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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
1章

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17/21

対峙


 オブスキュリテは、慎重に施設内を進んでいた。


 防御機構中枢施設の内部は、ひどく静かだった。

 警報音はない。職員の声もない。魔動機械の駆動音すら聞こえない。

 広い廊下には、青白い誘導灯だけが灯っている。


 壁面には、細い魔法回路が何本も走っていた。シティ結界へ魔力を送るための制御線。

 本来なら淡い青色で規則正しく脈打っているはずのそれは、今はひどく静かだった。

 完全に停止しているわけではない。


 けれど、必要最低限の維持出力だけを残し、ほとんどの機能が意図的に眠らされている。

 まるで、施設そのものが息を潜めているようだった。


 オブスキュリテは、指先に赤い火花を灯した。ばちり、と小さな音が響く。

 その音が、無人の廊下にやけに大きく反響した。


 彼女は細い雷を、廊下の先へ放つ。赫塵かくじんが床を這い、壁の魔力回路をなぞり、天井の隅まで走っていく。

 赤い雷は、青白い配線の上を蛇のように滑り、分岐を探り、隠された術式の気配を探す。

 魔法式の罠なら、痺れれば分かる。


 防衛術式も。結界装置も。魔動機械も。

 魔力で動くものなら、赫塵が干渉できる。

 自動で発動する拘束陣があれば、魔力の流れが乱れる。

 防衛端末が待機していれば、その核に触れた瞬間に赤い雷が反応する。

 見えない結界が張られていれば、赫塵の流れが弾かれる。


 だから、まず雷を流す。踏み込むのは、その後だ。

 だが、反応はなかった。何もない。


 赤い雷は、床を走り、壁を伝い、天井をなぞり、そのまま空気へ溶けるように消えていく。

 罠が起動する気配もない。防衛装備が動く音もない。警告表示すら出ない。


 オブスキュリテは眉をひそめた。

 静かすぎる。無防備すぎる。

 あえて防衛装備を停止させているのは理解できる。


 彼女の赫塵は、魔力で動く装置にとって致命的だ。

 下手に動かせば、痺れさせられる。暴走させられる。こちらの制御を奪われる可能性すらある。

 だから、魔法少女局が魔力系統の防衛装備を切ったのは理にかなっている。

 けれど、それなら別の手段を用意するはずだった。


 魔法は無力化できる。

 しかし、物理的な罠は別だ。


 爆薬。

 崩落装置。

 有毒ガス。

 魔力を使わない自動銃。

 圧縮空気を使った拘束具。

 床下に仕込んだ落とし穴。

 あるいは、この施設そのものを捨て石にするような自爆機構。


 相手は魔法少女局だ。正義と秩序を掲げる組織。市民を守るための機関。

 だが、だからといって信用できるわけではない。


 二年前、彼らは守らなかった。

 適切に対応していると口では言いながら、何も守らなかった。

 なら、追い詰められた時にどこまでやるかなど、信じるに値しない。


 オブスキュリテは足を止めた。


 通路の先に曲がり角がある。彼女は、直接覗き込まずに指先を動かした。

 赤い雷が床を這い、角の向こうへ滑り込む。

 壁の魔力回路をなぞる。天井の角を走る。

 だが、反応はない。


 何も起きない。


 オブスキュリテは、今度は床の継ぎ目へ視線を落とす。

 タイルの幅。わずかな段差。埃の積もり方。

 不自然な切れ目はない。


 魔力を使わない機械式の罠があれば、床の構造に何か違和感があるはずだ。

 だが、それもない。


 慎重に一歩踏み出す。何も起きない。

 もう一歩。何も起きない。

 彼女は通路の角まで近づき、壁に背を寄せた。

 指先の雷を天井裏へ伸ばす。


 空調孔の奥。配線スペース。点検用の狭い空洞。

 魔力の流れはない。金属の擦れる音もない。

 熱源らしい反応も、目立ったものは感じられない。


 オブスキュリテは舌打ちした。


 通路の先には、閉鎖された扉があった。制御区画へ続く補助通路。

 候補生時代に習った施設概要と、大きくは変わっていない。


 彼女は扉に直接触れなかった。まず赫塵を流す。

 赤い雷が扉の表面を走り、ロック用の魔法回路を痺れさせる。

 青い認証光が明滅した。抵抗らしい抵抗はない。術式が崩れ、ロックが落ちる。

 扉が低い音を立てて開いた。


 その向こうも、無人。

 青白い誘導灯が、奥へ奥へと続いているだけだった。


 オブスキュリテは、そこでしばらく動かなかった。


 おかしい。あまりにも何もなさすぎる。

 自分の赫塵を恐れているにしても、ここまで完全に空けるだろうか。


 人員を退避させる。防衛装備を停止させる。

 それは分かる。

 だが、侵入者を最奥まで素通りさせるなど、通常ならあり得ない。


 まるで、誰かに馬鹿にされているようだった。


 警戒しすぎだ、と。

 罠などない、と。

 真っ直ぐ奥まで来い、と。


 そう言われているようだった。


 オブスキュリテは、眉を寄せる。

 誘い込まれている。その可能性は高い。


 だが、どこへ。何のために。


 中枢制御部で待っているのは、魔法少女か。

 白瀬 結衣か。

 それとも、局が用意した別の切り札か。

 オブスキュリテの指先で、赤い雷が強く弾けた。


 結衣。その名が胸の奥を掠める。

 高台での言葉を思い出す。

 誰かを傷つけるなら、私は止める。必要なら、殴ってでも。

 オブスキュリテは、唇を歪めた。


 来るなら来ればいい。

 今度こそ、白瀬 結衣を踏み越える。昔のように、白兵戦で負ける自分ではない。

 止めると言うなら、止めてみればいい。

 それができないなら、この街ごと壊すだけだ。


 彼女は、また一歩を踏み出した。赤い雷を周囲へ薄く広げたまま、廊下を進む。


 右手には制御盤。

 左手には非常用通路。

 天井には魔力配線。

 床下には冷却管。

 すべてを確認しながら進む。


 雷を放つ。反応を見る。

 歩く。また雷を放つ。


 何も起きない。

 何もない。

 慎重に進んでいる自分だけが、滑稽に思えるほどだった。


 それでも、警戒は解かなかった。焦れば死ぬ。油断すれば足元を掬われる。

 何もないということは、何かがあるということだ。

 少なくとも、オブスキュリテはそう考えていた。

 だが施設は、彼女を嘲笑うように、ひたすら静かだった。


 やがて、廊下の先に重厚な扉が見えた。

 中枢制御区画へ続く最終隔壁。

 その向こうに、シティ結界の心臓部がある。


 オブスキュリテは、足を止めた。

 ここまで、何もなかった。


 警備員も。防衛装備も。魔法罠も。物理罠も。

 何も。

 あまりにもあっさりと、最奥へ近づいてしまった。

 それが、何よりも不気味だった。


「……馬鹿にしてくれるわね」


 オブスキュリテは低く呟いた。

 正面の隔壁へ手を向ける。赤い雷が、指先に集まる。

 この先に何が待っていようと関係ない。


 罠でも。

 待ち伏せでも。

 白瀬 結衣でも。


 壊す。

 ただ、それだけだ。



 中枢制御室。シティ全体を守る結界の心臓部。

 巨大な扉が、彼女の前に立ちはだかっている。

 表面には、何重もの封印術式が刻まれていた。


 認証術式。

 魔力照合。

 管理者権限確認。

 非常時隔離結界。

 侵入者排除用の警告式。


 本来なら、複数の承認を通さなければ開かない扉だ。

 魔法少女局の中でも、ごく一部の人間しか入ることを許されない場所。シティを守るための最後の砦。

 その扉を前にして、オブスキュリテは小さく息を吐いた。


「面倒ね」


 彼女は扉へ手を伸ばした。指先に赤い火花が灯る。次の瞬間、赫塵が走った。

 赤い雷が扉の表面を這い、複雑に刻まれた封印術式へ流れ込む。

 青い光が、びくりと揺れた。


 認証魔法が侵入者を拒もうとする。

 管理者権限の照合が走る。

 隔離結界が起動しかける。


 けれど、それより早く赫塵が魔力の流れを痺れさせた。

 青い術式の中に赤い亀裂が入る。封印の線が明滅し、途切れ、力を失っていく。


 扉はまだ閉じていた。魔法のロックを殺しても、物理的な重量は残っている。

 だが、それだけだった。


 オブスキュリテは扉の隙間へ指をかける。

 黒い衣装の下で、魔力が全身を巡った。赤い雷が腕に絡みつく。


「開きなさい」


 力ずくで、こじ開けた。重い金属音が響く。扉が軋む。

 封印の残滓が悲鳴のように青く弾けた。

 巨大な扉は歪み、ゆっくりと開いていく。


 その奥には、巨大な制御室が広がっていた。


 広い。


 天井は高く、壁は円形に広がっている。

 床一面には、青い魔法陣が刻まれていた。

 幾何学模様が幾重にも重なり、シティ全体の結界構造を象るように光を放っている。


 天井からは無数の魔力ケーブルが垂れ下がっていた。

 透明な管の中を、青い光が脈打つように流れている。

 そのすべてが、中央へ集まっていた。


 制御室の中央。


 そこには、結晶柱のような中枢制御核が浮かんでいた。人の背丈をはるかに超える巨大な青い結晶。

 内部では無数の魔法式が回転し、光の層が折り重なるように動いている。

 それは、静かに脈動していた。


 心臓のように。呼吸するように。

 シティ全体へ、結界の魔力を送り続けている。


 あれを壊せば、終わる。

 オブスキュリテは理解した。

 この街を守る青い光。

 かつて自分が憧れた魔法少女たちが守ってきたもの。

 自分を見捨てた街を守り続けているもの。


 それが、目の前にある。


 そして。


 その前に、一人の人物が立っていた。


 白い魔法衣装。

 短く握られた拳。

 真っ直ぐな視線。


 白瀬 結衣。


 オブスキュリテは、わずかに目を細めた。

 驚きはしなかった。ここにいると分かっていた。


 いや。


 どこかで、いてほしいと思っていたのかもしれない。

 その考えを、オブスキュリテはすぐに胸の奥で踏み潰した。


「局は、ずいぶんと思い切った手段に出たものね」


 オブスキュリテは制御室を見渡す。

 防衛端末は沈黙している。

 迎撃用の魔動砲もない。

 隔離結界も起動していない。

 職員もいない。

 罠もない。


 無数の防衛装備を備えているはずの中枢制御室は、異様なほど静かだった。

 あるのは、青い制御核の光。

 そして、白瀬 結衣だけ。


 結衣は静かに答えた。


「オブスキュリテ相手じゃ、魔法が作動している防御装備は意味ないからね」


 だから、全部止めた。

 魔動機械も。防衛術式も。自動結界も。

 侵入者を拘束するための魔法陣も。余計な職員も。

 すべて下げた。

 赫塵に干渉され、暴走させられるくらいなら、最初から動かさない。


 そして、この最奥に残したのは一人。

 白瀬 結衣。

 オブスキュリテの赫塵に、最も耐性がある魔法少女。

 魔力量が低いがゆえに、魔力干渉の影響を受けにくい少女。

 そして、赤羽 祈の親友だった少女。


 オブスキュリテは、薄く笑った。


「随分と信用されたものね、白瀬 結衣」


「そうかもね」


「あなた一人倒せば、このシティは崩壊するのよ」


 言葉にすると、制御室の空気がさらに重くなる。

 それは脅しではない。事実だった。

 結衣一人。

 この白い魔法少女一人さえ退ければ、オブスキュリテは中枢制御核へ赫塵を流し込める。


 青い結晶は赤い雷に侵される。シティの結界は崩壊する。

 外で待機している異形兵たちは、好きなだけ街へ流れ込む。

 魔法少女局の防衛線も、避難も、すべて崩れる。

 この街を守る最後の壁は、いま結衣だけだった。


「させない」


 結衣は拳を構えた。

 その動きは静かだった。けれど、迷いはなかった。


「エースとして」


 一拍置く。

 結衣は、まっすぐオブスキュリテを見た。


「親友として」


 その言葉に、オブスキュリテの表情がわずかに冷える。


「親友、ね」


 口元だけが笑った。瞳は笑っていなかった。


「便利な言葉ね。二年前に使ってくれれば、もう少し価値があったかもしれないけれど」


 結衣の胸が痛んだ。

 それでも、うつむかなかった。


「この結界を壊せば、多くの被害が出る」


 結衣の声は震えなかった。


「避難している人たちだけじゃない。外で戦っている魔法少女たちも、まだ街に残っている職員たちも、逃げ遅れた人たちも、みんな危険に晒される」


 オブスキュリテは黙って聞いていた。


「そうしたら、あなたはもう戻ることができなくなる」


「戻る?」


 オブスキュリテは、制御核を見上げた。青い光が、その横顔を照らしている。

 赤い火花が、指先で小さく弾けた。


「何度言えば分かるの。戻る場所なんてないわ」


「場所がないなら、作る」


 結衣は言った。

 オブスキュリテはゆっくりと視線を戻す。


「綺麗事」


「うん。綺麗事だよ」


 結衣は認めた。否定しなかった。

 自分でも分かっている。


 壊れた家が、言葉一つで戻るわけではない。

 失われた時間が、謝罪一つで埋まるわけではない。

 祈が受けた傷が、結衣の願いだけで癒えるわけではない。


 それでも。


「でも、私はそれを捨てたくない」


 結衣は続けた。


「あなたが綺麗事だって笑っても、今さらだって怒っても、それでも私は言い続ける。帰る場所がないなら作る。戻れないって言うなら、戻れる場所を探す。あなたが拒んでも、私は手を伸ばす」


 オブスキュリテの指先に、赤い火花が灯った。


「私は、それを望んでいるの」


 その声は静かだった。静かすぎて、痛かった。

 結衣の胸が締めつけられる。


「もう迷わないように」


 オブスキュリテは、青い制御核へ視線を向ける。


「もう赤羽 祈だった頃を思い出さないように」


 彼女の声が低くなる。


「もう誰かに止めてほしいなんて、くだらないことを考えないように」


「……祈」


「オブスキュリテ」


 即座に訂正される。

 結衣は息を呑んだ。その言葉で、ようやく理解した。

 オブスキュリテはただ街を壊しに来たのではない。


 この中枢制御核を壊すことで。

 この街を守っていた結界を壊すことで。

 かつてこの街を守りたいと願っていた赤羽 祈の残り火を、完全に踏み潰そうとしている。

 自分がもう戻れないのだと、取り返しのつかないところまで進むことで証明しようとしている。


「そんなことをしても」


 結衣は言った。


「あなたは楽にならない」


「楽になるためじゃないわ」


 オブスキュリテは笑った。


「終わらせるためよ」


「何を」


「赤羽 祈を」


 その言葉に、結衣の心臓が痛んだ。


「赤羽 祈は、祈っても何も届かないことを知った。守っても誰も守ってくれないことを知った。真心なんて、都合よく踏みにじられるだけだと知った」


 赤い雷が、彼女の周囲に広がる。


「なら、そんなものはもういらない」


「私は、まだいると思ってる」


「あなたの意見なんて聞いていないわ」


「それでも言う」


 結衣は拳を握った。


「私は、赤羽 祈がまだここにいると思ってる」


 オブスキュリテの目が細くなる。


「あなたは壊すって言いながら、ずっと迷ってた。ライブでも、局でも、誰かを殺すことを避けてた。高台にも来た。昔、二人でシティを見た場所に」


「黙りなさい」


「あなたは、まだ全部を捨てきれてない」


「黙れ」


 赤い雷が強く弾ける。制御室の床に刻まれた青い魔法陣が、赤い光に照らされて揺れた。

 結衣は怯まなかった。


「だから、私は止める」


 静かに、けれどはっきりと言った。


「あなたが赤羽 祈を殺そうとするなら、私はそれも止める」


 オブスキュリテは、しばらく結衣を見つめた。その顔から、笑みが消えていた。


 怒っている。


 傷ついている。


 揺れている。


 その全部を、赤い雷で塗り潰すように、彼女は片手を上げた。


「なら、止めてみなさい」


 二人は構えた。青い光の中で、白と黒が向かい合う。

 中央では、中枢制御核が静かに脈打っている。

 外では、魔法少女たちが異形を迎え撃っている。

 シティ結界は、赫塵に侵されながらも辛うじて形を保っている。

 この部屋が落ちれば、すべてが終わる。


「マギアエンジン起動」


 二人の声が重なる。


白獅踏天はくしとうてん


 結衣は拳を握る。


赫塵かくじん斬虚雷業ざんきょらいごう


 オブスキュリテは赤い雷をまとわせる。


 かつて訓練場で何度も向かい合った二人。あの頃は、どちらが一本を取るかを競っていた。


 今は違う。

 一方は、街を守るために。

 一方は、街を壊すために。

 そして二人とも、赤羽 祈をめぐって戦おうとしていた。




 次の瞬間。

 先に動いたのは、結衣だった。

 床を蹴る。魔力を脚へ流す。ほんの一瞬だけ、必要な筋肉へ必要な量だけ通す。


 派手な光はない。

 大きな魔法陣もない。

 爆発的な魔力放出もない。


 けれど、その踏み込みは鋭かった。


 白瀬 結衣の魔法は、身体強化。

 ただそれだけ。

 けれど、ただそれだけを血が滲むほど磨き続けてきた。


 低く、速く、真っ直ぐに。結衣は一瞬で距離を詰める。


 オブスキュリテの指先から、赤い雷が放たれた。

 牽制。

 細く鋭い赤い線が空気を裂き、結衣の進路を塞ぐ。


 結衣は止まらない。上体を傾ける。赤い雷が肩のすぐ横を通り過ぎた。

 空気が弾ける。魔力の表面が、ざわりと波立つ。


 当たってはいない。それでも、近くを通っただけで魔力が乱される感覚がある。


 やはり危険だ。直撃すれば、変身すら不安定になる。

 結衣は歯を食いしばった。

 止まるな。


 二本目。

 床すれすれに沈み込み、雷の下を潜る。赤い光が髪をかすめた。


 三本目。

 踏み込みの瞬間をずらす。予定していた軌道から、半歩だけ外れる。

 赤い雷は、結衣の残像を貫いた。


 当たらない。


 当てさせない。


 結衣は、オブスキュリテの懐に入った。拳を振るう。

 狙いは胴。魔力を右腕へ流す。

 打撃の瞬間だけ、拳と前腕を硬化させる。


 昔と同じ。

 いや、昔よりもずっと速く、重く、無駄のない一撃。


 だが、オブスキュリテはそれを正面から受けなかった。

 手首で触れる。結衣の拳の軌道を、外側へ逸らす。


 力を受け止めない。

 押し返さない。

 流す。


 訓練場で何度も結衣に打ち込まれ、何度も負けた少女が、二年かけて身につけた動きだった。


 そのまま、返しの裏拳。黒い袖の下から、赤い火花が弾ける。

 結衣は首を傾けて躱した。風が頬をかすめる。

 赤い雷が皮膚のすぐそばを通り、魔力がわずかにざわついた。


 結衣は怯まない。

 すぐにしゃがみ込む。足払い。


 オブスキュリテは跳んだ。黒い衣装の裾が舞う。

 空中で体をひねる。そのまま踵落とし。

 赤い雷を帯びた脚が、結衣の頭上へ振り下ろされる。


 下がれば避けられる。けれど、下がれば距離を取られる。距離を取られれば、赤い雷の射程に入る。

 結衣は下がらなかった。

 脚に魔力を集中させる。ハイキックで迎え撃つ。


 足と足がぶつかった。


 鈍い衝撃音が、制御室に響く。青い床の魔法陣が、その衝撃に合わせて揺らいだ。

 赤い火花が散る。

 結衣の脚に痺れが走った。赫塵が触れたのだ。

 けれど、押し勝ったのは結衣だった。


 鍛え抜いた肉体。必要な瞬間だけ魔力を叩き込む精密な身体強化。

 それが、赤い雷の痺れを押し切った。


 オブスキュリテの体が、数歩後ろへ下がる。靴底が床の魔法陣を擦り、青い光が波紋のように広がった。


 結衣は拳を構え直す。足に残った痺れを、呼吸で押し込める。


 オブスキュリテは、少しの間だけ黙っていた。赤い火花が、彼女の指先で弾けている。

 その表情は読めない。


 怒っているようにも見えた。

 楽しんでいるようにも見えた。

 泣きそうなのを笑みで隠しているようにも見えた。


「昔を思い出すね」


 結衣が言った。声には懐かしさがあった。同時に、痛みもあった。

 ここは訓練場ではない。夕焼けもない。

 終わった後に二人で床に座り込んで笑うこともない。

 それでも、向かい合い、踏み込み、拳を交える感覚は、どうしようもなく昔に似ていた。


 オブスキュリテは目を細める。


「そうね」


 赤い火花が、彼女の肩口で弾ける。


「白兵戦では、一度も敵わなかった」


 夢の中の記憶が、胸の奥をかすめる。

 夕焼けの訓練場。結衣の手刀。

 私の勝ちだね、と笑う声。

 もう一回よ、次は私が勝つから。


 何度負けても、立ち上がった。

 何度悔しがっても、最後には笑っていた。


 結衣に勝ちたかった。結衣に認められたかった。


 祈、強いじゃん。

 そう言ってほしかった。


 遠い記憶。壊したはずの過去。


 オブスキュリテは、黒い上着の留め具に手をかけた。

 結衣の目がわずかに細くなる。

 オブスキュリテは、上着を脱ぎ捨てた。


 黒い布が宙を舞う。床へ落ちた上着が、彼女の周囲を走る赤い雷に焼かれ、端から焦げていく。

 露わになったのは、動きやすく絞られた戦闘衣装だった。


 黒いインナー。腕に巻かれた赤黒い魔力回路。

 肩から背中、腰、脚へと走る赫塵の紋様。


 それは、ただの衣装ではない。


 オブスキュリテが自分の魔法をより戦闘に適応させるために組み上げた補助回路。

 二年前、味方を巻き込まないよう距離を取るしかなかった赤い雷。

 それを、今は自分の体の表面にまとわせる。


 彼女の体に、赤い雷が流れた。指先だけではない。


 腕と脚。

 肩と背中。

 そして全身。


 赤い雷が、筋肉の動きに合わせて脈打つ。


 ばちり。


 ばちり。


 制御室の青い光の中で、赤い雷が異物のように輝いた。


 身体強化ではない。

 オブスキュリテは、結衣のように肉体そのものを高めているわけではない。

 魔力そのものを痺れさせる雷を、自分の体表に薄くまとわせている。


 触れれば、結衣の魔力も乱れる。

 殴れば、拳が痺れる。

 蹴れば、脚の強化が崩れる。

 掴めば、変身の維持すら揺らぐ。


 白兵戦で勝てないなら。白兵戦そのものを赫塵で塗り替える。

 それが、オブスキュリテの答えだった。


 結衣は、その姿を見て息を呑んだ。

 祈は、昔から自分の魔法を怖がっていた。味方を巻き込むかもしれないと、不安げに笑っていた。

 それが今、自分の全身を覆う鎧になっている。


 誰かに触れられないように。

 誰かを近づけないように。

 自分自身を赤い雷で包み込んでいる。

 その姿が、あまりにも痛々しかった。


 オブスキュリテは笑った。


「今日こそ勝たせてもらうわ」


 その声には、復讐者の冷たさがあった。

 けれど、ほんの奥底に、昔の悔しさが残っているようにも聞こえた。


 結衣は、ゆっくりと息を吐いた。

 昔なら、きっと笑っていた。


 また勝つよ、と。

 今度も私の勝ちだね、と。

 冗談みたいに言えたかもしれない。

 祈が悔しがって、もう一回と言って、二人で笑っていたかもしれない。


 でも今は違う。

 ここは訓練場ではない。


 負ければ、シティが壊れる。

 負ければ、外で戦っている後輩たちが危険に晒される。

 負ければ、祈が本当に戻れなくなる。


 赤羽 祈を終わらせるためにここへ来たオブスキュリテを、止められなくなる。


「悪いけど」


 結衣の体に、淡い魔力が通る。

 少ない魔力。けれど、鍛え抜いた流れ。

 必要な場所へ。必要な瞬間だけ。

 無駄なく、鋭く、研ぎ澄ませる。


 拳へ。脚へ。体幹へ。呼吸へ。

 結衣は、自分の中にある魔力の細い流れを整えた。


 赫塵に触れれば乱される。なら、乱される前に打つ。

 触れる時間を短くする。受け止めず、弾く。掴まず、滑らせる。


 長期戦になれば不利だ。

 けれど、焦ってもいけない。


 相手は祈だ。

 いや、オブスキュリテだ。

 昔の祈を知っているからこそ、甘く見てはいけない。


「負けられないの」


 結衣の声は静かだった。

 青い光と赤い雷が、制御室でぶつかる。

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