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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
1章

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23/48

勝利


 赤い雷は、止まった。制御核に絡みついていた赫塵の光が、少しずつ薄れていく。

 赤く濁っていた結晶柱の内部で、青い光がかすかに脈打った。

 一度は途切れかけた魔力の流れが、震えながらも繋がり直していく。

 床に刻まれた魔法陣が、明滅を繰り返す。

 消えかけていた線が、一本、また一本と青い光を取り戻す。

 天井から垂れ下がる魔力ケーブルの中を、弱々しい光が流れ始めた。


 制御室の警告音は、まだ鳴っていた。けれど、さっきまでの絶望的な響きではない。

 崩壊寸前だった結界が、ぎりぎりで踏みとどまった音だった。


 間に合った。

 たぶん。


 結衣は、床に膝をついたまま、浅く息を吐いた。

 息をするだけで、腹の奥が痛む。喉の奥には鉄の味が残っていた。


 左腕は動かない。右腕も痺れている。指先の感覚が薄い。

 魔力はほとんど練れない。

 体のどこが痛いのか、もう分からなかった。


 全部が痛い。全部が重い。視界の端が、何度も暗くなる。

 このまま床に倒れ込めば、きっと楽になる。

 でも、まだやるべきことは残っていた。


 結衣は、倒れているオブスキュリテへ視線を向けた。


 赤羽 祈。


 黒い衣装はほどけ、変身は解けている。赤い雷も、もう彼女の体にはまとわりついていない。

 そこに横たわっているのは、世界を壊す者を名乗った敵幹部ではなかった。

 傷だらけで、血に濡れて、意識を失った一人の少女だった。


 祈。


 かつて隣で笑っていた親友。

 夕焼けの訓練場で、もう一回よと悔しがっていた少女。

 もしもの時はお願いねと、自分に頼ってくれた少女。


 結衣は、震える息を吸った。

 祈の胸元を見る。わずかに上下している。

 呼吸はある。生きている。

 そのことに、胸の奥から崩れ落ちそうになるほど安堵した。


 よかった。


 生きている。


 止められた。


 殺さずに済んだ。


 祈に、これ以上背負わせずに済んだ。

 その思いだけで、結衣は泣きそうになった。


 でも、まだ安心してはいけない。


 祈は生きている。それは救いだった。

 けれど同時に、彼女はまだ危険な魔法を持つ存在でもある。


 目を覚ませば、また赫塵を使うかもしれない。

 自分を責め、怒りに任せて暴れるかもしれない。

 そうでなくても、局の人間が来る前に何かあれば、すべてが台無しになる。


 結衣は震える右手を動かした。腰のポーチへ手を伸ばす。

 指がうまく動かない。何度か空を掴み、ようやく中に入れていたものに触れた。


 魔法少女拘束用の腕輪。

 銀色の輪に、細かな封印術式が刻まれている。

 魔力の流れを封じ、変身と魔法発動を阻害する拘束具。

 本来なら、暴走した魔法少女や、魔力犯罪者を拘束するために使われるものだった。


 まさか。自分が祈に使う日が来るなんて、思わなかった。

 結衣は腕輪を握りしめた。


 手が震える。これは必要なことだ。

 分かっている。分かっているのに、胸が痛かった。


 祈を止めると決めた。

 必要なら殴ってでも止めると決めた。

 許されるためではなく、親友として止めると決めた。


 でも。


 こうして、意識を失っている祈の手に拘束具をはめることは、思っていたよりずっと苦しかった。

 結衣は唇を噛んだ。それでも、這うようにして祈のそばへ近づく。

 動くたびに腹が痛む。左腕が床に引きずられ、鋭い痛みが走った。息が詰まりそうになる。


 それでも、祈の右手を取った。

 冷たい。けれど、ちゃんと温かさがある。生きている手だった。

 結衣は、その手首に腕輪を通した。カチリ、と小さな音が鳴る。その音が、やけに大きく響いた。


 制御室の警告音よりも。

 遠くの通信ノイズよりも。

 結衣の胸にはっきりと響いた。


「……ごめん」


 声は、ほとんど息だった。

 祈には届かない。届かなくても、言わずにはいられなかった。


「でも、これ以上は行かせないから」


 それは謝罪であり、誓いでもあった。

 結衣は、祈の手をそっと床へ戻す。そのまま、少しだけ肩を落とした。

 もう限界だった。

 今すぐ意識が途切れてもおかしくない。


 けれど、まだもう一つやるべきことがある。

 結衣は通信端末を起動した。指が震えて、うまく操作できない。

 何度か押し間違えたあと、ようやく回線が開く。


 ノイズが混じる。赫塵の影響か、制御室の損傷のせいか、音声がひどく乱れていた。

 それでも、回線はつながった。


「こちら、白瀬です」


 声が掠れていた。自分でも驚くほど弱い声だった。

 それでも、できるだけはっきりと言った。


「遅くなりましたが、オブスキュリテを無力化しました」


 通信の向こうが、一瞬静まり返った。


 臨時管制室。

 オペレーターたち。

 桐生。


 この報告を待っていた人々。全員が、息を止めたような沈黙だった。

 次の瞬間、歓声が弾けた。


『やった……!』


『白瀬隊員が成功!』


『オブスキュリテ無力化確認!』


『中枢への侵入、停止しています!』


『結界出力、回復傾向!』


『第七防衛層、再接続!』


 通信の向こうで、誰かが泣いているような声も聞こえた。

 安堵の声。叫び。

 椅子が引かれる音。

 端末を叩く音。

 そのすべてが、遠くから聞こえる。


 結衣は、ぼんやりとその声を聞いていた。


 ああ。

 みんな、まだ戦っていたんだ。

 みんな、諦めていなかったんだ。

 自分が倒れている間も。

 祈を止めるために立ち上がった間も。

 このシティを守るために、みんなが必死に繋いでいた。


 桐生の声が割り込む。


『よくやった、白瀬隊員! 無事か!?』


「私も、いの――」


 言いかけて、結衣は言葉を詰まらせた。


 祈。


 そう呼びそうになった。

 公的な通信で。局の全員が聞いている回線で。

 まだ、そう呼ぶわけにはいかなかった。


 祈を祈として守りたい。

 でも、今この瞬間の彼女は、局にとってオブスキュリテだ。

 シティを壊そうとした敵。拘束すべき対象。

 それを、結衣の感情だけで曖昧にしてはいけない。


 結衣は、小さく息を吸い直した。


「私も、オブスキュリテも、あんまり無事じゃないです」


 冗談めかしたかった。少しでも場を和ませたかった。

 でも、声はひどく弱かった。

 言い終えた直後、喉の奥から咳が込み上げる。鉄の味が口の中に広がった。


「誰か、人をよこしてください」


『分かった。すぐに医療班と拘束班を向かわせる。絶対に意識を失うな』


「それは、ちょっと難しいかも……」


『白瀬隊員』


 桐生の声が、少しだけ低くなる。その声には、命令ではない重さがあった。


『よくやった』


 短い言葉だった。

 けれど、結衣の胸に深く沈んだ。


『あとは我々が引き受ける』


 その言葉に、結衣の目の奥が熱くなった。

 肩から、少しだけ力が抜ける。


 ああ。


 もう、全部一人で背負わなくていいんだ。

 そう思った瞬間、張り詰めていたものが切れそうになった。


「……お願いします」


 結衣は、かろうじてそう言った。

 通信を切る。端末が手から滑り落ちた。


 結衣はその場に座り込んだ。気を抜けば、すぐに意識が落ちそうだった。

 視界が暗くなる。警告音が遠ざかる。

 制御核の青い光が、滲んで見える。

 それでも、祈から目を離さなかった。


 拘束腕輪をはめられ、床に横たわる少女。

 世界を壊そうとした敵。

 結衣の親友。


 赤羽 祈。


 結衣は、動かない左腕を抱えながら、浅く息をする。

 祈は眠っている。

 息はある。生きている。

 それだけを何度も確認した。


「……今度は」


 声にならないほど小さく、結衣は呟いた。


「置いていかないから」


 返事はない。祈は目を閉じたまま、動かない。

 それでも、結衣はそこにいた。

 倒れそうな体で。意識が途切れそうになりながら。


 医療班が来るまで。

 拘束班が来るまで。

 そして、誰かが祈を連れて行くまで。

 結衣は、祈から目を離さなかった。





「司令部から報告だ!」


 戦場に、奈央の声が響いた。


 シティ東部、第三想定ゲート地点。そこは、まだ戦場だった。

 ゲートの数は減っていない。黒い亀裂は、倉庫街の上空や道路の真ん中に口を開け、そこから異形たちが次々と這い出してくる。


 魔法少女たちは消耗していた。

 近接班の腕は重く、遠距離班の魔法弾は先ほどより明らかに密度が落ちている。

 防御班の結界も、展開のたびに揺らぎが大きくなっていた。

 赤雷個体への対応も、少しずつ限界が近づいている。

 一度でも判断を誤れば、変身を剥がされる。

 前線にいる誰もが、その恐怖を抱えたまま戦っていた。


 その最中に飛んだ奈央の声に、魔法少女たちが身構える。

 また新しいゲートか。別地点が破られたのか。結界がさらに落ちたのか。

 そういう悪い予感が、一瞬で全員の胸をよぎった。


「今度はどんな悪い知らせですか……!」


 誰かが、息を切らしながら言った。冗談のつもりだったのかもしれない。

 軽口で恐怖を誤魔化そうとしただけなのかもしれない。

 だが、その声には疲労と恐怖が滲んでいた。


 奈央は、通信端末を握ったまま、はっきりと言った。


「いい知らせだ」


 魔法少女たちが顔を上げる。

 戦場の空気が、わずかに止まった。


 奈央は息を吸う。そして、前線全体へ届くように声を張った。


「結衣が、オブスキュリテを倒した」


 一瞬、誰も動かなかった。


 剣を構えたまま。

 魔法弾を撃とうとした姿勢のまま。

 結界を張っていた腕を上げたまま。


 魔法少女たちは、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。


 オブスキュリテ。

 赤い雷を操り、魔法少女の変身を剥がした敵。

 ライブ会場で、結衣を床に叩き伏せた敵。

 魔法少女局を襲撃し、このシティの結界を壊そうとしている敵。


 その敵を。

 白瀬 結衣が倒した。

 遅れて、意味が染み込んでくる。


 そして。


「先輩が!?」


「やったの!?」


「結衣先輩が、オブスキュリテを!」


 歓声が上がった。それは、勝利の叫びというより、張り詰めていた恐怖が一気にほどけた声だった。


 三枝ミオは、剣を握ったまま目を見開いた。胸の奥に、熱いものがこみ上げる。

 あの赤い雷の恐怖。変身を剥がされた記憶。

 床に膝をつき、異形が近づいてきた時の絶望。

 それでも、次にオブスキュリテが誰かを傷つけようとしたら戦う、と言った結衣の声。

 オブスキュリテは私が止める、と控室で宣言した姿。

 全部が一気に蘇る。


「先輩……!」


 ミオは、涙をこらえるように奥歯を噛んだ。


 よかった。倒した。

 結衣先輩が、ちゃんと止めた。

 それだけで、体の奥に力が戻ってくる気がした。


 奈央は、そんな魔法少女たちへ声を張る。


「ここからは、私たちが頑張る番だ!」


 空気が変わる。さっきまで重く沈んでいた前線に、力が戻る。


 恐怖が消えたわけではない。

 疲労がなくなったわけでもない。

 ゲートが閉じたわけでもない。


 だが、それでも。


 勝てる。


 そう思えるだけで、人はもう一度立てる。


「結衣の頑張りを無駄にさせるなよ!」


「はい!」


 魔法少女たちが一斉に応えた。声が揃った。先ほどまでよりも、ずっと強く。


 ミオも剣を構え直す。

 腕は重い。魔力も残り少ない。


 でも、まだ振れる。

 まだ戦える。

 まだ守れる。


 前方のゲートから、異形が姿を現す。

 ミオは一歩前へ出ようとした。


 その時だった。

 前方に、新たなゲートが開いた。


 黒い亀裂が、これまでのものよりも大きく広がる。

 空間が濁った水面のように揺れ、そこから重い魔力が滲み出してきた。

 魔法少女たちに、一瞬緊張が走る。


「新手!?」


「構えて!」


 奈央も身構えた。背筋に冷たいものが走る。

 今ここで、幹部級が追加で出てきたらまずい。

 前線の士気は戻ったとはいえ、消耗は限界に近い。

 赤雷個体相手にすら慎重な対応が必要な状態で、新たな敵幹部を相手にする余力などない。


 魔法少女たちが武器を向ける。

 遠距離班が照準を合わせる。

 防御班が結界を展開しかける。


 だが、亀裂から現れたのは、異形ではなかった。

 ぶよぶよとした液体状の布をまとった男。布の内側で、輪郭の定まらない体が蠢いている。


 ストレガ。


 侵略組織の幹部。


 魔法少女たちの間に、鋭い緊張が走った。誰かが息を呑む。


 ミオの剣を握る手にも、力がこもる。直接戦ったことがなくても分かる。

 この男は危険だ。

 異形よりも。

 赤雷個体よりも。

 もっと別の意味で。


 しかしストレガは、そんな空気を知ってか知らずか、ゆるりと片手を上げた。まるで、舞台の幕を下ろす合図でもするように。


「戻りなさい、異形兵たち」


 湿った声が、戦場に広がった。

 その声に、異形たちの動きが止まる。爪を振り上げていた個体も。

 ゲートから這い出そうとしていた個体も。

 赤い雷をまとい、前線へ踏み込もうとしていた個体も。

 一瞬、糸を切られた操り人形のように動きを止めた。


 そして、一体、また一体とゲートの方へ引き返し始めた。

 魔法少女たちは、何が起きているのか分からず武器を構えたまま動けない。


「同志オブスキュリテが討たれました」


 ストレガは、慇懃な口調で告げた。


「これ以上は無理でしょう」


 奈央は目を細めた。


「ストレガ」


「これはこれは、奈央さん」


 ストレガは深々と頭を下げた。布の奥で、何かが笑っている気配がした。


「お久しぶりです」


「お前は来ないのか」


 奈央の声は低い。

 魔法少女たちも武器を構えたまま、ストレガを睨んでいる。


 今なら、目の前に敵幹部がいる。

 倒せるなら倒したい。

 捕らえられるなら捕らえたい。


 だが、奈央は一歩も動かない。

 動けない。

 動くべきではないと分かっていた。


 ストレガは、肩をすくめるように布を揺らした。


「私は直接戦闘が苦手なのは、ご存じでしょう?」


「よく言う」


「本当ですよ。私は戦場で拳を交えるより、準備と観察を好む性質でして」


 その声は軽い。冗談めかしている。

 だが、奈央は油断しなかった。

 この男は危険だ。戦闘力だけの話ではない。

 場を乱す。人の心を弄ぶ。

 相手の痛いところに手を差し込み、都合よく利用する。

 そういう種類の危険さを持っている。


 二年前からずっと。

 そして、おそらく今も。


「組織もしばらくはおとなしくしていますよ」


 ストレガは続けた。


「主力作戦が失敗しましたのでね。再編には時間がかかります」


「信じると思うか」


「信じていただかなくても結構」


 ストレガはくつくつと笑った。


「ただ、今日は引きましょう。あなた方の勝利です」


 彼は、芝居がかった動きで手を広げた。


「勝利、おめでとうございます」


 その言葉が、妙に不気味だった。


 敗北を認めているはずなのに。

 撤退を選んでいるはずなのに。

 ストレガの声からは、悔しさがほとんど感じられなかった。


 まるで、敗北すらも何かの観察結果として楽しんでいるように。

 あるいは、この結果もまた次の布石に過ぎないと言わんばかりに。


「待て!」


 魔法少女の一人が踏み出そうとした。

 奈央が即座に止める。


「いい。追うな」


「でも!」


「深追いは無用だ」


 奈央の声は厳しかった。

 迷いを断ち切るような声だった。


「こちらは消耗している。敵のゲートの先に何があるかも分からない。今やるべきことは、この場を守り切ることだ」


 魔法少女は悔しそうに歯を食いしばったが、足を止めた。

 他の魔法少女たちも、武器を構えながらも動かない。


 奈央の判断が正しいことは、全員が分かっていた。

 今の自分たちは、勝利の直後で気が高ぶっている。


 だが、疲弊している。

 魔力も少ない。

 負傷者もいる。


 ストレガを追ってゲートの向こうへ飛び込むなど、自殺行為に近い。

 ストレガは満足そうに頭を下げた。


「賢明です」


「消えろ」


「ええ。それでは、またいずれ」


 ストレガの体が、ゲートの中へ沈んでいく。液体状の布が、黒い亀裂に溶けるように消える。

 最後まで、その声には余裕があった。


「白瀬 結衣さんにも、お大事にとお伝えください」


 奈央の眉が動く。

 それを見て、ストレガは愉快そうに笑った。


「では」


 ゲートが閉じる。

 同時に、シティ各所でゲートが次々と開き直った。

 だが、それは新たな侵攻のためではなかった。

 撤退のためだった。


 異形兵たちが引き上げていく。

 赤雷をまとった個体も。通常の異形も。負傷した個体も。

 次々と亀裂の向こうへ消えていく。


 魔法少女たちは、ただそれを見ていた。

 追撃しない。できない。

 今は、この場から敵がいなくなることを確認するだけで精一杯だった。


 やがて、最後の異形がゲートへ消えた。

 黒い亀裂が閉じる。空間の歪みが消える。

 倉庫街に、静けさが戻った。

 しばらくの間、誰も動かなかった。


 剣を構えたまま。

 杖を握ったまま。

 結界を張る姿勢のまま。

 魔法少女たちは、目の前から敵が消えた事実を、すぐには信じられなかった。


 風が吹く。焼け焦げた道路の匂い。

 魔力の残滓。倒れた街灯の軋む音。


 罠ではないか。撤退すると見せかけて、背後からまた襲ってくるのではないか。

 全員が、そう疑っていた。

 魔法少女たちは武器を下ろさなかった。


 奈央の言葉を、全員が守っていた。

 深追いは無用。今やるべきことは、この場を守り切ること。

 そう言われていなければ、勝利の高揚に任せて誰かが飛び込んでいたかもしれない。

 だが、魔法少女たちは踏みとどまった。


 それでも、緊張は解けない。

 撤退に見せかけた再襲撃。爆発するゲート。取り残された異形の奇襲。

 ストレガが何かを仕掛けていない保証など、どこにもなかった。


 だから、皆、息を殺して待った。


 ひとつ。またひとつ。ゲートが閉じる。異形の気配が、遠ざかっていく。

 赤い雷の残滓も、空気の中から少しずつ薄れていく。

 やがて、最後の黒い亀裂が音もなく閉じた。


 戦場に、静けさが戻った。その静けさは、不自然なほどだった。

 さっきまで、異形の咆哮があった。

 魔法弾の炸裂音があった。

 剣戟の音があった。

 悲鳴と怒号と、奈央の指示が飛び交っていた。


 それが、今はない。

 聞こえるのは、荒い呼吸。

 誰かが膝をつく音。

 倒れた街灯が、風に揺れて軋む音。

 遠くで鳴る警報の残響。

 それだけだった。


 奈央は通信端末へ視線を落とした。

 手のひらには汗が滲んでいる。端末の画面には、管制室から送られてくる情報が次々と表示されていた。


 シティ各所のゲート反応、減少。

 結界損傷、拡大停止。

 中枢制御、復旧作業開始。

 各防衛地点、異形兵撤退を確認。

 第七避難区域、被害拡大なし。


 奈央は、その文字をひとつずつ確認した。

 疑うように。間違いではないか確かめるように。

 そしてようやく、深く息を吐いた。

 肺の奥に溜まっていたものを、全部吐き出すような息だった。


 奈央は魔法少女たちへ向き直る。

 皆が彼女を見ていた。まだ不安げに。まだ信じきれない顔で。

 けれど、どこかで答えを待っている顔だった。


「どうやら」


 奈央は言った。声は少し掠れていた。叫び続けたせいだ。

 でも、その声は戦場によく通った。


「本当に撤退するみたいだ」


 その言葉に、魔法少女たちの間にざわめきが広がる。

 けれど、まだ誰も歓声を上げない。


 本当に?


 もう終わったの?


 勝ったの?


 そんな疑問が、皆の顔に浮かんでいた。


 三枝ミオが、剣を握ったまま一歩前へ出た。

 腕が震えている。

 魔力の消耗で、変身衣装の光も少し弱くなっていた。

 額には汗が張りつき、頬には小さな傷がある。

 それでも、彼女は剣を手放していなかった。


「勝ったん、ですか」


 震える声だった。

 信じたい。でも、信じるのが怖い。そんな声だった。


 奈央は、ミオを見た。それから、周囲の魔法少女たちを見た。


 泣きそうな顔。

 疲れ切った顔。

 まだ戦えるように武器を構えている顔。

 誰一人、最後まで逃げなかった。


 怖かったはずだ。

 逃げたかったはずだ。

 赤い雷に触れれば、魔法少女ではいられなくなるかもしれない。

 異形に抜かれれば、避難区域に被害が出るかもしれない。

 結界が落ちれば、このシティは終わるかもしれない。

 それでも、彼女たちは踏みとどまった。


 奈央は少しだけ笑った。


「ああ」


 その声に、今度こそ力が宿る。


「今回は、私たちの勝利だ」


 次の瞬間。

 張り詰めていたものが、弾けた。


「やった……!」


「勝った!」


「生きてる……私たち、生きてる!」


 魔法少女たちが沸き立った。


 泣き出す者がいた。

 その場に座り込む者がいた。

 隣の仲間と抱き合う者がいた。

 剣を掲げる者がいた。

 笑いながら泣く者もいた。


 もう立っていられないほど疲れているのに、それでも声を上げずにはいられない。

 戦場に、歓喜と安堵が広がっていく。

 ミオも、こらえきれずに涙をこぼした。


「勝った……」


 剣を握る手から、力が抜ける。膝が震える。

 そのまま座り込みそうになるのを、隣の麗奈が支えた。


「ミオ、大丈夫?」


「うん……大丈夫。大丈夫だけど……」


 言葉が続かなかった。

 怖かった。怖くてたまらなかった。


 ライブ襲撃の日、赤い雷を受けて変身を剥がされた記憶が、何度も蘇った。

 またああなるかもしれないと思った。

 今度は誰も助けに来ないかもしれないと思った。

 逃げたかった。でも、逃げなかった。


 結衣先輩がオブスキュリテを止めると言ったから。

 奈央が前を見ろと叫んだから。

 隣の仲間が戦っていたから。

 自分が守りたい人たちが、この先にいたから。

 そして、その先に勝利があった。


 ミオは涙を拭わず、空を見上げた。

 赤く揺れていた結界の空は、まだ完全には戻っていない。傷ついた膜のように、ところどころ光が歪んでいる。

 けれど、その赤い揺らぎは少しずつ薄れていた。

 代わりに、青い光が戻り始めている。

 弱々しくても。不安定でも。確かに、シティを守る光だった。


 奈央は、その光景を見ながら静かに目を閉じた。

 胸の奥で、深い疲労が押し寄せてくる。


 戦っていないはずなのに。剣も振るっていないはずなのに。

 体中が重かった。

 声だけで戦場を支えることが、こんなにも苦しいとは思わなかった。


 本当なら、前に出たかった。この手で後輩たちを守りたかった。赤雷個体の前に立ち、盾になりたかった。

 でも、それはもうできない。


 だから声を張った。判断を下した。後輩たちが折れないように、ただ叫び続けた。

 その結果、彼女たちは踏みとどまった。

 そして、結衣がやり遂げた。


 奈央は心の中で、静かに告げる。

 よくやってくれた。結衣。お前は本当に、よくやった。


 その言葉は、通信には乗らない。

 結衣本人にも届かない。

 けれど奈央は、どうしても言わずにはいられなかった。


 空を覆っていた赤い揺らぎは、少しずつ青へ戻り始めている。

 戦いは終わった。少なくとも、今この瞬間は。

 魔法少女たちは勝った。シティは守られた。


 そして、白瀬 結衣は、赤羽祈を止めた。


 奈央は目を開ける。

 泣き笑いする後輩たちを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 だが、すぐに指揮官の顔へ戻る。


「喜ぶのはあとだ!」


 声を張る。まだ掠れている。

 それでも、魔法少女たちははっと顔を上げた。


「負傷者確認! 変身が不安定な子は後方へ下がれ! 遠距離班は残留ゲート反応を監視! 防御班は避難区域側の結界補助を継続!」


「はい!」


「完全撤退が確認されるまで、気を抜くな!」


「はい!」


 返事は疲れ切っていた。けれど、確かに力があった。

 奈央はもう一度、空を見上げる。

 青へ戻り始めた結界の光が、魔法少女たちの上に降り注いでいた。それは、勝利の光というにはあまりにも弱々しい。

 それでも、今の彼女たちには十分だった。

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