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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
1章

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結末

 魔法少女たちの勝利の報は、即座にシティ中へ広まった。


 防御機構中枢施設への襲撃は阻止された。

 オブスキュリテは無力化され、拘束。

 異形兵は撤退。

 シティ結界は一部損傷したものの、崩壊には至らなかった。


 そのニュースは、避難所にいた市民たちへも、ネットへも、街頭ビジョンへも流れた。


『魔法少女、シティ崩壊を阻止』


『白瀬 結衣、オブスキュリテを撃破』


『防御機構中枢施設、守られる』


『現役エース、汚名返上』


『魔法少女局、最悪の事態を回避』


 避難所の大型モニターに速報が映った時、人々の間から歓声が上がった。

 子どもが泣きながら親に抱きつく。高齢者が胸を撫で下ろす。職員が崩れるように椅子へ座り込む。

 誰かが手を合わせ、誰かが涙を拭い、誰かがスマートフォンを握りしめながら何度もニュースを確認していた。


 街頭ビジョンでは、管制室から発表された短い声明が繰り返し流される。


 シティ結界は維持された。現時点で大規模な市民被害は確認されていない。

 魔法少女部隊は各地で異形兵を撃退した。

 そして、白瀬 結衣がオブスキュリテを無力化した。

 その名前が流れた瞬間、ネットは一気に騒がしくなった。


『白瀬 結衣、マジでやったのか』


『エース復活じゃん』


『前回叩いてたやつら息してる?』


『やっぱり魔法少女って必要なんだな』


『結衣ちゃん信じてた』


『オブスキュリテ倒したの熱すぎる』


『魔法少女ありがとう』


『白瀬 結衣こそ本物のエース』


 世間は、手のひらを返したように魔法少女を称賛した。

 つい先日まで、侵略者に見逃された魔法少女たちと叩いていた口が、今度は彼女たちを希望と呼んだ。


 もし敵がその気なら全滅していた。防御機構はまた役に立たなかった。

 白瀬 結衣にエースの資格はあるのか。二年前から何も学んでいない。

 そんな言葉を並べていた人々が、今度は熱に浮かされたように彼女たちを持ち上げる。


 やはり魔法少女は必要だ。彼女たちがいたからシティは救われた。

 白瀬 結衣は本物だった。現役エースの名は伊達ではなかった。


 ネットニュースの見出しも、動画配信者のサムネイルも、評論家の言葉も、一夜にして色を変えた。


 昨日までの疑念が、今日には美談へ変わる。

 昨日までの批判が、今日には称賛へ変わる。


 その変わり身の早さに、結衣は複雑な気持ちになった。


 医療区画のベッドの上。左腕を固定され、全身に治療用の術式を貼られた状態で、結衣は端末に流れてくるニュースを見ていた。

 体はまだ重い。腹の痛みも残っている。

 左腕はしばらくまともに動かせないと言われた。

 魔力回路にも赫塵かくじんの影響が残っていて、変身許可はしばらく下りないらしい。

 それでも、命に別状はない。それは幸運だった。


 祈も生きている。厳重な拘束下で治療を受けていると聞いた。

 意識はまだ戻っていない。でも、呼吸は安定している。

 その報告を聞いた時、結衣は泣きそうになった。


 守れた。シティを守れた。後輩たちを守れた。

 そして、祈を殺さずに止められた。

 その事実だけは、胸の奥を少しだけあたためてくれた。


 称賛が嬉しくないわけではない。

 魔法少女として、人々にありがとうと言われること。

 エースとして、街を守ったのだと認められること。

 それは、確かに報われることだった。


 努力してきた日々。血を滲ませた訓練。怖くても逃げなかったこと。

 全部が無駄ではなかったと思える。


 だから、嬉しさはある。誇りもある。

 けれど同時に、思わずにはいられない。

 二年前も、こうだったのだ。


 人々は、簡単に誰かを持ち上げる。

 そして、簡単に誰かを叩き落とす。


 ステージの上で輝いていた魔法少女を、希望と呼ぶ。

 その魔法少女が失敗したように見えた瞬間、罪人に変える。


 誰かが犠牲になれば、分かりやすい犯人を探す。

 叩ける相手を見つければ、正義の顔で石を投げる。


 そして、相手が姿を消せば、今度はかわいそうだったと言う。

 追い詰めすぎだったと言う。誰かが守ってあげるべきだったと言う。


 その中で、祈は壊された。

 赤羽 祈は、世間の熱に焼かれた。

 魔法少女局の鈍さに置き去りにされた。

 親友だった結衣の臆病さにも、見捨てられた。結衣は、それを忘れない。忘れてはいけない。


 だから、称賛の声を浴びても、ただ笑うことはできなかった。


『白瀬 結衣はシティの英雄』


 そんな見出しを見た時、結衣の胸は少しだけ痛んだ。


 英雄。


 その言葉は、あまりにも軽く見えた。

 昨日まで疑っていた人たちが、今日には英雄と呼ぶ。

 もし次に失敗すれば、明日にはまた叩き落とすのだろう。そのことが、結衣には分かってしまった。


 それでも。


 端末を閉じた結衣は、窓の外を見た。医療区画の窓から、シティの空が見える。

 結界の光は、まだ不安定だった。完全な青ではない。ところどころに、赤い揺らぎの名残がある。修復には時間がかかるだろう。

 戦いも、これで終わりではない。


 オブスキュリテを倒しても、侵略組織が消えたわけではない。

 祈の罪も、結衣の罪も、二年前の真実も、何一つ綺麗には片づいていない。


 それでも。


 今は、少しだけ胸を張っていいのかもしれないと思った。

 自分が称賛されたからではない。世間が手のひらを返したからでもない。


 魔法少女として。エースとして。

 そして、赤羽 祈の親友として。


 結衣は、あの子を止めた。あの子が、本当に戻れない場所へ行ってしまう前に。

 その事実だけは、誰に褒められなくても、誰に叩かれても、変わらない。


 結衣は、固定された左腕を見下ろす。痛みはある。

 でも、その痛みすら、今は少しだけ確かなものに思えた。

 これは、祈を止めた痛みだ。

 二年前に動けなかった自分が、ようやく一歩踏み出した証だ。

 結衣は、小さく息を吐いた。


「……まだ、終わってないよね」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 祈へか。

 自分へか。

 それとも、このシティへか。

 返事はない。


 医療区画の機械音だけが、静かに鳴っている。

 それでも結衣は、窓の外の青く戻り始めた結界を見つめ続けた。


 胸の奥には、晴れやかさと苦さが同時にあった。

 人々を守れた喜び。祈を止められた安堵。世間の軽さへの違和感。二年前の後悔。

 全部が混ざって、綺麗な勝利にはならなかった。

 けれど、それでいいのかもしれない。


 少なくとも、結衣にとってこの勝利は、綺麗なものではなかった。

 血と痛みと後悔の上に、ようやく掴んだものだった。


 だからこそ、忘れない。

 称賛されても。英雄と呼ばれても。赤羽 祈が壊された日のことを。

 そして、今度こそ彼女を止めると決めた日のことを。


 結衣は、静かに目を閉じた。

 その胸の奥で、ほんの小さな光だけが、消えずに残っていた。





 捕らえられたオブスキュリテは、ひたすら黙秘を貫いた。


 侵略組織のこと。ストレガのこと。

 二年間、どこで、何をしていたのか。

 どうやって魔法少女局の情報を得たのか。

 なぜライブ会場を襲ったのか。

 なぜ魔法少女局本部を襲撃したのか。

 なぜ防御機構中枢施設を狙ったのか。


 動機も。経緯も。協力者も。

 彼女の背後にいる者たちの名前も。

 何を聞かれても、彼女は答えなかった。


 取り調べ室の椅子に座り、ただ静かに視線を伏せているだけだった。

 黒い拘束衣。両手首には、魔力封じの腕輪。足首にも逃走防止用の拘束具がはめられている。

 部屋の四隅には、対魔法少女用の封印術式が刻まれていた。

 魔力の流れを常時監視する機械が、低い音を立てている。


 変身はできない。魔法も使えない。 赫塵は発動しない。


 世界を壊すものを名乗った少女は、今や椅子に座らされた一人の囚人にすぎなかった。

 それでも、誰も油断はしなかった。

 尋問官も。警備員も。記録係も。

 そして、ガラス越しに彼女を見ていた局の幹部たちも。


 赤羽 祈の顔をした少女は、静かに座っている。顔立ちは穏やかですらあった。

 目を伏せ、背筋を伸ばし、何かを待つようにただそこにいる。

 だが、その沈黙は薄い膜のように硬かった。


 問いかけても、返事はない。

 資料を突きつけても、反応はない。

 組織の名前を出しても、まぶたすら動かない。

 ストレガの名を告げた時も、彼女は何も言わなかった。


 ただ一度だけ。


 白瀬 結衣の容体を尋ねるように、尋問官がわざとその名を口にした時だけ。

 オブスキュリテの指先が、ほんのわずかに動いた。

 それだけだった。言葉はなかった。視線も上げなかった。

 だから、それが動揺だったのか、怒りだったのか、あるいは単なる痙攣だったのか、誰にも分からなかった。


 裁判は、秘密裏に行われた。そして、異例の速さで進んだ。

 世間には、詳細はほとんど明かされなかった。発表されたのは、必要最低限の事実だけだった。


 オブスキュリテは魔法少女局により拘束された。

 複数の襲撃事件への関与が確認された。現在、司法手続きに移行している。

 それ以上の情報は、伏せられた。


 元魔法少女であること。赤羽 祈であること。

 二年前の大規模襲撃事件に関わる被害者でもあること。

 それらは、世間に公表されなかった。公表すれば、また騒ぎになる。


 誰かが彼女を断罪する。

 誰かが彼女に同情する。

 誰かが二年前の事件を掘り返す。

 そして、その熱は必ず、赤羽家にも、白瀬 結衣にも、魔法少女局にも向かう。


 局はそれを恐れた。同時に、今度こそ守らなければならないという思いもあった。

 遅すぎる保護。遅すぎる沈黙。

 それが正しいのかどうかは、誰にも分からなかった。


 裁判の場でも、オブスキュリテは何も語らなかった。黒い拘束衣のまま、被告席に座っている。

 傍聴席に一般人はいない。報道関係者もいない。限られた司法関係者。魔法少女局の代表者。

 そして、事件に関わる最低限の証人だけがそこにいた。


 罪状は重かった。

 侵略組織への協力。魔法少女ライブ会場への襲撃。

 魔法少女局本部への不法侵入および資料奪取。

 魔法少女への攻撃。

 防御機構中枢施設への襲撃。

 シティ結界破壊未遂。


 どれも、軽く扱えるものではない。

 彼女がやろうとしたことは、シティそのものを危険に晒す行為だった。

 もし白瀬 結衣が止めていなければ、被害は計り知れなかった。


 病院。避難区域。結界の外縁部。

 まだ逃げ切れていなかった市民たち。多くの命が失われていた可能性がある。


 その一方で、実害は想定よりも大きくなかった。


 ライブ襲撃では、多数の魔法少女を無力化したが、殺害はしていない。

 観客にも意図的な殺傷は行っていない。

 魔法少女局本部襲撃でも、主目的は資料の奪取であり、死者は出ていない。

 防御機構中枢施設襲撃は未遂に終わった。


 さらに、二年前の大規模襲撃事件における彼女の被害性も考慮された。


 彼女は未成年だった。

 世間から激しい批判を受け、家庭も学校も崩れた。

 魔法少女局の保護も十分ではなかった。


 失踪後、侵略組織に取り込まれた経緯についても、本人が語らないため詳細は不明だったが、自発的にすべてを選んだと断じるには不確定な要素が多かった。


 被告人は、加害者である。

 だが、同時に被害者でもある。

 その矛盾を、裁判は無視できなかった。


 下された判決は、禁固五年。

 重いとも、軽いとも言えない数字だった。


 シティを危険に晒した罪としては、軽すぎる。

 二年前に壊された少女の末路としては、重すぎる。

 誰の胸にも、すっきりと収まらない判決だった。


 裁判官が判決を読み上げる間、オブスキュリテは黙っていた。

 反省の言葉もない。弁明もない。謝罪もない。怒りもない。

 何一つ、口にしなかった。


 ただ、判決を聞いた時だけ。

 禁固五年。その言葉が法廷に落ちた瞬間だけ。彼女は、ほんのわずかに目を伏せた。

 それは失望だったのか。

 安堵だったのか。

 怒りだったのか。

 それとも、五年という時間の重さを、ようやく実感したのか。誰にも分からなかった。


 オブスキュリテは最後まで何も言わない。

 裁判が終わり、拘束具をつけた警備員に促されても、抵抗しなかった。

 立ち上がり、静かに歩き出す。その背中は小さかった。

 シティを壊そうとした敵幹部には見えなかった。

 かといって、ただの被害者にも見えなかった。


 赤羽 祈。


 オブスキュリテ。


 そのどちらでもあり、どちらにもなりきれない少女。

 彼女は、何も語らないまま、再び閉ざされた扉の向こうへ連れて行かれた。

 重い扉が閉まる。金属音が響く。

 その音を最後に、法廷には静寂だけが残った。


 


 後日。結衣は、面会室にいた。

 白い壁。固定された椅子。

 机の中央を隔てる、厚い透明な隔壁。

 部屋の隅では、監視用の魔動カメラが淡い光を放っている。


 魔法を封じるための術式が床と壁に刻まれ、面会者と収監者の間には、物理的にも魔法的にも越えられない距離があった。


 その向こう側に、オブスキュリテが座っている。

 いや。赤羽 祈が座っている。結衣は、そう思った。


 魔力封じの腕輪は外されていない。拘束衣もそのままだ。

 髪は少し短く整えられ、顔色は以前よりもいくらか落ち着いて見えた。

 けれど、その目は結衣を見なかった。祈は椅子に座ったまま、視線を斜め下へ落としている。


 結衣が入ってきた時も。椅子を引いた時も。透明な隔壁の向こうに座った時も。

 彼女は、まぶたひとつ動かさなかった。


 結衣は椅子に座り、少しだけ笑った。笑えているかは分からない。

 左腕はまだ包帯で固定されている。決戦で砕けた骨は、魔法医療でも完治まで時間がかかるらしい。

 動かそうとすると、鈍い痛みが走る。

 けれど、その痛みがあるからこそ、あの日のことが夢ではなかったのだと分かる。


 自分は祈を止めた。祈は生きている。今、目の前にいる。

 隔壁の向こう側に。手の届かない場所に。


「聞いたよ」


 結衣は口を開いた。声は思っていたよりも小さかった。


「五年だってね」


 祈は答えない。


「長いね」


 沈黙。

 面会室の空調音だけが響いている。

 かすかに唸る封印術式の音。

 遠くの廊下を誰かが歩く足音。


 それだけ。


 祈は何も言わない。結衣の方を見ようともしない。

 結衣は膝の上で右手を握った。左腕はまだ動かせない。


「私も、しばらく前線復帰は無理だって」


 結衣は苦笑した。


「奈央さんには、ちょうどいいから少し休めって言われた」


 反応はない。冗談としては、ひどく空回りしていた。

 けれど結衣は、そこで言葉を止めなかった。

 今日ここへ来たのは、返事をもらうためではない。

 祈が話してくれると思って来たわけでもない。

 ただ、自分が逃げないために来た。もう二度と、返事をしないまま背を向けないために。


「シティは、だいぶ落ち着いてきたよ」


 結衣は続ける。


「壊れた結界も修復中。まだ完全じゃないけど、管制班の人たちが頑張ってる。ミオたちも元気。……まあ、元気って言っても、みんな結構疲れてるけど」


 祈は動かない。


「赤い雷のことは、まだ怖いみたい」


 その言葉を口にした瞬間、結衣の胸が少し痛んだ。

 ミオの顔を思い出す。医療区画で、自分は怖かったですと言った後輩の声。


 祈は被害者だった。

 でも、ミオもまた、祈に傷つけられた被害者だった。

 それを、なかったことにはできない。


「それでも、みんな頑張ってる」


 祈の指が、ほんのわずかに動いた。拘束衣の袖口の中で、指先が微かに曲がる。

 結衣はそれに気づいた。

 でも、何も言わなかった。見逃したふりをした。


 追い詰めるために来たのではない。

 言葉を引き出すために来たのでもない。


「二年前のことも、少しずつ調べる」


 その言葉に、祈のまつ毛がかすかに揺れた。

 結衣は、隔壁越しに祈を見つめる。視線は返ってこない。

 それでも、届くように言った。


「局が何を隠していたのか。防御機構がどうして動かなかったのか。あなた一人に背負わせたものが何だったのか。ちゃんと知る」


 沈黙。祈は何も言わない。

 結衣は続けた。


「でも、それで全部が元に戻るとは思ってない」


 声を落とす。静かに。逃げないように。


「あなたがしたことも、消えない。私がしなかったことも、消えない」


 祈の肩が、ほんの少しだけ強張ったように見えた。

 でも、それだけだった。

 反論もない。怒りもない。謝罪もない。


 結衣は、自分の膝の上の手を見る。

 右手の指が震えていた。それを隠すように握り込む。


「だから、待つよ」


 結衣は顔を上げた。


「私は待ってる」


 祈の視線が、ほんの少しだけ結衣へ向いた。本当に少しだけ。

 伏せられていた目が、わずかに上がる。


 隔壁越しに、一瞬だけ視線が触れそうになった。

 結衣は息を呑みそうになるのを堪えた。


「あなたが話してくれるまで。怒ってくれるまで。私を責めてくれるまで」


 胸の奥が痛む。でも、言葉は止めない。


「何年かかっても、待つ」


 結衣は、少しだけ笑った。


「あなたの親友として」


 親友。

 その言葉に、祈の肩がわずかに反応した。本当にわずかだった。

 透明な隔壁越しでなければ、見逃していたかもしれないくらいの動き。

 けれど、確かに揺れた。


 結衣の胸が熱くなる。

 何か言ってくれるかもしれない。怒ってくれるかもしれない。

 馬鹿じゃないの、と吐き捨ててくれるかもしれない。

 そんな期待が、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。


 祈。


 そう呼びたくなる。

 透明な隔壁に手を伸ばしたくなる。


 けれど、祈は結局、何も言わなかった。

 視線を逸らし、唇を閉ざしたまま、沈黙を選んだ。


 結衣は、胸の奥が少し痛んだ。

 それでも、失望はしなかった。


 五年。


 長い時間だ。

 けれど、二年前に手を伸ばせなかった自分には、それくらい待つ責任があると思った。

 すぐに許されると思ってはいけない。

 すぐに話してもらえると思ってはいけない。

 祈の沈黙も、拒絶も、怒りも、全部受け止める。そう決めて、ここへ来たのだから。


「また来るね」


 結衣は立ち上がった。椅子が小さく軋む。

 祈は答えなかった。


「今度は、何か甘いものの話でもするよ。差し入れは無理かもしれないけど」


 冗談めかして言ってみる。反応はない。

 でも、結衣は少しだけ笑った。


 昔、訓練帰りに二人で食べたケーキの味を思い出した。

 祈が、甘すぎると言いながらも最後まで食べていたこと。

 結衣の皿から一口奪って、こっちの方が美味しいと笑ったこと。

 そんな小さな記憶が、胸を締めつける。


 結衣は、静かに頭を下げた。


「じゃあ、また」


 面会室を出る。扉が閉じる。

 厚い扉の向こうへ、結衣の足音が遠ざかっていく。


 



 部屋に一人残されたオブスキュリテは、しばらく何も動かなかった。

 隔壁の向こうには、もう誰もいない。

 結衣が座っていた椅子だけが、空のまま残されている。

 面会時間の終了を告げる小さなランプが、壁際で淡く光っていた。


 親友。


 その言葉が、耳の奥に残っている。

 結衣の声。待っていると言った顔。また来るね、と言った背中。


 くだらない。


 そう思う。


 今さら何を待つというのか。今さら何を取り戻せるというのか。


 赤羽 祈は死んだ。

 オブスキュリテは負けた。

 魔法も封じられた。

 五年。檻の中で過ごす時間。


 これで終わり。

 そう思うべきだった。

 そう思えば楽だった。


 結衣の言葉を切り捨てる。

 親友という響きを踏みにじる。

 待っているという甘い言葉を笑い飛ばす。

 そうできれば、どれほど楽だっただろう。


 だが、オブスキュリテの目は死んでいなかった。

 伏せられていた瞳の奥に、暗い火が残っている。


 怒り。憎しみ。後悔。敗北の屈辱。

 そして、まだ名付けられない何か。


 結衣の拳に倒された瞬間。あの言葉が、今も胸に残っている。

 今回も、私の勝ちだね。

 昔と同じ言い方だった。


 夕焼けの訓練場で、何度も聞いた声。

 もう一回よ、と自分が悔しがった記憶。

 結衣が笑って、じゃああと一回だけねと言った記憶。


 懐かしくて。腹立たしくて。

 どうしようもなく、痛かった。


 オブスキュリテは、拘束された手をゆっくりと握る。

 腕輪が小さく音を立てた。魔力は封じられている。赫塵は使えない。

 今の自分は、ただの囚人だ。

 それでも、胸の奥の火までは消えていない。


「まだ終わらないわ」


 誰に聞かせるでもなく、彼女は呟く。その声は、低く、暗い。


「そうでしょう、ストレガ」


 面会室には、誰もいない。監視カメラの光が、静かに瞬いているだけ。

 それでも、どこかで。どこか遠くで。

 湿った笑い声が聞こえたような気がした。


 オブスキュリテは顔を上げない。ただ、唇の端をほんのわずかに歪める。

 赤羽 祈は、まだ救われていない。

 白瀬 結衣の戦いも、まだ終わっていない。


 けれど、それでも。

 二年前に伸ばせなかった手は、確かに一度だけ届いた。


 届いたからこそ、痛みが残った。

 届いたからこそ、終われなくなった。

 だからこれは、終わりではない。


 始まりなのだ。

 祈りを捨てた少女と。

 それでも手を伸ばす少女の。


 壊れた親友たちの、長い物語の始まりだった。




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