因果
一ヶ月後。オブスキュリテは、塀の外へ出ていた。
青白い空の下。高い外壁と、幾重にも張られた結界の向こう側へ。
重い鉄扉が、背後で閉じる。鉄が噛み合う鈍い音。
封印術式が再起動する低い振動。魔力錠が幾重にも閉じられていく感覚。
それらを背中で聞きながら、オブスキュリテはゆっくりと息を吐いた。
久しぶりの外の空気だった。
監獄区画の中にも、換気設備はある。魔力循環によって空気は清潔に保たれていた。
湿気も、臭気も、温度も管理されている。食事も最低限の質は保証されていたし、必要な治療も受けられた。
規則正しい睡眠時間もあった。身体を壊さないだけの環境は整えられていた。
だが、それでもあそこは檻だった。
壁がある。鍵がある。監視がある。魔法を封じる術式がある。
決められた時間に起き、決められた場所で食事を取り、決められた範囲でしか動けない。
どれほど清潔で、どれほど整っていようと、自由はない。
空が見えない。風が届かない。遠くの音が聞こえない。人々の気配がない。
それは、ただ閉じ込められているだけの場所だった。
だから、こうして外へ出た瞬間。肌に触れる風の感触だけで、自分がどれほど閉じ込められていたのかを思い知らされた。
頬を撫でる空気。遠くから聞こえる車の走行音。
結界塔の低い駆動音。街路樹の葉が揺れる音。どれも、檻の中にはなかったものだ。
オブスキュリテは目を細める。眩しい。
空は薄く青い。雲は高い。
ただそれだけのことが、ひどく遠いものに感じられた。
もっとも。自由になったわけではない。
オブスキュリテは、自分の両腕へ視線を落とした。
左右の手首には、それぞれ別の腕輪がはめられている。
片方は、魔法の使用を制限するための拘束具。
白銀色の金属に細かな術式線が刻まれており、表面には局の管理番号が刻印されている。
魔力の流れを常時監視し、一定以上の出力を検知すれば、即座に術式を遮断する。
通常の身体強化程度であれば許可された範囲内で可能。
だが、赫塵のような高干渉魔法なら、発動前の予兆だけで警告が入る。
許可なく出力を上げれば、強制遮断。
さらに抵抗すれば、神経系へ干渉する抑制術式が走る。
もう片方は、制裁用の腕輪だった。
見た目は魔法制限具よりも無骨で、黒い金属の輪の内側に赤い警告術式が埋め込まれている。
命令違反。監視役からの停止命令を無視した場合。
中央結界制御装置から半径一キロ以内に一定時間以上とどまった場合。
許可範囲外への移動。逃走を試みた場合。
または、緊急時に管制室が必要と判断した場合。
腕輪から高圧の電撃が流れる。
説明によれば、魔法少女の身体能力を持つ者でも膝をつく程度には強いらしい。
繰り返し使用すれば、意識を奪うことも可能。解除には局の上位権限が必要。
オブスキュリテ自身の赫塵でも容易には壊せないよう、物理式と魔法式を複合した構造になっているという。
随分と念入りなことだ。オブスキュリテは、皮肉げに笑った。
当然といえば当然だった。
彼女は三ヶ月前、このシティの防御結界を破壊しようとした。
魔法少女局を襲撃し、ライブ会場を襲い、魔法少女たちを傷つけた。
魔法少女の変身を剥がし、恐怖を刻みつけた。
中枢施設にまで侵入し、街そのものを危機に晒した。
その彼女を、今さら外へ出す。それも、魔法少女の援軍として。
正気の沙汰ではない。
だが、シティの状況もまた、正気で済むほど甘くはなかった。
結界襲撃事件の影響で、シティ結界はいまだ完全には回復していない。
外縁部には、いくつもの歪みが残っている。
損傷した結界塔の修復は進められているが、作業は遅い。
魔力の流れは不安定で、ところどころ薄くなった結界の隙間から、小規模なゲートが頻発している。
他地域へ応援に出ていた魔法少女たちは、すぐには戻れない。他の都市でも異形出現が増えているからだ。
現地の魔法少女たちは、昼夜問わず出撃を繰り返している。
白瀬 結衣も。三枝ミオも。名も知らない後輩たちも。
何度も何度も、開いたゲートへ向かって走らされている。
戦力が足りない。なら、使えるものは何でも使う。
その結論として、オブスキュリテはここにいた。
協力の条件は、減刑。
それだけなら、彼女は鼻で笑っていただろう。
五年が四年になる。三年になる。
だから何だというのか。
檻の中にいる時間が少し短くなる。
その程度の餌で、自分が魔法少女局の犬になると本気で思っているなら、随分と甘く見られたものだ。
だが、渡会源二は別の条件も持ってきた。
司法長官に話をつけた。あの老人はそう軽く言っていた。
まるで知り合いの店に予約を入れた、くらいの調子で。
だが、実際にはかなり強引な交渉だったに違いない。
司法側も、局側も、反対は多かったはずだ。
被害者感情を考えれば、到底許されない。
オブスキュリテ本人が逃亡や再犯に及んだ場合、責任を取れる者などいない。
それでも、渡会は押し通した。
いつもの軽い笑顔で。年寄りのわがままじゃよ、などとふざけた調子で。
そして、オブスキュリテが出した条件も飲んだ。
だから、彼女はここにいる。塀の外に。
敵としてではなく。魔法少女局の管理下に置かれた、限定協力戦力として。
オブスキュリテは、もう一度背後の鉄扉を見た。
高い壁。厚い結界。監獄区画。
そこから出た。
だが、解放されたわけではない。
門の向こうには、黒い公用車が止められていた。
無駄な装飾のない、魔法少女局所属の車両。窓には薄い結界加工が施され、外から中は見えづらい。
運転席には局の職員。助手席には監視担当の男。
車両の周囲には、目立たないが警備員も配置されている。
全員が平静を装っていた。
だが、視線は硬い。
恐怖。不信。警戒。
それらが、薄く表情に浮かんでいる。
無理もない。
彼らにとって、自分は護送対象であり、危険物であり、かつての敵だ。
そして、それは彼らだけではなかった。
門の外。規制線の向こう側。
そこには、無数のカメラが並んでいた。
マスメディア。
配信者。
記者。
野次馬。
収監施設の前に押しかけた人々が、黒いレンズをこちらへ向けている。
フラッシュが瞬いた。
「オブスキュリテだ!」
「出てきました!」
「本当に外に出すのか!」
「魔法少女局は説明を!」
ざわめきが、一瞬で膨れ上がる。
職員たちの顔が強張った。警備員が慌てて前へ出る。
だが、声は止まらない。
「オブスキュリテさん! なぜ協力するんですか!」
「三か月前の事件について、今どう考えていますか!」
「あなたはシティを破壊しようとしたことを反省しているんですか!」
「被害を受けた魔法少女たちに言うことは!」
「白瀬 結衣さんとは話しましたか!」
問いが飛ぶ。カメラが向く。マイクが伸びる。
オブスキュリテは、一切答えなかった。
ただ、歩く。
足首には拘束術式。手首には制御腕輪。左右には局職員。
それでも、彼女の歩みは乱れなかった。
赤羽 祈ではない。
オブスキュリテとして、彼女は門の外へ出る。
「答えてください!」
「なぜ魔法少女局に協力するんですか!」
「市民に説明する責任があると思いませんか!」
耳障りな声が続く。
責任。説明。反省。
どれも、懐かしい言葉だった。
あの事件の後、毎日のように浴びせられた言葉。
赤羽 祈を追い詰め、踏み潰し、家の前まで押しかけてきた者たちが使っていた言葉。
オブスキュリテは、視線だけを少し動かした。
報道陣の奥。規制線のさらに向こう。
そこには、横断幕を掲げた人々がいた。
『オブスキュリテの運用に反対する』
『犯罪者を兵器にするな』
『魔法少女局は市民を裏切るな』
『街を壊そうとした者を外に出すな』
市民団体。そう呼ばれる者たちだろう。
彼らは職員に制止されながらも、声を張り上げていた。
「ふざけるな!」
「そいつを戻せ!」
「なんでそんな奴を外に出すんだ!」
「私たちは許していない!」
「赤羽 祈を出すな!」
その名が聞こえた瞬間。オブスキュリテの足が、ほんのわずかに止まりかけた。
赤羽 祈。
その名を、まだ呼ぶのか。
訂正しても。
捨てても。
殺したつもりでいても。
この街は、まだその名を掘り返す。
「進んでください」
隣の局職員が、低く言った。声には緊張が混じっている。
オブスキュリテは何も答えず、再び歩き出した。
その時だった。
人混みの奥から、小さな影が飛んだ。
石。
警備員が気づいた時には、遅かった。
乾いた音がした。額に、硬い衝撃が走る。
オブスキュリテの顔が、わずかに横へ揺れた。
「っ――!」
局職員が息を呑む。
警備員が一斉に動いた。
「下がってください!」
「投げたのは誰だ!」
「危険行為です! 規制線から離れてください!」
周囲が騒然となる。
カメラのシャッター音が、一気に増えた。
レポーターの声が上擦る。
「今、何かが投げつけられました!」
「オブスキュリテ氏の額に直撃した模様です!」
「現場は騒然としています!」
オブスキュリテは、動かなかった。
額から、温かいものが一筋流れる。血だ。
ほんの少し。皮膚が切れただけ。たいした傷ではない。
だが、赤い線は確かに額からこめかみへ伝い、頬の横で止まった。
「大丈夫ですか」
局職員が、思わずそう言った。
その声には、職務上の確認以上のものがあった。
驚き。
焦り。
そして、わずかな同情。
オブスキュリテは、その職員を見た。
そして。
「ふふ」
笑った。
局職員の顔が、凍りつく。
オブスキュリテは、指先で額の血を拭った。赤く濡れた指を見る。
その赤が、ひどく綺麗に見えた。
「こうでなくては」
小さく呟いた。
「……え?」
職員が聞き返す。
オブスキュリテは答えなかった。ただ、規制線の向こうを見る。
怒鳴っている市民。
怯えた顔でこちらを見る者。
正義を信じて拳を握る者。
スマートフォンを向け、興奮した目で撮影する者。
どの顔も、見覚えがあるような気がした。
あの日から、何度も見てきた顔だ。
赤羽 祈を責めた顔。
玄関の前で叫んでいた顔。
塀に罵倒を書きつけた顔。
画面の向こうで、好き勝手に断罪していた顔。
今更、過去の言動を反省しているとは思わない。
彼らはきっと、今日も正しいつもりなのだろう。
街を守るため。
被害者のため。
魔法少女のため。
危険な存在を許さないため。
いくらでも名目はある。
けれど、その奥にあるものは変わらない。
自分勝手な怒り。都合のいい正義。
誰かを殴って安心するための善意。
ああ。やはり、この街は変わっていない。
オブスキュリテは、安堵に似たものを覚えた。
恐れていた。自分でも、分かっていた。
何より恐ろしかったのは、この憎悪が風化することだった。
時間が経ち。
人々が飽き。
事件が過去になり。
赤羽 祈という名前が、ただの悲劇として整理されていくこと。
可哀想だった。
大変だった。
あの時は仕方なかった。
みんなも混乱していた。
そんな言葉で、何もかもが薄まっていくこと。
それが怖かった。
自分の怒りだけが取り残されるのではないかと。
自分だけが、まだあの日に立っているのではないかと。
だが、違った。
この街は、まだ燃えている。
憎悪は消えていない。
正義の顔をして、今もここにある。
ならば。滅ぼすことに、何の憂いもない。
この市民たちは、薪をくべてくれたのだ。感謝してもいいくらいだった。
「早く車へ」
職員が言った。先ほどよりも声が硬い。
オブスキュリテは、ようやく歩き出した。
黒い公用車の後部座席の扉が開かれる。
「どうぞ」
職員が硬い声で言った。
丁寧な言葉。だが、声の奥には緊張がある。
オブスキュリテはそれを一瞥しただけで、車へ乗り込んだ。
座席に腰を下ろす。扉が閉まる。
外の怒号が、一枚隔てた向こう側へ遠ざかった。
密閉された車内に、わずかな革の匂いと消毒液の匂いが混ざっている。
隣には誰もいない。だが、自由に動けるわけではない。
足元には、緊急拘束用の術式。窓にも封印処理。天井には監視用の小型結晶。
至れり尽くせりだ。
オブスキュリテは、額の血をもう一度指で拭う。
赤く濡れた指先を見て、口元だけで笑った。
車が動き出す。
窓の外では、まだ人々が叫んでいた。
戻せ。
許さない。
出すな。
危険だ。
責任を取れ。
聞き慣れた言葉たち。
オブスキュリテは、背もたれに身を預ける。
胸の奥で、冷えかけていた火が、静かに音を立てた。
消えていない。
まだ、消えない。
この街が自分を憎む限り。自分も、この街を憎んでいられる。
それが、ひどく滑稽で。ひどく安心した。
ゆっくりと、監獄区画の敷地を離れる。
窓の外に、シティの景色が流れていく。
白いビル。
結界塔。
通行人。
避難経路を示す案内板。
修復工事中の魔力管制設備。
防御機構の補修に当たる作業員たち。
街は傷ついていた。それでも動いていた。
人々は歩き、店は開き、車は走り、空には青い結界光がかすかに揺れている。
オブスキュリテは窓の外を見た。見てしまった。
街灯に貼られたポスターが目に入る。
魔法少女を応援するポスター。
白瀬 結衣の姿が描かれている。笑顔で拳を掲げる、シティのエース。
その近くに、別の紙が貼られていた。
雑に印刷された、抗議文のような張り紙。
黒い仮面の女。赤い雷。
大きな文字。
――オブスキュリテを許すな。
――魔法少女局は真実を公表しろ。
――被害者を忘れるな。
その一部は雨で滲んでいた。
だが、文字はまだ読めた。
オブスキュリテは、窓の外を見るのをやめた。
背もたれに体を預ける。腕輪が、手首に冷たく触れている。
外へ出た。空気も吸った。風にも触れた。街も見た。
だが、どこへ行こうと。
彼女の手首には、冷たい金属がある。
どこへ行こうと、監視がある。
どこへ行こうと、名前がある。
赤羽 祈。
オブスキュリテ。
元魔法少女。
侵略者。
囚人。
協力戦力。
どの名を選んでも、自由にはなれない。オブスキュリテは目を閉じた。
車は、シティの中心部へ向かって進んでいく。
檻の外へ出たはずなのに。檻はまだ、彼女の手首に残っていた。
白瀬 結衣は、緊張していた。
魔法少女局本部の駐車スペース。局舎の正面玄関から少し離れた、関係者用の停車区域。
普段なら職員の車両や、出撃用の搬送車が行き来している場所だ。
だが今は、いつもより人が少ない。
正確には、近くに人はいる。
警備担当の職員。管制から派遣された監視班。医療班の待機要員。
それでも、誰も近づいてはこない。
みな、少し離れた場所からこちらを見ている。
これから到着する人物が、普通の協力者ではないからだ。
結衣は前方の道路を見つめた。手のひらが、少し汗ばんでいる。何度も拳を握り、開く。
左腕にはまだわずかな違和感があった。治療は終わっている。戦闘復帰もしている。
けれど、あの日の痛みは体の奥に残っている。
オブスキュリテとの決戦。
赫塵に魔力を痺れさせられ、変身を剥がされ、倒れ、それでも立ち上がった。
あの時の記憶が、左腕の奥でまだ微かに熱を持っている。
オブスキュリテが来る。祈が来る。
最初にその話を聞かされた時、結衣は何の冗談かと思った。まさか、祈を戦力として当てにするなんて。
つい三ヶ月前、あの子はこのシティを壊そうとした。
防御機構中枢施設に侵入し、中枢制御核へ赫塵を流し込んだ。結界を破壊しようとした。街を守るものを、内側から壊そうとした。
結衣自身も、殺されかけた。あの時、祈は本気だった。
いや、少なくとも本気でそうしようとしていた。
結衣が止めなければ、シティは壊れていたかもしれない。
そんな相手を。今度は、味方として出す。
理屈では分かる。
祈の赫塵は、異形やゲートの魔力構造を乱すには非常に有効だ。
ゲートが開いた直後、流れ込む魔力を痺れさせれば、異形の展開速度を落とせる。
魔力で動く敵なら、初動を潰せる。
結界の歪みを修正する際にも、暴走した魔力流を一時的に止めることができる。
今のシティに足りないものを、祈の魔法は埋められる。
戦力としては、喉から手が出るほど欲しい。それほどまでに、今のシティは切羽詰まっている。
分かっている。
分かってはいる。
それでも、胸は落ち着かなかった。
祈が来る。また会える。
また声を聞ける。また同じ戦場に立てる。
その事実に、ほんの少しだけ嬉しさを覚えてしまった自分がいた。
不謹慎だ。そう思う。
祈は囚人だ。自分たちは監視役だ。
これは再会ではない。和解でもない。
まして、昔に戻るための時間でもない。
祈に許されたわけではない。祈が帰ってきたわけでもない。
局が彼女を必要としただけだ。
危険だと知りながら、使わなければならないほど追い詰められただけだ。
それでも。
結衣の胸の奥には、どうしようもなく小さな灯がともっていた。
また、隣に立てるかもしれない。また、話せるかもしれない。
少しずつでも、手を伸ばせるかもしれない。
二年前に伸ばせなかった手を。決戦の最後で、ようやく届いた手を。
今度は、離さずにいられるかもしれない。
そんな甘い期待。自分でも嫌になるほど、浅ましい期待だった。
けれど、その期待は、横にいる少女の存在によって、簡単に冷えていく。
結衣は横目で隣を見た。そこには、一人の少女が立っていた。
背筋を伸ばし、両手を前で揃え、静かに目を閉じている。
整った顔立ち。長い睫毛。
黒髪をきちんとまとめ、制服のような魔法少女局の待機服を隙なく着こなしている。
年齢は結衣より少し下だ。まだ若い。
けれど、その立ち姿には妙な硬さがあった。
緊張ではない。覚悟でもない。
怒りを、礼儀の形に押し込めているような硬さだった。
結衣は、その少女の名前を聞いていた。
監視役の一人。今日からオブスキュリテを見張るために選ばれた魔法少女。
それだけなら、特別おかしな話ではない。オブスキュリテを外に出す以上、結衣一人に監視を任せるわけにはいかない。複数人で見張るのは当然だ。
けれど、その少女がこの場に立っている理由を思うと、結衣の胸は重くなった。
彼女にとって、オブスキュリテは結衣とはまったく違う意味を持つ相手だ。
結衣にとって、オブスキュリテは祈だ。
親友だった少女。救えなかった少女。
止めなければならなかった少女。もう一度手を伸ばしたい相手。
だが、隣の少女にとっては違う。きっと、そんな甘い感情ではない。
彼女の目に映るオブスキュリテは、ただの危険人物であり、許しがたい敵なのだろう。
結衣の胸に灯った小さな期待は、その横顔を見るだけで冷えていった。
自分は何を喜んでいるのだろう。
祈に会えることを。また一緒に戦えるかもしれないことを。
そんなふうに思っていい立場なのか。
結衣は唇を結ぶ。
何か声をかけようとした。けれど、言葉が出なかった。
よろしく、と言うには軽すぎる。
大丈夫、と言う資格もない。
祈は悪い子じゃない、と言えば、きっと残酷だ。
祈にも事情があった。祈も傷ついていた。
そんな言葉は、結衣には真実でも、隣の少女にとっては言い訳に聞こえるかもしれない。
オブスキュリテが傷ついていたことと。
オブスキュリテが誰かを傷つけたこと。
その二つは、どちらも消えない。だから結衣は、何も言えなかった。
少女は目を閉じたまま、何も言わない。沈黙だけが、二人の間に落ちていた。
遠くで車の音がする。結衣の心臓が、わずかに跳ねた。
道路の向こうから、黒い公用車が近づいてくる。
局の車両。窓には結界加工がされ、中の様子は見えない。
結衣は思わず息を止めた。祈が来る。オブスキュリテが来る。
親友だった少女が。自分が止めた敵が。首輪をつけられた協力戦力として。
もう一度、結衣の前に現れる。
横で、少女がゆっくりと目を開けた。その瞳には、怒りがあった。
涙ではない。恐怖でもない。
ただ、押し殺された怒りが、静かに燃えていた。
結衣は、その横顔を見て何も言えなくなった。
車は、ゆっくりと駐車スペースへ入ってくる。
結衣の心臓が跳ねた。
タイヤが白線の内側で止まる。
エンジン音が低く沈み、周囲の空気が一段静かになった気がした。
警備担当の職員たちが、わずかに姿勢を正す。監視班の視線が車両へ集まる。
誰も声を上げない。
ただ、これから降りてくる人物が誰なのかを、全員が知っていた。
後部座席の扉が開く。
最初に見えたのは、黒い靴だった。磨かれてはいるが、飾り気のない靴。
次に、黒い衣装。囚人用の拘束衣を外出用に整えたものだろう。
体の線を隠すような硬い布地に、封印術式の細い文様が縫い込まれている。
そして、手首に光る二つの拘束腕輪。
片方は魔力制限用。もう片方は制裁用。
それを見た瞬間、結衣の喉が小さく詰まった。
扉の内側から、黒髪の少女が姿を現す。オブスキュリテが、車から降りた。
風が吹く。黒い髪が、ほんの少し揺れた。
顔色は悪くない。傷も癒えているように見える。
三か月前、あれほど血を流し、倒れていた姿とは違う。
けれど、以前より少し痩せたように見えた。
頬の線が鋭くなっている。目元の影も少し深い。
監獄区画での月日が、彼女から何かを削ったのだと、結衣は思った。
結衣は、思わず一歩前へ出そうになった。
「祈――」
「オブスキュリテよ」
即座に訂正された。
冷たい声だった。刃を当てるような、短い声。
けれど、結衣はもうその訂正に傷つくことをやめた。
傷つかないわけではない。
胸の奥は、今でも痛む。祈と呼ぶたびに拒まれる。
親友だった名前を、死んだものとして扱われる。
それが平気なわけがなかった。
ただ、受け止めると決めていた。
この子が何度拒んでも。何度、違う名を名乗っても。
結衣は逃げない。
「……うん」
結衣は小さく頷いた。
「オブスキュリテ」
その名を呼んでから、結衣は一歩近づいた。
オブスキュリテの視線が、わずかに動く。
警戒。拒絶。
そして、苛立ち。
結衣はそれを分かっていながら、右手を差し出した。
「よろしく」
短い言葉だった。
監視役として。共闘相手として。
そして、かつて親友だった者として。
今の結衣に言える、精一杯の言葉だった。
だが。
乾いた音が鳴った。
差し出された手が、横から払われる。
結衣の指先が、空を切った。
「……」
その場の空気が、わずかに凍る。
隣に立っていた少女の視線が、鋭くなった。もう一人の監視役。
彼女は何か言いたげに、オブスキュリテを睨んだ。
だが、オブスキュリテはその視線を見なかった。まるで、最初から存在しないもののように。
「勘違いしないで」
オブスキュリテは、冷たく言った。
「私は、あなたのご機嫌取りのために出されたわけじゃないの」
結衣は払われた手を、ゆっくりと下ろした。
「……分かってる」
「本当に?」
オブスキュリテは薄く笑う。
「あなた、分かっている顔をしていないわ」
結衣は何も言い返さなかった。
オブスキュリテの言葉は鋭い。けれど、その奥には、別の熱がある。
怒り。拒絶。痛み。
結衣は、それを感じ取ってしまう。
「私は利があるから出ただけ」
オブスキュリテは続けた。
「魔法少女局に協力したいわけでもない。シティを守りたいわけでもない。まして、あなたと仲直りごっこをするためでもない」
「……仲直りごっこなんて、思ってない」
「どうかしら」
オブスキュリテは、結衣から視線を外した。その横顔は、凍りついたように冷たい。
けれど、内側では別の計算が動いていた。
外に出た。監獄区画ではなく。
結界の外ではないにせよ、少なくとも閉ざされた独房ではない場所へ。
ならば、可能性はある。
組織と連絡を取る方法。
監視の隙。護送経路。通信術式の穴。
ゲート反応に紛れる機会。
何かがあるはずだ。
組織も、自分を簡単に切り捨てたりはしないだろう。
オブスキュリテは貴重な戦力だ。
赤い雷で魔力操作を阻害し、魔法少女を無力化できる。
単純な戦闘力以上に、局側にとって厄介な駒。
だから、必ず迎えに来る。
少なくとも、利用価値が残っているうちは。
そう考えれば、本来は従順に振る舞うべきだった。
手を取る。穏やかに笑う。協力的な態度を見せる。
魔法少女局の警戒を少しずつ緩める。
その方が得だ。
脱出の機会も増える。結衣たちを油断させられる。
自分が本当に牙を剥く時まで、彼女たちに希望を見せておくこともできる。
分かっている。
そのくらい、分かっていた。
だが。
結衣の手を見た瞬間。
差し出された手を見た瞬間。
体が勝手に動いていた。
払っていた。
拒んでいた。
その手を、取ることができなかった。
胸の奥に、赤羽 祈の怒りがまだ残っている。
それを認めることが、何より腹立たしかった。
赤羽 祈は死んだ。
自分はオブスキュリテだ。
あの頃の親友ごっこに揺さぶられるはずがない。
そう思っている。
思っているのに。
目の前の少女が、当たり前のようにこちらを見てくる。
祈を見る目で。親友を見る目で。
まだ間に合うと信じているような目で。
それが、どうしようもなく癇に障った。
言いたいことなら、山ほどある。
どうしてあの時、私の味方をしなかったの。
どうして私だけが責められた時、世界を敵に回してくれなかったの。
どうして今さら、そんな顔で近づいてくるの。
どうしてまだ、私を祈だと思っているの。
罵ってやりたかった。
酷い言葉を浴びせたかった。
その目を曇らせたかった。
その差し出された手が二度と伸びてこないように、徹底的に踏み潰したかった。
けれど、オブスキュリテは言わなかった。
言えば、それは祈の言葉になる。
傷ついた親友の言葉になる。
置き去りにされた少女の言葉になる。
救ってほしかった子供の叫びになる。
そんなものを、白瀬 結衣に渡してやるつもりはなかった。
自分は、赤羽 祈ではない。オブスキュリテだ。
ならば、怒りさえも制御しなければならない。
憎しみさえ、武器として扱わなければならない。
「……用件はそれだけ?」
オブスキュリテは、努めて平坦に言った。
結衣は、下ろした手を軽く握った。
「ううん」
傷ついた顔をしていた。
それでも、逃げなかった。
「これから、あなたの監視役になる」
「でしょうね」
「だから、必要なことは伝える。危険があれば止める。あなたが暴走しそうになったら、私が止める」
「できると思っているの?」
「思ってる」
結衣はまっすぐに答えた。
「前にも、止めたから」
オブスキュリテの目が、わずかに細くなった。
隣の少女が息を呑む。
場の空気が、一段重くなる。
結衣は、言ってから自分の言葉の重さに気づいたように唇を引き結んだ。
だが、取り消さなかった。
オブスキュリテは、数秒だけ結衣を見つめる。 それから、薄く笑った。
「そう」
声は静かだった。
「なら、せいぜい頑張りなさい」
その言葉を最後に、オブスキュリテは結衣から視線を外した。
結衣の手は、もう差し出されていない。けれど、そこに残った温度だけが、妙に不快だった。
払ったはずなのに。
拒んだはずなのに。
まだ、手のひらに残っている。
それが許せなくて。オブスキュリテの視線が、もう一人へ向く。
「そっちは?」
隣の少女が、ゆっくりと目を向けた。
真っ直ぐな瞳だった。その奥にある感情は、簡単には読めない。
怒り。
悲しみ。
軽蔑。
あるいは、そのすべて。
だが、表情は崩れていなかった。乱れた感情を、礼儀の形に押し込めている。
そんな顔だった。
少女は一歩前へ出た。足取りは静かで、乱れがない。
彼女はオブスキュリテの正面に立つと、丁寧に頭を下げた。
「初めまして」
声は落ち着いていた。
よく通る、澄んだ声だった。
「あなたの監視役に任命されました。四条 麗奈です」
その名前を聞いた瞬間。オブスキュリテの表情が、わずかに止まった。
結衣はそれを見逃さなかった。
ほんの一瞬。いつもの冷たい仮面が、剥がれかけた。
「四条……」
オブスキュリテが、低く呟く。
その声には、皮肉がなかった。嘲りもない。
ただ、予想していなかったものに触れた時の、わずかな揺れだけがあった。
まさか。そう言いかけたように、目が揺れる。
麗奈は、静かに続けた。
「はい」
一拍置く。その一拍が、妙に長かった。
結衣の胸が締めつけられる。
これから何が告げられるのかを、結衣は知っている。知っているからこそ、止められない。
麗奈は顔を上げたまま、真っ直ぐオブスキュリテを見据えた。
「四条 瑠香の妹です」
風が吹いた。誰も、すぐには何も言わなかった。
遠くで車両のドアが閉まる音がした。
警備員の誰かが息を呑む気配があった。
それでも、この場の中心には沈黙だけが落ちていた。
オブスキュリテの表情が、わずかに曇る。
ほんの一瞬。けれど確かに、赤羽 祈だった頃の記憶が、彼女の胸を刺したのだろう。
ステージの光。
熱狂する観客。
突如として歪んだ空間。
異形の爪。
瑠香先輩の背中。
自分を庇って前へ出た体。
鮮血。
それでも笑おうとした横顔。
――私の後輩に、手出しはさせない。
あの声。あの血。あの瞬間。
赤羽 祈の命が救われた瞬間。
そして、赤羽 祈の人生が壊れ始めた瞬間。
オブスキュリテは、ゆっくりと目を細めた。
何か言おうとしたのかもしれない。
謝罪か。皮肉か。拒絶か。
あるいは、もっと別の何かか。
だが、結局何も言わなかった。
言葉を選び損ねたようにも見えた。言葉を持たなかったようにも見えた。
麗奈もまた、表情を崩さない。丁寧な姿勢のまま、静かにオブスキュリテを見ている。
その視線は、刃のように鋭かった。
斬りかかってはいない。
声を荒げてもいない。
けれど、そこには明確な敵意があった。
あなたを忘れていない。
あなたが何に関わったのか、忘れさせない。
そう告げるような視線だった。
結衣は、二人の間に立ち尽くした。何も言えない。
オブスキュリテを庇う言葉も。
麗奈を慰める言葉も。
どちらも、今はあまりに軽い。
ここにあったのは、再会ではなかった。和解でもなかった。
ただ、監視と拘束。
罪と記憶。
そして、まだ癒えていない二年前の傷だった。
黒い拘束衣の少女。
姉を失った少女。
その間に、親友を止めた少女が立っている。
三人の足元で、春の風だけが静かに通り過ぎていった。




