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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
1章

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14/21

戦闘準備



 襲撃計画は、即座に魔法少女局へ共有された。結衣からの報告を受けた直後、局は緊急対策会議を開いた。

 オブスキュリテが週末、防御機構中枢施設を襲撃する。その報告が会議室に伝わった瞬間、空気が変わった。


 ざわめきはなかった。怒号もなかった。

 ただ、誰もが一瞬だけ息を止めた。それだけで、事態の重さは十分だった。


 防御機構中枢施設。


 シティ全体を覆う結界を維持する最重要施設。

 そこが破壊されれば、街は異形の侵入に対して無防備になる。


 結界は、単なる壁ではない。

 外界に開こうとするゲートの座標をずらし、異形の侵入を阻み、シティ内部の魔力環境を安定させている巨大な防衛装置だ。


 それが落ちれば、どうなるか。想像するのは難しくなかった。


 無数のゲート。市街地に流れ込む異形。

 避難しきれない市民。魔法少女たちの戦力分散。

 二年前の惨劇どころでは済まない可能性がある。


 もちろん、その情報自体が陽動である可能性もあった。

 あえて予告することで、局の戦力を中枢施設へ集める。


 その隙に別の場所を襲う。

 市民の避難行動を誘導し、指定された避難経路に敵を送り込む。

 あるいは、局が対応に追われる様子を晒すこと自体を目的としている。

 敵がそう考えている可能性は、十分にある。


 実際、オブスキュリテは魔法少女局の内情を知っている。

 施設構造も、魔法少女の運用も、ライブ会場の防御機構も、候補生時代に学べる範囲の知識は持っている。

 さらに、この二年間、侵略組織の中で活動してきた。

 素直に予告通り動くと考える方が危険だった。


 だが、もし本当なら一大事だった。

 嘘かもしれない。陽動かもしれない。

 しかし、本当だった場合の被害が大きすぎる。


 局は、急遽防衛体制を整えた。


 中枢施設周辺に臨時防壁を設置。

 待機中の魔法少女を重点配置。

 非戦闘員の退避ルートを再設定。

 予備の結界発生装置を搬入。

 赫塵対策として、接触を避けるための遠距離支援班も編成された。

 赤い雷をまとった異形が現れる可能性も想定し、近接班と遠距離班の役割分担も改めて確認された。


 魔法少女局本部だけではない。

 警察、消防、医療機関、避難施設、交通管理局。シティを支える各部署にも、次々と通達が飛んだ。


 週末の朝から、対象区域の住民を避難させる。避難経路は複数に分散。

 大型施設を臨時避難所として開放。

 病院や高齢者施設には、専用の搬送班を向かわせる。

 戦闘区域に近い学校や商業施設は、前日から閉鎖。可能な限り、市民を戦闘に巻き込まない。

 そのための準備が、夜通しで進められた。


 そして、局はその情報を公表した。

 会議では反対の声もあった。公表すれば、市民の不安を煽る。混乱が起きる。

 敵にこちらの準備状況を読まれる。

 世論から、また魔法少女局は何をしているのかと責められる。

 それでも、隠すという選択肢は取られなかった。


 二年前のように。


『現在、詳細を調査中です』


『適切に対応しております』


『個別の案件については回答を差し控えます』


 そんな言葉だけで済ませるわけにはいかなかった。

 二年前、局は情報を伏せた。慎重な対応と言いながら、動きが遅れた。

 その間に、一人の少女が世間から責められ続けた。守るべき魔法少女を守れなかった。

 同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。だから、公表した。


 週末の朝から、住民は指定区域外へ避難することになった。

 シティ中に、緊急告知が流れる。


『防御機構中枢施設周辺における大規模戦闘の可能性があります』


『対象区域の住民は、係員の指示に従い避難してください』


『魔法少女局は、市民の安全確保を最優先に対応します』


 その文面は、街頭ビジョンにも、スマートフォンにも、公共交通機関の案内板にも表示された。

 駅前の大型モニターには、避難経路が繰り返し映し出される。

 学校は臨時休校になった。商業施設は営業を取りやめた。


 住宅街では、家族連れが荷物をまとめて避難バスに乗り込んでいく。

 小さな子どもが、ぬいぐるみを抱きしめながら親の手を握っていた。

 高齢の夫婦が、職員に支えられながらバスへ乗り込む。

 ペット用のキャリーケースを抱えた女性が、何度も自宅の方を振り返る。


 街は、不安に包まれた。誰も大声で騒いでいるわけではない。暴動が起きているわけでもない。

 だが、空気が重かった。

 人々は、分かっていた。これは訓練ではない。演出でもない。

 本当に、シティの命綱が狙われている。


 ネットでも、不安は隠せなかった。


『オブスキュリテ相手に勝てるのか?』


『あの赤い雷、魔法少女の天敵だろ』


『前回、見逃されただけじゃん』


『他所に援軍に出してる魔法少女たちを戻すべきでは?』


『また防御機構が止まったら終わりだぞ』


『白瀬 結衣は今度こそ大丈夫なのか』


『避難って言われても仕事あるんだけど』


『局はちゃんと説明してるだけ二年前よりマシ』


『でも相手があいつなら怖すぎる』


 不安と怒り。


 恐怖と期待。


 そして疑念。


 ありとあらゆる感情が、画面の中で渦巻いていた。

 その声は、魔法少女たちにも届いていた。見ようとしなくても、目に入る。

 控室のモニターにも、避難状況が流れている。


 通信端末には、家族や友人からのメッセージが届く。


 大丈夫なの。

 無理しないで。

 帰ってきて。

 頑張って。守って。


 その一つ一つが、胸に重くのしかかる。怖くない者などいなかった。


 あの赤い雷。触れれば魔力が痺れる。変身が不安定になる。

 最悪の場合、戦場の真ん中で魔法少女でいられなくなる。

 魔法少女にとって、変身は鎧であり、武器であり、自分が戦場に立つための最低条件だ。

 それを剥がされる。ただの少女として、異形の前に放り出される。

 その恐怖を、先日の襲撃で彼女たちは見た。


 実際に変身を解かれた者もいる。

 仲間が倒れる姿を見た者もいる。

 赤い雷が空気を裂く音を、まだ耳が覚えている者もいる。

 それは、魔法少女にとって死に近い恐怖だった。


 だが、それでも逃げ出す者はいなかった。控室に集められた魔法少女たちは、皆、顔を強張らせながらもそこにいた。誰もが怖がっていた。

 けれど、誰も帰るとは言わなかった。


 膝の上で拳を握る者。

 武器の調整を何度も繰り返す者。

 通信端末に届いた家族からのメッセージを、黙って見つめている者。

 目を閉じて深呼吸する者。

 皆、それぞれの方法で恐怖を押し込めていた。


 三枝ミナも、その中にいた。先日の襲撃で赫塵を受け、変身を解除された新人魔法少女。

 魔力回路の痺れは、ようやく薄れてきている。変身もできる。戦闘許可も下りた。

 それでも、赤い雷のことを思い出すと指先が冷たくなる。


 変身が解けた瞬間の感覚。

 胸の奥から光が散っていく恐怖。

 異形が近づいてきた時の絶望。

 それはまだ、体に残っていた。


 それでも、ミナはここにいる。

 逃げないと決めた。だって、このシティには家族がいる。友達がいる。

 自分が魔法少女になったことを喜んでくれた人がいる。

 ライブで手を振ってくれた子どもがいる。

 守りたいものがある。


 怖いから逃げたい。でも、怖いからこそ守りたい。


 それは、他の魔法少女たちも同じだった。

 誰かが小さく呟いた。


「怖くないわけじゃないよね」


 別の誰かが答える。


「うん。怖い」


「でも、逃げたくない」


「私の家、この避難区域の近くだし」


「弟がいるんだ。魔法少女は絶対勝つって信じてる」


「うちのお母さん、避難バスからめっちゃ応援メッセージ送ってきてる」


 少しだけ、笑いが起きた。緊張で硬かった空気が、ほんのわずかに和らぐ。

 けれど、恐怖が消えたわけではない。皆、それを抱えたまま座っている。

 守るべきものが大きいから。怖くても、逃げるわけにはいかなかった。


 この街には、自分たちの家族がいる。親友がいる。大切な人たちがいる。

 いつか自分たちのステージを見に来てくれた子どもたちがいる。


 魔法少女は希望だから、なんて綺麗事だけではない。単純に、守りたい人がいる。

 そのために、彼女たちはここにいた。


 けれど、不安は消えなかった。オブスキュリテが来る。赤雷をまとった異形兵が来る。結界そのものを破壊しに来る。

 その現実は、控室の空気を重くしていた。


 そこへ、白瀬 結衣が入ってきた。控室の扉が開いた瞬間、魔法少女たちの視線が一斉に向く。

 誰かが小さく息を呑んだ。


 白瀬 結衣。


 現役魔法少女のエース。


 ステージのセンター。


 ほんの少し前まで、誰もが憧れの目で見ていた少女。

 そして、先日の襲撃でオブスキュリテを前に動けなくなった少女。

 倒れた後輩たちの前で、床に伏したまま立ち上がれなかった少女。

 それでも今、この場の誰よりもオブスキュリテを知っている少女。


 控室にいた魔法少女たちは、何も言わなかった。

 責める者はいない。

 だが、不安がないわけでもない。


 本当に大丈夫なのか。あの赤い雷を相手に、また戦えるのか。

 次にオブスキュリテが現れた時、今度こそ動けるのか。

 その問いは、誰の口からも出なかった。


 けれど、空気の中に確かにあった。結衣は、その視線を受け止めた。

 逃げなかった。全員の前まで歩き、立ち止まる。足元はしっかりしていた。背筋も伸びていた。

 けれど、胸の奥では心臓が強く鳴っている。


 怖い。逃げたい気持ちはある。

 祈と戦うことが怖い。

 赤羽 祈だった少女に拳を向けることが怖い。

 また動けなくなることが怖い。

 後輩たちを失うことが怖い。

 自分の迷いで、誰かを死なせてしまうことが怖い。

 それでも、結衣は顔を上げた。


 今、自分がうつむけば、ここにいる全員の不安が大きくなる。

 自分が震えていることを、隠しきる必要はない。

 でも、前を見る必要はある。


 結衣は、一度、深く息を吸った。


「みんな」


 声は、控室によく通った。ざわついていた空気が静まる。

 ミオも、他の魔法少女たちも、結衣を見る。


「オブスキュリテは、私が止める」


 短い言葉だった。

 けれど、その場の全員が息を呑んだ。


 誰かが、膝の上で拳を握る。

 誰かが、俯いていた顔を上げる。


 結衣は、続けた。


「彼女の赤い雷は、魔力に干渉する。接触すれば、変身も魔法も不安定になる。正面から受ければ危険なのは間違いない」


 誤魔化さなかった。

 怖がるな、とは言わなかった。

 大丈夫、絶対に勝てる、と軽く言うこともしなかった。


 あの赤い雷は怖い。変身を剥がされる恐怖は本物だ。触れれば戦えなくなるかもしれない。そこを曖昧にすれば、実戦で誰かが判断を誤る。

 だから結衣は、怖さを認めた。


「だから、無理に彼女へ近づかないで」


 結衣は、指示を一つずつ口にする。


「オブスキュリテ本人を見つけても、単独で追わない。赫塵かくじんをまとった個体にも、近接班は触れないこと。異形兵への対応も、接触を避けることを最優先にして」


 魔法少女たちは真剣に聞いていた。


「防御役は距離を取って、結界を重ねる。一枚で受け止めようとしないで。赫塵で乱されたら、すぐに後ろの子が補助する」


 防御担当の魔法少女たちが頷く。


「攻撃役は一撃離脱。欲張らない。倒しきれなくても、接触を避けて下がること。赤雷個体が出たら、近接班は引いて、遠距離班が集中攻撃」


 遠距離魔法を得意とする子たちが、武器を握り直す。


「変身が不安定になったら、すぐに下がって。恥ずかしがらなくていい。怖がっていい。戦線を離れることは逃げじゃない。次に立つための判断だから」


 その言葉に、何人かの表情が少しだけ揺れた。

 先日の襲撃で変身を解かれた子たち。

 逃げたことを悔やんでいた子たち。

 自分は役に立たなかったと思っていた子たち。

 その子たちへ向けて、結衣は言った。


「誰か一人で全部を背負わないで。隣の子を見ること。声を出すこと。怖いなら怖いって言っていい。私たちはチームで戦う」


 具体的な指示に、控室の空気が少し変わった。

 恐怖はある。不安も消えない。

 それでも、やるべきことが見えるだけで、人は少しだけ動ける。

 何をしていいか分からない恐怖より、次に何をすればいいか分かる恐怖の方が、まだ耐えられる。


 結衣は、皆の顔を一人ずつ見た。

 若い魔法少女たち。

 自分に憧れてくれる後輩たち。

 自分が守らなければならない仲間たち。

 そして、共にシティを守る戦士たち。


「オブスキュリテ本人には、私が当たる」


 その声に、迷いはなかった。

 控室の空気が、さらに引き締まる。


「今度こそ、後れを取ったりしない」


 ミオが顔を上げた。

 先日の襲撃で見た結衣とは違った。


 あの時の結衣は、オブスキュリテを前にして動けなくなっていた。

 床に倒れたまま、拳を握ることもできなかった。

 目の前にいる敵が、かつての親友だと知って、心を折られていた。


 でも今の結衣は、違う。怖くないわけではないのだろう。

 ミオにも、それは分かった。


 結衣の手は、ほんのわずかに震えている。声の奥にも、痛みがある。

 それでも、前を向いていた。

 逃げないと決めた人の顔をしていた。


「私は、逃げない」


 結衣は言った。自分自身に言い聞かせるように。

 それでも、全員へ届く声で。


「彼女を止める。その間、みんなにはシティを守ってほしい」


 沈黙が落ちた。重い沈黙ではなかった。

 言葉を受け取った者たちが、自分の中で覚悟を整えるための沈黙だった。

 やがて、ミオが立ち上がった。椅子が小さく音を立てる。


「はい」


 声は少し震えていた。

 けれど、はっきりしていた。


「守ります」


 結衣がミオを見る。

 ミオは、まだ怖がっていた。それでも、逃げない目をしていた。


「私、赤い雷はまだ怖いです」


 ミオは正直に言った。


「変身が解けた時のことも、まだ覚えてます。次に見たら、足がすくむかもしれません」


 結衣は何も言わずに聞いた。


「でも、守りたいです。家族も、友達も、このシティも。だから、私は私にできることをします」


 その言葉が、他の魔法少女たちの背中を押した。

 一人が立ち上がる。


「私もやります」


 別の子も頷く。


「結衣先輩がオブスキュリテを止めるなら、私たちは異形兵を止めます」


「シティは守ります」


「赤雷個体は遠距離班で落とします。近接班を無理に前に出させません」


「変身が乱れた子は、私が回収します」


「避難区域には絶対に抜かせません」


 声が一つ、また一つと増えていく。控室の空気が変わっていった。

 不安は消えない。恐怖も残っている。

 誰も、楽観しているわけではない。

 オブスキュリテが危険な敵であることも、赫塵が魔法少女の天敵であることも、シティが危機にあることも変わらない。


 それでも、魔法少女たちは顔を上げた。

 エースが逃げないと言った。なら、自分たちも逃げない。その程度の単純な勇気でも、今は十分だった。


 結衣は、全員を見渡す。胸の奥に、熱いものが広がっていく。

 自分一人ではない。祈と向き合うのは自分だ。

 けれど、シティを守るのは自分一人ではない。

 ここにいる魔法少女たち全員が、それぞれの恐怖を抱えながら立っている。

 結衣は、深く頭を下げた。


 その行動に、魔法少女たちが驚く。


「ありがとう」


 結衣は言った。


「一緒に戦ってくれて」


 控室に、静かな熱が満ちた。

 誰かが小さく笑った。誰かが涙を拭いた。誰かが武器を握り直した。

 出撃時刻は、近づいている。

 この先に待つのは、恐怖だ。痛みだ。

 それでも。もう、誰も一人ではなかった。





 決意の言葉を述べた後、結衣が控室を出ると、廊下で奈央が待っていた。壁にもたれ、腕を組んでいる。

 いつものように軽口を叩くわけでもなく、笑って迎えるわけでもない。ただ、静かに結衣を見ていた。


 控室の中からは、魔法少女たちの声が聞こえる。

 装備を確認する音。

 通信端末を操作する音。

 誰かを励ます小さな声。

 恐怖を押し込めながら、それでも戦いに向かおうとする少女たちの気配が、扉越しに伝わってきた。


 結衣は扉を閉める。廊下に、少しだけ静けさが戻った。

 結衣を見ると、奈央は静かに問いかけた。


「答えは出たのか」


 その問いに、結衣は立ち止まった。

 資料庫で問われた言葉が、胸の奥で蘇る。


 許されたいのか。


 止めたいのか。


 救いたいのか。


 償いたいのか。


 あの時、結衣は答えられなかった。

 祈を救いたい気持ちも、許されたい気持ちも、昔に戻りたい願いも、全部が混ざっていた。

 真実を知れば何かが変わると思っていた。

 祈は悪くなかったと証明できれば、祈は戻ってきてくれるかもしれないと思っていた。


 けれど、奈央に止められた。

 真実は、祈を自動的に救ってくれる魔法ではない。

 その言葉は、今も胸に残っている。


 廊下の窓の外には、避難する人々を乗せたバスが見えた。

 家族連れ。高齢者。小さな子ども。不安そうに窓の外を見ている人々。


 遠くには、防御機構中枢施設の塔がそびえている。

 薄い青の光をまとい、シティ全体を守るために立ち続ける塔。

 あそこへ、祈が来る。オブスキュリテが来る。

 今度こそ、止めなければならない。


 結衣はゆっくりと息を吸った。肺に入った空気は冷たかった。

 けれど、胸の奥にあった迷いを少しだけ澄ませてくれる気がした。


「祈に許してほしい気持ちは、まだあります」


 奈央は何も言わなかった。

 ただ、結衣の言葉を待っていた。


「二年前、返事をしなかったこと。会いに行けなかったこと。手を伸ばせなかったこと。全部、謝りたいです」


 言葉にするたび、胸が痛んだ。

 でも、もう飲み込まなかった。


「許してほしいって、思ってます」


 結衣は、自分の胸に手を当てた。

 そこには、まだ弱い自分がいる。


 祈に「もういいよ」と言ってほしい自分。

 仕方なかったと言ってほしい自分。

 結衣のせいじゃないと、あの優しい声で許してほしい自分。


 その気持ちは消えない。綺麗になくなるものではない。


 祈に許されたい。


 昔に戻りたい。


 もう一度、親友と呼びたい。


 祈に、結衣と呼んでほしい。


 隣で笑ってほしい。


 その願いは、確かにまだ胸の中にある。

 それをないもののように扱うことは、もうできなかった。


 でも。結衣は顔を上げた。


「それを理由に、祈を止めるんじゃない」


 奈央の目が、わずかに細くなる。

 結衣は、窓の外の防御機構中枢施設を見た。あそこが壊されれば、多くの人が傷つく。

 ミナたち後輩が傷つく。避難しきれなかった市民が危険に晒される。

 そして、祈は本当に戻れなくなる。

 被害者だった少女が、取り返しのつかない加害者になる。それだけは、止めなければならない。


「あの子が、これ以上誰かを傷つけて、自分の帰る場所を壊す前に止めます」


 結衣の声は震えなかった。

 決して強い声ではない。大声でもない。けれど、自分の中で決めた言葉だった。


「たとえ、祈が一生私を許してくれなくても」


 喉の奥が痛む。

 その想像は、今でも怖い。

 祈に拒絶されること。憎まれること。今さら親友面するなと罵られること。許さないと言われること。

 それでも。

 結衣は言い切った。


「私は、あの子の親友だから」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 親友。

 自分にその言葉を使う資格があるのかは、まだ分からない。祈がそう呼んでくれるかも分からない。

 けれど、結衣が祈を親友だと思うことだけは、もうやめたくなかった。


 許されるためではなく。

 過去をやり直すためでもなく。

 祈にこれ以上、自分自身を壊させないために。

 結衣は親友として、止める。


 奈央はしばらく結衣を見ていた。

 厳しい目だった。

 答えの甘さを見逃さない目。

 感情だけで突っ走ることを許さない目。


 けれど、その奥には少しだけ優しさがあった。

 やがて奈央は、短く息を吐いた。


「そうか」


 それだけ言って、小さく頷く。


「なら、行ってこい」


「はい」


 結衣は、まっすぐ返事をした。


「ただし、忘れるな」


 奈央は結衣の肩に手を置いた。

 現役時代なら、きっと力強く戦場へ送り出す手だったのだろう。今は、どこか悔しさも混じっている。

 自分ではもう前線に立てない。後輩に託すしかない。その歯がゆさを、奈央の手の重さから感じた。


「親友だから止めるんじゃない」


 奈央は言った。


「止めると決めた上で、親友として手を伸ばすんだ」


 結衣は、その言葉を噛みしめた。

 順番を間違えてはいけない。

 祈が親友だから、何をしても許すのではない。

 祈が傷ついているから、今の行動を見逃すのではない。


 まず、止める。

 誰かを傷つけようとするなら、止める。


 その上で、手を伸ばす。

 拒絶されても。憎まれても。許されなくても。

 親友として。


「はい」


 結衣は頷いた。


「分かりました」


「それと」


 奈央は、少しだけ表情を崩した。いつもの奈央に戻るような、小さな笑みだった。


「帰ってこい。お前もだ」


 結衣の表情が、少しだけ揺れた。


 祈を止めることばかり考えていた。

 シティを守ることばかり考えていた。

 後輩たちを守ることばかり考えていた。


 自分が帰ってくることを、あまり考えていなかった。

 奈央には、それが見えていたのかもしれない。


「……はい」


 結衣は、少し遅れて答えた。


「帰ってきます」


「よし」


 奈央は肩から手を離した。その手が離れた瞬間、結衣は自分の足で立っていることを改めて感じた。

 誰かに背中を押された。でも、歩くのは自分だ。

 結衣は廊下の先へ歩き出した。


 もう迷いが消えたわけではない。

 恐怖がなくなったわけでもない。

 祈と戦うことは、今でも怖い。

 また動けなくなるのではないかという不安もある。

 許されたい願いも、まだ胸の奥に残っている。

 それでも、足は止まらなかった。


 廊下の窓の外では、避難バスがゆっくりと走っていく。

 その向こうに、防御機構中枢施設の塔が見える。


 防御機構中枢施設。

 そこで、結衣はもう一度、オブスキュリテと向き合う。

 許されるためではなく。過去に戻るためでもなく。

 これ以上、祈が自分自身を壊さないように。

 そして、このシティを守るために。


 結衣は歩く。二年前に止まってしまった足を、今度こそ前へ進めるために。


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