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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
2章

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30/48

墓標

 ここから1万文字越えの話が続きます。

 読むのも大変だと思いますが、お時間あるときにでも読んでくださると幸いです。





 三人を乗せたバンは、シティの外縁部へ向かっていた。

 運転席には、魔法少女局の職員。助手席にも、警備担当の局員が座っている。

 どちらも前を向いたまま、余計なことは言わない。

 バックミラー越しに時折こちらを確認する程度で、会話に加わる気配はなかった。


 後部座席には、三人。

 中央に、オブスキュリテ。その右に白瀬 結衣。左に四条 麗奈。

 逃走防止のための配置だった。右にも左にも監視役。前には局員。


 車両そのものにも追跡術式と封印術式が組み込まれている。

 仮にドアを蹴破って飛び出したとしても、すぐに管制へ通知が飛ぶ。

 オブスキュリテの両手首には、二つの腕輪がはめられていた。

 一つは、魔力の流れを制限し、魔法の発動を阻害する拘束具。

 もう一つは、命令違反時に電撃を流す制裁用の腕輪。


 逃亡。命令違反。

 中央結界制御装置への接近。

 監視役からの停止命令を無視した場合。

 その他、緊急時に管制側が必要と判断した場合。


 そのいずれかに該当すれば、腕輪から電撃が流れる。

 魔法少女の身体能力を持つ者でも、膝をつく程度の出力。

 場合によっては意識を奪うこともできる。


 つまり今のオブスキュリテは、外に出ているだけの囚人だった。

 魔法少女局に管理された、限定協力戦力。

 味方ではない。少なくとも、制度上は。


 車内は、ひどく静かだった。誰も何も言わない。

 エンジン音。タイヤが道路を走る音。

 時折、通信機から入る局員同士の短いやり取り。

 それだけが、狭い車内に響いている。


 結衣は、何度か口を開きかけた。

 けれど、そのたびに言葉を飲み込んだ。何を言えばいいのか、分からなかった。

 寒くない、と聞くのは違う。

 体調は大丈夫、と聞くのも違う。

 久しぶりの外だね、と言えば、あまりにも無神経だ。

 これから向かう場所を思えば、どんな言葉も軽くなる。


 麗奈は、相変わらず目を閉じていた。背筋を伸ばし、膝の上で両手を揃えたまま、微動だにしない。

 眠っているわけではない。その横顔は硬く、神経はむしろ張り詰めているように見えた。

 いつでも動けるように。いつでもオブスキュリテを止められるように。

 そういう緊張が、彼女の全身から伝わってくる。


 結衣は、麗奈の横顔を見て胸が重くなった。

 麗奈は、ここに来たくなかったのかもしれない。

 それでも来た。監視役として。姉の死に関わる少女を見張るために。

 怒りを乱暴にぶつけるのではなく、礼儀と任務の形に押し込めて、ここに座っている。


 一方のオブスキュリテも、いつものような余裕だけではなかった。

 窓の外を見ているわけでもない。目を伏せているわけでもない。

 ただ、正面を見ている。

 背筋は伸びている。顎も下がっていない。

 囚人として連れ出された姿でありながら、決して惨めには見せない。


 けれど、その指先はわずかに強張っていた。

 膝の上に置かれた手。腕輪のついた手首。

 その指が、ほんのわずかに丸まっている。

 手首の腕輪が、小さく音を立てるたびに、彼女のまぶたがほんの少しだけ動く。


 結衣は、その様子に気づいていた。

 オブスキュリテは緊張している。そう思った。

 それでも、これから向かう場所を考えれば当然だった。


 結衣は窓の外へ視線を向けた。

 シティ中心部から離れるにつれて、景色は少しずつ静かになっていく。

 高層ビルが減り、住宅街を抜け、古い街路樹の並ぶ道へ入る。人通りも少なくなった。


 コンビニの看板。小さな公園。

 閉じた商店のシャッター。

 結界修復工事の案内板。

 それらが窓の外を流れていく。


 空は灰色だった。厚い雲が低く垂れ込め、昼間だというのに薄暗い。

 明るいはずの街の輪郭が、どこか沈んで見える。

 ふと、窓ガラスに小さな点がついた。

 一つ。また一つ。

 透明な滴が、ガラスの表面をゆっくりと流れていく。

 すぐに、細かな雨粒がいくつも窓を叩き始めた。


「降ってきた」


 結衣は、ぽつりと呟いた。独り言のつもりだった。

 この沈黙に耐えきれず、思わず漏れた言葉だった。

 だから、返事が来るとは思っていなかった。


「そうね」


 オブスキュリテが、静かに答えた。

 結衣は少し驚いて、隣を見る。

 オブスキュリテは正面を見たままだった。表情は変わらない。

 ただ、窓に当たる雨音だけを聞いているようだった。


 その横顔は冷たい。けれど、完全に拒絶しているようには見えなかった。

 結衣は一瞬迷った。何かを続けていいのか。踏み込みすぎではないのか。

 それでも、ほんの少しだけ会話がつながったことが嬉しくて、言葉を続けてしまった。


「傘、持ってくればよかったね」


「必要ないわ」


 オブスキュリテは短く言った。


「すぐ終わるもの」


 それは、ただの返答だった。

 雨に濡れるほど長く外にいるつもりはない。そういう意味でしかないはずだった。

 けれど、車内の空気が少しだけ冷えた。


 結衣は言葉を失う。麗奈の閉じていた目が、わずかに開いた。

 助手席の局員も、ほんの少しだけ肩を強張らせた。


 すぐ終わる。


 その言葉が、あまりにも軽かったからだ。

 これから向かう場所に対して。これから行うことに対して。

 あまりにも乾いて聞こえた。


 だが、結衣には分かっていた。少なくとも、そう思いたかった。

 オブスキュリテは、軽く済ませたいのではない。

 重く受け止めたくないのだ。重く受け止めれば、耐えられなくなるから。

 だから、短く切り捨てる。


 すぐ終わる。


 そう言って、自分の心をそれ以上近づけないようにしている。


 結衣は、窓の外へ視線を戻した。雨粒が、少しずつ増えていく。

 車は古い街路樹の道を抜け、さらに外縁部へ進んだ。

 やがて、住宅街が途切れる。

 低い石塀が見えた。

 その向こうに、整然と並ぶ墓標。

 雨に濡れた木々。静かな坂道。

 目的地が近づいている。


 結衣の胸が、苦しくなる。

 隣のオブスキュリテは、何も言わない。

 麗奈が、目を閉じたまま口を開いた。


「それだけですか」


 声は静かだった。しかし、硬い。

 雨音とエンジン音の混じる車内で、その声だけがやけにはっきり響いた。


「それだけ言うことがないと? 恩人に?」


 結衣は、はっと麗奈を見る。

 麗奈はまだ目を閉じている。

 だが、その横顔は先ほどよりも固くなっていた。

 膝の上に揃えられた手にも、かすかに力が入っている。


 結衣は息を呑んだ。

 今の言葉が、ただの注意ではないことは分かった。


 麗奈はずっと黙っていた。

 車に乗ってから。雨が降り出してから。

 オブスキュリテが「すぐ終わる」と言ってから。


 ずっと。


 けれど、黙っていただけで、何も感じていなかったわけではない。

 むしろ、感じていたからこそ、言葉を押し殺していたのだ。

 オブスキュリテの目が、わずかに細くなった。


「恩人かどうかは、あなたが決めることじゃない」


 冷たい声だった。


「私自身が決めることよ」


 麗奈のまぶたが開いた。その瞳に、鋭い怒りが宿る。

 青白い車内灯を受けて、その視線は刃のように見えた。


「あんた……何様のつもりよ」


 丁寧だった言葉遣いが、初めて崩れた。

 結衣の肩が小さく跳ねる。


「まあまあ、落ち着いて、麗奈ちゃん」


 結衣が慌てて間に入る。声はできるだけ柔らかくした。

 けれど、自分でも分かるほど焦りが滲んでいた。


「今はまだ移動中だし、ここで揉めても――」


 だが、麗奈は結衣を見なかった。視線は、オブスキュリテに向けられたままだ。

 まるで、少しでも目を逸らせば、その隙に目の前の相手が何かを壊すとでも思っているかのように。


「その態度は、上に報告させてもらいます」


「あら」


 オブスキュリテは、そこで初めて麗奈の方を向いた。

 真正面から。ゆっくりと。口元に、薄い笑みを浮かべる。

 結衣はその笑みを見て、嫌な予感がした。


 祈がこういう顔をする時は、だいたい相手を遠ざけたい時だ。

 痛いところを突かれた時ほど、わざと冷たくなる。

 わざと嫌われる。わざと、近づく余地を潰す。


「媚びた方がよかったかしら」


 その声音は、明らかな挑発だった。


「四条様」


 車内の空気が凍った。麗奈の目が見開かれる。

 助手席の局員が、わずかに振り返りかけて、すぐに前を向き直る。

 運転席の職員も、ハンドルを握る手に力を込めたのが分かった。

 結衣の背筋にも、冷たいものが走る。


「いの――」


 言いかけて、結衣はすぐに飲み込んだ。


 違う。


 今、その名前を出しても余計にこじれる。


「オブスキュリテも、いちいち煽らないで」


「事実を確認しただけよ」


「そういう言い方が煽ってるって言ってるの」


 結衣の声には、呆れと焦りが混じっていた。

 けれど、オブスキュリテは悪びれない。薄い笑みを崩さないまま、麗奈を見ている。

 その目は冷たい。


 けれど、結衣には分かった。完全に平静なわけではない。


 四条 瑠香。


 その名前は、オブスキュリテの奥に今も刺さっている。

 だからこそ、麗奈の言葉が届いた。届いてしまった。


 その痛みを隠すために、彼女は刃を返している。

 麗奈は、低い声で言った。


「あんたなんか、すぐ再収監させてやる」


「それを決めるのはあなたじゃないわ」


 オブスキュリテは淡々と返す。


「残念ながらね」


「今の発言も、全部報告します」


「どうぞ」


「……本当に、反省してないんですね」


 その言葉に、オブスキュリテの笑みがほんの少しだけ薄くなった。

 ほんの一瞬。

 雨粒が窓を叩く音が大きく聞こえた。


「反省」


 オブスキュリテは、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。


「便利な言葉ね」


「何が」


「頭を下げれば満足? 謝れば納得する? 泣けば許してくれるの?」


 声は冷たいままだった。

 だが、どこか鋭さが増していた。


「それとも、あなたの前で私が死ねばいいのかしら」


「っ……!」


「オブスキュリテ!」


 結衣の声が、思わず強くなる。

 麗奈の顔から血の気が引いた。怒りの色は消えていない。

 けれど、その奥に一瞬、別の感情が揺れた。

 傷ついたような。それでも引けないような。

 そんな表情だった。

 オブスキュリテは視線を逸らす。


「冗談よ」


「冗談で済む言い方じゃない」


 結衣は低く言った。自分でも驚くほど、声が硬かった。

 オブスキュリテは、窓の方へ目を向ける。

 雨に濡れた景色が、ガラス越しに滲んでいた。


「なら、どう言えばいいのかしら」


 ぽつりと、彼女は言った。

 それは麗奈に向けた言葉なのか。

 結衣に向けた言葉なのか。

 それとも、自分自身に向けたものなのか。

 分からなかった。


 麗奈は唇を噛む。そして、すぐに表情を整えた。


「私は、あなたを監視するためにここにいます」


 声は震えていなかった。

 だが、先ほどよりも低い。


「あなたが少しでも危険な行動を取れば、私は止めます。報告もします。必要なら、攻撃もします」


「立派ね」


「茶化さないで」


 麗奈の瞳が、まっすぐオブスキュリテを射抜く。


「私は、あなたを許すためにここにいるわけじゃない」


「でしょうね」


「あそこで、ふざけた態度を取るなら許さない」


 その言葉に、車内がまた静かになった。

 オブスキュリテの表情から、笑みが消える。ほんのわずかに。けれど確かに。

 結衣は、それを見逃さなかった。麗奈も、おそらく気づいた。

 だが、何も言わない。


 二人の視線がぶつかった。

 片方は、姉を失った少女。

 もう片方は、その姉に命を救われた少女。そして今は、その死を背負いながら、敵にも味方にもなりきれない囚人。

 結衣は、二人の間に挟まれながら、深く息を吐きたくなった。


 こんなので、いざという時に連携できるのだろうか。

 不安と、呆れと、どうしようもない胃の痛さが同時に押し寄せる。

 この三人で行動する。そう決まった時点で、問題が起きることは分かっていた。

 分かっていたが、初日からこれでは先が思いやられる。

 結衣は小さく息を吸った。


「二人とも」


 できるだけ落ち着いた声を出す。


「目的地はもうすぐだから。今は、それ以上はやめよう」


 麗奈は何も言わなかった。

 ただ、視線を前へ戻す。膝の上の手は、まだ強く握られている。

 オブスキュリテも答えなかった。窓の外を見ている。


 雨粒が、ガラスを伝って流れていく。

 沈黙が戻った。さっきよりも重い沈黙だった。

 車は雨の中を進む。三人の間にある、癒えていない傷を乗せたまま。




 やがて、バンは速度を落とした。

 窓の外の景色が変わる。住宅街の明かりが遠ざかり、古い石壁が見え始める。

 雨に濡れた木々。整備された参道。

 低く垂れ込めた灰色の空。

 そして、静かな墓地の入口。


 車は、門の前で止まった。

 ワイパーが一度、フロントガラスを拭う。

 雨はまだ弱い。けれど、細かな滴は確かに地面を濡らし、石畳を暗く染めていた。

 湿った土と、濡れた葉の匂いが、わずかに車内へ入り込む。

 警備担当の局員が振り返った。


「到着しました」


 その声にも、どこか硬さがあった。

 ここがただの目的地ではないことを、彼も理解しているのだろう。

 オブスキュリテは、何も言わなかった。ただ、ドアへ手を伸ばす。

 金属製の腕輪が、かすかに触れ合って音を立てた。


 その音に、麗奈の視線が一瞬動く。

 結衣は、オブスキュリテがドアを開ける前に声をかけた。


「私たちは、ここで待ってるよ」


 麗奈が即座に振り向いた。


「こいつを一人にする気ですか」


 抑えた声だった。だが、怒りと警戒は隠れていない。

 結衣は麗奈を見る。


「魔法は使えない。腕輪のGPSも生きてる。逃げてもすぐ追いつけるよ」


「ですが」


「麗奈ちゃん」


 結衣は、少しだけ声を落とした。

 強く命じるのではなく、頼むように。


「ここは、一人で行かせてあげよう」


 麗奈は、結衣を見た。

 その瞳には納得の色はない。むしろ、不満と怒りが濃い。

 当然だ。オブスキュリテを一人で行かせる。

 監視役として、簡単に受け入れられるはずがない。


 けれど。


 ここがどこなのかは、麗奈にも分かっている。

 オブスキュリテが誰に会いに来たのかも、分かっている。

 そして、この場に自分がついていけば、きっと言葉を飲み込めなくなることも。


 麗奈は唇を噛んだ。膝の上で握っていた手に、さらに力がこもる。

 しばらくして、ようやく視線を逸らした。


「……何かあれば、すぐに介入します」


「うん。それでいい」


 結衣が頷く。

 オブスキュリテは、二人を一瞥した。何かを言い返すかと思った。

 いつものように、皮肉を一つ置いていくかと思った。

 だが、彼女はそうしなかった。

 ただ、低く言う。


「助かるわ」


 その声に皮肉はなかった。少なくとも、結衣にはそう聞こえた。

 麗奈の肩が、わずかに動いた。けれど、何も言わない。

 オブスキュリテはバンを降りた。

 細い雨が、黒い髪に落ちる。雨粒が毛先に絡み、ゆっくりと滴になる。

 拘束腕輪が、雨の光を受けて鈍く光った。

 黒い拘束衣の肩にも、小さな水滴がいくつもついていく。


 彼女は傘も差さなかった。誰も傘を差し出さなかった。

 オブスキュリテ自身も、それを求めなかった。

 ただ、墓地の中へ歩いていく。石畳を進む。

 左右には、静かに並ぶ墓石。


 雨に濡れた花。誰かが供えたままの線香の残り香。

 墓地特有の、冷たく湿った空気。

 遠くで、木々の葉が雨に揺れていた。


 背後に、バンの気配がある。

 結衣と麗奈の視線も感じる。

 監視されている。腕輪は生きている。

 GPSも、管制への接続も、すべて正常に機能しているはずだ。

 逃げようと思えば、数歩で電撃が走るだろう。

 それでも今だけは、背後の気配が少し遠く感じられた。


 オブスキュリテの足取りは、いつもより遅かった。

 逃げようとしているわけではない。

 迷っているわけでもない。

 道は知っている。場所も聞いている。目的も明確だ。

 それでも、一歩一歩が重かった。


 黒い靴が濡れた石畳を踏む。小さな水音がする。その音が、妙に耳についた。

 かつて、ステージの上で聞いた歓声とは違う。

 戦場で聞いた異形の咆哮とも違う。

 ただ静かな雨の音。

 その中を、オブスキュリテは一人で歩いていた。


 やがて、彼女は一つの墓石の前で足を止めた。

 石に刻まれた姓。


 四条。


 その下にある名前。


 四条 瑠香。


 雨に濡れた文字は、黒く沈んで見えた。

 指でなぞれば冷たいだろう。けれど、オブスキュリテは手を伸ばさなかった。

 ただ、その名前を見つめた。


 四条 瑠香。


 かつて、魔法少女たちの先頭に立っていた人。

 ステージの光の中で、誰よりも強く輝いていた人。

 候補生だった祈に、何度も声をかけてくれた人。

 赤羽 祈の魔法を、危険だと言い切らなかった人。


 扱いが難しいだけで、あなたの力は誰かを守れる力よ。


 そう言ってくれた人。


 そして、二年前。赤羽 祈を庇って死んだ人。

 オブスキュリテは、その墓の前に立ち尽くした。

 雨が降っている。髪も、肩も、拘束衣も、少しずつ濡れていく。

 冷たさが布越しに肌へ染み込んでくる。

 それでも、彼女は動かなかった。

 ただ、墓石に刻まれた名前を見つめていた。


 四条 瑠香。


 その名前は、二年前からずっと、彼女の胸の奥に刺さったままだった。





 この外出は、オブスキュリテが出した条件の一つだった。

 魔法少女局への協力。その見返りとして、減刑の可能性。

 そして、いくつかの制限付き外出。

 その最初に彼女が求めたのが、四条 瑠香の墓参りだった。

 当然、反対意見はあった。


 何か企んでいるのではないか。

 逃走の下見ではないか。

 墓地に協力者が潜んでいる可能性はないのか。

 そもそも、オブスキュリテに少しでも自由を与えるべきではない。

 彼女はつい三ヶ月前、シティを壊そうとした敵だ。

 そんな者の希望を聞き入れる必要があるのか。

 会議では、そうした声がいくつも上がった。


 だが、最終的には許可された。

 腕輪による魔法封じ。電撃拘束具。GPS監視。

 結衣と麗奈、二名の監視役。

 局員による車両待機。

 そうした厳重な条件をつけた上で。


 そして、もう一つ。彼女の心情も考慮された。

 四条 瑠香は、二年前、赤羽 祈を庇って死亡した魔法少女だった。

 その墓前に立ちたいという願いを、完全に退けることはできなかった。

 たとえ、それがオブスキュリテの願いだったとしても。



 オブスキュリテは、墓石の前に立っていた。

 雨は細く、静かに降り続いている。墓地の石畳は濡れ、薄い灰色の空をぼんやりと映していた。

 周囲には人の気配がない。

 遠く、墓地の入口に停まったバンの中で、結衣と麗奈たちがこちらを見ているのは分かっている。


 結衣の視線。麗奈の視線。局員たちの警戒。

 それらは、背中に薄く刺さっていた。

 だが、この場所には誰も入ってこない。

 少なくとも、今だけは。


 オブスキュリテは、手にしていた花を墓前に添えた。

 白い花だった。派手ではない。豪華でもない。

 けれど、雨に濡れてもなお、静かに咲いている花。

 それを選んだ理由を、オブスキュリテ自身もうまく説明できなかった。


 四条 瑠香に似合う花など、今さら分からない。

 ステージの上の彼女なら、もっと鮮やかな花が似合ったかもしれない。

 観客の歓声と照明の中で、誰よりも眩しく笑っていた人。

 なら、赤や金色の花の方がよかったのかもしれない。

 けれど、墓前に持っていく花として選べたのは、これだけだった。

 白く、静かで、余計な主張をしない花。


 オブスキュリテは、それをそっと供えた。


 次に、線香を取り出す。

 魔法は使えない。指先に火花を灯すこともできない。

 だから、局員から渡された小さなライターで火をつけた。

 かちり、と音がする。火がつく。

 だが、風と雨にすぐ邪魔された。

 小さな炎は頼りなく揺れ、線香の先へ届く前に消えかける。


 オブスキュリテは少しだけ眉を寄せた。

 もう一度。かちり。また、火が揺れる。

 雨粒が手の甲に落ちる。

 ライターを持つ指先が冷える。


 拘束腕輪が濡れて、鈍く光った。

 こんなことすら、うまくできない。そう思った瞬間、胸の奥に苛立ちが走った。

 魔術があれば、一瞬で済んだ。

 けれど今の自分には、それすら許されていない。


 オブスキュリテは線香を手で覆うようにして、もう一度火をつけた。

 今度は、かろうじて先端に火が移った。

 赤い点が小さく灯る。やがて、細い煙が上がった。雨の中へ、頼りなく溶けていく。

 彼女は線香を供える。


 それから、墓石の前で手を合わせた。そして、深く頭を下げる。

 長い沈黙があった。

 雨音だけが、静かに響いている。


 手首の腕輪の重さ。

 濡れた髪が頬に張りつく感触。

 冷たい雨が首筋を伝う感覚。

 どれも、やけにはっきりしていた。


 どれだけ頭を下げていればいいのか分からなかった。

 謝罪に必要な時間など、誰も教えてくれない。

 感謝に必要な深さなど、どこにも決まっていない。

 恨みを抱えたまま手を合わせることが、そもそも許されるのかも分からない。

 それでも、オブスキュリテは頭を下げ続けた。


 やがて、ゆっくりと頭を上げる。

 墓石に刻まれた名前を見つめた。


 四条 瑠香。


 その文字は、雨に濡れて黒く沈んでいた。

 オブスキュリテは唇を開く。最初の言葉が、なかなか出てこなかった。何を言えばいい。


 ごめんなさい。


 ありがとうございます。


 どうして。


 どれも正しくて、どれも間違っている気がした。

 結局、口から出たのは、昔の呼び方だった。


「お久しぶりです、瑠香先輩」


 声は、思っていたよりも小さかった。

 雨音に紛れてしまいそうなほど、細い声。


「来るの、遅くなっちゃってごめんなさい」


 その口調は、いつものオブスキュリテのものではなかった。

 冷たくもない。皮肉げでもない。誰かを突き放すための声でもない。

 今だけは。復讐者オブスキュリテではなく。侵略組織の幹部でもなく。魔法少女局に管理された囚人でもなく。

 赤羽 祈として。かつて憧れた先輩の墓前に立つ、ただの後輩として。

 彼女は言葉を続けた。


「知ってるかもしれませんが、あのあと私も大変だったんです」


 笑うように言った。

 けれど、声は少しも明るくなかった。


「みんなから叩かれて。学校にもいられなくなって。家にもいられなくなって。それで、侵略組織に入って」


 ひどい話ですよね。そう言いたげに、祈は肩をすくめる。

 その動きに合わせて、拘束腕輪が小さく音を立てた。乾いた金属音。

 雨の中で、それだけが妙に浮いて聞こえた。


「先輩に助けられた命で、私は先輩が守っていたものを壊そうとしました」


 言葉にすると、ひどく滑稽だった。ひどく、惨めだった。


「本当に、何やってるんでしょうね」


 祈は、少しだけ目を伏せる。

 まぶたの裏に、あの日の光景がちらついた。


 ステージ。照明。悲鳴。異形の爪。


 そして、自分の前に立った瑠香の背中。

 何度も思い出した。思い出したくなくても、思い出した。


 眠れない夜に。怒鳴り声を浴びた時に。石を投げられた時に。

 結衣の名前を聞いた時に。赫塵を放つたびに。

 あの背中は、何度でも祈の前に現れた。


「先輩は、私の命の恩人です」


 その言葉だけは、はっきりしていた。


「感謝しています。それは本心です」


 雨が髪に落ちる。頬を伝う水滴が、涙なのか雨なのかは分からない。

 分からないままでいいと思った。

 分かってしまえば、何かが崩れそうだった。


「でも」


 祈は、墓石を見つめたまま言った。


「恨んでもいます」


 煙が、かすかに揺れる。

 白い線が、雨に滲んで消えていく。


「先輩の行動は、私の命を救った」


 あの日。ステージの上。異形の爪が迫った瞬間。

 瑠香は、迷わず祈の前に立った。ほんの一瞬の迷いもなかった。振り返ることさえしなかった。

 守ると決めた者を守る。

 それが当たり前だと言うように。


 私の後輩に、手出しはさせない。


 そう言って、命を落とした。


「でも、先輩の行動は、私の人生を壊した」


 祈の声が、わずかに低くなる。


「私だけじゃない。私の家族も。私の居場所も。私の名前も。全部、壊れた」


 生き残ったからこそ、責められた。

 守られたからこそ、罪を背負わされた。


 死んだのが自分なら、きっと話は簡単だった。

 悲劇の犠牲者。可哀想な新人。

 瑠香先輩は生き残り、観客は彼女を称え、魔法少女局は何事もなかったように前へ進んだかもしれない。


 けれど、実際に死んだのは瑠香だった。生き残ったのは祈だった。

 瑠香が死んだことで、祈は生きた。

 そして、生きた祈は、世界から石を投げられた。


 お前が死ねばよかった。

 お前が庇われなければよかった。

 お前のせいで瑠香は死んだ。


 その言葉は、何度も何度も祈の中で反響した。

 いつしか、それは他人の声なのか、自分の声なのか分からなくなった。


「ねぇ、先輩」


 祈は、墓石に問いかける。


「なんで、あの時、私を庇ったんですか?」


 答えはない。雨音だけが返ってくる。


「特別、親しかったわけじゃなかったじゃないですか。少し話したことがあるくらいで。訓練で何度か見てもらったくらいで」


 祈は、小さく息を吸う。


「私は、面倒な魔法を持った後輩の一人でしかなかったはずです」


 瑠香は誰にでも優しかった。誰にでも声をかけた。

 落ち込んでいる候補生にも、強がっている魔法少女にも、後方支援の職員にも、分け隔てなく笑った。

 その優しさの一部を、祈ももらっていただけ。


 そう思っていた。特別ではない。

 たまたま、そこにいた後輩。危険な魔法を持て余す、扱いづらい候補生。

 それだけのはずだった。


「なのに、なんで」


 声が、かすかに揺れた。


「なんで、私なんかを庇ったんですか」


 墓石は答えない。四条 瑠香はもういない。

 あの日、祈の代わりに死んだ先輩は、もう何も言ってくれない。


 責めても。感謝しても。恨んでも。

 問いかけても。返事はない。

 生きている人間だけが、答えの出ない問いを抱え続ける。

 死んだ人は、何も答えてくれない。

 それが、ひどくずるいと思った。


「……先輩」


 祈は、濡れた墓石を見つめる。


「私は、生き残ってよかったんですか」


 声はほとんど雨に溶けた。


「先輩が命を使ってまで守る価値が、私にあったんですか」


 答えはない。分かっている。

 そんなことは分かっている。

 それでも、聞かずにはいられなかった。


 祈はゆっくりと息を吐いた。冷たい雨の匂いがした。


「私は、先輩に助けられて、先輩を恨んで、先輩が守った街を壊そうとしました」


 言葉が、一つずつ胸を削っていく。


「最低ですね」


 自分で言って、自分で少し笑った。

 笑いはすぐに消えた。


「でも、それでも」


 祈は手を握りしめる。

 拘束腕輪が、また小さく鳴った。


「感謝しているんです」


 雨の中、白い花が揺れる。


「本当に、感謝しているんです」


 それは恨みと矛盾しない。

 怒りとも、憎しみとも、罪悪感とも矛盾しない。

 全部が同じ場所にあった。


 救ってくれてありがとう。

 どうして救ったんですか。

 あなたのせいで壊れた。

 あなたがいなければ私は死んでいた。

 死んでいた方がよかったかもしれない。

 それでも、助けてくれて嬉しかった。


 そのすべてが、祈の中にあった。

 どれか一つだけなら、どれほど楽だっただろう。


 憎むだけなら、簡単だった。

 感謝するだけなら、美しかった。

 けれど現実は、そんなに綺麗ではない。


 祈は、もう一度深く頭を下げた。雨が、黒い髪から滴り落ちる。


「遅くなって、ごめんなさい」


 小さな声で言う。


「ありがとう、ございます」


 そして、少しだけ間を置いて。


「恨んでいます」


 三つの言葉は、どれも本心だった。

 だからこそ、祈は顔を上げられなかった。

 墓石の前で、ただ雨に打たれながら、しばらく動けなかった。


 祈は、静かに息を吐いた。白い息にはならない。

 けれど、雨に冷えた空気の中で、その吐息はひどく頼りなく感じられた。


「もう、ここには来ないと思います」


 その声は、また冷たくなろうとしていた。

 先ほどまでの、赤羽 祈としての柔らかさを押し殺すように。

 墓前に立つただの後輩ではなく。

 誰かに救われた少女ではなく。

 世界を壊すと決めたオブスキュリテへ戻ろうとするように。


 けれど、完全には戻りきらなかった。

 声の端に、まだ雨に濡れたままの弱さが残っている。


「私は組織の一員で、このシティの敵だから」


 自分に言い聞かせるように。そうでなければ、足元が崩れてしまうかのように。

 祈は墓石を見つめた。濡れた石に刻まれた四条 瑠香の名前。その文字は何も言わない。


 責めもしない。許しもしない。ただ、そこにある。

 だから余計に、祈の胸を締めつけた。


「先輩が命懸けで助けた私が、侵略者です」


 彼女は、薄く笑った。ひどく歪んだ笑みだった。

 笑おうとしているのに、少しも笑えていない。

 誰かを嘲るための笑みではなく、自分自身を切り刻むための笑みだった。


「先輩、どれだけ馬鹿なことしたか、分かっていますか?」


 その言葉は、墓石に向けられているようで。

 同時に、自分自身へ向けられているようにも聞こえた。


 命を救われたくせに、世界を壊そうとした自分。

 庇われたくせに、庇った人の妹を傷つけようとした自分。

 感謝していると言いながら、恨んでいる自分。

 生きているのに、まだ救われていない自分。

 赤羽 祈は死んだと言い張りながら、こうして墓前で先輩と呼んでいる自分。


 何もかもが、矛盾している。

 何もかもが、醜い。

 それでも、そのどれもが自分だった。


 祈は、しばらく黙っていた。

 雨が降っている。

 線香の煙が、雨に薄れていく。白い花びらに、水滴が溜まっている。水滴は重くなり、やがて花弁の端から落ちた。

 小さな雫が、墓石の下の濡れた地面へ吸い込まれていく。

 祈はそれをぼんやりと見ていた。


 何かを言い足せば、もっと崩れてしまいそうだった。

 けれど、何も言わずに去るには、まだ胸の奥に残っているものがあった。

 ふと、彼女は少しだけ口調を変えた。


「あと」


 わざとらしく軽い声だった。

 先ほどまでの湿った沈黙を、無理やり切り離すような声。


「妹さんの教育は、もうちょっとちゃんとした方がいいと思います」


 墓石の前で、祈は肩をすくめる。

 黒い拘束衣の肩から、雨粒がこぼれ落ちた。


「先輩に対する態度じゃないですよ、あれ」


 おどけた言い方だった。失礼な言葉だった。墓前で言うべきことではない。

 けれど、少しだけ声がやわらかかった。


 麗奈の鋭い視線。

 怒りを押し殺した丁寧な言葉。

 姉の名前を背負って立つ、硬い横顔。

 それを思い出す。


 祈は、ほんのわずかに目を伏せた。


「まあ、私が言えたことじゃないですけど」


 自嘲するように呟く。

 自分こそ、先輩に顔向けできるような後輩ではない。

 姉の墓前へ来る資格があるかどうかすら、分からない。


 けれど、麗奈の怒りは正しい。

 あの子は、怒っていい。自分を嫌っていい。許さなくていい。

 その事実だけは、祈にも分かった。


 それから、彼女はもう一度、姿勢を正した。

 手を合わせる。

 今度は、さっきよりも深く頭を下げた。


 拘束衣の袖が雨に濡れる。手首の腕輪が、冷たく光る。

 濡れた髪が頬に落ち、視界の端を黒く遮った。

 それでも、祈は頭を下げ続けた。


 長い沈黙。雨音。線香の煙。濡れた花。

 石に刻まれた名前。

 そのすべての前で、祈はただ頭を下げていた。


 謝罪では足りない。

 感謝でも足りない。

 恨みを捨てることもできない。

 許しを求めることもできない。


 だから、せめて。

 今ある言葉の中で、一番真っ直ぐなものを選ぶしかなかった。

 そして。


「ありがとうございました」


 その言葉だけは、真っ直ぐだった。

 小さくても、震えていても。


 恨みも。怒りも。皮肉も。後悔も。

 全部抱えたまま。

 それでも、確かに感謝だった。


 四条 瑠香がいなければ、赤羽 祈はあの日死んでいた。

 その後の人生がどれほど歪んでも。

 生き残ったことでどれほど苦しんでも。

 この感謝だけは、なかったことにできなかった。


 祈はゆっくりと頭を上げる。墓石をもう一度だけ見る。


 四条 瑠香。


 自分を救い、自分を壊した人。

 命の恩人。恨んでいる人。もう答えてくれない先輩。


 祈は唇を結んだ。

 何かが喉まで上がってきた。

 言葉なのか、涙なのか、自分でも分からない。

 分からないまま、彼女はそれを飲み込んだ。

 そして、何も言わず、踵を返した。


 雨の中、墓地の入口へ向かって歩き出す。

 振り返らない。もう一度見れば、何かが崩れてしまいそうだったから。

 赤羽 祈に戻ってしまいそうだったから。


 オブスキュリテは、背筋を伸ばして歩いた。

 手首の腕輪が、歩調に合わせて小さく鳴る。

 その音が、自分はまだ囚人なのだと告げている。

 自分はまだ敵なのだと告げている。

 それでも、墓前に残した花と線香だけは、祈のものだった。


 線香の細い煙だけが、墓石の前で静かに揺れていた。

 雨に溶けながら。それでも、完全には消えずに。


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