2ヶ月後
オブスキュリテによる結界襲撃事件から、二か月が経った。
シティは平和を取り戻した。
――とは、言えなかった。
「これで、終わり!」
白瀬 結衣の拳が、異形の胴体を打ち抜いた。
魔力で強化された一撃が、黒い外殻の中心にめり込む。
硬い。けれど、通る。
拳から伝わる手応えに合わせて、結衣はさらに一歩踏み込んだ。
足裏で地面を噛み、腰を回し、肩を入れる。身体強化の魔力を拳の先端へ絞り込む。
次の瞬間、異形の体に内側からひびが走った。ぱきり、と乾いた音。それが連鎖するように広がっていく。
黒い外殻が砕け、体の輪郭が崩れ、粒子となって空中へ散っていった。
異形の背後で開いていたゲートが、音もなく閉じる。
空間の歪みがほどけ、路地裏に漂っていた異質な魔力が薄れていく。
結衣は拳を下ろし、短く息を吐いた。
「……ふぅ」
胸の奥が熱い。呼吸が荒い。
それでも、結衣は表情に出さなかった。
「お疲れ様です、結衣先輩!」
後輩魔法少女の一人が駆け寄ってくる。
額には汗。肩で息をしている。
戦闘衣装の裾には細かな傷が残り、靴も砂埃で汚れていた。
それでも、彼女は笑っていた。無理をしている笑顔ではある。
だが、まだ折れてはいない。そのことに、結衣は少しだけ安堵する。
「みんなもお疲れ様」
結衣も笑い返した。疲れを見せないように。左腕の痛みに気づかれないように。
エースである自分が苦しそうな顔をすれば、後輩たちを不安にさせる。
だから、結衣はいつもの調子を作った。
「今日は多かったし、戻ったらゆっくり休んでね」
「はい!」
後輩たちは元気よく返事をした。
けれど、その声にも疲労は滲んでいた。
無理もない。今日だけで、これが三度目の出撃だった。
午前に一回。午後に一回。
そして今、日が傾きかけた頃にもう一回。
どれも大規模な侵攻ではない。
単体、あるいは数体の異形が小さなゲートから出現する程度。
以前なら、巡回班だけで対処できた規模だった。
だが、今は違う。
同じ日に複数の地点でゲートが開く。出現位置も読みにくい。
市街地。商業区。学校付近。病院の近く。
人通りの多い場所を狙ったかのように、空間の裂け目が生まれる。
そのたびに、魔法少女たちは走らなければならない。休む暇などなかった。
あれから二か月。ゲートの出現頻度は、明らかに増加していた。
二か月前の大規模襲撃。
オブスキュリテが防御機構中枢施設を狙い、シティを覆う防御結界を内側から破壊しようとした事件。
結界は崩壊こそ免れた。結衣が、オブスキュリテを止めたからだ。
シティは守られた。人々は歓声を上げた。
ニュースは魔法少女たちの勝利を報じた。結衣の名は再び称賛された。
けれど、守れたという事実と、無傷だったという事実は違う。
防御結界は、深刻な損傷を受けていた。目に見える壁ではない。
市民の多くは、普段その存在を意識していない。
けれど、シティ全体を覆うその結界は、外部からの侵入を弾き、ゲートの発生を抑え、異形の出現を未然に防ぐための命綱だった。
その命綱に、無数の亀裂が入っている。
修復作業は続いている。技術班も、結界術師も、魔法少女局の職員たちも、昼夜を問わず働いている。
それでも、完全復旧にはまだ時間がかかる。
今の結界は、穴だらけだった。
侵略組織からすれば、これ以上ない狙い目だ。
ただ、あの事件を起こした組織は沈黙している。
オブスキュリテを失ったからか。戦力の再編をしているのか。
あるいは、別の作戦を準備しているのか。
理由は分からない。
だが、沈黙しているのはあの組織だけだった。
弱ったシティを、他の敵対勢力が見逃すはずもない。
小規模な異形群を操る集団。
市街地に潜伏していた魔術犯罪組織。
防御結界の隙間を狙い、ゲートを乱発する者たち。
以前なら侵入すらできなかった敵が、今は亀裂をこじ開けるように現れる。
まるで、傷口に群がる虫のように。
シティの弱り目を見逃す者はいなかった。
結衣は、閉じたゲートの跡を見つめる。空間はもう元に戻っている。
けれど、そこに残った魔力の歪みが、今のシティの不安定さを物語っていた。
「結衣先輩?」
後輩の声で、結衣は我に返る。
「あ、ごめん。少し考え事」
「大丈夫ですか? 顔色、ちょっと悪いですけど」
「平気」
結衣はすぐに笑った。
「さっきの異形、ちょっと硬かっただけ」
本当は、それだけではない。
疲れていた。体も、心も。この二か月、ずっと走り続けている。
オブスキュリテを止めた。シティを守った。
そのはずなのに、戦いは終わらなかった。
むしろ、戦う回数は増えた。
あの日、自分が勝ったことで救えたものは確かにある。
けれど、失われなかっただけで、傷つかなかったわけではない。
結界も。シティも。魔法少女たちも。そして、自分自身も。
「帰ろう」
結衣は言った。
「報告もしないといけないし」
「はい!」
後輩たちが頷く。
その時、結衣の通信端末が小さく震えた。新たな警報ではない。
戦闘終了確認の通知。
周辺区域の安全確保。
応援部隊の到着予定。
それを確認して、結衣は少しだけ安堵する。
今度こそ、戻れる。少なくとも今日のところは。そう思った。
だが、その安堵すら、どこか頼りなかった。
またすぐに呼び出されるかもしれない。
夜中にゲートが開くかもしれない。
明日には、もっと大きな異形が出るかもしれない。
そんな予感が、ずっと胸の奥に沈んでいる。
魔法少女たちは、昼夜を問わず出撃していた。
他都市へ応援に出ている魔法少女たちが戻ってくるのは、まだ先。
各地でも異形出現が増えており、このシティだけに戦力を集中させることはできない。
現場は、かなり厳しい状況だった。
それでも、結衣は歩き出す。後輩たちの先頭に立って。
背筋を伸ばして。疲れを隠して。痛みを飲み込んで。
エースとして。白瀬 結衣として。
守らなければならないものは、まだこの街に残っている。
だから、止まるわけにはいかなかった。
「しんどいねー……」
後輩の一人が、ぽつりと言った。わざと軽くした声だった。冗談のように、笑い話のように。
だが、その言葉は誰の耳にも重く響いた。
本音だったからだ。誰もすぐには否定しなかった。
路地裏の戦闘跡には、まだ異形の粒子が薄く漂っている。
閉じたゲートの残滓が、空気をわずかに歪ませていた。
魔法少女たちは、それぞれ武器を下ろし、肩で息をしている。
戦闘は終わった。被害も最小限に抑えた。怪我人もいない。
ならば勝利のはずだった。
それでも、誰の顔にも晴れやかな達成感はなかった。
「今日だけで三回目ですもんね」
別の後輩が苦笑する。
「朝、昼、夕方。夜も呼ばれたら泣くかも」
「泣きながら行くしかないけどね」
「やめて、想像できるのがつらい」
疲れた笑いが起きた。
笑っている。笑えている。
けれど、その笑いは軽くない。
みんな分かっている。次がないとは限らない。
むしろ、今のシティでは、次があると思っておいた方がいい。
午前中に出撃した時も、これで今日は終わりだと思った。
昼の出撃後も、さすがにもう来ないだろうと誰かが言った。
そして今、夕方に三度目のゲートが開いた。
夜に開かない保証など、どこにもない。
結衣は後輩たちの顔を見た。
汗。疲労。隠しきれない不安。
それでも、彼女たちはここにいる。逃げずに戦い、シティを守った。
その事実を、重くしすぎてはいけない。
結衣は、空気を少しでも軽くするように笑った。
「大丈夫」
後輩たちが、結衣を見る。
その視線に、期待が混じっていることを結衣は知っていた。
結衣先輩なら。エースなら。
白瀬 結衣なら、大丈夫だと言ってくれる。
その期待が、時々息苦しくなることもある。
けれど、今は受け止めなければならない。
結衣は拳を握った。左腕に、わずかな違和感が走る。
ほんの一瞬。顔に出すほどではない。
だが、痛みは確かにそこにあった。
二か月前。防御機構中枢施設で、オブスキュリテと戦った。
赤雷に魔力を削られ、変身を剥がされ、それでも立ち上がった。
壊れかけた体で拳を振るい、祈を止めた。あの決戦で負った傷は、表面上は癒えている。
医療班からも戦闘復帰の許可は出ている。
だが、完全に元通りではない。
左腕には、時々違和感が走る。長時間戦えば、体の奥がじくじくと痛む。魔力を無理に流せば、古傷のように熱を持つ。
自分の体が、あの日の戦いを忘れていない。そんな感覚がある。
それでも。戦える。
まだ拳は握れる。
まだ足は動く。
まだ前に立てる。
だから、結衣は笑った。
「私たちは、二か月前の大規模攻撃を防ぎ切ったんだから」
その言葉に、後輩たちの表情が少し変わった。
二か月前の大規模攻撃。オブスキュリテによる結界襲撃事件。
あの日、シティは本当に崩壊しかけた。
防御機構中枢施設が狙われ、結界は深く傷つき、街中にゲートが開いた。
魔法少女たちは各地で異形と戦い、奈央たちは前線を支え、結衣は中枢でオブスキュリテと一騎打ちをした。
あの時も、絶望的だった。
それでも守った。守り抜いた。
なら、今だって。
「きっと、守り抜けるよ」
結衣は言った。後輩たちに向けて。
そして、自分自身に言い聞かせるように。
後輩の一人が、小さく息を吐いた。
「そうですね」
「結衣先輩が言うと、本当に大丈夫な気がします」
「うん。大丈夫大丈夫」
結衣は明るく返した。少し大げさなくらいに。
後輩たちの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。緊張で固まっていた肩が落ちる。
疲れ切った笑みではある。
それでも、さっきより少しだけ前を向けている。
それでいい。今はそれだけでいい。
結衣は笑顔を保ったまま、通信端末を確認する。
周辺警戒終了。帰投許可。
追加出撃命令は、今のところなし。
その表示を見て、後輩たちが小さく歓声を上げた。
「帰れる……!」
「今のところ、だけどね」
「言わないでくださいよぉ」
また疲れた笑いが起きる。結衣も笑った。
自分でも、少し無理をしていると分かっていた。
けれど、エースが疲れた顔をすれば、後輩たちの不安は膨らむ。
自分が大丈夫だと言えば、みんな少しだけ大丈夫だと思える。
なら、笑うしかない。痛みも、不安も、胸の奥に押し込める。
今頃、局でも会議が行われているはずだった。
魔法少女たちの負担をどう減らすか。
結界が完全復旧するまで、どう持ちこたえるか。
増え続けるゲートに対して、どのように戦力を配分するか。
他都市からの応援をいつ戻せるのか。
この苦しい状況を、どう打開するのか。
きっと、桐生たち上の人間が考えている。
現場が限界に近づいていることは、誰もが分かっているはずだ。
少しでもいい案が出ることを、結衣は願った。祈っていた。
祈る。
その言葉を思い浮かべた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。
赤羽 祈。
かつて、隣にいた親友。今は、オブスキュリテとして拘束されている少女。
二か月前、結衣は彼女を止めた。
倒した。拘束した。
けれど、救えたのかと問われれば、まだ分からない。
祈はまだ、何も話してくれない。
結衣の言葉も、謝罪も、手も、簡単には届かない。
それでも、祈という名前は、結衣の中から消えなかった。
祈るたびに、祈を思い出す。
それが少し苦しくて、少しだけ怖かった。
「結衣先輩?」
後輩の声に、結衣は顔を上げる。
「あ、ごめん。なんでもない」
笑って誤魔化す。そして、視線をシティの空へ向けた。
夕暮れの雲の向こうで、薄く青い結界光が揺れている。
普段なら気づかないほど淡い光。けれど今は、その揺らぎが嫌に目についた。
まだ、守れている。街は崩れていない。人々は生活を続けている。
学校も、店も、駅も、病院も、今日も動いている。
でも。いつまでもつのか。
次に大規模な侵攻が来たら、耐えられるのか。
自分たちは、何度でも守れるのか。
それは、誰にも分からなかった。
結衣は小さく息を吸い、吐く。
不安を飲み込む。笑顔を作る。
「戻ろう」
結衣は後輩たちに言った。
「今日は本当にお疲れ様。帰ったら、ちゃんと休むこと」
「結衣先輩もですよ?」
「もちろん」
そう答えた結衣の左腕が、また少しだけ痛んだ。
けれど彼女は、拳を軽く握るだけで、何も言わなかった。
シティの空には、青い結界光が揺れている。か細く。それでも、まだ消えずに。
結衣はその光を背に、魔法少女局へ向かって歩き出した。
数時間前。魔法少女局本部では、職員会議が行われていた。
議題は一つ。増加し続けるゲート出現と、魔法少女たちの負担をどう軽減するか。
会議室の空気は重かった。
誰も大声を出しているわけではない。怒号が飛び交っているわけでもない。
だが、沈黙の一つ一つに疲労と焦燥が混じっていた。
大型モニターには、ここ二か月のゲート出現数が表示されている。
グラフは右肩上がり。最初の一週間は、まだ誤差だと言えた。結界損傷による一時的な不安定化。修復が進めば収束する。
そう考える余地があった。
だが、二週間目にはその楽観は消えた。
三週間目には、巡回計画の見直しを余儀なくされた。
一か月を過ぎる頃には、主力魔法少女たちの出撃記録が明らかに危険域へ入っていた。
そして現在。出現頻度は、なお上がっている。モニターには、数字が並ぶ。
結界損傷箇所。修復優先順位。各地区のゲート発生率。
出撃回数。魔法少女の負傷率。休養不足による魔力出力低下。
修復班の作業進捗。医療班の受け入れ限界。訓練生の緊急投入可能人数。
どの数字も、楽観できるものではなかった。
「結界復旧を前倒しできないのか」
幹部の一人が言った。
技術部門の責任者が、即座に首を横に振る。
「修復班はすでに限界です。これ以上の短縮は事故の危険があります」
「多少の危険は承知の上だ」
「多少では済みません」
技術責任者の声は硬かった。
「結界術式は、ただ穴を塞げばいいというものではありません。無理に結合すれば、局所的な反発が起きます。最悪の場合、修復箇所から連鎖的に崩壊する危険があります」
会議室が静まる。
別の幹部が口を開いた。
「他都市から魔法少女を戻すべきではないか」
「他都市でも異形出現が増加しています」
運用部門の職員が資料を切り替える。別の都市の被害予測が表示された。
「こちらだけに戦力を集中すれば、向こうが崩れます。応援に出ている部隊を全員戻すのは現実的ではありません」
「一部だけでも」
「戻せるとしても、最短で十日後です。しかも、その分だけ向こうの防衛線が薄くなります」
「警備用魔動機械の増設はどうだ」
「一定の効果はあります」
別の担当者が答える。
「ただし、ゲート発生地点が広すぎます。固定配置では対応しきれません。機動力のある機体は数が限られていますし、異形の種類によっては足止めにしかならない」
「足止めでも構わない。魔法少女が到着するまで保てばいい」
「その足止めの間に市民が巻き込まれる可能性があります」
「では、避難システムの強化は」
「アブソリュートシステムを常時展開する案は?」
「論外です。結界への負荷が大きすぎます」
「なら、どうしろと言うんだ」
声が少し荒くなった。
誰も答えられない。会議室の空気が、さらに重くなる。
桐生 聡は、渋い顔で資料に目を落としていた。
現場の疲弊は深刻だ。白瀬 結衣をはじめとする主力魔法少女たちは、ほぼ休みなく出撃している。
若手も奮闘している。だが、経験不足は否めない。
戦える。勇気もある。しかし、判断が遅れる。
追い詰められた時の対処が甘い。
突発的なゲートに対して、まだ体が反応しきれない。
その穴を、結衣たち主力が埋めている。
結果として、主力の負担がさらに増える。
奈央のような元魔法少女たちが指揮や支援に回っているとはいえ、それにも限界があった。
奈央は優秀だ。現場を見る目もある。若手を鼓舞する力もある。
だが、前線で敵を倒せるわけではない。
戦闘力を失った元魔法少女たちは、どれほど経験があっても、最後の一線では現役に頼るしかない。
このまま根性論で持たせるのは危険だった。
気合い。覚悟。責任感。
そうした言葉で現場を支え続けることはできる。
だが、それはいつか折れる。人間は消耗する。魔法少女も例外ではない。
むしろ、彼女たちは若い。
限界を無視して戦わせ続ければ、心身のどちらかが先に壊れる。
桐生はそれを分かっていた。
分かっているからこそ、打つ手が少ない現状が重かった。
「竜の星も近づいている」
年配の幹部が低く言った。
「今のままで守り切れるのか」
誰もすぐには答えない。
「防衛地点を絞るしかない」
「絞れば、捨てる地区が出る」
「捨てるとは言っていない。優先順位の問題だ」
「市民にそれをどう説明する」
「説明する前に守れなければ意味がない」
「だから、その守るための戦力が足りないと言っているんだ」
案は出る。反論も出る。
だが、決定打はない。会議は踊れど、されど進まず。
同じ問題の周囲を、ただ回り続けている。
出席者たちの表情にも、少しずつ苛立ちが見え始めていた。
誰かが水を飲む音がやけに大きく響く。
誰かが資料をめくる。
誰かがため息を飲み込む。
その時だった。
一人の男が、静かに手を上げた。
白髪交じりの髪。深く皺の刻まれた顔。
年齢は六十を越えているだろう。穏やかな表情をしている。
だが、その目には油断ならない光があった。
「どうぞ」
司会役が促す。
男はゆっくりと立ち上がった。その動作は急がない。
しかし、妙に場の視線を集めた。
「ワシに、いい考えがある」
会議室の空気がわずかに変わる。
期待ではない。警戒に近い。
この男がこういう言い方をする時、たいてい穏当な案ではない。
「うまくいけば」
白髪の男は、いつもの柔らかい口調で続けた。
「魔法少女の負担を大きく軽減できると思うねぇ」
「それは?」
幹部の一人が尋ねる。
男は、会議室をゆっくりと見回した。そして、落ち着いた声で提案を口にした。
一瞬。
誰も何も言わなかった。言葉の意味を、全員が頭の中で確認していた。
次の瞬間。会議室の空気が変わった。重かった空気が、さらに硬くなる。
誰もが顔をしかめた。
ある者は眉をひそめた。
ある者は目を伏せた。
ある者は露骨に不快そうな表情を浮かべた。
「あり得ない」
誰かが吐き捨てるように言った。
「そんなもの、現場が納得するはずがない」
「世間にどう説明するつもりですか」
「危険すぎる」
「失敗した場合、局の信頼は今度こそ終わりますよ」
「そもそも制御できる保証がない」
「魔法少女たちの感情を考えてください」
「二か月前の事件を忘れたのですか」
反対の声が次々と上がる。
白髪の男は黙って聞いていた。
怒りもしない。反論もしない。
ただ、予想していた反応だと言わんばかりに、静かに立っている。
桐生も、表情を険しくした。
提案自体は、確かに魅力的だった。うまくいけば、今もっとも足りていない部分を補える。
結界が復旧するまでの穴を埋めることもできるかもしれない。
魔法少女たちが現着するまでの時間を稼げる。
場合によっては、主力を出さずに小規模侵攻を処理できる。
魔法少女たちの出撃回数を減らすこともできる。
数字だけを見れば、検討に値する。
いや、現場の負担を考えれば、喉から手が出るほど欲しい能力だった。
だが、それは成功した場合の話だ。失敗した時のリスクは大きすぎる。
現場の反発。世間の批判。管理不能になった場合の被害。
どれも無視できない。
「現実的だと思うけどねぇ」
白髪の男は、静かに言った。
反対の声が渦巻く会議室で、彼だけが妙に落ち着いていた。
責められても、怒鳴られても、顔色を変えない。
まるで、最初からこうなることを分かっていたかのように。
「理想論では、魔法少女たちの疲労は取れない。結界も直らない。今必要なのは、使える手を使うことだよぉ」
「それを、使える手と呼ぶのですか」
幹部の一人が、低く言った。
声には嫌悪が滲んでいる。
「二か月前にこのシティを壊しかけたものですよ」
「承知しているさ」
「承知していてなお、使うと?」
「そうだとも」
白髪の男は頷いた。
「だからこそ、限定的に。慎重に。こちらの管理下に置いた上で、になるねぇ」
会議室の空気が、さらに冷えた。
「問題が起きたらどうするのですか」
別の幹部が問う。
「管理を外れた場合、誰が責任を取るのです」
白髪の男は肩をすくめた。
「その時は、この老骨の首を切ればいいでしょう」
軽い言い方だった。
だが、誰も笑わなかった。
「あなた一人で済む問題か」
誰かが低く呟いた。
その言葉に、反論は出なかった。
そう。済むはずがない。
もし失敗すれば、被害を受けるのは白髪の男一人ではない。
現場の魔法少女たち。市民。魔法少女局そのもの。
それらすべてを危険に晒すことになる。
会議室に、重い沈黙が落ちた。
それまで黙っていた司令官、上条が口を開く。
「見込みはあるのか」
周囲が一斉に上条を見た。
問いの意味は明白だった。
感情論ではない。倫理でもない。実際に使えるのか。
戦力として成立するのか。シティを守る役に立つのか。
上条は、それを問うていた。
白髪の男は、ゆっくりと頷いた。
「少なくとも、結界が元に戻るまでの間は使えるでしょうねぇ」
「根拠は」
「理論上は噛み合っています」
白髪の男は、モニターに映る結界損傷図を指した。
シティを覆う青い結界の模式図。そこには、いくつもの赤い損傷箇所が表示されている。
結界の薄くなった地点。
ゲート発生率の高い地点。
魔力の乱流が観測された地点。
白髪の男は、そのいくつかを指でなぞる。
「今、問題になっているのは、結界の隙間から発生する小規模ゲートです。完全に防ぐことはできない。だが、発生直後に魔力の流れを乱せば、異形の展開速度を落とせる」
幹部たちの表情が険しくなる。
「現着までの時間を稼げる、ということか」
「そうです」
白髪の男は頷く。
「今、魔法少女たちが苦しんでいるのは、出撃回数の多さだけではありません。どこに出るか分からない小規模ゲートに振り回されていることです」
モニターに、ここ一週間の出撃記録が表示される。
午前。午後。夜間。深夜。明け方。
赤い点が、シティ中に散らばっている。
「初動を遅らせられれば、主力を毎回走らせる必要は減る。若手でも処理できる状況を作れる。避難誘導の時間も稼げる」
「だが、そのためにあれを使うと」
幹部の一人が苦々しく言った。
桐生もまた、苦い顔をしていた。
白髪の男の言うことは、理屈としては正しい。
あの力なら、確かに今の穴を埋められるかもしれない。
ゲートの魔力流入を乱し、異形の出現を遅らせる。
小規模侵攻であれば、白瀬 結衣を出さずに処理できる可能性すらある。
だが。
理屈が正しいことと、受け入れられることは違う。
「現場にどう説明する」
桐生が問うた。
白髪の男は、淡々と答える。
「ワシが頭を下げるよ」
「それで済むと思いますか」
「済まないでしょうなぁ」
白髪の男はあっさり認めた。
「現場が反発するのは当然だ」
「ならば」
「だからこそ、慎重に扱う」
白髪の男の声が、少しだけ低くなる。
「最初から公表する必要はないねぇ。試験運用として、限定的に使えばいいでしょう。護送、監視、魔力制限、発動条件。すべてこちらで管理する」
「そもそも、対象が協力する保証は」
別の幹部が問う。
「ないねぇ」
「なら、机上の空論だ」
「だから、今から確認しに行くのさ」
白髪の男は平然と言った。その軽さに、何人かが顔をしかめる。
桐生は目を閉じた。
禁じ手だ。そう思った。
かつて魔法少女たちを恐怖に陥れ、シティを破壊しかけた存在を、今度はシティ防衛のために使う。
いくら制限しようと。いくら監視しようと。
それは、踏み越えてはいけない線に思えた。
だが同時に。これが今もっとも現実的な手段であることも、桐生は分かっていた。
使えるかもしれない。その事実は、重い。
使えば、現場の負担は減るかもしれない。
結衣を休ませられるかもしれない。
若手の負傷率を下げられるかもしれない。
結界が復旧するまで、持ちこたえられるかもしれない。
だが、使っていいのか。それは別問題だった。
上条司令官は、長く沈黙した。会議室の全員が、彼の判断を待っている。
反対派は、否決を期待している。
現実派は、口に出せないまま採用を待っている。
どちらの側も、自分たちが正しいと確信しきれてはいない。
だからこそ、上条の沈黙は重かった。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「……いいだろう」
会議室がざわめいた。
「やってみよう」
「司令官!?」
「正気ですか!」
「危険すぎます!」
「現場が納得しません!」
反対の声が一斉に上がる。
だが、上条は動じなかった。
「効果的な案が他にないのも事実だ」
低い声。それだけで、会議室の声が少し弱まる。
上条は、出席者たちを見渡した。
「結界は損傷している。修復は間に合わない。魔法少女たちは疲弊している。竜の星の接近も近い」
誰も反論できない。
「我々は、理想的な状況にいるわけではない」
上条は続ける。
「今は、使える手段は何でも使う」
その言葉に、会議室の空気がさらに重くなった。反対の声は消えなかった。
だが、司令官の決定は下された。
白髪の男は、小さく頷く。
「司令の了解が得られたなら、結構」
そう言って、彼は席を立った。年齢を感じさせる動作。
しかし、その背筋は不思議とまっすぐだった。
「どこへ?」
誰かが問う。
白髪の男は扉へ向かいながら振り返った。
「早い方がいいでしょう?」
その顔には、年齢に似合わない悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「今から、口説きに行ってみるよぉ」
会議室の誰もが、何とも言えない顔をした。
止める者はいなかった。止めたところで、もう決定は覆らない。
白髪の男はひらひらと片手を振り、会議室を出ていった。
扉が閉じる。
残された幹部たちは、誰もすぐには口を開かなかった。
先ほどまでの反対の声すら、今は途切れている。
採用された。禁じ手が。
桐生は、深く息を吐いた。禁じ手だ。
それでも、今のシティには禁じ手に手を伸ばすだけの理由がある。
そんな状況まで追い込まれてしまった。それが何より苦い。
「……白瀬隊員には」
桐生は、ぽつりと呟いた。
声は小さかったが、会議室の静けさの中でははっきり響いた。
「どう伝えるべきか」
誰も答えなかった。答えなど、簡単に出るはずがなかった。
二か月前、命を削ってその脅威を止めた魔法少女。その彼女に、何と言えばいいのか。
現場を守るために必要だから。シティを守るためだから。
そう言えば、結衣は頷くだろうか。
怒るだろうか。悲しむだろうか。
だからこそ、さらに苦かった。
上条は桐生を見た。
「必要なら、私から伝える」
「いえ」
桐生は首を横に振る。
「私が伝えます」
「そうか」
「彼女は、現場の中心です。避けては通れません」
桐生は資料を閉じた。
画面には、まだ右肩上がりのゲート出現数が残っている。そのグラフの先に、誰の名も書かれてはいない。
使うと決めた。ならば、後はその責任を背負うしかない。
桐生は会議室の扉を見つめる。白髪の男が去っていった先。
地下深く。厳重な封印術式と拘束具の奥。
そこに、禁じ手は眠っている。




