戦闘準備
襲撃計画は、即座に魔法少女局へ共有された。結衣からの報告を受けた直後、局は緊急対策会議を開いた。
オブスキュリテが週末、防御機構中枢施設を襲撃する。その報告が会議室に伝わった瞬間、空気が変わった。
ざわめきはなかった。怒号もなかった。
ただ、誰もが一瞬だけ息を止めた。それだけで、事態の重さは十分だった。
防御機構中枢施設。
シティ全体を覆う結界を維持する最重要施設。
そこが破壊されれば、街は異形の侵入に対して無防備になる。
結界は、単なる壁ではない。
外界に開こうとするゲートの座標をずらし、異形の侵入を阻み、シティ内部の魔力環境を安定させている巨大な防衛装置だ。
それが落ちれば、どうなるか。想像するのは難しくなかった。
無数のゲート。市街地に流れ込む異形。
避難しきれない市民。魔法少女たちの戦力分散。
二年前の惨劇どころでは済まない可能性がある。
もちろん、その情報自体が陽動である可能性もあった。
あえて予告することで、局の戦力を中枢施設へ集める。
その隙に別の場所を襲う。
市民の避難行動を誘導し、指定された避難経路に敵を送り込む。
あるいは、局が対応に追われる様子を晒すこと自体を目的としている。
敵がそう考えている可能性は、十分にある。
実際、オブスキュリテは魔法少女局の内情を知っている。
施設構造も、魔法少女の運用も、ライブ会場の防御機構も、候補生時代に学べる範囲の知識は持っている。
さらに、この二年間、侵略組織の中で活動してきた。
素直に予告通り動くと考える方が危険だった。
だが、もし本当なら一大事だった。
嘘かもしれない。陽動かもしれない。
しかし、本当だった場合の被害が大きすぎる。
局は、急遽防衛体制を整えた。
中枢施設周辺に臨時防壁を設置。
待機中の魔法少女を重点配置。
非戦闘員の退避ルートを再設定。
予備の結界発生装置を搬入。
赫塵対策として、接触を避けるための遠距離支援班も編成された。
赤い雷をまとった異形が現れる可能性も想定し、近接班と遠距離班の役割分担も改めて確認された。
魔法少女局本部だけではない。
警察、消防、医療機関、避難施設、交通管理局。シティを支える各部署にも、次々と通達が飛んだ。
週末の朝から、対象区域の住民を避難させる。避難経路は複数に分散。
大型施設を臨時避難所として開放。
病院や高齢者施設には、専用の搬送班を向かわせる。
戦闘区域に近い学校や商業施設は、前日から閉鎖。可能な限り、市民を戦闘に巻き込まない。
そのための準備が、夜通しで進められた。
そして、局はその情報を公表した。
会議では反対の声もあった。公表すれば、市民の不安を煽る。混乱が起きる。
敵にこちらの準備状況を読まれる。
世論から、また魔法少女局は何をしているのかと責められる。
それでも、隠すという選択肢は取られなかった。
二年前のように。
『現在、詳細を調査中です』
『適切に対応しております』
『個別の案件については回答を差し控えます』
そんな言葉だけで済ませるわけにはいかなかった。
二年前、局は情報を伏せた。慎重な対応と言いながら、動きが遅れた。
その間に、一人の少女が世間から責められ続けた。守るべき魔法少女を守れなかった。
同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。だから、公表した。
週末の朝から、住民は指定区域外へ避難することになった。
シティ中に、緊急告知が流れる。
『防御機構中枢施設周辺における大規模戦闘の可能性があります』
『対象区域の住民は、係員の指示に従い避難してください』
『魔法少女局は、市民の安全確保を最優先に対応します』
その文面は、街頭ビジョンにも、スマートフォンにも、公共交通機関の案内板にも表示された。
駅前の大型モニターには、避難経路が繰り返し映し出される。
学校は臨時休校になった。商業施設は営業を取りやめた。
住宅街では、家族連れが荷物をまとめて避難バスに乗り込んでいく。
小さな子どもが、ぬいぐるみを抱きしめながら親の手を握っていた。
高齢の夫婦が、職員に支えられながらバスへ乗り込む。
ペット用のキャリーケースを抱えた女性が、何度も自宅の方を振り返る。
街は、不安に包まれた。誰も大声で騒いでいるわけではない。暴動が起きているわけでもない。
だが、空気が重かった。
人々は、分かっていた。これは訓練ではない。演出でもない。
本当に、シティの命綱が狙われている。
ネットでも、不安は隠せなかった。
『オブスキュリテ相手に勝てるのか?』
『あの赤い雷、魔法少女の天敵だろ』
『前回、見逃されただけじゃん』
『他所に援軍に出してる魔法少女たちを戻すべきでは?』
『また防御機構が止まったら終わりだぞ』
『白瀬 結衣は今度こそ大丈夫なのか』
『避難って言われても仕事あるんだけど』
『局はちゃんと説明してるだけ二年前よりマシ』
『でも相手があいつなら怖すぎる』
不安と怒り。
恐怖と期待。
そして疑念。
ありとあらゆる感情が、画面の中で渦巻いていた。
その声は、魔法少女たちにも届いていた。見ようとしなくても、目に入る。
控室のモニターにも、避難状況が流れている。
通信端末には、家族や友人からのメッセージが届く。
大丈夫なの。
無理しないで。
帰ってきて。
頑張って。守って。
その一つ一つが、胸に重くのしかかる。怖くない者などいなかった。
あの赤い雷。触れれば魔力が痺れる。変身が不安定になる。
最悪の場合、戦場の真ん中で魔法少女でいられなくなる。
魔法少女にとって、変身は鎧であり、武器であり、自分が戦場に立つための最低条件だ。
それを剥がされる。ただの少女として、異形の前に放り出される。
その恐怖を、先日の襲撃で彼女たちは見た。
実際に変身を解かれた者もいる。
仲間が倒れる姿を見た者もいる。
赤い雷が空気を裂く音を、まだ耳が覚えている者もいる。
それは、魔法少女にとって死に近い恐怖だった。
だが、それでも逃げ出す者はいなかった。控室に集められた魔法少女たちは、皆、顔を強張らせながらもそこにいた。誰もが怖がっていた。
けれど、誰も帰るとは言わなかった。
膝の上で拳を握る者。
武器の調整を何度も繰り返す者。
通信端末に届いた家族からのメッセージを、黙って見つめている者。
目を閉じて深呼吸する者。
皆、それぞれの方法で恐怖を押し込めていた。
三枝ミナも、その中にいた。先日の襲撃で赫塵を受け、変身を解除された新人魔法少女。
魔力回路の痺れは、ようやく薄れてきている。変身もできる。戦闘許可も下りた。
それでも、赤い雷のことを思い出すと指先が冷たくなる。
変身が解けた瞬間の感覚。
胸の奥から光が散っていく恐怖。
異形が近づいてきた時の絶望。
それはまだ、体に残っていた。
それでも、ミナはここにいる。
逃げないと決めた。だって、このシティには家族がいる。友達がいる。
自分が魔法少女になったことを喜んでくれた人がいる。
ライブで手を振ってくれた子どもがいる。
守りたいものがある。
怖いから逃げたい。でも、怖いからこそ守りたい。
それは、他の魔法少女たちも同じだった。
誰かが小さく呟いた。
「怖くないわけじゃないよね」
別の誰かが答える。
「うん。怖い」
「でも、逃げたくない」
「私の家、この避難区域の近くだし」
「弟がいるんだ。魔法少女は絶対勝つって信じてる」
「うちのお母さん、避難バスからめっちゃ応援メッセージ送ってきてる」
少しだけ、笑いが起きた。緊張で硬かった空気が、ほんのわずかに和らぐ。
けれど、恐怖が消えたわけではない。皆、それを抱えたまま座っている。
守るべきものが大きいから。怖くても、逃げるわけにはいかなかった。
この街には、自分たちの家族がいる。親友がいる。大切な人たちがいる。
いつか自分たちのステージを見に来てくれた子どもたちがいる。
魔法少女は希望だから、なんて綺麗事だけではない。単純に、守りたい人がいる。
そのために、彼女たちはここにいた。
けれど、不安は消えなかった。オブスキュリテが来る。赤雷をまとった異形兵が来る。結界そのものを破壊しに来る。
その現実は、控室の空気を重くしていた。
そこへ、白瀬 結衣が入ってきた。控室の扉が開いた瞬間、魔法少女たちの視線が一斉に向く。
誰かが小さく息を呑んだ。
白瀬 結衣。
現役魔法少女のエース。
ステージのセンター。
ほんの少し前まで、誰もが憧れの目で見ていた少女。
そして、先日の襲撃でオブスキュリテを前に動けなくなった少女。
倒れた後輩たちの前で、床に伏したまま立ち上がれなかった少女。
それでも今、この場の誰よりもオブスキュリテを知っている少女。
控室にいた魔法少女たちは、何も言わなかった。
責める者はいない。
だが、不安がないわけでもない。
本当に大丈夫なのか。あの赤い雷を相手に、また戦えるのか。
次にオブスキュリテが現れた時、今度こそ動けるのか。
その問いは、誰の口からも出なかった。
けれど、空気の中に確かにあった。結衣は、その視線を受け止めた。
逃げなかった。全員の前まで歩き、立ち止まる。足元はしっかりしていた。背筋も伸びていた。
けれど、胸の奥では心臓が強く鳴っている。
怖い。逃げたい気持ちはある。
祈と戦うことが怖い。
赤羽 祈だった少女に拳を向けることが怖い。
また動けなくなることが怖い。
後輩たちを失うことが怖い。
自分の迷いで、誰かを死なせてしまうことが怖い。
それでも、結衣は顔を上げた。
今、自分がうつむけば、ここにいる全員の不安が大きくなる。
自分が震えていることを、隠しきる必要はない。
でも、前を見る必要はある。
結衣は、一度、深く息を吸った。
「みんな」
声は、控室によく通った。ざわついていた空気が静まる。
ミオも、他の魔法少女たちも、結衣を見る。
「オブスキュリテは、私が止める」
短い言葉だった。
けれど、その場の全員が息を呑んだ。
誰かが、膝の上で拳を握る。
誰かが、俯いていた顔を上げる。
結衣は、続けた。
「彼女の赤い雷は、魔力に干渉する。接触すれば、変身も魔法も不安定になる。正面から受ければ危険なのは間違いない」
誤魔化さなかった。
怖がるな、とは言わなかった。
大丈夫、絶対に勝てる、と軽く言うこともしなかった。
あの赤い雷は怖い。変身を剥がされる恐怖は本物だ。触れれば戦えなくなるかもしれない。そこを曖昧にすれば、実戦で誰かが判断を誤る。
だから結衣は、怖さを認めた。
「だから、無理に彼女へ近づかないで」
結衣は、指示を一つずつ口にする。
「オブスキュリテ本人を見つけても、単独で追わない。赫塵をまとった個体にも、近接班は触れないこと。異形兵への対応も、接触を避けることを最優先にして」
魔法少女たちは真剣に聞いていた。
「防御役は距離を取って、結界を重ねる。一枚で受け止めようとしないで。赫塵で乱されたら、すぐに後ろの子が補助する」
防御担当の魔法少女たちが頷く。
「攻撃役は一撃離脱。欲張らない。倒しきれなくても、接触を避けて下がること。赤雷個体が出たら、近接班は引いて、遠距離班が集中攻撃」
遠距離魔法を得意とする子たちが、武器を握り直す。
「変身が不安定になったら、すぐに下がって。恥ずかしがらなくていい。怖がっていい。戦線を離れることは逃げじゃない。次に立つための判断だから」
その言葉に、何人かの表情が少しだけ揺れた。
先日の襲撃で変身を解かれた子たち。
逃げたことを悔やんでいた子たち。
自分は役に立たなかったと思っていた子たち。
その子たちへ向けて、結衣は言った。
「誰か一人で全部を背負わないで。隣の子を見ること。声を出すこと。怖いなら怖いって言っていい。私たちはチームで戦う」
具体的な指示に、控室の空気が少し変わった。
恐怖はある。不安も消えない。
それでも、やるべきことが見えるだけで、人は少しだけ動ける。
何をしていいか分からない恐怖より、次に何をすればいいか分かる恐怖の方が、まだ耐えられる。
結衣は、皆の顔を一人ずつ見た。
若い魔法少女たち。
自分に憧れてくれる後輩たち。
自分が守らなければならない仲間たち。
そして、共にシティを守る戦士たち。
「オブスキュリテ本人には、私が当たる」
その声に、迷いはなかった。
控室の空気が、さらに引き締まる。
「今度こそ、後れを取ったりしない」
ミオが顔を上げた。
先日の襲撃で見た結衣とは違った。
あの時の結衣は、オブスキュリテを前にして動けなくなっていた。
床に倒れたまま、拳を握ることもできなかった。
目の前にいる敵が、かつての親友だと知って、心を折られていた。
でも今の結衣は、違う。怖くないわけではないのだろう。
ミオにも、それは分かった。
結衣の手は、ほんのわずかに震えている。声の奥にも、痛みがある。
それでも、前を向いていた。
逃げないと決めた人の顔をしていた。
「私は、逃げない」
結衣は言った。自分自身に言い聞かせるように。
それでも、全員へ届く声で。
「彼女を止める。その間、みんなにはシティを守ってほしい」
沈黙が落ちた。重い沈黙ではなかった。
言葉を受け取った者たちが、自分の中で覚悟を整えるための沈黙だった。
やがて、ミオが立ち上がった。椅子が小さく音を立てる。
「はい」
声は少し震えていた。
けれど、はっきりしていた。
「守ります」
結衣がミオを見る。
ミオは、まだ怖がっていた。それでも、逃げない目をしていた。
「私、赤い雷はまだ怖いです」
ミオは正直に言った。
「変身が解けた時のことも、まだ覚えてます。次に見たら、足がすくむかもしれません」
結衣は何も言わずに聞いた。
「でも、守りたいです。家族も、友達も、このシティも。だから、私は私にできることをします」
その言葉が、他の魔法少女たちの背中を押した。
一人が立ち上がる。
「私もやります」
別の子も頷く。
「結衣先輩がオブスキュリテを止めるなら、私たちは異形兵を止めます」
「シティは守ります」
「赤雷個体は遠距離班で落とします。近接班を無理に前に出させません」
「変身が乱れた子は、私が回収します」
「避難区域には絶対に抜かせません」
声が一つ、また一つと増えていく。控室の空気が変わっていった。
不安は消えない。恐怖も残っている。
誰も、楽観しているわけではない。
オブスキュリテが危険な敵であることも、赫塵が魔法少女の天敵であることも、シティが危機にあることも変わらない。
それでも、魔法少女たちは顔を上げた。
エースが逃げないと言った。なら、自分たちも逃げない。その程度の単純な勇気でも、今は十分だった。
結衣は、全員を見渡す。胸の奥に、熱いものが広がっていく。
自分一人ではない。祈と向き合うのは自分だ。
けれど、シティを守るのは自分一人ではない。
ここにいる魔法少女たち全員が、それぞれの恐怖を抱えながら立っている。
結衣は、深く頭を下げた。
その行動に、魔法少女たちが驚く。
「ありがとう」
結衣は言った。
「一緒に戦ってくれて」
控室に、静かな熱が満ちた。
誰かが小さく笑った。誰かが涙を拭いた。誰かが武器を握り直した。
出撃時刻は、近づいている。
この先に待つのは、恐怖だ。痛みだ。
それでも。もう、誰も一人ではなかった。
決意の言葉を述べた後、結衣が控室を出ると、廊下で奈央が待っていた。壁にもたれ、腕を組んでいる。
いつものように軽口を叩くわけでもなく、笑って迎えるわけでもない。ただ、静かに結衣を見ていた。
控室の中からは、魔法少女たちの声が聞こえる。
装備を確認する音。
通信端末を操作する音。
誰かを励ます小さな声。
恐怖を押し込めながら、それでも戦いに向かおうとする少女たちの気配が、扉越しに伝わってきた。
結衣は扉を閉める。廊下に、少しだけ静けさが戻った。
結衣を見ると、奈央は静かに問いかけた。
「答えは出たのか」
その問いに、結衣は立ち止まった。
資料庫で問われた言葉が、胸の奥で蘇る。
許されたいのか。
止めたいのか。
救いたいのか。
償いたいのか。
あの時、結衣は答えられなかった。
祈を救いたい気持ちも、許されたい気持ちも、昔に戻りたい願いも、全部が混ざっていた。
真実を知れば何かが変わると思っていた。
祈は悪くなかったと証明できれば、祈は戻ってきてくれるかもしれないと思っていた。
けれど、奈央に止められた。
真実は、祈を自動的に救ってくれる魔法ではない。
その言葉は、今も胸に残っている。
廊下の窓の外には、避難する人々を乗せたバスが見えた。
家族連れ。高齢者。小さな子ども。不安そうに窓の外を見ている人々。
遠くには、防御機構中枢施設の塔がそびえている。
薄い青の光をまとい、シティ全体を守るために立ち続ける塔。
あそこへ、祈が来る。オブスキュリテが来る。
今度こそ、止めなければならない。
結衣はゆっくりと息を吸った。肺に入った空気は冷たかった。
けれど、胸の奥にあった迷いを少しだけ澄ませてくれる気がした。
「祈に許してほしい気持ちは、まだあります」
奈央は何も言わなかった。
ただ、結衣の言葉を待っていた。
「二年前、返事をしなかったこと。会いに行けなかったこと。手を伸ばせなかったこと。全部、謝りたいです」
言葉にするたび、胸が痛んだ。
でも、もう飲み込まなかった。
「許してほしいって、思ってます」
結衣は、自分の胸に手を当てた。
そこには、まだ弱い自分がいる。
祈に「もういいよ」と言ってほしい自分。
仕方なかったと言ってほしい自分。
結衣のせいじゃないと、あの優しい声で許してほしい自分。
その気持ちは消えない。綺麗になくなるものではない。
祈に許されたい。
昔に戻りたい。
もう一度、親友と呼びたい。
祈に、結衣と呼んでほしい。
隣で笑ってほしい。
その願いは、確かにまだ胸の中にある。
それをないもののように扱うことは、もうできなかった。
でも。結衣は顔を上げた。
「それを理由に、祈を止めるんじゃない」
奈央の目が、わずかに細くなる。
結衣は、窓の外の防御機構中枢施設を見た。あそこが壊されれば、多くの人が傷つく。
ミナたち後輩が傷つく。避難しきれなかった市民が危険に晒される。
そして、祈は本当に戻れなくなる。
被害者だった少女が、取り返しのつかない加害者になる。それだけは、止めなければならない。
「あの子が、これ以上誰かを傷つけて、自分の帰る場所を壊す前に止めます」
結衣の声は震えなかった。
決して強い声ではない。大声でもない。けれど、自分の中で決めた言葉だった。
「たとえ、祈が一生私を許してくれなくても」
喉の奥が痛む。
その想像は、今でも怖い。
祈に拒絶されること。憎まれること。今さら親友面するなと罵られること。許さないと言われること。
それでも。
結衣は言い切った。
「私は、あの子の親友だから」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
親友。
自分にその言葉を使う資格があるのかは、まだ分からない。祈がそう呼んでくれるかも分からない。
けれど、結衣が祈を親友だと思うことだけは、もうやめたくなかった。
許されるためではなく。
過去をやり直すためでもなく。
祈にこれ以上、自分自身を壊させないために。
結衣は親友として、止める。
奈央はしばらく結衣を見ていた。
厳しい目だった。
答えの甘さを見逃さない目。
感情だけで突っ走ることを許さない目。
けれど、その奥には少しだけ優しさがあった。
やがて奈央は、短く息を吐いた。
「そうか」
それだけ言って、小さく頷く。
「なら、行ってこい」
「はい」
結衣は、まっすぐ返事をした。
「ただし、忘れるな」
奈央は結衣の肩に手を置いた。
現役時代なら、きっと力強く戦場へ送り出す手だったのだろう。今は、どこか悔しさも混じっている。
自分ではもう前線に立てない。後輩に託すしかない。その歯がゆさを、奈央の手の重さから感じた。
「親友だから止めるんじゃない」
奈央は言った。
「止めると決めた上で、親友として手を伸ばすんだ」
結衣は、その言葉を噛みしめた。
順番を間違えてはいけない。
祈が親友だから、何をしても許すのではない。
祈が傷ついているから、今の行動を見逃すのではない。
まず、止める。
誰かを傷つけようとするなら、止める。
その上で、手を伸ばす。
拒絶されても。憎まれても。許されなくても。
親友として。
「はい」
結衣は頷いた。
「分かりました」
「それと」
奈央は、少しだけ表情を崩した。いつもの奈央に戻るような、小さな笑みだった。
「帰ってこい。お前もだ」
結衣の表情が、少しだけ揺れた。
祈を止めることばかり考えていた。
シティを守ることばかり考えていた。
後輩たちを守ることばかり考えていた。
自分が帰ってくることを、あまり考えていなかった。
奈央には、それが見えていたのかもしれない。
「……はい」
結衣は、少し遅れて答えた。
「帰ってきます」
「よし」
奈央は肩から手を離した。その手が離れた瞬間、結衣は自分の足で立っていることを改めて感じた。
誰かに背中を押された。でも、歩くのは自分だ。
結衣は廊下の先へ歩き出した。
もう迷いが消えたわけではない。
恐怖がなくなったわけでもない。
祈と戦うことは、今でも怖い。
また動けなくなるのではないかという不安もある。
許されたい願いも、まだ胸の奥に残っている。
それでも、足は止まらなかった。
廊下の窓の外では、避難バスがゆっくりと走っていく。
その向こうに、防御機構中枢施設の塔が見える。
防御機構中枢施設。
そこで、結衣はもう一度、オブスキュリテと向き合う。
許されるためではなく。過去に戻るためでもなく。
これ以上、祈が自分自身を壊さないように。
そして、このシティを守るために。
結衣は歩く。二年前に止まってしまった足を、今度こそ前へ進めるために。




