竜虎
先に距離を詰めたのは、結衣だった。
床を蹴る。脚に魔力を流すのは一瞬だけ。踏み込みの瞬間に出力を集中させ、すぐに切る。
余計な魔力は使わない。体全体を常に強化し続けるほど、結衣に魔力量の余裕はない。
だから、必要な場所へ。必要な瞬間だけ。最小限の魔力で、最大限の速度を出す。
それが白瀬 結衣の戦い方だった。
訓練を重ね、失敗を繰り返し、何度も倒れながら身につけた技術。
才能の不足を補うために、血が滲むほど磨いた戦い方。
結衣の体が、青い魔法陣の上を低く滑る。
対するオブスキュリテは、動かなかった。どっしりと構える。
両腕を上げ、重心を落とし、結衣を迎え撃つ姿勢を取る。
自分から攻める気はない。足を動かさない。距離を取らない。
赤い雷を放って牽制することもしない。
ただ、そこに立っている。
結衣の拳が迫る。狙いは正面。胸部。
オブスキュリテはそれを腕で受けた。
鈍い音が、制御室に響く。
結衣の拳は重い。
魔力量は少なくとも、鍛え抜かれた肉体と技術が乗っている。
踏み込み。
腰の回転。
肩の送り。
拳を硬化させる一瞬の魔力操作。
そのすべてが噛み合った一撃は、まともに受ければ骨まで響く。
実際、オブスキュリテの腕に衝撃が走った。
骨が軋む。筋肉が痺れる。防御したはずなのに、体の芯まで揺さぶられる。
だが、オブスキュリテは歯を食いしばって受け止めた。
そして、赤い雷が弾ける。
「っ……!」
結衣の拳に、痺れが走った。肉体の痛みではない。
もっと深い。もっと嫌な感覚。
拳に通していた強化の魔力が、接触した瞬間に揺らぎ、細かくほどけていく。
自分の中を流れていたはずの力が、突然、自分のものではなくなる。
指先から手首へ。
手首から前腕へ。
赤い火花が見えたわけではないのに、内側から魔力が震えた。
結衣はすぐに拳を引いた。長く触れてはいけない。
押し込めば威力は増す。だが、その分だけ赫塵を受ける。
結衣は踏み込み直し、左の拳を放った。今度は角度を変える。右腕で受けられたなら、反対側から崩す。
オブスキュリテはそれも受けた。防御は完璧ではない。衝撃に顔がわずかに歪む。
だが、腕は下がらない。
赤い雷が、また弾ける。今度は左腕の魔力が乱れた。拳から肘まで、じんと嫌な痺れが残る。
強化の流れが一瞬途切れ、結衣は奥歯を噛んだ。
やりづらい。
あまりにも、やりづらい。
オブスキュリテは攻めてこない。ただ守る。
結衣の拳を受ける。蹴りを防ぐ。踏み込みに合わせて体を固める。
それだけだ。
しかし、それが厄介だった。
結衣には遠距離攻撃手段がない。
魔法弾も撃てない。
結界で押し潰すこともできない。
武器を飛ばすこともできない。
空間を操ることも、幻惑することもできない。
結衣がオブスキュリテを止めるには、必ず近づく必要がある。
必ず拳を届かせる必要がある。
必ず触れなければならない。
だが、今のオブスキュリテの体は赫塵をまとっている。
拳を当てれば、拳が痺れる。
蹴りを入れれば、脚の魔力が乱れる。
組みつけば、全身に赤い雷が流れ込む。
攻撃すればするほど、結衣の魔力操作は削られていく。
身体強化の精度が落ちる。
動きが鈍る。打撃が軽くなる。呼吸が乱れる。
いずれ、変身そのものも揺らぐ。
オブスキュリテは、それを分かっていた。
白兵戦で結衣に勝つ必要はない。
拳の打ち合いで上回る必要もない。
技術で圧倒する必要もない。
勝てないなら、勝負の土俵を変えればいい。
守ればいい。受ければいい。触れさせればいい。
結衣は攻撃のたびに、自分の魔力を削られていく。いずれ強化は乱れ、動きは鈍り、拳は軽くなる。
その時に倒せばいい。
焦る必要はない。急ぐ必要もない。
ここで結衣を削り切れば、その先には中枢制御核がある。
シティ結界の心臓がある。
オブスキュリテの目的は、結衣に格闘で勝つことではない。この街を壊すことだ。
そのために、結衣を突破する。
ただ、それだけ。
結衣は三度目の踏み込みをかけた。右の拳。
オブスキュリテは腕を上げる。
結衣は寸前で拳を引き、左のローキックへ切り替える。オブスキュリテの脚に命中した。
肉を打つ音。確かな手応え。
しかし、赤い雷が脚を伝って跳ねた。結衣の左足に痺れが走る。
「っ」
結衣はすぐに跳び退いた。
足が重い。動かせないわけではない。
けれど、魔力の通りが一瞬遅れる。
たった一瞬。
だが、結衣の戦い方にとって、その遅れは致命的になりうる。
オブスキュリテは、受けた脚をわずかに引いた。
痛みはある。結衣の攻撃は確実に効いている。
だが、口元には笑みがあった。
「どうしたの」
オブスキュリテは笑った。
「もっと来なさいよ」
赤い雷が、彼女の全身で低く唸る。
「白兵戦では負けないんでしょう?」
結衣は答えなかった。挑発に乗る必要はない。
言葉で返せば、呼吸が乱れる。感情で踏み込めば、赫塵に削られる。
だから、返事の代わりに拳を叩き込んだ。
右ストレート。足裏で床を掴む。膝を沈める。腰を回す。
肩から肘、そして拳へと魔力を一直線に通す。
少ない魔力を、打撃の瞬間にだけ集中させる。
結衣の拳が、白い軌跡を残して走った。
狙いは正面。オブスキュリテの胸部。
避けられれば、そのまま追う。防がれれば、防御ごと打ち抜く。
そんな意思を込めた一撃だった。
オブスキュリテは動かない。
両腕を交差させる。真正面から、結衣の拳を受け止めた。
衝撃。
制御室に、重い音が響く。
床一面に刻まれた青い魔法陣が、衝撃に反応して波紋のように揺れた。
オブスキュリテの足元が、わずかに沈む。黒い靴底が床を削り、青い光の線が歪む。
重い。
やはり、結衣の拳は重い。
魔力量だけなら、オブスキュリテの方が上だ。
けれど結衣は、魔力量で戦っていない。
身体の使い方。踏み込み。軸。魔力を通す一瞬の精度。
そのすべてが、一つの拳に集約されている。
防御越しでも、骨に響く。
だが、オブスキュリテは崩れなかった。
歯を食いしばり、腕を下げない。
そして、赤い雷が弾ける。赫塵が、結衣の拳を伝った。
「っ……!」
結衣の右腕に痺れが走る。肉体の痛みではない。
魔力の流れが、内側から乱される感覚。拳を硬化させていた強化の魔力が、触れた部分から細かくほどけていく。
指先。手首。前腕。肘。
右腕に流れていた魔力の線が、赤い雷に触れた端からぶつぶつと乱れていく。
結衣の表情が、かすかに歪んだ。
オブスキュリテは見逃さなかった。
効いている。痺れている。
なら、このままでいい。
殴らせる。
蹴らせる。
触れさせる。
結衣が攻めれば攻めるほど、結衣自身の魔力は削られていく。
白兵戦で勝つ必要などない。白瀬 結衣が動けなくなるまで、受け続ければいい。
そう判断した、その瞬間だった。
結衣は拳を引いた。右腕の痺れを振り払う暇もなく、体を回す。
続けざまのハイキック。
狙いは、オブスキュリテの横顔。
速い。
だが、見えている。
オブスキュリテは即座に腕を上げた。
結衣の蹴りは鋭い。真正面から受ければ、頭蓋が揺れる。
だが軌道は読める。横から来る。
なら、腕を上げて受ければいい。
防御さえ間に合えば、赫塵で脚の強化を乱せる。
結衣の脚に赤い雷を流せば、次の踏み込みは鈍る。
そこから一気に崩せる。
オブスキュリテの腕が、防御位置に入った。
その時。
蹴りの軌道が、途中で変わった。
「――!」
オブスキュリテの目が見開かれる。
真っ直ぐ横顔へ飛ぶはずだった脚。腕で受け止められるはずだった蹴り。
その膝が、空中でわずかに畳まれた。足先の軌道が消える。
次の瞬間、上から落ちた。
ブラジリアンキック。
横から来ると思わせた蹴りが、防御の上を越え、角度を変えて降ってくる。
オブスキュリテの腕は、もう間に合わない。赤い雷をまとった防御も、そこにはない。
結衣の足が、オブスキュリテの側頭部を捉えた。
乾いた音が鳴る。頭が横へ弾かれる。
視界が一瞬、白く飛んだ。制御室の青い光が歪む。床の魔法陣が、ぐにゃりと曲がって見える。
オブスキュリテの体が数歩、後退した。赤い雷が一瞬だけ乱れる。
全身を覆っていた赫塵の膜に、途切れが生じた。
結衣は足を下ろす。深追いはしない。
痺れの残る右腕をわずかに引き、呼吸を整える。
今の一撃は入った。防御の上からではなく、防御の外から。
オブスキュリテの赫塵をまとった守りを、技で超えた。
結衣は静かに構え直した。
「守ってばっかりじゃ、私には勝てないよ」
その言葉は、挑発というより確認だった。
昔からそうだった。
結衣に勝ちたいなら、ただ待っているだけでは駄目だった。
白兵戦で結衣を相手にするなら、受けるだけでは崩される。
攻めるしかない。踏み込むしかない。
自分の意思で、前に出るしかない。
オブスキュリテは、頭をぶんぶんと振った。
側頭部に残る鈍い痛み。耳の奥で、低い音が鳴っている。
視界がわずかに揺れる。舌の端に、血の味が滲んだ。
それでも、口元には笑みがあった。
「ええ。さすがね」
オブスキュリテは、口元に薄い笑みを浮かべた。
側頭部には、まだ鈍い痛みが残っている。
耳の奥で、低い音が鳴っていた。視界の端も、わずかに揺れている。
結衣のブラジリアンキックは、確かに効いていた。
それでも、オブスキュリテは倒れない。
倒れるわけにはいかない。ここは訓練場ではない。
痛いから一度休憩、などと言える場所ではない。
負けたら、もう一回、などと笑える場所でもない。
制御室の中央では、青い中枢制御核が静かに脈打っている。
あれを壊す。そのために、ここまで来た。
オブスキュリテは、指先に赤い雷を灯した。
「でも」
赤い火花が、ばちりと弾ける。
「私の目標はあなたでも、目的はあなたじゃないの」
結衣の背筋が冷えた。その言葉の意味を理解した瞬間、体が動くより先に心臓が跳ねる。
オブスキュリテの指が、中枢制御核へ向いた。
結衣ではない。背後。シティ結界の心臓部。
そこへ向けて、赤い雷が放たれる。
一直線に走る赫塵。細く、鋭く、赤い光が制御室を裂いた。
「しまっ――!」
結衣は振り返りかけた。
だが、間に合わない。
赤い雷が制御核の外郭に直撃した。青い光が大きく揺らぐ。
中枢制御核の表面に、赤い亀裂のような光が走った。
内部で回転していた魔法式が乱れ、結晶柱全体が悲鳴を上げるように震える。
制御室全体に警告音が鳴り響いた。
『中枢制御核に異常干渉』
『第三結界層、出力低下』
『魔力流路に浸食反応』
無機質な警告が、次々と重なる。
青い床の魔法陣が明滅する。天井から垂れ下がる魔力ケーブルの中で、流れていた青い光が赤く濁った。
まずい。これ以上、流し込ませてはいけない。
結衣は即座に踏み込んだ。
足元へ魔力を流す。一瞬だけ加速する。
痺れの残る右腕を無理やり動かし、拳を突き出す。
オブスキュリテは、その一撃を見ていた。
彼女は体を横へずらす。結衣の拳が、黒い衣装の肩口をかすめる。
空振り。
次の瞬間、オブスキュリテの手が結衣の右腕を掴んだ。触れた瞬間、赤い雷が流れ込む。
「っ……!」
結衣の右腕に、再び痺れが走った。先ほどまで残っていた赫塵の痺れに、さらに新しい赤い雷が重なる。
指先の感覚が遠のく。拳に集めかけていた魔力が、途中で散った。
オブスキュリテはそのまま腰を入れる。結衣の腕を引き込み、重心を崩す。
背負い投げ。
身体強化で固めた結衣の体を、真正面から殴り倒すのではなく、流して落とす。
「っ!」
結衣の視界が回った。体が宙に浮く。青い魔法陣の床が、上下逆さまになる。
叩きつけられる。
そう思った瞬間、結衣は空中で体を丸めた。
右腕は痺れている。だが、脚はまだ動く。床に落ちる直前、足先をついた。
魔力を一瞬だけ脚へ流し、衝撃を殺す。靴底が床を擦る。
青い光が足元で揺れた。叩きつけられない。
結衣は、掴まれた右腕を軸に踏み込んだ。オブスキュリテの手はまだ離れていない。
なら、それを逆に使う。
体を寄せる。
肩を入れ替える。
腰を落とす。
掴まれていた右腕を引き込むのではなく、引かれた力を利用して相手の重心を崩す。
背負い投げ。
今度は、結衣がオブスキュリテを投げた。黒い体が床へ叩きつけられる。
重い衝撃音。
青い魔法陣に、亀裂のような光が走った。
「ぐっ……!」
オブスキュリテの息が詰まる。背中を打ちつけた衝撃で、全身を覆っていた赤い雷が一瞬乱れた。
結衣はそのまま踏み込む。
止まるな。ここで止まれば、中枢制御核へまた赫塵を撃たれる。
倒れたオブスキュリテの顔面を踏みつけようと、足を振り下ろした。
だが、オブスキュリテは床を転がって避ける。
黒い衣装が青い魔法陣の上を滑った。
結衣の靴底が床を叩く。
空振り。
その隙に、オブスキュリテは低い体勢から足払いを放った。赤い雷を帯びた脚が、床すれすれに走る。
結衣は跳んだ。足払いをかわしながら、空中で体をひねる。そのまま蹴りを放つ。
上から落とすような一撃。
オブスキュリテは腕を上げて防御する。
だが、体勢が悪い。転がった直後で、十分に踏ん張れていない。
赤い雷をまとった腕で受け止めても、衝撃までは殺しきれなかった。
結衣の蹴りが、防御ごと押し込む。オブスキュリテの腕が弾かれた。
胸元が開く。
結衣は着地と同時に追撃した。
左拳。
オブスキュリテの胸部へ。
鈍い音。オブスキュリテの体が揺れる。
続けて、右肘。痺れている右腕。魔力はうまく通らない。
それでも、体重と勢いを乗せて叩き込む。
肘がオブスキュリテの肩口を打った。赤い雷が右腕へ跳ねる。
結衣の表情が歪む。
だが、止まらない。
膝。腹部を狙う。
オブスキュリテは半歩引いて直撃を避ける。
それでも掠った。体勢がさらに乱れる。
結衣の動きは速い。無駄がない。
だが、右腕の魔力は明らかに乱れていた。
拳を握る力が弱い。肘の軌道にも、ほんのわずかなぶれがある。
魔力を通すたび、赫塵の痺れが流れを途切れさせる。
それでも結衣は止まらない。
止まれば負ける。
止まれば、祈が制御核へ手を伸ばす。
だから、前へ出る。
オブスキュリテの防御が間に合わなかった。結衣の拳が、オブスキュリテの顔面に直撃する。
鈍い音。
オブスキュリテの頭が横へ振られる。体が数歩よろめいた。
唇の端が切れる。血が一筋、口元から流れた。
結衣は肩で息をしながら構え直す。呼吸が荒い。
右腕の感覚が薄い。
左脚にも、まだ痺れが残っている。
それでも、拳は構えた。
オブスキュリテは、ゆっくりと顔を上げる。口元には、笑みがあった。
傷つけられた怒り。
追い詰められた焦り。
そして、それらを覆い隠すような歪んだ余裕。
「ずいぶん軽い一撃だったわね」
結衣の眉が、わずかに動いた。
オブスキュリテは、唇の端から流れた血を舌で拭う。
赤い雷が、彼女の頬の近くで小さく弾けた。
「その右手。もうだいぶ痺れているんじゃない?」
図星だった。結衣の右手は、うまく握れていなかった。指先の感覚が鈍い。
拳を作ろうとしても、小指と薬指が遅れる。
魔力を流そうとしても、途中で散る。
拳へ力を集めようとしても、赫塵の痺れが残っていて、強化が安定しない。
今の一撃は、確かに軽かった。
昔なら。先ほどまでなら。もっと深く入っていたはずだった。
顎を打ち抜き、脳を揺らし、オブスキュリテを膝から崩せたかもしれない。
だが、今の右拳ではそこまで届かなかった。
結衣は、右手を握り直そうとした。
指が震える。うまく力が入らない。
オブスキュリテは、それを見て目を細めた。
楽しげに。
残酷に。
けれど、どこか痛々しく。
「まだ左手と足がある」
結衣は言った。強がりだった。
けれど、嘘ではない。
右が駄目なら左。
腕が駄目なら脚。
脚が駄目なら体ごとぶつける。
倒れるまで止まらなければいい。
それが、結衣の戦い方だった。
才能がないと言われても。
魔法が弱いと言われても。
何度倒れても。
何度でも立ち上がる。
それだけで、ここまで来た。
オブスキュリテは、楽しげに目を細めた。
「強がりね」
赤い雷が、彼女の全身でさらに強く弾ける。
制御室の青い光が、赤に侵される。
「いつまでもつかしら」
制御室には、警告音が鳴り続けている。
『中枢制御核、外郭損傷』
『魔法反応、残留』
『結界出力、低下中』
青い中枢核は、赤い雷に侵されて揺らいでいた。
外では、今も魔法少女たちが異形を止めている。
時間はない。
結衣は拳を握り直した。右手は震えている。感覚も鈍い。
でも、まだ立っている。
まだ見えている。
まだ止められる。
オブスキュリテもまた、構え直した。
血の味を噛みしめながら。赤い雷をまといながら。
二人の視線が、再びぶつかった。
青い光と赤い雷の間で、かつて親友だった二人は、一歩も引かずに向かい合う。
結衣は右手の痺れを呼吸で押し込める。
オブスキュリテは口元の血を拭わない。
互いに傷ついている。
互いに削れている。
だが、まだ終わらない。終われない。
シティを守るために。
シティを壊すために。
赤羽 祈を止めるために。
赤羽 祈を終わらせるために。
二人は、再び床を蹴った。




