結末
魔法少女たちの勝利の報は、即座にシティ中へ広まった。
防御機構中枢施設への襲撃は阻止された。
オブスキュリテは無力化され、拘束。
異形兵は撤退。
シティ結界は一部損傷したものの、崩壊には至らなかった。
そのニュースは、避難所にいた市民たちへも、ネットへも、街頭ビジョンへも流れた。
『魔法少女、シティ崩壊を阻止』
『白瀬 結衣、オブスキュリテを撃破』
『防御機構中枢施設、守られる』
『現役エース、汚名返上』
『魔法少女局、最悪の事態を回避』
避難所の大型モニターに速報が映った時、人々の間から歓声が上がった。
子どもが泣きながら親に抱きつく。高齢者が胸を撫で下ろす。職員が崩れるように椅子へ座り込む。
誰かが手を合わせ、誰かが涙を拭い、誰かがスマートフォンを握りしめながら何度もニュースを確認していた。
街頭ビジョンでは、管制室から発表された短い声明が繰り返し流される。
シティ結界は維持された。現時点で大規模な市民被害は確認されていない。
魔法少女部隊は各地で異形兵を撃退した。
そして、白瀬 結衣がオブスキュリテを無力化した。
その名前が流れた瞬間、ネットは一気に騒がしくなった。
『白瀬 結衣、マジでやったのか』
『エース復活じゃん』
『前回叩いてたやつら息してる?』
『やっぱり魔法少女って必要なんだな』
『結衣ちゃん信じてた』
『オブスキュリテ倒したの熱すぎる』
『魔法少女ありがとう』
『白瀬 結衣こそ本物のエース』
世間は、手のひらを返したように魔法少女を称賛した。
つい先日まで、侵略者に見逃された魔法少女たちと叩いていた口が、今度は彼女たちを希望と呼んだ。
もし敵がその気なら全滅していた。防御機構はまた役に立たなかった。
白瀬 結衣にエースの資格はあるのか。二年前から何も学んでいない。
そんな言葉を並べていた人々が、今度は熱に浮かされたように彼女たちを持ち上げる。
やはり魔法少女は必要だ。彼女たちがいたからシティは救われた。
白瀬 結衣は本物だった。現役エースの名は伊達ではなかった。
ネットニュースの見出しも、動画配信者のサムネイルも、評論家の言葉も、一夜にして色を変えた。
昨日までの疑念が、今日には美談へ変わる。
昨日までの批判が、今日には称賛へ変わる。
その変わり身の早さに、結衣は複雑な気持ちになった。
医療区画のベッドの上。左腕を固定され、全身に治療用の術式を貼られた状態で、結衣は端末に流れてくるニュースを見ていた。
体はまだ重い。腹の痛みも残っている。
左腕はしばらくまともに動かせないと言われた。
魔力回路にも赫塵の影響が残っていて、変身許可はしばらく下りないらしい。
それでも、命に別状はない。それは幸運だった。
祈も生きている。厳重な拘束下で治療を受けていると聞いた。
意識はまだ戻っていない。でも、呼吸は安定している。
その報告を聞いた時、結衣は泣きそうになった。
守れた。シティを守れた。後輩たちを守れた。
そして、祈を殺さずに止められた。
その事実だけは、胸の奥を少しだけあたためてくれた。
称賛が嬉しくないわけではない。
魔法少女として、人々にありがとうと言われること。
エースとして、街を守ったのだと認められること。
それは、確かに報われることだった。
努力してきた日々。血を滲ませた訓練。怖くても逃げなかったこと。
全部が無駄ではなかったと思える。
だから、嬉しさはある。誇りもある。
けれど同時に、思わずにはいられない。
二年前も、こうだったのだ。
人々は、簡単に誰かを持ち上げる。
そして、簡単に誰かを叩き落とす。
ステージの上で輝いていた魔法少女を、希望と呼ぶ。
その魔法少女が失敗したように見えた瞬間、罪人に変える。
誰かが犠牲になれば、分かりやすい犯人を探す。
叩ける相手を見つければ、正義の顔で石を投げる。
そして、相手が姿を消せば、今度はかわいそうだったと言う。
追い詰めすぎだったと言う。誰かが守ってあげるべきだったと言う。
その中で、祈は壊された。
赤羽 祈は、世間の熱に焼かれた。
魔法少女局の鈍さに置き去りにされた。
親友だった結衣の臆病さにも、見捨てられた。結衣は、それを忘れない。忘れてはいけない。
だから、称賛の声を浴びても、ただ笑うことはできなかった。
『白瀬 結衣はシティの英雄』
そんな見出しを見た時、結衣の胸は少しだけ痛んだ。
英雄。
その言葉は、あまりにも軽く見えた。
昨日まで疑っていた人たちが、今日には英雄と呼ぶ。
もし次に失敗すれば、明日にはまた叩き落とすのだろう。そのことが、結衣には分かってしまった。
それでも。
端末を閉じた結衣は、窓の外を見た。医療区画の窓から、シティの空が見える。
結界の光は、まだ不安定だった。完全な青ではない。ところどころに、赤い揺らぎの名残がある。修復には時間がかかるだろう。
戦いも、これで終わりではない。
オブスキュリテを倒しても、侵略組織が消えたわけではない。
祈の罪も、結衣の罪も、二年前の真実も、何一つ綺麗には片づいていない。
それでも。
今は、少しだけ胸を張っていいのかもしれないと思った。
自分が称賛されたからではない。世間が手のひらを返したからでもない。
魔法少女として。エースとして。
そして、赤羽 祈の親友として。
結衣は、あの子を止めた。あの子が、本当に戻れない場所へ行ってしまう前に。
その事実だけは、誰に褒められなくても、誰に叩かれても、変わらない。
結衣は、固定された左腕を見下ろす。痛みはある。
でも、その痛みすら、今は少しだけ確かなものに思えた。
これは、祈を止めた痛みだ。
二年前に動けなかった自分が、ようやく一歩踏み出した証だ。
結衣は、小さく息を吐いた。
「……まだ、終わってないよね」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
祈へか。
自分へか。
それとも、このシティへか。
返事はない。
医療区画の機械音だけが、静かに鳴っている。
それでも結衣は、窓の外の青く戻り始めた結界を見つめ続けた。
胸の奥には、晴れやかさと苦さが同時にあった。
人々を守れた喜び。祈を止められた安堵。世間の軽さへの違和感。二年前の後悔。
全部が混ざって、綺麗な勝利にはならなかった。
けれど、それでいいのかもしれない。
少なくとも、結衣にとってこの勝利は、綺麗なものではなかった。
血と痛みと後悔の上に、ようやく掴んだものだった。
だからこそ、忘れない。
称賛されても。英雄と呼ばれても。赤羽 祈が壊された日のことを。
そして、今度こそ彼女を止めると決めた日のことを。
結衣は、静かに目を閉じた。
その胸の奥で、ほんの小さな光だけが、消えずに残っていた。
捕らえられたオブスキュリテは、ひたすら黙秘を貫いた。
侵略組織のこと。ストレガのこと。
二年間、どこで、何をしていたのか。
どうやって魔法少女局の情報を得たのか。
なぜライブ会場を襲ったのか。
なぜ魔法少女局本部を襲撃したのか。
なぜ防御機構中枢施設を狙ったのか。
動機も。経緯も。協力者も。
彼女の背後にいる者たちの名前も。
何を聞かれても、彼女は答えなかった。
取り調べ室の椅子に座り、ただ静かに視線を伏せているだけだった。
黒い拘束衣。両手首には、魔力封じの腕輪。足首にも逃走防止用の拘束具がはめられている。
部屋の四隅には、対魔法少女用の封印術式が刻まれていた。
魔力の流れを常時監視する機械が、低い音を立てている。
変身はできない。魔法も使えない。 赫塵は発動しない。
世界を壊すものを名乗った少女は、今や椅子に座らされた一人の囚人にすぎなかった。
それでも、誰も油断はしなかった。
尋問官も。警備員も。記録係も。
そして、ガラス越しに彼女を見ていた局の幹部たちも。
赤羽 祈の顔をした少女は、静かに座っている。顔立ちは穏やかですらあった。
目を伏せ、背筋を伸ばし、何かを待つようにただそこにいる。
だが、その沈黙は薄い膜のように硬かった。
問いかけても、返事はない。
資料を突きつけても、反応はない。
組織の名前を出しても、まぶたすら動かない。
ストレガの名を告げた時も、彼女は何も言わなかった。
ただ一度だけ。
白瀬 結衣の容体を尋ねるように、尋問官がわざとその名を口にした時だけ。
オブスキュリテの指先が、ほんのわずかに動いた。
それだけだった。言葉はなかった。視線も上げなかった。
だから、それが動揺だったのか、怒りだったのか、あるいは単なる痙攣だったのか、誰にも分からなかった。
裁判は、秘密裏に行われた。そして、異例の速さで進んだ。
世間には、詳細はほとんど明かされなかった。発表されたのは、必要最低限の事実だけだった。
オブスキュリテは魔法少女局により拘束された。
複数の襲撃事件への関与が確認された。現在、司法手続きに移行している。
それ以上の情報は、伏せられた。
元魔法少女であること。赤羽 祈であること。
二年前の大規模襲撃事件に関わる被害者でもあること。
それらは、世間に公表されなかった。公表すれば、また騒ぎになる。
誰かが彼女を断罪する。
誰かが彼女に同情する。
誰かが二年前の事件を掘り返す。
そして、その熱は必ず、赤羽家にも、白瀬 結衣にも、魔法少女局にも向かう。
局はそれを恐れた。同時に、今度こそ守らなければならないという思いもあった。
遅すぎる保護。遅すぎる沈黙。
それが正しいのかどうかは、誰にも分からなかった。
裁判の場でも、オブスキュリテは何も語らなかった。黒い拘束衣のまま、被告席に座っている。
傍聴席に一般人はいない。報道関係者もいない。限られた司法関係者。魔法少女局の代表者。
そして、事件に関わる最低限の証人だけがそこにいた。
罪状は重かった。
侵略組織への協力。魔法少女ライブ会場への襲撃。
魔法少女局本部への不法侵入および資料奪取。
魔法少女への攻撃。
防御機構中枢施設への襲撃。
シティ結界破壊未遂。
どれも、軽く扱えるものではない。
彼女がやろうとしたことは、シティそのものを危険に晒す行為だった。
もし白瀬 結衣が止めていなければ、被害は計り知れなかった。
病院。避難区域。結界の外縁部。
まだ逃げ切れていなかった市民たち。多くの命が失われていた可能性がある。
その一方で、実害は想定よりも大きくなかった。
ライブ襲撃では、多数の魔法少女を無力化したが、殺害はしていない。
観客にも意図的な殺傷は行っていない。
魔法少女局本部襲撃でも、主目的は資料の奪取であり、死者は出ていない。
防御機構中枢施設襲撃は未遂に終わった。
さらに、二年前の大規模襲撃事件における彼女の被害性も考慮された。
彼女は未成年だった。
世間から激しい批判を受け、家庭も学校も崩れた。
魔法少女局の保護も十分ではなかった。
失踪後、侵略組織に取り込まれた経緯についても、本人が語らないため詳細は不明だったが、自発的にすべてを選んだと断じるには不確定な要素が多かった。
被告人は、加害者である。
だが、同時に被害者でもある。
その矛盾を、裁判は無視できなかった。
下された判決は、禁固五年。
重いとも、軽いとも言えない数字だった。
シティを危険に晒した罪としては、軽すぎる。
二年前に壊された少女の末路としては、重すぎる。
誰の胸にも、すっきりと収まらない判決だった。
裁判官が判決を読み上げる間、オブスキュリテは黙っていた。
反省の言葉もない。弁明もない。謝罪もない。怒りもない。
何一つ、口にしなかった。
ただ、判決を聞いた時だけ。
禁固五年。その言葉が法廷に落ちた瞬間だけ。彼女は、ほんのわずかに目を伏せた。
それは失望だったのか。
安堵だったのか。
怒りだったのか。
それとも、五年という時間の重さを、ようやく実感したのか。誰にも分からなかった。
オブスキュリテは最後まで何も言わない。
裁判が終わり、拘束具をつけた警備員に促されても、抵抗しなかった。
立ち上がり、静かに歩き出す。その背中は小さかった。
シティを壊そうとした敵幹部には見えなかった。
かといって、ただの被害者にも見えなかった。
赤羽 祈。
オブスキュリテ。
そのどちらでもあり、どちらにもなりきれない少女。
彼女は、何も語らないまま、再び閉ざされた扉の向こうへ連れて行かれた。
重い扉が閉まる。金属音が響く。
その音を最後に、法廷には静寂だけが残った。
後日。結衣は、面会室にいた。
白い壁。固定された椅子。
机の中央を隔てる、厚い透明な隔壁。
部屋の隅では、監視用の魔動カメラが淡い光を放っている。
魔法を封じるための術式が床と壁に刻まれ、面会者と収監者の間には、物理的にも魔法的にも越えられない距離があった。
その向こう側に、オブスキュリテが座っている。
いや。赤羽 祈が座っている。結衣は、そう思った。
魔力封じの腕輪は外されていない。拘束衣もそのままだ。
髪は少し短く整えられ、顔色は以前よりもいくらか落ち着いて見えた。
けれど、その目は結衣を見なかった。祈は椅子に座ったまま、視線を斜め下へ落としている。
結衣が入ってきた時も。椅子を引いた時も。透明な隔壁の向こうに座った時も。
彼女は、まぶたひとつ動かさなかった。
結衣は椅子に座り、少しだけ笑った。笑えているかは分からない。
左腕はまだ包帯で固定されている。決戦で砕けた骨は、魔法医療でも完治まで時間がかかるらしい。
動かそうとすると、鈍い痛みが走る。
けれど、その痛みがあるからこそ、あの日のことが夢ではなかったのだと分かる。
自分は祈を止めた。祈は生きている。今、目の前にいる。
隔壁の向こう側に。手の届かない場所に。
「聞いたよ」
結衣は口を開いた。声は思っていたよりも小さかった。
「五年だってね」
祈は答えない。
「長いね」
沈黙。
面会室の空調音だけが響いている。
かすかに唸る封印術式の音。
遠くの廊下を誰かが歩く足音。
それだけ。
祈は何も言わない。結衣の方を見ようともしない。
結衣は膝の上で右手を握った。左腕はまだ動かせない。
「私も、しばらく前線復帰は無理だって」
結衣は苦笑した。
「奈央さんには、ちょうどいいから少し休めって言われた」
反応はない。冗談としては、ひどく空回りしていた。
けれど結衣は、そこで言葉を止めなかった。
今日ここへ来たのは、返事をもらうためではない。
祈が話してくれると思って来たわけでもない。
ただ、自分が逃げないために来た。もう二度と、返事をしないまま背を向けないために。
「シティは、だいぶ落ち着いてきたよ」
結衣は続ける。
「壊れた結界も修復中。まだ完全じゃないけど、管制班の人たちが頑張ってる。ミオたちも元気。……まあ、元気って言っても、みんな結構疲れてるけど」
祈は動かない。
「赤い雷のことは、まだ怖いみたい」
その言葉を口にした瞬間、結衣の胸が少し痛んだ。
ミオの顔を思い出す。医療区画で、自分は怖かったですと言った後輩の声。
祈は被害者だった。
でも、ミオもまた、祈に傷つけられた被害者だった。
それを、なかったことにはできない。
「それでも、みんな頑張ってる」
祈の指が、ほんのわずかに動いた。拘束衣の袖口の中で、指先が微かに曲がる。
結衣はそれに気づいた。
でも、何も言わなかった。見逃したふりをした。
追い詰めるために来たのではない。
言葉を引き出すために来たのでもない。
「二年前のことも、少しずつ調べる」
その言葉に、祈のまつ毛がかすかに揺れた。
結衣は、隔壁越しに祈を見つめる。視線は返ってこない。
それでも、届くように言った。
「局が何を隠していたのか。防御機構がどうして動かなかったのか。あなた一人に背負わせたものが何だったのか。ちゃんと知る」
沈黙。祈は何も言わない。
結衣は続けた。
「でも、それで全部が元に戻るとは思ってない」
声を落とす。静かに。逃げないように。
「あなたがしたことも、消えない。私がしなかったことも、消えない」
祈の肩が、ほんの少しだけ強張ったように見えた。
でも、それだけだった。
反論もない。怒りもない。謝罪もない。
結衣は、自分の膝の上の手を見る。
右手の指が震えていた。それを隠すように握り込む。
「だから、待つよ」
結衣は顔を上げた。
「私は待ってる」
祈の視線が、ほんの少しだけ結衣へ向いた。本当に少しだけ。
伏せられていた目が、わずかに上がる。
隔壁越しに、一瞬だけ視線が触れそうになった。
結衣は息を呑みそうになるのを堪えた。
「あなたが話してくれるまで。怒ってくれるまで。私を責めてくれるまで」
胸の奥が痛む。でも、言葉は止めない。
「何年かかっても、待つ」
結衣は、少しだけ笑った。
「あなたの親友として」
親友。
その言葉に、祈の肩がわずかに反応した。本当にわずかだった。
透明な隔壁越しでなければ、見逃していたかもしれないくらいの動き。
けれど、確かに揺れた。
結衣の胸が熱くなる。
何か言ってくれるかもしれない。怒ってくれるかもしれない。
馬鹿じゃないの、と吐き捨ててくれるかもしれない。
そんな期待が、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。
祈。
そう呼びたくなる。
透明な隔壁に手を伸ばしたくなる。
けれど、祈は結局、何も言わなかった。
視線を逸らし、唇を閉ざしたまま、沈黙を選んだ。
結衣は、胸の奥が少し痛んだ。
それでも、失望はしなかった。
五年。
長い時間だ。
けれど、二年前に手を伸ばせなかった自分には、それくらい待つ責任があると思った。
すぐに許されると思ってはいけない。
すぐに話してもらえると思ってはいけない。
祈の沈黙も、拒絶も、怒りも、全部受け止める。そう決めて、ここへ来たのだから。
「また来るね」
結衣は立ち上がった。椅子が小さく軋む。
祈は答えなかった。
「今度は、何か甘いものの話でもするよ。差し入れは無理かもしれないけど」
冗談めかして言ってみる。反応はない。
でも、結衣は少しだけ笑った。
昔、訓練帰りに二人で食べたケーキの味を思い出した。
祈が、甘すぎると言いながらも最後まで食べていたこと。
結衣の皿から一口奪って、こっちの方が美味しいと笑ったこと。
そんな小さな記憶が、胸を締めつける。
結衣は、静かに頭を下げた。
「じゃあ、また」
面会室を出る。扉が閉じる。
厚い扉の向こうへ、結衣の足音が遠ざかっていく。
部屋に一人残されたオブスキュリテは、しばらく何も動かなかった。
隔壁の向こうには、もう誰もいない。
結衣が座っていた椅子だけが、空のまま残されている。
面会時間の終了を告げる小さなランプが、壁際で淡く光っていた。
親友。
その言葉が、耳の奥に残っている。
結衣の声。待っていると言った顔。また来るね、と言った背中。
くだらない。
そう思う。
今さら何を待つというのか。今さら何を取り戻せるというのか。
赤羽 祈は死んだ。
オブスキュリテは負けた。
魔法も封じられた。
五年。檻の中で過ごす時間。
これで終わり。
そう思うべきだった。
そう思えば楽だった。
結衣の言葉を切り捨てる。
親友という響きを踏みにじる。
待っているという甘い言葉を笑い飛ばす。
そうできれば、どれほど楽だっただろう。
だが、オブスキュリテの目は死んでいなかった。
伏せられていた瞳の奥に、暗い火が残っている。
怒り。憎しみ。後悔。敗北の屈辱。
そして、まだ名付けられない何か。
結衣の拳に倒された瞬間。あの言葉が、今も胸に残っている。
今回も、私の勝ちだね。
昔と同じ言い方だった。
夕焼けの訓練場で、何度も聞いた声。
もう一回よ、と自分が悔しがった記憶。
結衣が笑って、じゃああと一回だけねと言った記憶。
懐かしくて。腹立たしくて。
どうしようもなく、痛かった。
オブスキュリテは、拘束された手をゆっくりと握る。
腕輪が小さく音を立てた。魔力は封じられている。赫塵は使えない。
今の自分は、ただの囚人だ。
それでも、胸の奥の火までは消えていない。
「まだ終わらないわ」
誰に聞かせるでもなく、彼女は呟く。その声は、低く、暗い。
「そうでしょう、ストレガ」
面会室には、誰もいない。監視カメラの光が、静かに瞬いているだけ。
それでも、どこかで。どこか遠くで。
湿った笑い声が聞こえたような気がした。
オブスキュリテは顔を上げない。ただ、唇の端をほんのわずかに歪める。
赤羽 祈は、まだ救われていない。
白瀬 結衣の戦いも、まだ終わっていない。
けれど、それでも。
二年前に伸ばせなかった手は、確かに一度だけ届いた。
届いたからこそ、痛みが残った。
届いたからこそ、終われなくなった。
だからこれは、終わりではない。
始まりなのだ。
祈りを捨てた少女と。
それでも手を伸ばす少女の。
壊れた親友たちの、長い物語の始まりだった。




