一方、組織では
どこかの空間。そこは、通常の意味での部屋とは呼びがたい場所だった。
壁も、床も、天井もある。
だが、その輪郭はひどく曖昧だった。
黒い布を何枚も重ねたような壁面には、赤黒い魔力回路が血管のように走っている。
回路は一定の間隔で脈打ち、部屋全体に鈍い光を投げかけていた。
光は暗い。けれど、完全な闇ではない。まるで生き物の体内にいるような、不快な明滅。
天井からは、液体とも影ともつかないものがゆっくりと垂れ落ちていた。
ぽたり。ぽたり。
落ちたそれは床に染み込み、黒い水たまりのような跡を作る。
その染みはじわじわと広がっては、いつの間にか消えていく。
床には水たまりのような暗い染みがいくつもあり、そこに足を踏み入れれば、底のない闇へ沈み込んでしまいそうだった。
空気は重い。湿っている。吐き出した息すら、布の中へ絡め取られていくようだった。
侵略組織の拠点。その一室。
ストレガは、机に向かって書類に目を通していた。
机、と言っても、人間の世界で使われる木や金属の机ではない。
黒い膜が何層にも重なり、固まったような台。その表面には、赤黒い文字が浮かんでは消えている。
書類もまた、人間の組織で使われるような紙ではなかった。薄い皮膜のようなもの。
生き物の皮を薄く伸ばしたような質感のそれに、文字と図形が浮かび上がっている。
赤黒い文字。
魔力反応を示す記号。
座標。
監視網の配置。
そこには、魔法少女局の警備体制、結界修復の進捗、収監施設の外郭情報、そしてオブスキュリテに関する断片的な報告が並んでいた。
ストレガは、布の奥で目を細める。
「ふむ」
湿った声が、部屋に落ちる。液体状の布が、彼の肩からゆっくりと垂れた。
人型ではある。
だが、人間とは程遠い。
布のようなものをまとっているのではなく、布そのものが肉体の一部であるかのようだった。
表情は読みにくい。
だが、声にはどこか楽しげな響きがある。
「同志オブスキュリテの救出は、なかなか難しそうですねぇ」
彼は、楽しげとも残念そうともつかない声で呟いた。
魔法少女局の収監施設は堅牢だ。
外郭結界。対異形用の遮断術式。
内部転移を阻害する空間固定。
囚人ごとの魔力拘束。
そして、監視。
通常の魔術犯罪者を閉じ込めるための施設であれば、組織の技術で突破することは不可能ではない。
だが、オブスキュリテに関しては、扱いが違う。
通常より厳しい監視。専用の魔力封じ。
移送時の多重護衛。
彼女の魔法の性質を前提にした、赫塵対策の拘束具。
魔法少女局も、さすがに二度目の失態は避けようと必死らしい。
力ずくで破ることは不可能ではない。
だが、費用対効果が悪い。
救出のために戦力を投入しすぎれば、こちらの動きが大きく露見する。
魔法少女局は警戒をさらに強める。
拠点の一部も捨てなければならなくなるかもしれない。
なにより、強襲すれば、同志オブスキュリテ本人が巻き込まれる可能性もある。
救出しに行って、彼女を殺す。そんなつまらない結末は避けたい。
ストレガは、書類の一枚を指先で弾いた。
薄い皮膜が空気中で溶けるように消える。
「さて、どうしたものか」
彼は楽しむように呟く。困難は嫌いではない。
難しい状況ほど、人間は面白い顔をする。
追い詰められた者は、本音を見せる。
矛盾を抱えた者は、選択の瞬間に美しく歪む。
同志オブスキュリテも、そうだった。
赤羽 祈という名前を捨て、オブスキュリテを名乗り、世界を壊すと言いながら。
その奥に残る祈りを、完全には捨てきれていない。
あの少女は、まだ揺れる。だからこそ、価値がある。だからこそ、取り戻したい。
単なる戦力としてではなく。壊れかけた人間が、どちらへ転ぶのか。
その観察対象として。
ストレガが次の報告に目を通そうとした時だった。
目の前の空間が、ぱちんと軽い音を立てて歪んだ。
黒い空間に、赤い亀裂が走る。細い亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、その中心が内側から押し開かれた。
そこから、ひょい、と一人の少女のホログラムが浮かび上がる。
鮮やかな髪色。派手な服装。場違いなほど明るい笑顔。
赤黒い魔力の粒子で形作られた少女は、陰湿な部屋の空気などまるで気にしない様子で、片手を大きく振った。
『やっほー、スト様』
軽い声だった。この陰湿な部屋に、まるで流行りのカフェのBGMでも流れ込んだような軽さ。
ストレガは、驚くでもなく顔を上げる。
「おや。同志カーマイン」
湿った声で、彼は応じた。
「定時報告ではなさそうですね」
『もち』
カーマインと呼ばれた少女は、にっと笑った。
『やっと終わったから、その報告でっす。いやー、長かった。ほんっと長かった。あんな退屈な任務、あたしじゃなかったら途中で寝てたね』
「あなたは途中で寝ていたことが何度かありましたが」
『バレてた?』
「報告書に記載されています」
『うわ、真面目ー』
カーマインは、ホログラムのまま肩をすくめた。
軽薄な態度。砕けた口調。
組織の幹部格と話しているという緊張感はまるでない。
だが、それをストレガは咎めなかった。
この少女がそういう性質だと知っているからだ。
カーマイン。
明るい。
軽い。
騒がしい。
ふざけている。
だが、決して愚かではない。
彼女は空気を読まないのではない。
空気を読んだ上で、平然と踏み荒らす。
誰かが緊張していれば笑い、誰かが怒っていればさらに煽り、誰かが傷ついていれば、何食わぬ顔で隣に座る。
その軽さは武器だった。
そして、時に毒でもあった。
『あー、疲れた』
カーマインは、ホログラム越しに大きく伸びをした。
実体のない映像であるにもかかわらず、その仕草はやけに生々しい。
肩を回し、首を鳴らすような真似をして、それからにへらと笑う。
『帰ったらオブちゃんに癒してもらおーっと』
その一言に、ストレガの動きが止まった。
机の上に広げていた皮膜資料へ伸ばしかけていた指が、空中でぴたりと止まる。
黒い布の奥で、彼の目がわずかに細くなった。
「お疲れのところ恐縮ですが」
彼は、いつも通りの声音で言った。
湿り気を帯びた、静かな声。
「それは叶いません」
『へ?』
カーマインの顔から、気の抜けた笑みが少しだけ消えた。
まだ軽い。まだ、冗談だと思っている。
ストレガは、ゆっくりと続けた。
「同志オブスキュリテは、魔法少女局に捕まりました」
空気が、変わった。
ほんの一瞬前まで、カーマインは笑っていた。軽く、明るく、場違いなほど呑気に。この陰湿な部屋の空気を、勝手に自分色へ塗り替えるような調子で。
だが、その笑顔が消える。
ホログラムの輪郭が、ざらりと乱れた。
赤黒い粒子が一瞬だけ揺れ、通信にノイズが走る。
『……はぁ!?』
声が跳ねた。いつもの大げさな驚きではない。
芯から弾かれたような声だった。
『なんで!?』
「作戦に失敗しましてね」
ストレガは淡々と答えた。
「彼女は敵の手に落ちました」
『作戦って、結界壊すやつ?』
「ええ」
『オブちゃんが?』
「はい」
『失敗?』
「その通りです」
カーマインは数秒、言葉を失った。
信じられない。そう顔に書いてあった。
『ありえないでしょ』
低く呟く。
『オブちゃんだよ? あの子、やるって言ったらやる子じゃん。多少無茶でも通す子じゃん。傷だらけでも、魔力切れかけでも、絶対最後までやる子じゃん』
「よくご存じで」
『知ってるよ』
カーマインの声が、少しだけ尖る。
『ずっと見てたもん』
それは、軽口ではなかった。
オブスキュリテが組織でどのように戦ってきたか。
どれほど自分を削って任務を果たしてきたか。
倒れそうになっても、怒りだけで立っていたか。
カーマインは知っている。
だからこそ、信じられなかった。
あのオブスキュリテが失敗する。
捕まる。敵の手に落ちる。
そんなことが、簡単に受け入れられるはずがない。
「ですが、白瀬 結衣に止められました」
その名前を聞いた瞬間。カーマインの目が細くなった。
『白瀬 結衣』
口の中で、その名前を転がすように言う。先ほどまでの明るさはない。
「ご存じで?」
『オブちゃんから聞いたことある』
カーマインは、わずかに顎を引いた。
『親友だった子でしょ』
一拍。
『裏切った子』
ストレガの布が、ゆっくりと揺れた。
「本人がそう表現していたかは分かりませんが、おおむね重要人物ですね」
『ふうん』
カーマインは黙った。
ホログラム越しでも分かるほど、空気が変わっていた。さっきまでの軽薄さが薄れている。
表情は笑っていない。唇が、ゆっくりと引き結ばれる。
目の奥に、ぎらりとした光が灯っている。
怒り。焦り。不安。
そして、それらを隠そうともしない、まっすぐな執着。
「……どうしました、同志カーマイン」
ストレガが問いかける。カーマインは、即答した。
『決まってるじゃん』
声は低かった。
『オブちゃん、助けに行く』
「まあ、落ち着いてください」
『落ち着けるわけなくない?』
カーマインが一歩、こちらへ詰めるような仕草をする。
ホログラムの像が揺れ、赤黒い粒子が散った。
『オブちゃん捕まってんでしょ? あの子、局に捕まってんでしょ? だったら迎えに行くじゃん』
「我々組織としても、彼女は必要な存在です。救出は考えています」
『ならさっさと行こうよ』
「ですが」
ストレガは、指先で新たな書類を浮かび上がらせた。
薄い皮膜に、赤黒い線が走る。そこには、魔法少女局本部の外郭図らしきものが表示された。
ただし、内部は黒く塗り潰されている。
情報が足りない。そう示すように。
「収監施設の詳しい間取りが分からないんですよねぇ」
『そんなの、あたしが力ずくで探し出すよ』
「魔法少女局の警戒網を突破し」
ストレガは、淡々と指を一本立てた。
「施設を虱潰しに探索し」
二本目。
「同志オブスキュリテを発見し」
三本目。
「拘束具を解除し」
四本目。
「追撃を振り切って帰還する、と?」
『うん』
迷いのない返事だった。
ストレガは、少しだけ沈黙する。
「実に単純明快で、成功率の低い作戦です」
『スト様、今バカにした?』
「まさか」
ストレガは滑らかに答えた。
「あなたの長所を端的に表現しただけです」
『それバカにしてるやつじゃん』
カーマインは頬を膨らませた。いつものような仕草だった。
だが、怒りは消えていない。軽口の奥で、瞳がぎらついている。
『でもさ』
カーマインは、声を少し落とした。
『時間かけてる間に、オブちゃんが何されるか分かんないじゃん』
「魔法少女局は、すぐに処刑するような組織ではありませんよ」
『そういう話じゃない』
カーマインの声が、珍しく鋭くなった。
『あの子、意地っ張りだし、絶対一人で我慢するし、助けてって言わないし』
その言葉には、確信があった。
『痛くても平気な顔するし、寂しくても誰もいらないって言うし、本当は傷ついてるのに、自分で傷口広げるみたいなことするし』
ストレガは何も言わなかった。
カーマインは続ける。
『局に捕まったら、絶対黙るでしょ。何聞かれても、誰に会わされても、全部一人で抱えて、私はオブスキュリテだからって言うでしょ』
声が少し震えた。怒りのせいか。焦りのせいか。
それとも、心配のせいか。
『そういうとこ、ほんとムカつくんだよね』
「よく分かっているようで」
『友達だもん』
即答だった。あまりにも迷いがない。
ストレガの布の奥で、何かが笑ったように揺れる。
「友達、ですか」
『何? 文句ある?』
「いいえ。大変結構なことです」
その声音には、少しだけ面白がる響きがあった。
『なんか嫌な言い方』
「私はいつも通りですよ」
『スト様のいつも通りって、だいたい嫌な感じだよ』
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
『褒めてない』
カーマインはそう言ってから、すぐに表情を引き締めた。
「ですが、そういう無茶をせずとも、彼女とはコンタクトが取れそうな状況になりそうです」
『……どういうこと?』
「同志オブスキュリテは、現在、魔法少女局の管理下にあります。しかし近いうちに、局の外へ出される可能性が高い」
『外? なんで?』
「戦力不足です」
ストレガは、指先で別の映像を浮かび上がらせた。
シティ各地に開くゲート。疲弊した魔法少女たち。
修復途中の結界。赤く染まった警告表示。
「同志オブスキュリテの襲撃によって、シティ結界は大きな損傷を受けました。完全修復には時間がかかる。その間、ゲートの出現頻度は増加する。魔法少女局は戦力不足に陥る」
『で?』
「彼女の赫塵は、ゲートや異形の魔力構造に対して有効です。敵である彼女を使いたくはないでしょうが、使わざるを得ない」
『オブちゃんを? 魔法少女局が?』
「ええ」
『そんな情報、どこから持ってきたの』
カーマインが目を細める。
ストレガは、楽しげに肩を揺らした。
「とある筋から」
『とある筋?』
「ええ。魔法少女局も、決して一枚岩ではありませんので」
その言葉に、カーマインは数秒黙った。
『……局の中に、こっちと繋がってる人がいるってこと?』
「さて」
ストレガは、わざとらしく首を傾げた。
「そこまで明言した覚えはありませんが」
『うわ、出た。スト様のそういうやつ』
「情報源は大切に扱うべきです。軽々しく名を出せば、使えるものも使えなくなる」
『性格悪いなあ』
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
カーマインは、納得したような、していないような顔をした。
だが、オブスキュリテが外へ出される可能性がある。
その一点だけは理解したらしい。
『つまり、オブちゃんに近づけるかもしれないってこと?』
「ええ。その可能性があります」
『なら、あたしが行く』
「そのつもりです」
ストレガは、机の上に別の書類を展開する。
そこには、いくつかの地点名と人員配置らしき文字列が並んでいた。
ただし、詳細はカーマイン側には表示されない。
ホログラム越しに見えるのは、赤黒いぼやけた文字だけだった。
「同志カーマイン。あなたには、同志オブスキュリテを救出するために、とある任務にあたってほしいのですよ」
『力ずくでやった方が早そうだけど』
「早いだけで、失敗の可能性も高い」
『一応聞いてあげる。何?』
ストレガは、微笑むように布を揺らした。
「ある場所へ潜んでいただきます」
『潜入?』
「ええ。あなた向きの任務です」
『あたし、潜入って柄じゃなくない?』
「目立つ潜入も、時には有効です。あなたは明るい。人当たりがよい。人間の文化にもある程度適応できる。そして何より、同志オブスキュリテがあなたに対して警戒を緩める可能性がある」
『最後だけでいいじゃん』
「それが最も重要です」
『で、どこに潜むの?』
「それは、通信では伏せておきましょう」
『えー』
「聞かれて困る場所ですので」
『誰に?』
「誰にでしょうねぇ」
ストレガは、くつくつと笑った。
カーマインは不満そうに頬を膨らませる。
『スト様、ほんと秘密多い』
「秘密が多いからこそ、長生きできるのですよ」
『あたしは勢いで生きたいタイプなんだけど』
「でしょうね」
『今ちょっと呆れた?』
「いいえ」
『絶対呆れた』
軽口を叩きながらも、カーマインの目は真剣だった。
『で、そこで何をすればいいの?』
「同志オブスキュリテとの接触経路を確保してください。直接会話できれば最良。無理でも、通信手段を残す」
『連れ帰っていい?』
「その場で力ずくは控えてください」
『ちぇー』
「彼女の意思を確認する必要があります」
ストレガの声が、わずかに湿る。
「同志オブスキュリテが、まだ我々の側に戻る気があるのか。それとも、魔法少女局に飼い慣らされるつもりなのか」
『オブちゃんはそんな子じゃない』
カーマインの声が、低くなった。
『あの子は、こっち側だよ』
「だとよいのですが」
『スト様』
「はい」
『変な言い方しないで』
ホログラム越しの少女が、まっすぐストレガを睨む。
『オブちゃんは、あたしの友達だから』
ストレガは、しばらく黙っていた。
そして、布の奥で微笑むように声を緩める。
「ええ。だからこそ、あなたに頼んでいるのです」
『……うーん』
カーマインは腕を組み、首を傾げた。
『まあ、スト様の言うことだもんね。変に力ずくで行ってオブちゃんに怒られるのも嫌だし』
「懸命な判断です」
『りょーかい。すぐに向かうよ』
「ええ。頼みましたよ、同志カーマイン」
『任せて。オブちゃん、絶対連れて帰るから』
カーマインは笑った。明るく、派手で、軽い笑顔。
だが、その目だけは笑っていなかった。
『待っててね、オブちゃん』
ホログラムが揺らぐ。赤黒い粒子がほどけ、空間に溶けていく。
通信が切れた。部屋は再び静かになる。
ストレガは、消えたホログラムの跡をしばらく見つめていた。
それから、机の上の書類へ視線を戻す。
「さて」
湿った声が、暗い部屋に落ちる。
「友情というものは、時に実に便利ですねぇ」
彼は、資料の一部に指を滑らせた。
そこには、魔法少女局内部から流れたと思しき断片情報が並んでいる。
オブスキュリテの一時協力案。
監視役の選定。
拘束腕輪の仕様。
外部出撃の予定候補。
どれも、まだ公表されていない情報だった。
ストレガは、その情報群を眺めながら、くつくつと笑う。
「魔法少女局。あなた方も、なかなか愉快な内臓をお持ちのようだ」
赤黒い文字が、書類の上でゆっくりと滲む。
「同志オブスキュリテ。あなたがどちらへ転ぶのか、楽しみにしていますよ」
部屋の赤黒い魔力回路が、低く脈打った。




