提案
オブスキュリテは、部屋の中でじっと座っていた。
何をするでもない。本を読むわけでもない。
壁に刻まれた時間表示を見るわけでもない。
与えられた食事に手をつけるわけでもない。
ただ、椅子に座り、薄暗い部屋の中で呼吸をしている。
地下収容区画。
魔法少女局本部の中でも、存在を知る者が限られている場所。
凶悪な魔術犯罪者や、外部組織と繋がった危険人物を一時的に拘束するための、厳重な封印施設。
部屋は広くない。
ベッド。机。椅子。簡易的な洗面設備。仕切りがあるだけのトイレ。
それだけがある。
窓はない。外の光は入らない。
昼なのか夜なのかも、壁に表示される時刻を見なければ分からない。
だが、オブスキュリテはその表示を見なかった。
時間を知ったところで、意味はない。
五年。そう告げられた刑期は、まだ始まったばかりだ。
魔力封じの腕輪は、両手首に装着されたままだった。
白く無機質な金属に、細い術式の線が刻まれている。
それは拘束具であり、監視装置であり、処刑器具にも近い。
魔力の流れを遮断し、変身を封じ、術式の起動を妨害する。
一定以上の魔力反応を検知すれば、腕輪内部の封印術式が即座に発動する。
魔法は使えない。変身もできない。
赫塵も、指先に火花すら灯らない。
かつて魔法少女たちを震え上がらせた赤い雷は、今や彼女自身の中に閉じ込められていた。
それでも、オブスキュリテは背筋を曲げなかった。
敗北しても。拘束されても。裁かれても。
禁固五年という判決を受けても。
その目だけは、死んでいなかった。
空虚ではない。諦めでもない。
怒り。憎しみ。あるいは、それすら燃え尽きた後に残る、黒い熾火。
それが、まだ彼女の奥に残っている。
赤羽 祈は死んだ。そう何度も自分に言い聞かせた。
けれど、オブスキュリテもまた、完全には終わっていない。
終われなかった。結衣の拳が、自分を止めた。
あの子は約束を守った。
今回も、私の勝ちだね。その声が、時折、耳の奥で蘇る。
不愉快だった。ひどく不愉快だった。
なのに、完全には消えてくれない。
オブスキュリテは目を伏せる。
机の上には、冷めた食事が置かれていた。
栄養管理された、味気ない食事。手をつける気にはならなかった。
空腹ではある。だが、食べたいとは思わない。
生きるために必要なことをする気力と、生き続けることへの意地は、別の場所にある。
彼女はただ、座っていた。薄暗い部屋の中で。何者でもない時間を、黙ってやり過ごしていた。
やがて、扉の外で足音が止まった。規則的な足音。看守だ。
オブスキュリテは顔を上げない。
ここに来る人間は限られている。
看守。医療担当。取り調べ官。
そして、面会希望者。
鍵が外れる音がした。封印術式の解除音。
物理錠。魔力錠。認証音が三つ続く。
分厚い扉が、重い音を立てて開いた。白い照明が、薄暗い部屋の中へ差し込む。
入口には看守が一人立っていた。表情はない。
仕事としてそこにいる顔だった。
「出ろ」
短い命令。
オブスキュリテは、視線だけを向けた。
「面会なら断って頂戴」
声は平坦だった。拒絶というより、手続きのような言い方だった。
どうせ、また白瀬 結衣だ。そう思った。
あの子は何度でも来る。
待つと言った。何年かかっても待つと。
馬鹿げている。
許しもしない相手を、話す気もない相手を、いつまでも待つなど。
あるいは、かつて家族と呼ばれていた人間かもしれない。
母。妹。家。
赤羽 祈の名で繋がっていたもの。
それらを思い浮かべた瞬間、胸の奥がわずかにざらついた。
オブスキュリテは、その感覚ごと切り捨てる。
結衣との初回の面会以外、彼女はすべてを断っていた。
話すことなどない。言うべきこともない。聞きたいこともない。
赤羽 祈として会いたがる人間に、会うつもりはなかった。
祈はもういない。そう決めたのだから。
だが、看守は首を横に振った。
「残念ながら、拒否権はない」
オブスキュリテの目が細くなる。
「……何?」
「緊急取り調べだ」
緊急。取り調べ。
その二つの言葉を、オブスキュリテは頭の中で反芻した。
内心で眉をひそめる。今さら、何を聞くというのか。
組織のこと。ストレガのこと。
二年間、自分がどこで何をしていたのか。
侵略組織の拠点。出入りしたゲートの座標。
二年前の事件との関係。
何度も聞かれた。そのたびに、黙った。
裁判でも何も語らなかった。
取り調べ官が苛立っても、局の幹部が現れても、態度は変えなかった。
答える理由がない。今さら態度を変える理由もない。
「急に熱心ね」
オブスキュリテは皮肉を込めて言った。
「何か新しい証拠でも見つけたのかしら」
「詳しいことは知らない」
看守は感情のない声で答える。
「命令だ。出ろ」
「拒否したら?」
「拘束して連れていく」
「乱暴ね」
「そういう扱いを受ける立場だ」
看守の言葉に、オブスキュリテは小さく笑った。
否定はしない。その通りだからだ。
自分は囚人だ。かつて魔法少女だった少女ではなく。被害者でもなく。
このシティを壊そうとした危険人物。そういう扱いを受ける立場。
それでも、拒否権がないなら仕方がない。
オブスキュリテは、ゆっくりと立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、部屋に響く。
手首の腕輪がかすかに鳴った。足元にも、薄い拘束術式が反応する。
逃走の意思なし。魔力反応なし。危険行動なし。
部屋の隅の監視装置が、それを無機質に記録している。
看守は一歩下がり、廊下を指し示した。オブスキュリテは促されるまま、部屋を出る。
白い照明。冷たい壁。
規則正しく並ぶ監視装置。
床に刻まれた封印術式。
廊下全体に張られた、魔力感知結界の薄い膜。
足を踏み出すたびに、その膜がわずかに震える。
彼女の体に残る魔力反応を確認しているのだろう。
不快だった。肌の表面を、冷たい指でなぞられているような感覚。
だが、オブスキュリテは何も言わなかった。言ったところで意味はない。
前を歩く看守。後ろにも一人。
さらに少し離れて、武装した警備員が二人。
念入りなことだ。
魔力を封じられた自分に、ここまでの警戒。滑稽と言えば滑稽だった。
だが、当然でもある。
彼女は魔力さえ戻れば、ここにいる大半を無力化できる。そう思われている。
実際、その通りだ。だからこそ、腕輪がある。
結界がある。監視がある。
オブスキュリテは無言で歩いた。
廊下の途中、強化ガラス越しに別の区画が見える。
空の面会室。取り調べ室の入口。医療用の小部屋。
どれも白く、冷たく、清潔だった。
人間を収容するための場所なのに、どこか人間味がない。
それが魔法少女局らしいと、オブスキュリテは思った。
守ると言いながら、管理する。
助けると言いながら、分類する。
危険だと判断すれば、こうして白い箱の中へ閉じ込める。
自分がそうされる理由は理解している。納得しているわけではない。
廊下の先で、看守が足を止めた。いつもの取り調べ室とは違う扉だった。
より広い。より奥まっている。扉の上には、用途表示がない。
オブスキュリテは視線だけを動かす。
「緊急取り調べにしては、ずいぶん丁重ね」
看守は答えない。代わりに、認証端末へ手をかざした。
扉の封印が解除される。低い音とともに、扉が開いた。
やがて、通されたのは面会室ではなかった。
通常の面会室には、厚い透明な仕切りがある。拘束対象と面会者を隔てるためのものだ。
魔法を遮断し、物理的接触を防ぎ、万が一拘束対象が暴れても面会者へ手が届かないようにする。
赤羽 祈の名で面会を求めてきた者たちは、これまで全員その向こう側にいた。結衣もそうだった。
厚い透明板の向こうから、こちらを見ていた。
だが、今回の部屋に仕切りはなかった。
小さな机。向かい合う椅子。壁際には看守が一人。
天井の隅には監視装置。床には封印術式。
脱走や魔力暴走に備えた結界はある。
だが、透明な壁はない。
手を伸ばせば届く距離に、面会者がいる。
その事実だけで、オブスキュリテはこの場が通常の面会ではないと理解した。
机の向こうには、白髪の男が座っていた。
深く皺の刻まれた顔。年齢を感じさせる佇まい。だが、その目だけは妙に若い。油断ならない光を宿している。
男はオブスキュリテを見るなり、やたらと快活な声を上げた。
「いやー、久しぶりじゃな、赤羽君」
場違いなほど明るい声だった。
「儂のこと、覚えとるかの?」
オブスキュリテは目を細めた。もちろん、覚えている。
渡会 源二。
魔法少女局の幹部の一人。候補生時代の祈も、何度か顔を合わせたことがある。
竹を割ったような性格、という言葉がやたらと似合う男だった。誰に対しても物怖じしない。
上層部にも、現場職員にも、魔法少女にも、候補生にも、平然とずけずけものを言う。
時々。いや、かなりの頻度で、デリカシーのないことを言う。
だが、情には厚かった。候補生の名前をよく覚えていた。
怪我をした魔法少女の見舞いにも顔を出す。
現場で泣いている子がいれば、余計な一言を添えながらも隣に座っていた。
叱る時は叱る。笑う時は笑う。
そして、責任を取るべき場面では、逃げない。
そういう男だった。
現場職員からも、年若い魔法少女たちからも、半ば呆れられながら慕われている。
彼を「おやっさん」と呼ぶ者は多い。
かつての赤羽 祈も、何度かそう呼んだことがあった。
もちろん、今は違う。
「オブスキュリテよ」
彼女は冷たく訂正した。
「赤羽 祈は死んだわ」
「そりゃすまんかったの」
渡会は悪びれもせずに笑った。
軽い。あまりにも軽い。
謝罪の重みなど欠片もないように聞こえる。
しかし、次の言葉はすぐに出てきた。
「じゃあ、始めましてじゃな。オブスキュリテ君」
あまりにもあっさり言い直されて、オブスキュリテは眉をしかめた。
馬鹿にしているのか。それとも、本当にこだわっていないのか。
判断しづらい。
赤羽 祈と呼び続ける者には、苛立てばいい。
オブスキュリテと呼ぶ者には、敵意を向ければいい。
だが、この男はそのどちらにも綺麗には収まらない。
こちらが名乗れば、ふむ、ではそう呼ぼう、と受け入れる。
そのくせ、まるで警戒していない。その態度が、かえって不快だった。
オブスキュリテは黙って椅子に座った。腕輪が小さく音を立てる。両手首の魔力封じ。
体にまとわりつく封印術式。
足元の結界。
それらの存在を意識しながら、彼女は渡会を睨んだ。
何の用だ。その目は、そう言っていた。
渡会は、その視線をまるで気にしなかった。
「まあまあ、そう睨むでない」
そう言って、彼は机の下をごそごそ探り始めた。
オブスキュリテの視線が鋭くなる。壁際の看守も、わずかに身構えた。
この部屋に持ち込める物品は限られている。
拘束対象の前で、幹部とはいえ勝手に何かを取り出すなど本来なら許されない。
だが、渡会はまったく気にしていなかった。
そして、取り出したのは武器ではなかった。
箱だった。白い紙箱。リボンこそないが、明らかに菓子店の箱だった。
渡会は満足そうにそれを机の上へ置く。そして、蓋を開けた。
中から、小さなケーキを二つ取り出す。
一つを自分の前に。一つをオブスキュリテの前に。
「これ、若い子におすすめの店を聞いて買ってきたんじゃ」
渡会は得意げに言った。
「たぶん気に入ると思うぞ」
オブスキュリテは、ケーキを一瞥した。苺の乗った小さなショートケーキ。
生クリームは艶やかで、白い表面に赤い苺がよく映えている。
スポンジの間にも薄く切られた果物が挟まっており、甘い香りがほんのり漂っていた。
確かに、拘束施設で出される味気ない食事とは比べものにならない。
甘いものが嫌いなわけではない。むしろ、赤羽 祈だった頃は好きだった。
結衣と一緒に安いケーキを分け合ったこともある。訓練帰りにプリンを買ったこともある。
だが、だからこそ。オブスキュリテはすぐに視線を逸らした。その記憶ごと拒むように。
壁際の看守も、何も見ていないというように視線を逸らしている。
ここに甘いものを持ち込む許可が正式に下りているのかどうかは、かなり怪しかった。
「お、なんじゃ」
渡会は首を傾げる。
「こんな殺風景なところだと、甘いものも貴重じゃろ。遠慮しなくていいんじゃぞ」
オブスキュリテは無視した。
「甘いものは嫌いだったかの?」
無視。
「いや、昔はプリンが好きじゃった気がするが。あれは別の子だったか?」
無視。
「ふむ。なら、コーヒーはどうじゃ」
渡会は、また机の下を探った。
オブスキュリテは思わず目を細める。まだ何かあるのか。
次に出てきたのは、缶コーヒーだった。しかも二本。
どこから持ってきたのか。というより、どうやってここまで持ち込んだのか。
「これもな、なかなか美味いんじゃ」
渡会は一本を自分の前に置き、もう一本をオブスキュリテの前へ押し出した。
「甘さ控えめの方にしておいたぞ。最近の若い子は、こういうのが好きらしいからの」
オブスキュリテは無視した。渡会はまったく気にしなかった。
自分の缶のタブを開ける。ぷしゅ、と音が鳴る。
拘束対象との緊急取り調べの場には、あまりにも似つかわしくない音だった。
渡会はそのまま缶を口に運ぶ。ぐびぐびと飲む。
「ぷはー」
満足げに息を吐いた。
それから、ケーキにフォークを入れる。生クリームを崩し、スポンジをすくい、口へ運ぶ。
「うむ、美味い」
静まり返った部屋に、老人がケーキを食べる音だけが響いた。
オブスキュリテは、無言で渡会を見ていた。
看守も何も言わない。
言っていいのか分からないのだろう。
この場は緊急取り調べのはずだった。
だが、机の上にはケーキと缶コーヒー。
正面には、それを平然と食べる白髪の幹部。
異様な空気だった。
緊張を和らげるためなのか。挑発なのか。
それとも、ただ本当に食べたかっただけなのか。
オブスキュリテには分からない。分からないことが、不愉快だった。
オブスキュリテは、しばらく黙っていた。
机の上には、苺のショートケーキ。その横に、缶コーヒー。
向かいには、白髪の男。
壁際には、無表情の看守。
場所は地下収容区画の一室。
本来なら、こんな穏やかなものが並んでいい場所ではない。
それなのに、渡会 源二は平然とケーキを食べている。
フォークで生クリームをすくい、スポンジを口へ運び、満足そうに頷く。
そのあまりにも場違いな様子に、オブスキュリテは無言でいた。
相手の意図を測っていた。
挑発か。懐柔か。ただの悪ふざけか。
それとも、その全部か。
黙っていたが。やがて、眉間に皺を寄せる。
「何の用なの」
しびれを切らしたように言った。
「さっさと戻りたいのだけれど」
「せっかちじゃのう」
渡会は、口元についたクリームを紙ナプキンで拭った。
「まだケーキも食っとらんのに」
「用件を言って」
「甘いものを前にして、そんなに刺々しくならんでもよかろうに」
「私は雑談をしに来たわけじゃない」
「ワシもじゃよ」
渡会は缶コーヒーを机に置いた。軽い音が鳴る。
その瞬間、彼の目が少しだけ変わった。先ほどまでの軽さは消えない。口元には相変わらず笑みがある。
けれど、その奥にあるものが違う。ぼんやりとした老人の目ではない。
現場を知り、組織を知り、人を見てきた者の目だった。
ただの雑談に来たわけではない。
オブスキュリテは、それを感じ取った。
「まあいい」
渡会は、空になりかけた缶コーヒーを指で軽く叩いた。
「そろそろ本題に入ろうかの」
「最初からそうして頂戴」
「若い子は本当に余裕がないのう」
「あなたに付き合う余裕はないわ」
「なら、余裕ができる話をしよう」
渡会は、改めてオブスキュリテを見た。
その呼び方を、間違えなかった。
「オブスキュリテ君」
赤羽祈ではなく。訂正された名を使って。
オブスキュリテは、わずかに目を細める。渡会はにやりと笑った。
「どうじゃ」
一拍置いて。
彼は言った。
「ワシらに、力を貸す気はないか」
空気が止まった。看守の視線が、わずかに揺れる。
オブスキュリテは、表情を変えなかった。
いや。
変えなかったように見えただけだった。
その目の奥に、冷たい光が灯る。
「……今、なんて?」
「力を貸してほしいと言ったんじゃ」
「誰に?」
「ワシらに」
「何のために?」
「シティを守るために」
その言葉を聞いた瞬間、オブスキュリテの表情から笑みが消えた。
「……誰に」
声は低かった。
「誰に、何を守れって言ったの」
渡会は答えない。
オブスキュリテは、ゆっくりと目を細める。
「私を壊した街を? 私を閉じ込めた局を? 赤羽 祈を殺した連中を?」
そこで、ようやく彼女は笑った。
可笑しそうに。心底、馬鹿にしたように。
「バカも休み休み言いなさい」
声は静かだった。
けれど、室内の温度が一段下がったように感じられた。
「私は、このシティを滅ぼしたいの」
渡会は頷いた。
「知っとる」
「知っていて、言っているの?」
「知っているから、言っとる」
オブスキュリテの眉が、ぴくりと動いた。
「ふざけているのね」
「大真面目じゃよ」
「なら、病院に行くことを強くお勧めするわ」
「あいにく、今年の健康診断は問題なしじゃよ」
飄々と答える渡会。
オブスキュリテは忌々し気に目の前の男を睨む。
「私が何をしたか忘れたの?」
「忘れとらん。二か月前、このシティを壊そうとした」
「なら、分かるでしょう」
オブスキュリテは、椅子の背にもたれた。
手首の拘束具が、かすかに音を立てる。
「私は魔法少女局の味方じゃない。シティの味方でもない。あなたたちに協力する理由なんて、ひとつもないわ」
「ある」
渡会は、あっさり言った。
その言い方が気に障ったのか、オブスキュリテの目が細くなる。
「……へぇ。聞きましょうか」
「このままでは、君の知らんどこかの侵略者に、このシティを滅茶苦茶にされるかもしれん」
「……」
「結界はまだ完全には戻っとらん。防衛機構も穴だらけじゃ。小規模ゲートは毎日のように開いとる。魔法少女たちも疲弊している。次に大きな侵攻が来れば、正直、保つか分からん」
「それが?」
オブスキュリテは、冷たく言った。
「私には関係ないわ」
「そうかの」
「そうよ」
「本当に?」
渡会の声が、少しだけ低くなった。
「このシティが、どこの誰とも知れん連中に踏み荒らされても、君はそれで満足か」
オブスキュリテは答えなかった。
渡会は続ける。
「君はただ、シティが滅びればいいと思っているわけではない」
「……」
「自分で滅ぼしたいのじゃろう」
沈黙。
さっきまで軽口の混じっていた取調室が、急に狭くなる。
壁も、天井も、机も、すべてが二人の間にある沈黙を押し込めているようだった。
看守が、息を殺している。
オブスキュリテは、渡会を見ていた。
冷たい目。怒りも、動揺も、表には出さない。
けれど、その沈黙こそが答えだった。
「……分かったようなことを」
低く、オブスキュリテが呟いた。
「言うのね」
「違ったかの」
「あなたに私の何が分かるの」
「分からんよ」
渡会は即答した。
「赤羽 祈が何を失ったのか。オブスキュリテ君が何を抱えてここに座っているのか。そんなもの、ワシに分かるはずがない」
「なら――」
「じゃが」
渡会は、オブスキュリテの言葉を遮った。
「君がこのシティを憎んでいることは分かる」
「……」
「そして、憎んでいるからこそ、他人に壊されるのは我慢ならん。そういう目をしとる」
オブスキュリテの指が、わずかに動いた。
机の上に置かれた缶コーヒー。
未開封のそれに、細い指先が触れる。
渡会は急かさなかった。ただ、黙って待っている。
遠くで警報が鳴っていた。小規模ゲート発生を知らせる音。
おそらく、どこかでまた魔法少女たちが走っている。
白瀬 結衣も。三枝 ミオも。名も知らない後輩たちも。
疲れた体を引きずりながら、また戦場へ向かっているのだろう。
オブスキュリテは、その音を聞いていた。
忌々しい街。自分を責めた街。赤羽 祈を殺した街。
滅びればいいと思った。何度も思った。
けれど。
知らない誰かに踏みにじられて終わるのは、違う。
自分の怒りも。自分の憎しみも。自分が選んだ名前も。
そんなものとは関係のない侵略者に、横から奪われていいものではない。
「……っ」
オブスキュリテは、小さく舌打ちした。
渡会の口元が、わずかに緩む。
「どうした」
「コーヒー」
「ん?」
「いただけるかしら」
渡会の顔が、ぱっと明るくなった。
「おお、そう来ると思っとった」
「調子に乗らないで」
「はいはい」
そう言いながら、渡会は机の下をごそごそ探った。
看守の視線が、一瞬だけそちらへ向く。だがすぐに、何も見なかった顔に戻った。
やがて渡会は、もう一本の缶コーヒーを取り出した。
未開封。甘さ控えめ。冷えすぎていない。
それを、オブスキュリテの前へ置く。
「ほれ」
「……本当に何本持ち込んでいるの」
「年寄りには秘密が多いんじゃ」
「ただの規則違反でしょう」
「細かいことは気にせんでいい」
渡会は、にかっと笑った。
「話をする気になったようで何よりじゃ」
オブスキュリテは缶コーヒーを見下ろした。
まだ開けない。指先で缶の側面に触れるだけ。
冷たい金属の感触が、薄く皮膚に伝わる。
腕輪のせいで魔力は流れない。
ただ、普通の缶コーヒーの冷たさだけがあった。
しばらくして、オブスキュリテはタブに指をかけた。 ぷしゅ、と小さな音が鳴る。
彼女は飲まなかった。ただ、缶を手にしたまま、渡会へ向き直る。
「勘違いしないで」
「うむ」
「私は、あなたたちの味方になるわけじゃない」
「分かっとる」
「魔法少女局のためでもない」
「うむ」
「シティを守りたいわけでもない」
「それも分かっとる」
「なら、どうして笑っているの」
渡会は、穏やかに答えた。
「それでも、今は十分じゃからの」
オブスキュリテは睨んだ。
だが、席を立たなかった。缶コーヒーを置きもしなかった。
渡会は、残っていたケーキの紙皿を脇に寄せる。甘い匂いが、少しだけ遠ざかった。
代わりに、部屋の空気が静かに張り詰めていく。
「では」
渡会は、ゆっくりと姿勢を正した。
先ほどまでと同じ顔。同じ声。
しかし、纏う空気だけが違う。
「始めようかの」
オブスキュリテは、缶コーヒーを一口だけ飲んだ。甘さ控えめのはずなのに、妙に苦かった。
扉の外では、遠く警報が鳴っていた。
シティはまだ、平和ではない。結界はまだ、完全には戻っていない。守るべき街は、穴だらけのまま喘いでいる。
そして、その平和ではない街を守るために。
魔法少女局は、禁じ手に手を伸ばそうとしていた。




