ここで降りる理由はある。
作戦会議。連携確認。次回以降の運用方針。
それは事実だ。
けれど、それだけではなかった。
この場所なら、祈が何かを思い出すかもしれない。
少しだけでも、昔の声で話せるかもしれない。
そんな期待が、胸の奥にあった。
不謹慎だと思った。
それでも、言葉は出ていた。
「あの」
結衣は助手席の職員へ声をかけた。
「そこの角で降ろしてください」
助手席の職員が怪訝な顔を向ける。
「ここで、ですか?」
「はい」
「局へ戻る予定ですが」
「ちょっと、連携が不安なので作戦会議をしたいんです」
結衣はできるだけ自然な口調で言った。
職員は眉をひそめる。
「それは、局に戻ってからでもいいのでは」
「それはそうなんですけど」
結衣は少しだけ笑った。
自分でも、少し苦しい笑顔だと思った。
「カフェでおいしいものを飲みながらの方が、スムーズにいくかなって」
その言葉に、麗奈が即座に反応した。
「駄目に決まってるじゃないですか!」
声が車内に響く。
行きの車内では抑え込んでいた分、反応は鋭かった。
「不要な場所にこの女を近づけてはいけません。規定外の行動です」
「まあ、そうなんだけど」
「そうなんだけど、ではありません」
麗奈は結衣を見て、それからオブスキュリテを睨んだ。
「そもそも、この人は外出許可中の囚人です。墓参りと緊急対応が終わったなら、速やかに局へ戻すべきです」
オブスキュリテが、くすりと笑った。
「余裕がないわね」
麗奈の視線が鋭くなる。
オブスキュリテは、わざとゆっくりと言った。
「し、じょ、う、さ、ま」
麗奈の額に、分かりやすく青筋が浮かんだ。
「あんた……!」
「オブスキュリテ」
結衣が慌てて口を挟む。
「いちいち煽らないで」
「あら。事実を言っただけよ」
「その言い方が煽ってるの」
「相変わらず細かいわね」
「細かくならざるを得ない状況を作ってるのは誰かな」
「さあ」
オブスキュリテは涼しい顔で答える。
麗奈がさらに何か言いかけたところで、助手席の職員が小さく咳払いをした。
彼は、二人を見比べてから、あきれたように小さく笑った。
「確かに、作戦会議は必要かもしれませんね」
「職員さん!」
麗奈が抗議するように声を上げる。
しかし職員は端末を確認した。
「近隣の警戒レベルは現在低下中。オブスキュリテの腕輪も正常に稼働しています」
端末には、オブスキュリテの位置情報と拘束具の稼働状況が表示されている。
魔力制限、正常。
制裁機能、正常。
GPS、正常。
逃走予兆、なし。
「滞在場所と時間をこちらで記録し、定時連絡を入れるなら、短時間の休憩扱いにできるでしょう」
「ですが」
「四条隊員」
職員の声が少しだけ硬くなる。
麗奈の背筋がぴんと伸びた。
「監視役として、あなたも同行してください。それでよろしいですね?」
麗奈は唇を噛んだ。納得はしていない。
むしろ、納得できる要素はほとんどない。
だが、命令系統として反論しづらいのも事実だった。
結衣の提案は軽く聞こえるが、作戦会議という名目は通る。
先ほどの戦闘で連携面に課題があるのも事実。
拘束具も正常。監視役も同行する。
許可を出せないほどの理由は、今のところない。
「……分かりました」
麗奈は渋々答えた。
職員は頷き、運転手へ指示した。
「では、そこの角で停車します」
バンはゆっくりと路肩に寄った。
雨はまだ細く降っている。ワイパーが一度、フロントガラスを拭った。
結衣は先に降りた。濡れた路面に靴を下ろす。
続いて麗奈。
最後に、オブスキュリテ。
制裁用の腕輪は生きている。
魔力封じも再起動済み。
それでも、オブスキュリテが街中へ降り立つだけで、麗奈は明らかに警戒していた。
変身はしていない。
だが、体の向きは常にオブスキュリテを捉えている。
何かあれば、すぐ動く。その意思がはっきり見えた。
オブスキュリテは、濡れた商店街を見渡した。
シャッターの下りた店。古い街灯。雨に滲む看板。
そして、路地の奥にある小さなカフェ。
その店を見た瞬間、オブスキュリテの表情がほんのわずかに止まった。
結衣は、それを見逃さなかった。
覚えている。そう思った。
胸の奥に、痛みとも喜びともつかないものが広がる。
「ここ」
オブスキュリテが、低く呟いた。
その声には、ほんの少しだけ昔の響きが混じっていた。
結衣はできるだけ平静を装って頷いた。
「うん。久しぶりだよね」
「……どういうつもり?」
オブスキュリテの声が、すぐに冷たくなる。
結衣の胸が小さく痛んだ。けれど、逃げない。
「作戦会議」
「ここで?」
「ここで」
「白瀬 結衣らしい、甘ったるい作戦会議ね」
「甘いものは実際に頼む予定だけど」
「そういう意味じゃないわ」
オブスキュリテはそう言いながらも、店から目を逸らさなかった。
麗奈は二人を見比べ、眉をひそめる。
「……知っている店なんですか」
結衣は一瞬迷った。
だが、隠すことでもない。
「昔、よく来てたの」
「誰と」
麗奈の問いは鋭かった。
結衣は、ほんの少しだけ声を落とす。
「祈と」
その名前に、オブスキュリテの目が細くなった。
「その名前で呼ばないでと言ったはずよ」
「ごめん」
結衣は素直に謝った。
「でも、昔の話だから」
「昔の話なら、なおさら不要よ」
オブスキュリテはそう言って歩き出す。雨に濡れた路地を、カフェの方へ。
拒絶の言葉を口にしながら。それでも、足は止まらなかった。
結衣はその背中を見て、小さく息を吐く。
麗奈はまだ納得していない顔だったが、監視役として後を追うしかない。
バンの職員が窓を開けた。
「滞在は三十分以内。十五分ごとに位置確認を入れます」
「了解しました」
結衣が頷く。
「異常があれば即時通報を」
「はい」
職員はもう一度オブスキュリテの腕輪の反応を確認してから、窓を閉めた。
バンはその場で待機するらしい。
雨の中、三人はカフェへ向かう。
古びた看板には、色褪せた文字で店名が書かれていた。
軒先の小さなランプが、昼間なのに灯っている。
ドアの前に立つと、雨音の向こうから、かすかにコーヒーの香りがした。
オブスキュリテは、その香りにほんの一瞬だけ目を伏せた。
結衣は何も言わない。
麗奈も、何も言えなかった。
次の瞬間、結衣がドアを開ける。小さなベルが、からん、と鳴った。
外の雨音とは違う、柔らかな音だった。三人は、古いカフェの中へ足を踏み入れた。
外の雨音が、扉の向こうで少し遠くなった。
店内は清潔だった。木の床。落ち着いた色のテーブル。
壁に並ぶ古い写真。窓際の観葉植物。
棚に置かれた古いコーヒーミル。
ほんのりと漂うコーヒーの香り。
外観ほど古びた印象はなく、むしろ丁寧に手入れされていることが分かる。
古いが、汚れてはいない。寂れてはいるが、投げ出されてはいない。
そんな店だった。
ただし、客はいなかった。見事なまでに閑古鳥が鳴いている。
雨の午後とはいえ、ここまで人がいないと、もはや静かというより心配になる。
結衣は、懐かしさと少しの申し訳なさを覚えた。
昔も、決して流行っている店ではなかった。候補生時代、祈とここへ来た時も、客はいつも少なかった。
だからこそ落ち着けた。
誰にも見つからず、二人で息を抜ける場所だった。
オブスキュリテが店内を見回し、ぽつりと言った。
「この人気のなさも、久しぶりね」
「そこは懐かしまなくていいと思う」
結衣が苦笑する。その言葉のやり取りは、ほんの少しだけ昔に似ていた。
祈が皮肉を言って、結衣が苦笑する。
ただそれだけのことなのに、胸の奥が小さく痛む。
けれど、次の瞬間。
「いっらっしゃいませー!」
元気のよい声が、店の奥から飛んできた。
三人の視線が、一斉にそちらへ向く。
現れたのは、金髪で日焼けした若い女性だった。
明るい髪。健康的な褐色の肌。派手めのメイク。軽やかな足取り。
店の落ち着いた雰囲気とは、少しどころではなく合っていない。
まるで静かな喫茶店に、夏の海辺からそのまま迷い込んできたような店員だった。
結衣は面食らった。
記憶にあるこの店の店員は、寡黙なマスター一人だった。
年季の入ったエプロンをつけ、客が少なくても淡々とコーヒーを淹れる、静かな老人。
その店に、目の前の女性はあまりにも明るすぎた。
麗奈も目を瞬かせる。
おそらく、同じことを思っているのだろう。ここにいるには、あまりにも浮いている。
オブスキュリテだけは、一瞬だけ目を見開いた。ほんの一瞬。
雨粒が窓を叩く音に紛れて消えるほどの、わずかな変化。しかし、その表情はすぐに消えた。
いつもの冷えた顔に戻る。
「あたし、先週からここでお世話になっている相馬 茜でっす」
女性はにこっと笑った。
「三名様ですか? ご案内しますねー」
明るい声。妙に馴れ馴れしい身振り。
けれど、接客としては不自然すぎるほどではない。
元気な新人店員。そう言われれば、そう見えなくもない。
三人は、窓際の席へ案内された。
結衣とオブスキュリテが向かい合い、結衣の横に麗奈が座る。
結衣と、麗奈はオブスキュリテの斜め前に位置取った。
いつでも相手の腕輪と手元を確認できる場所。
監視役としては正しい座り方だった。
拘束具付きの囚人をカフェに座らせるという状況は、かなり異様だった。
黒い拘束衣。手首の腕輪。監視役二人。
普通の客が見れば、間違いなく目を引く。
だが、店内に他の客はいない。
茜と名乗った店員も、特に驚いた様子を見せなかった。
まるで、そういう客もいるよね、くらいの軽さだ。
「ご注文決まりましたら呼んでくださいねー」
メニューを置いて、茜はにこやかに下がる。
その背中を、オブスキュリテの視線が一瞬だけ追った。
結衣はそれに気づく。
けれど、何も言わなかった。
結衣はメニューを見なくても注文を決めていた。
昔から変わらないお気に入り。ブレンドコーヒーとチーズケーキ。
この店のチーズケーキは、見た目は地味だが濃厚で、訓練帰りの疲れた体には妙に染みた。
祈はいつも、結衣のチーズケーキを一口だけもらっていた。
自分は頼まないくせに、結衣が頼むと必ず少し欲しがる。
そんなことを思い出して、結衣はメニューの端を指でなぞった。
オブスキュリテも、ほんの少しだけメニューへ視線を落とした。
そして、静かに目を上げる。
迷っていない。もう決めている。
それを見て、結衣は少しだけ胸が痛くなった。
祈は、まだ覚えている。
この店のことも。自分たちが何を頼んでいたかも。
ここで過ごした時間を、完全には捨てられていない。
麗奈はメニューを真剣に見ていた。
聞いたことのない名前の飲み物が並んでいるせいか、眉間に皺を寄せている。
コーヒーの種類。紅茶。季節限定の飲み物。小さなケーキセット。
そのどれを選ぶべきか、任務中とは思えないほど真面目に悩んでいる。
やがて、茜が戻ってくる。
「決まりました?」
「私は、いつもの……じゃなくて、ブレンドとチーズケーキで」
結衣は言ってから、少しだけ照れた。
いつもの、というほど来ていたのは昔のことだ。
今の自分には、もうそう呼ぶ資格があるのか分からない。
「私はエスプレッソ」
オブスキュリテが言った。短く、迷いのない注文だった。
結衣は、その注文に胸を締めつけられる。
昔も、祈はそれが好きだった。
正確には、好きというより、背伸びだった。
苦いのに平気な顔をして飲んで、結衣がミルクを入れればいいのにと言うと、子供扱いしないでと不機嫌そうにしていた。
でも、本当は角砂糖を三つ入れていた。そのことを、結衣は覚えている。
オブスキュリテは、今は何も言わない。
砂糖のことも。昔のことも。
麗奈はしばらく迷った後、メニューを閉じた。
「おすすめはありますか」
「ありますよー。うちのミルクティー、結構評判いいんです」
「では、それで」
「かしこまりました。ブレンドとチーズケーキ、エスプレッソ、ミルクティーですね。少々お待ちくださーい」
茜は明るく言って、店の奥へ去っていった。
その背中を見送りながら、麗奈がぽつりと言う。
「なんていうか、店とはミスマッチな人ですね」
「そうだね……」
結衣も苦笑する。
「前はマスターしかいなかったから、ちょっとびっくりした」
オブスキュリテは、椅子にもたれながら店内を見回した。
「マスターもいい年でしょ。バイト、欲しかったんじゃない」
「それはそうかもしれないけど」
「雇う人選はどうかと思います」
麗奈は真面目な顔で言った。
結衣は思わず少し笑った。
「麗奈ちゃん、けっこうはっきり言うね」
「事実です」
「さっきまで規則の話してた人とは思えないわね」
オブスキュリテが口を挟む。
麗奈はすぐにそちらを睨んだ。
「あなたには言われたくありません」
「そう?」
「そうです」
また険悪になりかけた空気に、結衣は慌てて手を挙げた。
「はい、一回落ち着こう。作戦会議だからね。喧嘩しに来たわけじゃないから」
「私は喧嘩していません」
「私もよ」
「二人とも、そういうところだよ」
結衣は苦笑するしかなかった。けれど、車内ほどの重苦しさはなかった。
雨音は窓の外。店内にはコーヒーの香り。古い写真と、手入れされた木の床。
そして、妙に明るい新人店員。
異様な状況であることは変わらない。
オブスキュリテは囚人で、麗奈は監視役で、結衣はその間にいる。
それでも、戦場でも墓地でもない場所に座っているだけで、張り詰めていたものが少しだけ緩む気がした。
オブスキュリテは、店の奥へ消えた茜の方をもう一度だけ見た。ほんの一瞬。
その目に、何かを測るような光が宿る。
だが、すぐに消えた。
結衣は気づかなかったふりをした。
雨はまだ、静かに窓を濡らしていた。
その時、麗奈が席を立った。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます」
「うん」
結衣が頷く。
麗奈は席を離れる前に、一度オブスキュリテを見た。
まっすぐな視線だった。警戒を隠していない。
「変なことをしないでください」
「魔力は封じられているわ」
オブスキュリテは、手首の腕輪をわずかに持ち上げる。
「魔法以外もです」
「はいはい」
返事は明らかに適当だった。
麗奈は不満そうに眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
監視役としては離れるべきではない。そう思っているのが顔に出ていた。
だが、店内には他の客がいない。
出入口は見える位置にある。窓の外には待機中のバンもある。腕輪も正常に稼働している。
だから麗奈は、渋々という様子で店の奥へ向かった。
小さな足音が、木の床の上を遠ざかっていく。
席に、二人きりになる。結衣とオブスキュリテ。
いや。
白瀬 結衣と、赤羽 祈。
昔、この店で何度も向かい合って座った二人。
訓練帰りに、汗を拭きながら。テストの結果に落ち込みながら。
結衣が甘いものを頼み、祈が苦いエスプレッソを頼み、結局角砂糖を三つ入れていたこの席で。
何でもない話をした。将来の話をした。
いつか一緒にステージ中央へ立とうと笑った。
けれど、今は違う。
隔てるものは透明な隔壁ではない。拘束具だけでもない。
二年分の沈黙と、罪と、傷がそこにある。
テーブルを挟んだ距離は、手を伸ばせば届くほど近い。
なのに、どうしようもなく遠かった。
結衣は、膝の上で手を握った。指先が少し震えている。
今しかない。そう思った。
麗奈が席を外している今だけ。
監視役の前ではなく。局員の前でもなく。
ただ、二人で向かい合っている今だけ。
言えることがある。
言わなければならないことがある。
結衣は、ゆっくりと息を吸った。
「祈」
「オブスキュリテよ」
即座に訂正される。いつものように。冷たく、短く、拒むように。
結衣は一度目を伏せた。胸の奥が痛む。
それでも、逃げなかった。
「ごめんなさい」
言葉は、思っていたよりも自然に出た。
ずっと言いたかった言葉だった。
でも、ずっと言えなかった言葉でもあった。
オブスキュリテは答えない。
表情を変えず、結衣を見ている。
結衣は続けた。
「二年前、私はあなたの手を払いのけた」
声が震えそうになる。
それでも、言った。
「あの時、あなたは一人だった。みんなから責められて、学校にも家にもいられなくなって、きっと、誰かに助けてほしかったはずなのに」
喉が詰まる。
結衣は、握った手に力を込めた。
「私は、返事をしなかった」
あの頃の記憶が、胸の奥から浮かび上がる。
何度も見た端末の画面。祈からの連絡。未読のまま残った通知。局から言われた言葉。
今は接触しない方がいい。
君も危険に晒される。
刺激するべきではない。
大人たちの言葉は、どれももっともらしかった。
結衣は、それを言い訳にした。
「会いに行かなかった。声をかけなかった。局の言葉を言い訳にして、自分を守った」
オブスキュリテは黙っていた。
窓の外では雨が降っている。店内には、コーヒーの香りと、古い時計の音だけがあった。
壁の時計が、かちり、と小さく鳴る。その音さえ、胸に刺さるようだった。
「ごめん」
結衣はもう一度言った。
「今さらだけど、それでも、言わせてほしい」
長い沈黙。
オブスキュリテは、しばらく何も言わなかった。
怒るでもなく。笑うでもなく。皮肉を返すでもなく。
ただ、結衣を見ていた。
その沈黙が、何より苦しかった。
責めてくれればよかった。
どうして来なかったのかと怒鳴ってくれればよかった。
あんたのせいだと罵ってくれれば、結衣はその言葉を受け止められた。
少なくとも、受け止める覚悟はしていた。
けれど、オブスキュリテは何も言わない。
何も言わないまま、ただ静かにこちらを見ている。
やがて、彼女は口を開いた。
「二つ、言うことがあるわ」
結衣は顔を上げる。
「一つ」
オブスキュリテの声は静かだった。
「私は赤羽 祈ではなく、オブスキュリテ」
結衣の胸が痛む。
分かっていた。そう言われることは分かっていた。
それでも、痛みは消えない。
「もう一つ」
彼女は続ける。
「今言ったように、私はオブスキュリテ。赤羽 祈ではない」
同じ言葉。
けれど、意味は違った。
最初の言葉は、名前の訂正。次の言葉は、線引きだった。
「だから」
オブスキュリテは、結衣から視線を逸らさないまま言った。
「謝罪は不要よ」
結衣の息が止まる。受け取らない。
そう言われたのだと、すぐに分かった。
怒鳴られる方がよかった。
責められる方がよかった。
どうして来なかったのかと、泣かれる方がまだよかった。
殴られる方が、まだよかった。
けれど、オブスキュリテはそうしなかった。
謝罪の相手はもういない。赤羽 祈はいない。
だから、謝罪は不要。
それは拒絶だった。静かで、冷たい拒絶。
結衣の胸に、深く刺さる。
謝罪は受け取られない。受け取ってもらえない。
その事実が、思っていた以上に痛かった。
「……それでも」
結衣は絞り出すように言った。
声が震えていた。隠せなかった。
「私は、言い続けるよ」
「好きにすれば」
オブスキュリテは淡々と答えた。
「私が受け取るかどうかは、別の話だけど」
「うん」
結衣は小さく頷いた。
目の奥が熱い。泣いてはいけないと思った。
ここで泣けば、また自分のための謝罪になってしまう。
許してほしいから泣く。受け入れてほしいから泣く。
そんなふうにはしたくなかった。
結衣は唇を噛み、涙を飲み込んだ。
「受け取ってもらえなくても、言う」
オブスキュリテは何も答えなかった。
ただ、窓の外へ視線を向ける。雨粒がガラスを伝って流れていく。その横顔は冷たい。
けれど、結衣にはほんの一瞬だけ、別の何かが見えた気がした。
怒りではない。悲しみでもない。
もっと奥に沈んだ、名前のつかないもの。
赤羽 祈の残滓。
そう思ったのは、結衣の都合のいい願望かもしれなかった。
それでも、結衣はその横顔から目を逸らせなかった。
その時、奥から足音が近づいてきた。
麗奈が戻ってくる。
「戻りました――って、どうしました?」
麗奈は、二人の空気に気づいて足を止めた。
鋭い。
感情の機微に鈍いわけではない。
むしろ、警戒しているからこそ、場の変化には敏感なのだろう。
結衣はすぐに顔を上げる。
笑おうとした。たぶん、うまく笑えてはいなかった。
「ううん。何でもないよ」
「何でもない顔には見えませんが」
「本当に、大丈夫」
結衣はそう言った。自分に言い聞かせるように。
オブスキュリテも何も言わない。ただ、窓の外の雨を見ている。
麗奈は怪訝そうに二人を見比べた。
結衣の強張った笑顔。
オブスキュリテの無言。
テーブルの上に置かれた、まだ何も届いていない空の席。
何かがあったことは明らかだった。
それでも、麗奈はそれ以上は追及しなかった。今この場で踏み込めば、余計に崩れる。
そう判断したのかもしれない。
麗奈は静かに席へ戻る。椅子を引き、姿勢を正して座った。
その間も、オブスキュリテは雨を見ていた。
結衣は、膝の上で握った手をゆっくりとほどく。指先には、まだ力が残っていた。
謝罪は届かなかった。受け取ってもらえなかった。
それでも、言った。
ようやく、言えた。
その痛みだけが、胸の奥に残っていた。
店内の奥から、食器の触れ合う小さな音がした。コーヒーの香りが、少しだけ強くなる。
外では雨が降り続いている。
三人の間には、また新しい沈黙が落ちていた。
「お待たせしましたー」
明るい声とともに、茜が戻ってきた。
トレイの上には、結衣のブレンドコーヒーとチーズケーキ。
麗奈のミルクティー。
そして、オブスキュリテが頼んだコーヒーが載っていた。
「こちら、ブレンドとチーズケーキでーす」
「ありがとうございます」
結衣の前に、白いカップと小さな皿が置かれる。
濃い茶色のコーヒー。その横に、昔と変わらないチーズケーキ。見た目は地味で、飾り気も少ない。
けれど、フォークを入れればしっとりとしていて、口に入れると甘さと酸味がゆっくり広がる。
候補生時代、結衣が何度も頼んだものだった。
「こちら、ミルクティーですね」
「どうも」
麗奈の前には、淡い琥珀色のミルクティーが置かれた。湯気の向こうで、麗奈は小さく頭を下げる。
任務中だという意識があるのか、カップにすぐ手を伸ばすことはしなかった。
そして、最後に。
「それで、こちらがコーヒーです」
オブスキュリテの前へ、カップが置かれた。
湯気の立つ黒いコーヒー。小さな白いカップ。そして、皿の端には角砂糖が三つ添えられていた。
結衣は、それを見て瞬きをした。
「あれ」
思わず声が漏れる。
「いの――」
名前を呼びかけて、慌てて飲み込む。喉の奥で言葉が引っかかる。
さっき謝罪を拒まれたばかりなのに、またその名を呼びかけてしまった。
結衣は、ほんの少し唇を噛む。
「オブスキュリテ、角砂糖の数、言ったっけ」
昔、祈はコーヒーに角砂糖を三つ入れていた。
苦いのは飲めないくせに、大人ぶってコーヒーを頼みたがる。
だからいつも角砂糖を三つ入れて、ようやく飲める味にしていた。
結衣が笑うと、祈はむっとしていた。
苦いものを頼む意味あるの、と聞けば、これはこういう飲み方なの、と返していた。
本当は少し顔をしかめながら飲んでいたことも、結衣は覚えている。
けれど、さっきオブスキュリテがそんな指定をした記憶はない。
少なくとも、結衣には聞こえなかった。
麗奈も眉をひそめる。
茜は、あははー、と明るく笑った。
「お客さん、なんか難しい顔してたので。甘いもの欲しいかなーって思って」
あまりにも軽い答えだった。
「余計なお世話でした?」
結衣は少し戸惑う。
偶然。
そう言われれば、それまでだ。
難しい顔をしていた客に角砂糖を多めにつける。気の利く店員なら、ない話ではない。
けれど、三つ。その数が、結衣の胸に引っかかった。
麗奈も同じように違和感を覚えたのか、茜をじっと見ている。
だが、茜は少しも動じない。
にこにこと笑いながら、トレイを胸元に抱えている。
オブスキュリテは、カップの横に置かれた角砂糖を見つめていた。
長い沈黙ではない。ほんの一秒か二秒。
けれど、結衣にはそれが妙に長く感じられた。
やがて、オブスキュリテは静かに答えた。
「いいえ」
一拍置く。
「感謝するわ」
「よかったです」
茜はにこっと笑った。
「そんなあなたに、これをプレゼント」
そう言って、彼女はエプロンのポケットから小さな折り紙を取り出した。
赤い紙で作られた、小さな鳥のような形。鶴というには少し崩れていて、花のようにも見える。手作り感のある、不思議な折り紙だった。
茜はそれを、オブスキュリテの前に置いた。
「これは?」
結衣が尋ねる。
茜は胸を張った。
「このお店、いい雰囲気なのにお客さん少ないじゃないですか」
「それはまあ……」
結衣は反射的に曖昧な返事をする。
確かに、客はいない。それは否定できない。
「だから、看板娘の私と素敵なプレゼントがあれば、お客さん増えるんじゃないかなーって思って」
麗奈が、微妙な顔をした。
「自分で看板娘って言うんですね」
「言いますよー。言った方がなれそうなので」
茜は悪びれない。
その明るさは、この落ち着いた店内では少し浮いていた。
けれど、不思議と嫌な感じではなかった。
むしろ、空気の重さを勝手に踏み荒らしてくるような、妙な力がある。
麗奈は少し困惑しているようだった。
結衣も、どう反応すべきか分からず苦笑する。
オブスキュリテは、折り紙を手に取った。
指先で軽くひっくり返す。裏側を見る。ほんの一瞬だけ、彼女の目が細くなった。
何事もなかったように、皿の横へ置く。
「ありがとう。もらっておくわ」
「どういたしまして」
茜は満足そうに笑った。
「それでは、ごゆっくりどうぞー」
そう言って、店の奥へ戻っていく。明るい足音が、木の床の上を遠ざかった。
麗奈はその背中を見送りながら、ぽつりと言った。
「なんていうか、本当に店とはミスマッチな人ですね」
「そうだね……」
結衣も苦笑する。
「いえ、きれいな人ですけど」
「うん。きれいな人ではあるね」
麗奈は真面目に頷いた。
「ただ、雰囲気が……」
「明るいよね」
「かなり」
麗奈の言い方があまりに真剣で、結衣は少しだけ笑ってしまった。
オブスキュリテは何も言わなかった。
ただ、角砂糖を一つずつコーヒーへ落としていく。
一つ。
白い砂糖が黒い液面に沈む。
二つ。
小さな波紋が広がる。
三つ。
結衣は、その仕草を黙って見ていた。
昔と同じだった。
コーヒーを頼んだくせに、角砂糖を三つ入れる。大人ぶっているのに、甘くしないと飲めない。
小さなスプーンでゆっくりとかき混ぜる手つきまで、記憶の中の祈と同じだった。
カップの中で、黒い液体が渦を巻く。白い砂糖が溶けていく。
その横顔を見ていると、結衣の胸が締めつけられた。
オブスキュリテではなく。
ほんの一瞬だけ、赤羽 祈がそこにいるように見えた。
オブスキュリテはカップを持ち上げ、ひと口飲む。
わずかに目を伏せる。苦みと甘さを確かめるような間。
それから、静かにカップを置いた。
「お手洗いに行ってくるわ」
そう言って、席を立つ。
麗奈がすぐに顔を上げた。
「どこへ行くつもりですか」
「聞いていなかったの?」
オブスキュリテは呆れたように言う。
「お手洗いよ」
「……本当に?」
「ここで嘘をつく意味がある?」
「あなたの場合、あります」
麗奈は真顔で返した。
オブスキュリテは肩をすくめる。
「まさか、そこまでついてこないわよね」
トイレは店の奥にある。結衣も場所は覚えていた。昔から変わっていないなら、奥の短い通路を抜けた先。
窓も小さく、人が出入りできるような造りではない。そこから逃げ出すということは、まずないだろう。
魔力封じの腕輪もある。位置情報も生きている。制裁用の腕輪も稼働している。
結衣はそう判断した。
「うん。いってらっしゃい」
「結衣先輩!」
麗奈が信じられないという顔を向ける。
「こいつを一人にするんですか」
「きゃんきゃんうるさいわね」
オブスキュリテは肩越しに言った。
「お手洗いくらい、一人にさせて頂戴」
「あなたの場合は信用の問題です」
「トイレまで監視されるなんて、ずいぶん手厚い待遇ね」
「二人とも」
結衣が止めに入る。
「さすがにプライバシーは尊重しないと」
麗奈は不満そうに唇を噛んだ。
正論は結衣の方にある。
けれど、監視役としての麗奈の不安も分かる。
オブスキュリテも、その不安を理解した上でわざと煽っている。
だから厄介だった。
「……遅かったら、局に連絡しますからね」
「なんて報告するの?」
オブスキュリテは意地悪く笑った。
「トイレが長いんです、って?」
「オブスキュリテ」
結衣が少し強めに言う。
「いちいち煽らないの」
「ごめんなさいね」
オブスキュリテは、少しも悪びれずに言った。
「反応がかわいいものだから」
麗奈の顔が赤くなる。
「かわっ……!」
反論の言葉を探しているうちに、オブスキュリテはそれ以上構わず、店の奥へ歩いていった。
黒い拘束衣の裾が揺れる。手首の腕輪が、小さく音を立てる。
その背中が奥の通路へ消えるまで、麗奈は鋭い視線で見送っていた。
完全に見えなくなってから、低く言う。
「やっぱり、あの女を外に出したのは間違いだと思います」
結衣はコーヒーカップに視線を落とした。
湯気がゆっくりと揺れている。
「でも、オブスキュリテのおかげで戦闘は格段に楽になったよ」
静かに言う。
「そう思わない?」
麗奈は何か言おうとした。
だが、言葉が出なかった。
先ほどの戦闘を思い出したのだろう。
三つのゲート。同時に現れた異形兵。
本来なら三人で対応するには危険な状況。
それを、オブスキュリテの赫塵は一方的に封じ込めた。
麗奈が斬った異形の多くは、すでに動きを止められていた。
自分が安全に剣を振るえたのは、オブスキュリテが敵を痺れさせていたからだ。
その事実を、麗奈は否定できない。
認めたくない。信用したくない。許したくもない。
それでも、有用性だけは否定できない。
麗奈は、悔しそうに目を伏せた。
「……だからこそ、危険なんです」
小さく、そう呟く。
結衣は何も言い返さなかった。その通りだと思ったからだ。
味方として使える。
だからこそ、もし裏切られた時の被害は大きい。
力があるから頼れる。力があるから恐ろしい。
その両方を、さっきの戦闘で見せつけられた。
結衣は、オブスキュリテが消えた奥の通路へ目を向けた。
不安はある。怖さもある。
それでも、信じたいと思ってしまう。
祈を。
オブスキュリテを。
その二つの名前の間で、結衣の胸は静かに揺れていた。




