初動
「シティ結界、損傷率三十パーセント!」
魔法少女局、臨時管制室。オペレーターの声が飛んだ。
室内の空気が、一瞬で張り詰める。
壁一面に並んだモニターには、シティ全域の状況が映し出されていた。
避難区域。防御機構中枢施設。
各想定ゲート地点。待機中の魔法少女部隊。
避難バスの移動状況。結界出力の推移。
膨大な情報が、次々と更新されていく。
その中央にある大型モニターには、シティ全体の立体地図が表示されていた。
街を覆う半球状の結界が、青い網目として可視化されている。その一部が、赤く染まっていた。
「結界外周部、第三から第六防衛層に乱れ! 一部に穴が開きました!」
「ゲート反応は」
幹部の一人、桐生 聡が即座に問う。声は低く、落ち着いていた。
だが、握られた拳には力がこもっている。
モニター上で、結界に生じた損傷箇所が赤く点滅する。その周囲に、いくつものゲート予測点が表示されていた。
赤い点。
黄色い点。
危険度を示す警告表示。
結界の歪みに引き寄せられるように、空間の裂け目が発生しようとしている。
「ゲート開きます!」
「出現地点は」
「すべて、想定地点です!」
その報告を聞いて、桐生は短く息を吐いた。
「よし」
すべて予定通りではない。オブスキュリテの魔法による結界損傷は、想定よりも早い。
外側からの干渉だけで三十パーセントまで持っていかれたのは、決して軽い被害ではなかった。このまま中枢まで踏み込まれれば、結界は本当に落ちる。
だが、少なくとも今の段階では想定内だ。彼らはあらかじめ、結界に弱い地点を作っていた。
それは、通常ならあり得ない判断だった。シティを守るための結界に、わざと弱点を作る。
そんなことを聞けば、市民は正気を疑うだろう。
現場の魔法少女たちですら、最初に説明を受けた時は顔を強張らせていた。
だが、桐生たちは分かっていた。
オブスキュリテの赫塵は、魔力の流れを痺れさせる。結界全体に流し込まれれば、損傷箇所は無秩序に広がる。
どこに穴が開くか分からない。どこにゲートが開くか分からない。それが一番危険だった。
だから、あえて流れを作った。結界の一部に、壊れやすい逃げ道を用意した。赫塵によって結界が乱された時、歪みがその地点へ集中するように。そこにゲートが開きやすくなるように。
結界制御班が夜を徹して調整した、危険な誘導作戦だった。
もちろん、賭けだった。一歩間違えれば、結界の損傷を自分たちで広げることになる。
誘導地点が破られれば、その周辺は戦場になる。魔法少女たちにも、大きな負担を強いることになる。
だが、無秩序にゲートを開かれるよりはいい。開く場所が分かっているなら、そこに戦力を置ける。避難区域から遠ざけられる。
赤雷個体への対処も、事前に準備できる。
桐生は、モニターから目を離さずに命じた。
「各想定地点に待機中の魔法少女へ通達!」
「はい!」
「異形の迎撃を開始。赤雷をまとっていない個体は近接班が処理。赤雷をまとった個体は接近禁止、遠距離火力を集中させろ!」
「了解!」
オペレーターが即座に各部隊へ指示を飛ばす。管制室の空気が慌ただしく動き出した。
「第一想定地点、ゲート開口!」
「第二、第三も続きます!」
「第四地点、赤雷反応あり!」
「遠距離班へ転送。近接班には後退指示!」
次々と情報が流れる。
桐生は一つ一つを聞きながら、全体図を見ていた。今、重要なのはゲートを完全に防ぐことではない。
防げない。
オブスキュリテが結界を痺れさせている以上、どこかに歪みは生じる。ならば、開く場所を操る。被害を最小限に抑える。魔法少女たちが対応できる形に押し込める。
それが今回の防衛作戦だった。
「結界制御班は損傷箇所の維持に集中」
桐生が続ける。
「無理に修復するな。ゲート誘導を崩すな!」
「ですが、損傷率が――」
「今は直すな」
桐生の声が強くなる。
「中途半端に修復すれば、歪みが別地点へ逃げる。そうなれば、市街地のど真ん中にゲートが開くぞ」
オペレーターが息を呑む。
桐生は、低く続けた。
「持たせろ。壊すな。直しすぎるな。誘導を維持しろ」
「了解!」
結界制御班が一斉に応答する。
別のモニターでは、制御班の魔術師たちが巨大な術式盤に向かっていた。損傷を塞ぐのではなく、歪みの流れを整える。
赫塵に侵された結界の中で、わずかな安定点を探し、誘導地点へ魔力を流し続ける。
それは、崩れかけた堤防に手を当てながら、あえて一部から水を逃がすような作業だった。危険で、繊細で、一瞬も気を抜けない。
「第一想定地点、異形出現!」
「第二地点にも侵入反応!」
「第五地点、ゲート三つ同時開口!」
モニターの中で、赤い点が次々と開いた。
ゲート出現。異形侵入。黒い亀裂が、シティの各所に口を開ける。
だが、その前にはすでに魔法少女たちが待ち構えていた。
第一想定地点。廃棄予定の倉庫街。
人のいない広い敷地に、魔法少女たちが陣形を組んでいる。
第二想定地点。避難済みの旧商業区画。
遠距離班が屋上に配置され、近接班が地上で通常個体を迎え撃つ。
第五想定地点。防御機構中枢施設から離れた空き地。
予備の結界発生装置が周囲を囲み、赤雷個体の動きを制限する。
すべて、事前に選んだ戦場だった。
市民はいない。避難経路からも離れている。魔法少女たちが戦うために用意された場所。
そこへ、異形たちが流れ込む。
「第一地点、交戦開始!」
「近接班、通常個体二体を処理!」
「赤雷個体、第二地点に出現!」
「遠距離班が対応中!」
報告が飛び交う。
桐生はモニターを見つめたまま、静かに息を吐いた。まずは、成功した。
オブスキュリテの赫塵によって結界は損傷した。
だが、ゲートは想定地点に開いた。魔法少女たちは、迎撃態勢を取れている。
まだ戦える。
まだ守れる。
だが、桐生の表情は緩まなかった。これは、始まりにすぎない。
オブスキュリテ本人は、すでに中枢施設へ向かっている。彼女を止めなければ、この誘導作戦も長くは持たない。結界損傷が進めば、やがて想定地点以外にも穴が開く。
そうなれば、シティ全域が戦場になる。
桐生は、画面の向こうで戦う魔法少女たちを見る。今は信じるしかない。
「各部隊へ通達」
桐生は言った。
「誘導作戦は成功している。予定通り迎撃を継続。赤雷個体に接触するな。消耗した者は即時後退。防衛線を崩すな」
「了解!」
管制室に、再び声が響く。オペレーターたちは端末へ向き直る。
結界制御班は、損傷の流れを必死に押さえ込む。
モニターの中で、魔法少女たちが異形へ向かっていく。
桐生は、拳を握った。ここから先は、時間との勝負だ。
シティを守る戦いは、すでに始まっている。
「来た!」
三枝ミオは、剣を握り直した。
目の前の空間が、音もなく歪む。最初は小さな揺らぎだった。
空気の一部が水面のように波打ち、次の瞬間、黒い亀裂が縦に走る。
亀裂はゆっくりと広がり、内部に光のない穴を作った。
ゲート。異形たちが現れる、黒い裂け目。
ミオは喉を鳴らした。
怖い。怖くないわけがなかった。
先日のライブ襲撃で、ミオは赤い雷を受けた。
変身が解けた。戦場の真ん中で、ただの少女に戻された。
あの瞬間の感覚は、まだ体に残っている。
胸の奥から光が抜け落ちていくような感覚。
指先から魔力がほどけ、自分の体が自分のものではなくなっていくような恐怖。
異形が近づいてくるのに、立ち上がれなかったあの絶望。
思い出すだけで、足がすくみそうになる。
それでも、ミオは逃げなかった。
ここを抜かれれば、避難区域へ近づかれる。
その先には、家族がいる。友達がいる。自分が守りたい人たちがいる。
魔法少女になった自分を、すごいねと笑ってくれた弟がいる。
ライブの映像を何度も見返して、応援してるとメッセージをくれた母がいる。
避難バスに乗る前に、大丈夫だよねと不安そうに聞いてきた幼馴染がいる。
だから、ここで下がるわけにはいかない。
ゲートの奥から、異形が這い出してくる。
長い腕。歪んだ顎。濁った目。
黒い体が地面へ落ち、ぬるりと起き上がった。
「ミオ、右!」
「分かってる!」
仲間の魔法少女の一人、麗奈の声に、ミオは即座に反応した。
赤雷をまとっていない異形が飛び出してくる。
通常個体。
なら、自分たち近接班の役目だ。
ミオは踏み込んだ。剣に魔力を流す。
怖さを押し込む。余計なことは考えない。目の前の一体だけを見る。
「はあっ!」
振り下ろした刃が、異形の胴を裂いた。黒い外殻が砕け、内側から濁った光が漏れる。異形の体が粒子になって崩れた。
倒せた。その事実が、ほんの少しだけ胸に力をくれる。
けれど、息をつく暇はない。
続けて二体目。
低い姿勢で飛びかかってくる異形の爪を、ミオは横へ跳んで避けた。
背後から仲間の魔法弾が飛ぶ。異形の動きが一瞬止まる。
その隙に、ミオは斬り込んだ。剣が異形の首元を断つ。黒い体が崩れる。
「次!」
「左から二体!」
「近接班、押さえる!」
声が飛び交う。
ミオは剣を構え直した。
いける。
通常の異形なら、戦える。訓練通りに動ける。
仲間の声も聞こえる。自分の魔力も、ちゃんと流れている。
大丈夫。
まだ、大丈夫。
その時だった。亀裂の奥から、赤い光が漏れた。
ミオの背筋が凍る。心臓が、冷たく跳ねた。
「赤雷個体!」
誰かが叫ぶ。
ゲートの奥から現れた異形は、他の個体と見た目こそ大きく変わらない。だが、その爪に赤い雷をまとっていた。
赫塵。
オブスキュリテの赤い雷。
爪の先で、ばちり、ばちりと赤い火花が弾けている。
あの雷。
触れれば、魔力が痺れる。変身が揺らぐ。自分が魔法少女でいられなくなる。
ミオの体が、反射的に硬くなった。
逃げたい。近づきたくない。あれに触れたくない。
けれど、結衣の声が頭の中で蘇った。
赤雷個体には近づかない。近接班は下がる。遠距離班が落とす。
変身が不安定になったら、すぐに下がって。戦線を離れることは逃げじゃない。
次に立つための判断だから。
ミオは、奥歯を噛んだ。そして、一目散に後退した。
逃げたのではない。決められた通りに下がった。
怖いから背中を向けたのではない。勝つために距離を取った。
「やって!」
ミオの声と同時に、後方の遠距離班が一斉に魔法を放った。
光弾。魔力矢。氷の槍。圧縮された衝撃波。
いくつもの攻撃が、赤雷個体へ集中する。
異形は前へ出ようとした。赤い爪を振り上げ、ミオたち近接班へ向かおうとする。
だが、距離を詰める前に体を撃ち抜かれた。
光弾が肩を砕く。
氷の槍が脚を貫く。
魔力矢が頭部に突き刺さる。
衝撃波が胴体を押し潰す。
異形は咆哮した。爪の赤い雷が激しく弾ける。
けれど、届かない。誰にも触れられない。
次の瞬間、黒い体が崩れた。赤い火花が散り、地面へ落ちる前に消えていく。
「倒した!」
「いける!」
誰かが叫ぶ。
ミオも、思わず息を吐いた。胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどける。
いける。
これなら、あの雷をまとった敵だって倒せる。
直接受け止めない。近づかない。役割を分ける。
赤雷がない個体は近接班が抑え、赤雷個体は遠距離班が落とす。
怖いけれど、戦える。怖いままでも、動ける。
ミオは剣を握り直した。その手はまだ少し震えていた。
でも、さっきよりも強く握れている。
「次、来るよ!」
仲間の声。
ミオは顔を上げる。
ゲートの出現は止まっていなかった。
一つ倒しても、次が来る。二体倒しても、さらに奥から現れる。
結界の穴が完全に閉じない限り、異形は流れ込んでくる。黒い亀裂の向こうに、また影が見えた。
通常個体が三体。その後ろに、赤い光が一つ。
「こりゃ、しんどいね……!」
遠距離班の一人が、息を切らしながら笑った。
額には汗が浮かんでいる。魔力の消耗も激しい。
遠距離班は赤雷個体への集中攻撃を担当している分、消耗が早い。
防御班も、ゲート周辺に張った結界を維持するために魔力を使い続けている。
近接班も、通常個体を止め続けなければならない。
誰も楽ではなかった。それでも、陣形は崩れていない。
ミオは剣を構え直した。
腕が重い。膝も震えている。胸の奥には、まだ恐怖がある。
また赤雷を受けたらどうしよう。
また変身が解けたらどうしよう。
また戦場の真ん中で、ただの少女に戻ってしまったら。
そんな不安が、何度も頭をよぎる。
でも、まだ立てる。まだ剣を握れる。まだ仲間の声が聞こえる。
「踏ん張るよ」
ミオは前を見た。声は、自分でも思ったより強かった。
また、新しいゲートが開く。その向こうから、異形の群れが姿を現す。
黒い体が地面を踏む。歪んだ顎が開く。濁った目が、魔法少女たちを捉える。
「絶対に、ここを抜かせない!」
ミオが叫ぶ。その声に、魔法少女たちが応えた。
「了解!」
「近接班、通常個体を止める!」
「赤雷個体は任せて!」
「防御班、右側補強!」
「ミオ、前出すぎないで!」
「分かってる!」
声が重なる。
恐怖は消えない。疲労も消えない。
ゲートの奥には、まだ何体もの異形がいる。この戦いがどれだけ続くのかも分からない。
それでも、その場にいる誰も逃げなかった。怖いまま立っていた。震えながら、前を見ていた。
シティを守る戦いは、始まったばかりだった。
ミオは剣を振るう。異形の爪を受け流し、仲間の魔法弾に合わせて斬り込む。
赤い雷が見えれば下がる。通常個体なら前に出る。
結衣に教えられた通りに。自分たちで決めた役割通りに。
怖さを否定せず。
それでも、逃げずに。ミオたちは、ゲートの前に立ち続けた。




