私の勝ち
結衣が踏み込んだ。先ほどまでより、わずかに低い姿勢。
右腕の痺れを隠すように、左肩を前へ出す。
床を蹴る瞬間だけ脚に魔力を流し、加速する。
真正面。
逃げない。
オブスキュリテは赤い雷をまとったまま、迎え撃つように構えた。
結衣の左拳が走る。
速い。
だが、見えている。
オブスキュリテは右腕を上げ、防御の姿勢を取った。
防げばいい。
受ければいい。
結衣が触れた瞬間、赫塵が魔力を削る。
そう思った瞬間。結衣の左拳が、途中で止まった。
「――」
フェイント。本命は右。
痺れているはずの右拳が、低い軌道からオブスキュリテの胴へ伸びる。
「っ」
オブスキュリテは咄嗟に体をひねった。拳が脇腹を掠める。直撃ではない。
そもそも、結衣の右手にはもう十分な魔力が通っていなかった。
強化は不完全。威力も、本来の半分にも満たない。
だが、それでよかった。倒すための右ではない。
意識をずらすための右。オブスキュリテの目と体を、ほんのわずかに横へ流すための攻撃だった。
結衣は止まらない。今度は、右手を大きく振る。さっきよりも派手な軌道。
魔力の通っていない、見せるための拳。
オブスキュリテの視線が、反射的にそちらへ向いた。
その瞬間、結衣の体が沈む。本命は足元だった。
低く沈んだ結衣のローキックが、オブスキュリテの膝裏を打った。
今度は魔力が通っていた。脚への強化は、まだ生きている。右腕ほど赫塵に侵されていない。
踏み込み、腰の回転、魔力の集中。
それらが一つになった鋭い衝撃が、オブスキュリテの体勢を揺らした。
「ぐっ……!」
わずかに膝が折れる。ほんの一瞬。
だが、結衣にとっては十分だった。結衣はその瞬間を逃さない。
踏み込み。
左拳。
オブスキュリテの防御が上がる。
その下へ膝蹴り。腹部を狙う。
半歩引かれる。
ならば肘。肩口へ叩き込む。
赤い雷が弾ける。左腕に痺れが走る。
それでも止まらない。
再びロー。足元を崩す。
拳と足。
肩と腰。
体重移動と魔力強化。
全部を細かく切り替えながら、結衣はオブスキュリテを押し込んでいく。
右手は痺れている。
だから、右は見せ札にする。
右で視線を誘う。右で防御を釣る。
右が来ると思わせて、左を差し込む。
あるいは、足を通す。
本命は左と脚。通る攻撃だけを選ぶ。
弱っている部位を隠し、使える部位で畳みかける。
それが、結衣の戦い方だった。
才能がないと言われた。魔法が弱いと言われた。
だからこそ、全部を使う。
拳だけで勝てないなら、足を使う。
足だけで崩せないなら、体重を使う。
魔力が足りないなら、タイミングで補う。
強い一撃が打てないなら、相手の意識をずらして通す。
弱さを、弱さのまま武器に変える。
オブスキュリテは防御に回った。
赤い雷をまとっているとはいえ、衝撃そのものが消えるわけではない。
防げば痛む。受ければ骨に響く。
体勢が崩れれば、追撃が飛んでくる。
しかも結衣は、さっきまでのように真正面から殴ってこない。
触れる時間を短くし、角度を変え、赫塵の反撃を受ける前に次へ移る。
攻撃を受けているのは、結衣だけではない。
オブスキュリテの腕にも、脚にも、胴にも、確実にダメージが蓄積していた。
「小癪な……!」
オブスキュリテが低く吐き捨てる。
結衣の蹴りが、オブスキュリテの脇を狙った。肋骨を揺らす角度。まともに入れば、呼吸を奪える。
だが、今度は足で止められた。
オブスキュリテの脚が、結衣の蹴りを受ける。赤い雷が弾けた。
「っ」
結衣の足に、痺れが走る。脚に流していた魔力が乱れる。踏み込みの軸が、一瞬ぶれた。
普通なら、そこで止まる。距離を取る。体勢を立て直す。
けれど結衣は、即座に切り替えた。
左フック。
オブスキュリテの顔面へ向けて、鋭く振るう。痺れた脚を軸にするのではなく、上半身の回転で打つ。
狙いは顎。オブスキュリテは腕で受けた。
鈍い音。
同時に、赤い雷が左腕へ流れ込む。結衣の左拳から、前腕へ。前腕から、肘へ。
魔力の流れがざらつく。
結衣が拳を引こうとした、その瞬間だった。
オブスキュリテが、その左腕を掴んだ。
「ようやく捕まえたわよ」
オブスキュリテの目が、赤く光る。
結衣は腕を引こうとする。
だが、離れない。
強い。
指が食い込む。
赤い雷が、握られた部分からじわりと浸み込んでくる。
オブスキュリテは一気に間合いを詰めた。
ゼロ距離。
拳を振るっても、威力が出ない距離。
蹴りも膝も、十分な軌道を取れない距離。
そして、赫塵を直接流し込むには最適の距離。
結衣の左腕が、赤い光に包まれた。
「っ……!」
魔力が乱れる。
左腕の感覚が薄れていく。指先から力が抜ける。
肘が重い。肩まで痺れが上がってくる。
このままだと、変身が落ちる。
右腕はすでに痺れている。ここで左腕まで奪われたら、もう攻撃手段がほとんどなくなる。
いや、それどころか、全身へ赫塵が流れ込めば、変身そのものが不安定になる。
オブスキュリテの口元に、勝利を確信した笑みが浮かんだ。
「終わりよ、結衣」
結衣は、考えるより先に動いた。
拳は振れない。
蹴りも出せない。
距離が近すぎる。
なら。
額を振り下ろす。
ヘッドバッド。
あまりにも泥臭い攻撃。魔法少女の洗練された戦い方とは程遠い一撃。
訓練場の模擬戦なら、きっと教官に怒られるような動き。けれど、今は模擬戦ではない。
綺麗に勝つ必要などない。
止める。
そのために使えるものは、全部使う。
オブスキュリテは、それを予想していなかった。
額と額がぶつかる。鈍い音が鳴った。
「っ、あ……!」
オブスキュリテの視界が揺れた。
赤い雷が一瞬だけ乱れる。頭蓋に響く衝撃。
鼻の奥がつんと痛み、目の前の青い光がぶれた。
左腕を掴んでいた手が緩む。
その一瞬。
結衣は腕を引き抜いた。
左腕の感覚は薄い。
右腕も痺れている。
脚にも赫塵の影響が残っている。
それでも、体はまだ動く。
結衣は体を回した。腰を捻る。
痺れていない方の脚へ、残った魔力を叩き込む。
回し蹴り。
オブスキュリテの防御は間に合わない。
ヘッドバッドの衝撃で、反応が遅れている。赤い雷の膜も乱れている。
結衣の脚が、オブスキュリテの胴を捉えた。
衝撃。
今度は、深く入った。
「がっ……!」
オブスキュリテの息が詰まる。
体がくの字に折れる。そのまま吹き飛んだ。
黒い体が制御室の床を転がる。青い魔法陣の上に、赤い火花を散らしながら滑っていく。
一回。
二回。
三回。
肩から床にぶつかり、背中で跳ね、さらに転がる。数メートル先で、ようやく止まった。
制御室に、警告音だけが鳴り響く。
結衣は、荒い息を吐きながら立っていた。
額が痛い。左腕は痺れている。右腕もまだまともに握れない。
蹴りを放った脚にも、遅れて痛みが来る。
それでも、立っている。
オブスキュリテは床に片手をつき、ゆっくりと体を起こした。黒い髪が顔にかかっている。
口元から血が落ち、青い魔法陣の上に赤い点を作った。
それでも、倒れたままではいなかった。彼女もまた、息を荒くしながら立ち上がる。
赤い雷が、途切れ途切れに全身を走る。
結衣は構え直した。
声は出さない。
挑発もしない。
ただ、見据える。
オブスキュリテが立ち上がることを、分かっていたから。
あの頃からそうだった。祈は、負けてももう一回と言う子だった。
今のオブスキュリテも、倒れたくらいでは止まらない。
だから、結衣も止まらない。
止め切るまで。何度でも。
結衣は肩で息をしていた。肺が焼けるように熱い。
額から汗が落ちる。床の青い魔法陣に、ぽたりと雫が弾けた。
左腕が痺れている。
右手もまともに握れない。
蹴った脚にも、赫塵の残滓が残っている。
魔力を流そうとするたび、体の奥で何かが引っかかる。
いつもなら、呼吸と同時に流れるはずの力が、今は細かく震えていた。
それでも、立っている。倒れるわけにはいかない。
目の前にいるオブスキュリテを止めるまで。
この中枢制御核を守りきるまで。
祈に、これ以上進ませないために。
結衣は、膝が震えそうになるのを必死に押さえ込んだ。
オブスキュリテもまた、ゆっくりと立ち上がった。
片手を床につき、もう片方の手で脇腹を押さえながら。
黒い髪が頬に張りついている。口から血が流れていた。
鼻からも、赤い筋が落ちている。
さっきの回し蹴りは確かに深く入った。
ヘッドバッドの衝撃も残っているはずだ。
普通なら、立ち上がるのも苦しい。
それでも、オブスキュリテの目は死んでいなかった。赤い雷が、その瞳の奥でちらついている。
「結衣ぃ……」
低く、怒りを押し殺した声。祈の声。
でも、祈ではない声。
かつて訓練場で名前を呼んでくれた時とは違う。
笑い混じりでもなく、悔しがる声でもなく、親しみの響きもない。
そこにあるのは、剥き出しの怒りと、痛みと、執念だった。
オブスキュリテは、血に濡れた口元を歪めて結衣を睨みつける。
「タフだね」
結衣も、荒い息の合間に言った。冗談のように聞こえたかもしれない。
けれど、声には余裕がなかった。
「二年間、遊んでたわけじゃないのよ」
オブスキュリテが指先を振る。赤い雷が飛んだ。細く鋭い赫塵が、制御室の空気を裂く。
結衣は横へ跳んで避けた。
着地の瞬間、脚に遅れが出る。
ほんのわずか。
だが、さっきまでより確実に動きが鈍い。
二本目。
結衣はしゃがんでかわす。赤い雷が頭上を通り過ぎ、髪を数本焦がした。
三本目。
その軌道を見た瞬間、結衣の表情が変わった。狙いは自分ではない。
背後。
中枢制御核へ向かっている。
「させない!」
結衣は左腕を振るった。痺れの残る腕に、無理やり魔力を通す。腕が軋む。魔力の流れがぎしぎしと悲鳴を上げる。
それでも、結衣は赫塵の軌道へ拳を叩きつけた。
赤い雷と、淡い魔力がぶつかる。
赫塵の軌道が逸れた。制御核の手前で赤い雷が曲がり、壁に当たって弾ける。青い制御室の壁面に、赤い焦げ跡が走った。
直撃は避けた。
けれど、代償はあった。
「っ……!」
結衣の左腕が、焼けるように痺れた。
肉体が焼けたわけではない。魔力が内側から灼かれたような感覚。左手の指先が一瞬、感覚を失う。
結衣は歯を食いしばった。
攻めれば痺れる。
守っても痺れる。
避ければ制御核が狙われる。
時間をかければかけるほど、自分の魔力は削られていく。
ここまで、表面上は結衣が押していた。
攻撃を当てているのは結衣だ。
オブスキュリテに血を流させているのも結衣だ。
床へ叩きつけ、蹴り飛ばし、顔面へ拳を入れたのも結衣だった。
傍から見れば、白瀬 結衣が優勢に見えるかもしれない。
でも、結衣自身は分かっていた。
余裕などない。むしろ、追い詰められている。
魔力の練りが、かなり怪しくなっていた。
右手はほとんど使えない。
左腕も痺れ始めている。
足の強化も、さっきよりわずかに遅れる。
踏み込みの瞬間に魔力を入れても、出力が一拍遅い。
拳を硬化させようとしても、魔力が指先へ届く前に散る。
呼吸で整えようとしても、赫塵の痺れが体の奥に残っている。
これ以上、時間はかけられない。
決めるしかない。
結衣は、荒い呼吸を押し殺した。視線を上げる。
オブスキュリテを見る。
血を流している。息も乱れている。
赤い雷も、さっきより少し不安定だ。
なら、まだ届く。
まだ止められる。
結衣は踏み込んだ。床を蹴る。
脚の魔力が遅れる。
それでも、体重を前へ投げる。
拳を振るう。
オブスキュリテは咄嗟に腕を上げた。防御。
赤い雷をまとった腕が、結衣の攻撃を受けるために動く。その動きで、脇腹が大きく空いた。
隙。
結衣の目がそこを捉える。
今なら入る。痺れた右手でも、ここなら。
脇腹。
さっき蹴りを入れた場所。ダメージは残っているはずだ。そこに打ち込めば、体勢を崩せる。
中枢制御核から引き剥がせる。次に繋げられる。
結衣は右拳を握った。指先がうまく動かない。拳が完全には固まらない。魔力はうまく練れない。
それでも、残った力を全部乗せる。
肩を回す。
腰を入れる。
足元から伝えた力を、痺れた右腕へ押し込む。
オブスキュリテの脇腹へ、拳を叩き込んだ。
当たった。確かに当たった。
肉を打つ感触があった。
骨に響く手応えも、わずかにあった。
だが。
オブスキュリテの体は、大きく揺れなかった。
「……え」
結衣の目が見開かれる。
おかしい。入ったはずだ。
今の角度なら、崩れるはずだった。
いくら右手が痺れていても、少しは効くはずだった。
なのに、オブスキュリテはそこに立っている。
わずかに身を固め、脇腹へ打撃を受けながら、それでも崩れずに。
次の瞬間、結衣の右手首を掴まれた。オブスキュリテの手が、逃がさないように食い込む。
赤い雷が、掴まれた手首の周囲で弾けた。
「今度は逃がさないわよ」
その声で、結衣は理解した。
隙ではなかった。作らされた隙だった。オブスキュリテは、わざと脇腹を空けた。
結衣がそこを狙うと読んでいた。
右手が痺れていることも。それでも決めに来るなら、弱った右で打ち込んでくることも。
この一撃に賭けることも。
全部。分かっていた。それを捕まえるために。
逃げられない距離で赫塵を流し込むために。
わざと、受けた。
「まず――」
結衣が言い終える前に、赤い雷が流れ込んだ。
右手首から。前腕へ。肘へ。肩へ。胸へ。
そして全身へ。
赫塵が、結衣の魔力回路を駆け巡る。
「あ、ああああっ……!」
叫びが制御室に響いた。
結衣の体が跳ねた。
変身衣装の光が乱れる。
胸元の魔石が明滅する。手首の術式が剥がれる。
脚に通していた強化の魔力が、根元から痺れて崩れる。
まずい。
変身が落ちる。変身し直さないと。
そう思った。
だが、それより先に。
オブスキュリテの手が飛んできた。
平手。
ただのビンタ。
けれど、生身に戻りかけた結衣にとって、魔法少女の身体能力で放たれるそれは、十分すぎるほどの威力を持っていた。
乾いた音が、制御室に響く。
視界が白く弾けた。耳の奥で、きいん、と高い音が鳴る。脳が揺れる。
結衣の変身が解けた。
白い魔法衣装がほどけ、光の粒になって消える。残ったのは、ただの少女の体。
その腹部へ、オブスキュリテの拳が突き刺さった。
「がっ……!」
息が止まる。
内臓が潰れたような衝撃。胃の中のものが逆流する。
結衣の体が吹き飛んだ。
床を転がる。何度も跳ねる。最後に壁へ叩きつけられて、ようやく止まった。
「……か、はっ」
口から、嘔吐がこぼれる。混じって、わずかな血が落ちた。
呼吸ができない。
体が動かない。
視界が滲む。
遠くで、制御核の警告音が鳴っている。
オブスキュリテは、ゆっくりと歩いてくる。
結衣は、床に爪を立てた。
変身しなきゃ。
立たなきゃ。
止めなきゃ。
でも、魔力が練れない。
胸の奥が痺れている。
指先が震えるだけで、変身の光は灯らない。
オブスキュリテは、結衣の前で足を止めた。口元の血を拭い、冷たい目で見下ろす。
「今回は、私の勝ちね」
その声は、どこか震えていた。
怒りか。
痛みか。
それとも、ずっと昔に一度だけ勝ちたかった相手をようやく倒した、歪んだ達成感か。
結衣には分からなかった。
ただ一つ分かるのは。このままでは、シティが終わる。
そして祈が、本当に戻れなくなるということだけだった。




