勝利
赤い雷は、止まった。制御核に絡みついていた赫塵の光が、少しずつ薄れていく。
赤く濁っていた結晶柱の内部で、青い光がかすかに脈打った。
一度は途切れかけた魔力の流れが、震えながらも繋がり直していく。
床に刻まれた魔法陣が、明滅を繰り返す。
消えかけていた線が、一本、また一本と青い光を取り戻す。
天井から垂れ下がる魔力ケーブルの中を、弱々しい光が流れ始めた。
制御室の警告音は、まだ鳴っていた。けれど、さっきまでの絶望的な響きではない。
崩壊寸前だった結界が、ぎりぎりで踏みとどまった音だった。
間に合った。
たぶん。
結衣は、床に膝をついたまま、浅く息を吐いた。
息をするだけで、腹の奥が痛む。喉の奥には鉄の味が残っていた。
左腕は動かない。右腕も痺れている。指先の感覚が薄い。
魔力はほとんど練れない。
体のどこが痛いのか、もう分からなかった。
全部が痛い。全部が重い。視界の端が、何度も暗くなる。
このまま床に倒れ込めば、きっと楽になる。
でも、まだやるべきことは残っていた。
結衣は、倒れているオブスキュリテへ視線を向けた。
赤羽 祈。
黒い衣装はほどけ、変身は解けている。赤い雷も、もう彼女の体にはまとわりついていない。
そこに横たわっているのは、世界を壊す者を名乗った敵幹部ではなかった。
傷だらけで、血に濡れて、意識を失った一人の少女だった。
祈。
かつて隣で笑っていた親友。
夕焼けの訓練場で、もう一回よと悔しがっていた少女。
もしもの時はお願いねと、自分に頼ってくれた少女。
結衣は、震える息を吸った。
祈の胸元を見る。わずかに上下している。
呼吸はある。生きている。
そのことに、胸の奥から崩れ落ちそうになるほど安堵した。
よかった。
生きている。
止められた。
殺さずに済んだ。
祈に、これ以上背負わせずに済んだ。
その思いだけで、結衣は泣きそうになった。
でも、まだ安心してはいけない。
祈は生きている。それは救いだった。
けれど同時に、彼女はまだ危険な魔法を持つ存在でもある。
目を覚ませば、また赫塵を使うかもしれない。
自分を責め、怒りに任せて暴れるかもしれない。
そうでなくても、局の人間が来る前に何かあれば、すべてが台無しになる。
結衣は震える右手を動かした。腰のポーチへ手を伸ばす。
指がうまく動かない。何度か空を掴み、ようやく中に入れていたものに触れた。
魔法少女拘束用の腕輪。
銀色の輪に、細かな封印術式が刻まれている。
魔力の流れを封じ、変身と魔法発動を阻害する拘束具。
本来なら、暴走した魔法少女や、魔力犯罪者を拘束するために使われるものだった。
まさか。自分が祈に使う日が来るなんて、思わなかった。
結衣は腕輪を握りしめた。
手が震える。これは必要なことだ。
分かっている。分かっているのに、胸が痛かった。
祈を止めると決めた。
必要なら殴ってでも止めると決めた。
許されるためではなく、親友として止めると決めた。
でも。
こうして、意識を失っている祈の手に拘束具をはめることは、思っていたよりずっと苦しかった。
結衣は唇を噛んだ。それでも、這うようにして祈のそばへ近づく。
動くたびに腹が痛む。左腕が床に引きずられ、鋭い痛みが走った。息が詰まりそうになる。
それでも、祈の右手を取った。
冷たい。けれど、ちゃんと温かさがある。生きている手だった。
結衣は、その手首に腕輪を通した。カチリ、と小さな音が鳴る。その音が、やけに大きく響いた。
制御室の警告音よりも。
遠くの通信ノイズよりも。
結衣の胸にはっきりと響いた。
「……ごめん」
声は、ほとんど息だった。
祈には届かない。届かなくても、言わずにはいられなかった。
「でも、これ以上は行かせないから」
それは謝罪であり、誓いでもあった。
結衣は、祈の手をそっと床へ戻す。そのまま、少しだけ肩を落とした。
もう限界だった。
今すぐ意識が途切れてもおかしくない。
けれど、まだもう一つやるべきことがある。
結衣は通信端末を起動した。指が震えて、うまく操作できない。
何度か押し間違えたあと、ようやく回線が開く。
ノイズが混じる。赫塵の影響か、制御室の損傷のせいか、音声がひどく乱れていた。
それでも、回線はつながった。
「こちら、白瀬です」
声が掠れていた。自分でも驚くほど弱い声だった。
それでも、できるだけはっきりと言った。
「遅くなりましたが、オブスキュリテを無力化しました」
通信の向こうが、一瞬静まり返った。
臨時管制室。
オペレーターたち。
桐生。
この報告を待っていた人々。全員が、息を止めたような沈黙だった。
次の瞬間、歓声が弾けた。
『やった……!』
『白瀬隊員が成功!』
『オブスキュリテ無力化確認!』
『中枢への侵入、停止しています!』
『結界出力、回復傾向!』
『第七防衛層、再接続!』
通信の向こうで、誰かが泣いているような声も聞こえた。
安堵の声。叫び。
椅子が引かれる音。
端末を叩く音。
そのすべてが、遠くから聞こえる。
結衣は、ぼんやりとその声を聞いていた。
ああ。
みんな、まだ戦っていたんだ。
みんな、諦めていなかったんだ。
自分が倒れている間も。
祈を止めるために立ち上がった間も。
このシティを守るために、みんなが必死に繋いでいた。
桐生の声が割り込む。
『よくやった、白瀬隊員! 無事か!?』
「私も、いの――」
言いかけて、結衣は言葉を詰まらせた。
祈。
そう呼びそうになった。
公的な通信で。局の全員が聞いている回線で。
まだ、そう呼ぶわけにはいかなかった。
祈を祈として守りたい。
でも、今この瞬間の彼女は、局にとってオブスキュリテだ。
シティを壊そうとした敵。拘束すべき対象。
それを、結衣の感情だけで曖昧にしてはいけない。
結衣は、小さく息を吸い直した。
「私も、オブスキュリテも、あんまり無事じゃないです」
冗談めかしたかった。少しでも場を和ませたかった。
でも、声はひどく弱かった。
言い終えた直後、喉の奥から咳が込み上げる。鉄の味が口の中に広がった。
「誰か、人をよこしてください」
『分かった。すぐに医療班と拘束班を向かわせる。絶対に意識を失うな』
「それは、ちょっと難しいかも……」
『白瀬隊員』
桐生の声が、少しだけ低くなる。その声には、命令ではない重さがあった。
『よくやった』
短い言葉だった。
けれど、結衣の胸に深く沈んだ。
『あとは我々が引き受ける』
その言葉に、結衣の目の奥が熱くなった。
肩から、少しだけ力が抜ける。
ああ。
もう、全部一人で背負わなくていいんだ。
そう思った瞬間、張り詰めていたものが切れそうになった。
「……お願いします」
結衣は、かろうじてそう言った。
通信を切る。端末が手から滑り落ちた。
結衣はその場に座り込んだ。気を抜けば、すぐに意識が落ちそうだった。
視界が暗くなる。警告音が遠ざかる。
制御核の青い光が、滲んで見える。
それでも、祈から目を離さなかった。
拘束腕輪をはめられ、床に横たわる少女。
世界を壊そうとした敵。
結衣の親友。
赤羽 祈。
結衣は、動かない左腕を抱えながら、浅く息をする。
祈は眠っている。
息はある。生きている。
それだけを何度も確認した。
「……今度は」
声にならないほど小さく、結衣は呟いた。
「置いていかないから」
返事はない。祈は目を閉じたまま、動かない。
それでも、結衣はそこにいた。
倒れそうな体で。意識が途切れそうになりながら。
医療班が来るまで。
拘束班が来るまで。
そして、誰かが祈を連れて行くまで。
結衣は、祈から目を離さなかった。
「司令部から報告だ!」
戦場に、奈央の声が響いた。
シティ東部、第三想定ゲート地点。そこは、まだ戦場だった。
ゲートの数は減っていない。黒い亀裂は、倉庫街の上空や道路の真ん中に口を開け、そこから異形たちが次々と這い出してくる。
魔法少女たちは消耗していた。
近接班の腕は重く、遠距離班の魔法弾は先ほどより明らかに密度が落ちている。
防御班の結界も、展開のたびに揺らぎが大きくなっていた。
赤雷個体への対応も、少しずつ限界が近づいている。
一度でも判断を誤れば、変身を剥がされる。
前線にいる誰もが、その恐怖を抱えたまま戦っていた。
その最中に飛んだ奈央の声に、魔法少女たちが身構える。
また新しいゲートか。別地点が破られたのか。結界がさらに落ちたのか。
そういう悪い予感が、一瞬で全員の胸をよぎった。
「今度はどんな悪い知らせですか……!」
誰かが、息を切らしながら言った。冗談のつもりだったのかもしれない。
軽口で恐怖を誤魔化そうとしただけなのかもしれない。
だが、その声には疲労と恐怖が滲んでいた。
奈央は、通信端末を握ったまま、はっきりと言った。
「いい知らせだ」
魔法少女たちが顔を上げる。
戦場の空気が、わずかに止まった。
奈央は息を吸う。そして、前線全体へ届くように声を張った。
「結衣が、オブスキュリテを倒した」
一瞬、誰も動かなかった。
剣を構えたまま。
魔法弾を撃とうとした姿勢のまま。
結界を張っていた腕を上げたまま。
魔法少女たちは、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
オブスキュリテ。
赤い雷を操り、魔法少女の変身を剥がした敵。
ライブ会場で、結衣を床に叩き伏せた敵。
魔法少女局を襲撃し、このシティの結界を壊そうとしている敵。
その敵を。
白瀬 結衣が倒した。
遅れて、意味が染み込んでくる。
そして。
「先輩が!?」
「やったの!?」
「結衣先輩が、オブスキュリテを!」
歓声が上がった。それは、勝利の叫びというより、張り詰めていた恐怖が一気にほどけた声だった。
三枝ミオは、剣を握ったまま目を見開いた。胸の奥に、熱いものがこみ上げる。
あの赤い雷の恐怖。変身を剥がされた記憶。
床に膝をつき、異形が近づいてきた時の絶望。
それでも、次にオブスキュリテが誰かを傷つけようとしたら戦う、と言った結衣の声。
オブスキュリテは私が止める、と控室で宣言した姿。
全部が一気に蘇る。
「先輩……!」
ミオは、涙をこらえるように奥歯を噛んだ。
よかった。倒した。
結衣先輩が、ちゃんと止めた。
それだけで、体の奥に力が戻ってくる気がした。
奈央は、そんな魔法少女たちへ声を張る。
「ここからは、私たちが頑張る番だ!」
空気が変わる。さっきまで重く沈んでいた前線に、力が戻る。
恐怖が消えたわけではない。
疲労がなくなったわけでもない。
ゲートが閉じたわけでもない。
だが、それでも。
勝てる。
そう思えるだけで、人はもう一度立てる。
「結衣の頑張りを無駄にさせるなよ!」
「はい!」
魔法少女たちが一斉に応えた。声が揃った。先ほどまでよりも、ずっと強く。
ミオも剣を構え直す。
腕は重い。魔力も残り少ない。
でも、まだ振れる。
まだ戦える。
まだ守れる。
前方のゲートから、異形が姿を現す。
ミオは一歩前へ出ようとした。
その時だった。
前方に、新たなゲートが開いた。
黒い亀裂が、これまでのものよりも大きく広がる。
空間が濁った水面のように揺れ、そこから重い魔力が滲み出してきた。
魔法少女たちに、一瞬緊張が走る。
「新手!?」
「構えて!」
奈央も身構えた。背筋に冷たいものが走る。
今ここで、幹部級が追加で出てきたらまずい。
前線の士気は戻ったとはいえ、消耗は限界に近い。
赤雷個体相手にすら慎重な対応が必要な状態で、新たな敵幹部を相手にする余力などない。
魔法少女たちが武器を向ける。
遠距離班が照準を合わせる。
防御班が結界を展開しかける。
だが、亀裂から現れたのは、異形ではなかった。
ぶよぶよとした液体状の布をまとった男。布の内側で、輪郭の定まらない体が蠢いている。
ストレガ。
侵略組織の幹部。
魔法少女たちの間に、鋭い緊張が走った。誰かが息を呑む。
ミオの剣を握る手にも、力がこもる。直接戦ったことがなくても分かる。
この男は危険だ。
異形よりも。
赤雷個体よりも。
もっと別の意味で。
しかしストレガは、そんな空気を知ってか知らずか、ゆるりと片手を上げた。まるで、舞台の幕を下ろす合図でもするように。
「戻りなさい、異形兵たち」
湿った声が、戦場に広がった。
その声に、異形たちの動きが止まる。爪を振り上げていた個体も。
ゲートから這い出そうとしていた個体も。
赤い雷をまとい、前線へ踏み込もうとしていた個体も。
一瞬、糸を切られた操り人形のように動きを止めた。
そして、一体、また一体とゲートの方へ引き返し始めた。
魔法少女たちは、何が起きているのか分からず武器を構えたまま動けない。
「同志オブスキュリテが討たれました」
ストレガは、慇懃な口調で告げた。
「これ以上は無理でしょう」
奈央は目を細めた。
「ストレガ」
「これはこれは、奈央さん」
ストレガは深々と頭を下げた。布の奥で、何かが笑っている気配がした。
「お久しぶりです」
「お前は来ないのか」
奈央の声は低い。
魔法少女たちも武器を構えたまま、ストレガを睨んでいる。
今なら、目の前に敵幹部がいる。
倒せるなら倒したい。
捕らえられるなら捕らえたい。
だが、奈央は一歩も動かない。
動けない。
動くべきではないと分かっていた。
ストレガは、肩をすくめるように布を揺らした。
「私は直接戦闘が苦手なのは、ご存じでしょう?」
「よく言う」
「本当ですよ。私は戦場で拳を交えるより、準備と観察を好む性質でして」
その声は軽い。冗談めかしている。
だが、奈央は油断しなかった。
この男は危険だ。戦闘力だけの話ではない。
場を乱す。人の心を弄ぶ。
相手の痛いところに手を差し込み、都合よく利用する。
そういう種類の危険さを持っている。
二年前からずっと。
そして、おそらく今も。
「組織もしばらくはおとなしくしていますよ」
ストレガは続けた。
「主力作戦が失敗しましたのでね。再編には時間がかかります」
「信じると思うか」
「信じていただかなくても結構」
ストレガはくつくつと笑った。
「ただ、今日は引きましょう。あなた方の勝利です」
彼は、芝居がかった動きで手を広げた。
「勝利、おめでとうございます」
その言葉が、妙に不気味だった。
敗北を認めているはずなのに。
撤退を選んでいるはずなのに。
ストレガの声からは、悔しさがほとんど感じられなかった。
まるで、敗北すらも何かの観察結果として楽しんでいるように。
あるいは、この結果もまた次の布石に過ぎないと言わんばかりに。
「待て!」
魔法少女の一人が踏み出そうとした。
奈央が即座に止める。
「いい。追うな」
「でも!」
「深追いは無用だ」
奈央の声は厳しかった。
迷いを断ち切るような声だった。
「こちらは消耗している。敵のゲートの先に何があるかも分からない。今やるべきことは、この場を守り切ることだ」
魔法少女は悔しそうに歯を食いしばったが、足を止めた。
他の魔法少女たちも、武器を構えながらも動かない。
奈央の判断が正しいことは、全員が分かっていた。
今の自分たちは、勝利の直後で気が高ぶっている。
だが、疲弊している。
魔力も少ない。
負傷者もいる。
ストレガを追ってゲートの向こうへ飛び込むなど、自殺行為に近い。
ストレガは満足そうに頭を下げた。
「賢明です」
「消えろ」
「ええ。それでは、またいずれ」
ストレガの体が、ゲートの中へ沈んでいく。液体状の布が、黒い亀裂に溶けるように消える。
最後まで、その声には余裕があった。
「白瀬 結衣さんにも、お大事にとお伝えください」
奈央の眉が動く。
それを見て、ストレガは愉快そうに笑った。
「では」
ゲートが閉じる。
同時に、シティ各所でゲートが次々と開き直った。
だが、それは新たな侵攻のためではなかった。
撤退のためだった。
異形兵たちが引き上げていく。
赤雷をまとった個体も。通常の異形も。負傷した個体も。
次々と亀裂の向こうへ消えていく。
魔法少女たちは、ただそれを見ていた。
追撃しない。できない。
今は、この場から敵がいなくなることを確認するだけで精一杯だった。
やがて、最後の異形がゲートへ消えた。
黒い亀裂が閉じる。空間の歪みが消える。
倉庫街に、静けさが戻った。
しばらくの間、誰も動かなかった。
剣を構えたまま。
杖を握ったまま。
結界を張る姿勢のまま。
魔法少女たちは、目の前から敵が消えた事実を、すぐには信じられなかった。
風が吹く。焼け焦げた道路の匂い。
魔力の残滓。倒れた街灯の軋む音。
罠ではないか。撤退すると見せかけて、背後からまた襲ってくるのではないか。
全員が、そう疑っていた。
魔法少女たちは武器を下ろさなかった。
奈央の言葉を、全員が守っていた。
深追いは無用。今やるべきことは、この場を守り切ること。
そう言われていなければ、勝利の高揚に任せて誰かが飛び込んでいたかもしれない。
だが、魔法少女たちは踏みとどまった。
それでも、緊張は解けない。
撤退に見せかけた再襲撃。爆発するゲート。取り残された異形の奇襲。
ストレガが何かを仕掛けていない保証など、どこにもなかった。
だから、皆、息を殺して待った。
ひとつ。またひとつ。ゲートが閉じる。異形の気配が、遠ざかっていく。
赤い雷の残滓も、空気の中から少しずつ薄れていく。
やがて、最後の黒い亀裂が音もなく閉じた。
戦場に、静けさが戻った。その静けさは、不自然なほどだった。
さっきまで、異形の咆哮があった。
魔法弾の炸裂音があった。
剣戟の音があった。
悲鳴と怒号と、奈央の指示が飛び交っていた。
それが、今はない。
聞こえるのは、荒い呼吸。
誰かが膝をつく音。
倒れた街灯が、風に揺れて軋む音。
遠くで鳴る警報の残響。
それだけだった。
奈央は通信端末へ視線を落とした。
手のひらには汗が滲んでいる。端末の画面には、管制室から送られてくる情報が次々と表示されていた。
シティ各所のゲート反応、減少。
結界損傷、拡大停止。
中枢制御、復旧作業開始。
各防衛地点、異形兵撤退を確認。
第七避難区域、被害拡大なし。
奈央は、その文字をひとつずつ確認した。
疑うように。間違いではないか確かめるように。
そしてようやく、深く息を吐いた。
肺の奥に溜まっていたものを、全部吐き出すような息だった。
奈央は魔法少女たちへ向き直る。
皆が彼女を見ていた。まだ不安げに。まだ信じきれない顔で。
けれど、どこかで答えを待っている顔だった。
「どうやら」
奈央は言った。声は少し掠れていた。叫び続けたせいだ。
でも、その声は戦場によく通った。
「本当に撤退するみたいだ」
その言葉に、魔法少女たちの間にざわめきが広がる。
けれど、まだ誰も歓声を上げない。
本当に?
もう終わったの?
勝ったの?
そんな疑問が、皆の顔に浮かんでいた。
三枝ミオが、剣を握ったまま一歩前へ出た。
腕が震えている。
魔力の消耗で、変身衣装の光も少し弱くなっていた。
額には汗が張りつき、頬には小さな傷がある。
それでも、彼女は剣を手放していなかった。
「勝ったん、ですか」
震える声だった。
信じたい。でも、信じるのが怖い。そんな声だった。
奈央は、ミオを見た。それから、周囲の魔法少女たちを見た。
泣きそうな顔。
疲れ切った顔。
まだ戦えるように武器を構えている顔。
誰一人、最後まで逃げなかった。
怖かったはずだ。
逃げたかったはずだ。
赤い雷に触れれば、魔法少女ではいられなくなるかもしれない。
異形に抜かれれば、避難区域に被害が出るかもしれない。
結界が落ちれば、このシティは終わるかもしれない。
それでも、彼女たちは踏みとどまった。
奈央は少しだけ笑った。
「ああ」
その声に、今度こそ力が宿る。
「今回は、私たちの勝利だ」
次の瞬間。
張り詰めていたものが、弾けた。
「やった……!」
「勝った!」
「生きてる……私たち、生きてる!」
魔法少女たちが沸き立った。
泣き出す者がいた。
その場に座り込む者がいた。
隣の仲間と抱き合う者がいた。
剣を掲げる者がいた。
笑いながら泣く者もいた。
もう立っていられないほど疲れているのに、それでも声を上げずにはいられない。
戦場に、歓喜と安堵が広がっていく。
ミオも、こらえきれずに涙をこぼした。
「勝った……」
剣を握る手から、力が抜ける。膝が震える。
そのまま座り込みそうになるのを、隣の麗奈が支えた。
「ミオ、大丈夫?」
「うん……大丈夫。大丈夫だけど……」
言葉が続かなかった。
怖かった。怖くてたまらなかった。
ライブ襲撃の日、赤い雷を受けて変身を剥がされた記憶が、何度も蘇った。
またああなるかもしれないと思った。
今度は誰も助けに来ないかもしれないと思った。
逃げたかった。でも、逃げなかった。
結衣先輩がオブスキュリテを止めると言ったから。
奈央が前を見ろと叫んだから。
隣の仲間が戦っていたから。
自分が守りたい人たちが、この先にいたから。
そして、その先に勝利があった。
ミオは涙を拭わず、空を見上げた。
赤く揺れていた結界の空は、まだ完全には戻っていない。傷ついた膜のように、ところどころ光が歪んでいる。
けれど、その赤い揺らぎは少しずつ薄れていた。
代わりに、青い光が戻り始めている。
弱々しくても。不安定でも。確かに、シティを守る光だった。
奈央は、その光景を見ながら静かに目を閉じた。
胸の奥で、深い疲労が押し寄せてくる。
戦っていないはずなのに。剣も振るっていないはずなのに。
体中が重かった。
声だけで戦場を支えることが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
本当なら、前に出たかった。この手で後輩たちを守りたかった。赤雷個体の前に立ち、盾になりたかった。
でも、それはもうできない。
だから声を張った。判断を下した。後輩たちが折れないように、ただ叫び続けた。
その結果、彼女たちは踏みとどまった。
そして、結衣がやり遂げた。
奈央は心の中で、静かに告げる。
よくやってくれた。結衣。お前は本当に、よくやった。
その言葉は、通信には乗らない。
結衣本人にも届かない。
けれど奈央は、どうしても言わずにはいられなかった。
空を覆っていた赤い揺らぎは、少しずつ青へ戻り始めている。
戦いは終わった。少なくとも、今この瞬間は。
魔法少女たちは勝った。シティは守られた。
そして、白瀬 結衣は、赤羽祈を止めた。
奈央は目を開ける。
泣き笑いする後輩たちを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
だが、すぐに指揮官の顔へ戻る。
「喜ぶのはあとだ!」
声を張る。まだ掠れている。
それでも、魔法少女たちははっと顔を上げた。
「負傷者確認! 変身が不安定な子は後方へ下がれ! 遠距離班は残留ゲート反応を監視! 防御班は避難区域側の結界補助を継続!」
「はい!」
「完全撤退が確認されるまで、気を抜くな!」
「はい!」
返事は疲れ切っていた。けれど、確かに力があった。
奈央はもう一度、空を見上げる。
青へ戻り始めた結界の光が、魔法少女たちの上に降り注いでいた。それは、勝利の光というにはあまりにも弱々しい。
それでも、今の彼女たちには十分だった。




