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魔法少女だった私は、すべてを奪われて侵略者になった  作者: 摩利
1章

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13/21

宣言


 結衣は、一人で町はずれの高台に来ていた。

 シティの外縁部にある、ほとんど人の寄り付かない場所だった。


 中心街から離れ、住宅街を抜け、使われなくなった古い遊歩道を上っていく。

 舗装はところどころ剥がれ、道端には雑草が伸びていた。

 夜になると街灯も半分ほどしか点かないため、わざわざここへ来る者はほとんどいない。


 それでも、結衣は足を止めなかった。細い坂道を上り、錆びたフェンスの横を通り抜ける。

 フェンスには、かつて立入禁止の札が掛けられていたらしい。今は文字も薄れ、風に揺れるたびに乾いた音を立てていた。

 その先に、開けた場所がある。


 昔は展望公園として整備されていたらしい。

 古びたベンチ。半分ほど文字の消えた案内板。ひび割れた足元のタイル。撤去されずに残ったままの、壊れた双眼鏡。

 かつて誰かがここで景色を楽しんでいた名残だけが、夜の中に取り残されている。


 夜風が吹いた。少し冷たい風だった。戦闘後の火照った体には、その冷たさが心地よいはずだった。

 けれど今の結衣には、胸の奥まで冷えていくように感じられた。

 高台の端まで歩く。錆びたフェンスに手を置く。


 眼下には、シティの明かりが広がっていた。

 ビル群。住宅街。駅前の大型モニター。魔法少女局の本部。遠くに見える、防御機構の塔。

 無数の窓の光が、夜の底に浮かんでいる。


 街全体を包む透明な結界は、地上からではほとんど見えない。けれど、この高台からなら分かる。

 空の縁に、うっすらと光の膜がかかっている。薄い青。月明かりに溶けるような淡い輝き。

 それが、このシティを守る防御結界だった。異形の侵入を阻み、人々の暮らしを守る壁。魔法少女局が維持し、魔法少女たちが守ってきたもの。

 この街の命綱。そして、自分たち魔法少女が守るべき場所。


 昔、結衣はよく祈とここへ来ていた。

 訓練の帰り。模擬戦で負けた日。正式な魔法少女になれないかもしれないと落ち込んだ日。いつかエースになろうと笑い合った日。

 二人でこの高台に立って、シティを見下ろした。


 まだ候補生だった頃。体力も足りなくて、魔法もうまく扱えなくて、周りの才能に置いていかれそうで。それでも、夢だけは大きかった。


 守るものって、こんなに大きいんだね。祈は、そう言った。

 あの時の声を、結衣は今でも覚えている。

 驚いたような、少し怖がるような、それでもどこか嬉しそうな声。隣に立っていた祈の横顔も、覚えている。


 夜景を見下ろす目は、赤い雷を怖がっていた時の目とは違っていた。

 まっすぐで、眩しくて、本当にこの街を守りたいと思っている目だった。


 結衣は、隣で頷いた。大きすぎるよね。自分たちにはまだ遠すぎる。この街全部を守るなんて、想像するだけで足がすくむ。

 そう言うと、祈は少し笑った。

 でも、いつか守れるようになろう。二人で。

 そう言った。


 結衣も笑って、頷いた。

 二人で。いつか正式な魔法少女になって。

 いつかエースになって。いつかステージの真ん中に立って。

 この街の全部を守れるくらい、強くなろう。

 そんなことを、本気で言い合っていた。


 今思えば、あまりにも無邪気だった。

 この街がどれだけ広いのか。

 守るという言葉が、どれだけ重いのか。

 人々を守るということが、どれだけ残酷なものを含むのか。

 何も知らなかった。


 けれど、嘘ではなかった。あの頃の自分たちは、本気でこの街を守りたかった。

 街の明かりを見るたびに、自分たちの目標の大きさを思い知らされた。

 同時に、自分たちが目指す場所の尊さも確認できた。


 この街を守りたい。

 この明かりの一つ一つに、人がいる。

 生活がある。笑顔がある。

 怖がっている人もいる。泣いている人もいる。

 明日を信じて眠っている人もいる。誰かを待っている人がいる。

 誰かに会いたい人がいる。子どもを抱いて眠る親がいる。

 明日の仕事にうんざりしながらも、目覚ましをかけて眠る人がいる。

 テスト勉強をしながら机で寝落ちしている学生がいる。

 魔法少女のライブ映像を見て、いつか自分もなりたいと夢を見る子がいる。


 その全部を守る。だから魔法少女は戦う。

 そう思えていた。そう信じられていた。


 祈が失踪してから、結衣はこの場所に近づかなかった。来られなかった。

 ここに来れば、思い出してしまうから。


 祈と交わした約束を。隣にいたはずの親友を。

 自分が手を伸ばさなかったことを。守ると誓ったものの大きさを。

 そして、自分が見捨てたものの大きさを。


 あの事件の後、結衣は何度もこの高台の近くまで来たことがある。

 でも、坂道を上ることはできなかった。途中で足が止まった。

 心臓が苦しくなって、息ができなくなって、引き返した。

 この場所には、祈との思い出が多すぎた。あまりにも眩しい記憶が残っていた。その眩しさが、自分の罪を照らしてしまう。


 だから逃げた。訓練に打ち込んだ。正式な魔法少女になるために。エースになるために。

 努力の形をした逃避に、すがり続けた。


 けれど今日は、足を運んだ。自分から。

 逃げないために。

 自分の罪と向き合うために。

 自分の肩にかかっているものの大きさを、もう一度確かめるために。


 結衣はフェンスに手を置き、シティを見下ろした。

 明かりは綺麗だった。無数の光が、まるで星を地上に撒いたように広がっている。

 その光景は、昔と変わらないように見えた。


 けれど、結衣の胸には痛みがあった。

 綺麗だと思う。守りたいと思う。

 それは本当だ。

 でも、その綺麗さが苦しかった。


 この街のどこかに、祈を責めた人がいる。

 この街のどこかに、祈の家へカメラを向けた人がいる。

 この街のどこかに、祈に石を投げた人がいる。


 先輩を返せと書き込んだ人がいる。

 人殺しと罵った人がいる。

 真実を知らないまま、怒りに任せて叩いた人がいる。

 祈が失踪した後になって、かわいそうだったと言った人もいる。

 追い詰めすぎだったと、まるで自分は無関係だったかのように言った人もいる。


 そういう人たちも、この明かりの中にいる。

 守るべき街の中にいる。


 けれど同時に。


 この街のどこかには、何も知らずに眠る子どもがいる。

 魔法少女を信じている人がいる。

 ただ普通に暮らしているだけの人がいる。

 事件の時に祈を責めなかった人もいる。

 誰かを傷つける言葉を吐かなかった人もいる。

 助けたいと思いながら、どうすればいいか分からなかった人もいるかもしれない。

 そして、祈を傷つけた人間と同じ街で、何も知らずに今日を生きている人たちがいる。


 その全部が、同じ光の中にあった。


 結衣は拳を握った。

 その全部を、同じように守れるのか。祈を傷つけたものも含めて。

 自分に、それができるのか。


 魔法少女は人々を守る。それは綺麗な言葉だ。

 でも、人々という言葉の中には、優しい人だけがいるわけではない。


 誰かを踏みつける人もいる。

 誰かの痛みを娯楽にする人もいる。

 匿名の影から石を投げる人もいる。

 守ってもらったことを忘れて、失敗した瞬間に罵る人もいる。

 祈は、それを知ってしまった。だから壊れた。

 だから、あの子はこの街を憎んでいる。


 なら、自分はどうする。


 祈を壊した街を、それでも守るのか。

 祈が憎むものを、自分は守るのか。

 その答えは、すぐには出なかった。でも、結衣はもう目を逸らさなかった。


 眼下のシティを見続ける。

 綺麗な光も。その中に潜む醜さも。全部含めて。守るべきものの大きさを、見続ける。


 結衣は小さく息を吐いた。夜風が髪を揺らす。

 その時だった。



「いい眺めよね」


 背後から、声がした。

 結衣の体が強張る。心臓が一拍、嫌な跳ね方をした。

 この声を、知らないはずがない。忘れられるはずがない。


 何度も隣で聞いた声。

 訓練場で笑っていた声。

 弱音を吐いた時に励ましてくれた声。

 そして今は、世界を壊すものを名乗る声。


 結衣は、ゆっくりと振り向いた。

 そこに、黒い衣装の少女が立っていた。赤い雷の残光を、指先に淡くまとわせている。

 夜の闇に溶けるような黒い衣装。


 白い頬。


 黒い髪。


 懐かしい顔。


 けれど、その瞳だけは、結衣の知っているものではなかった。冷たく、暗く、深い怒りを底に沈めた目。

 オブスキュリテ。赤羽 祈だった少女。


 結衣は息を呑む。どうしてここに。そう問うより先に、胸の奥が痛んだ。


 ここは、二人の場所だった。

 候補生だった頃、何度も一緒に来た場所。

 守るものの大きさを確かめた場所。

 いつか二人でシティを守ろうと誓った場所。

 その場所に、彼女が立っている。


 壊す側として。


「シティが一望できる」


 オブスキュリテは、結衣の隣に並ぶように歩いてきた。

 結衣は反射的に身構えた。けれど、オブスキュリテはすぐに攻撃してくるわけではなかった。

 ただ、フェンスの近くまで来て、シティを見下ろす。距離は、少し空いていた。


 昔、二人で肩を並べて立っていた時とは違う。

 あの頃は、隣にいることが当たり前だった。腕が触れそうな距離で、一つの景色を見ていた。

 守るものって、こんなに大きいんだね。祈はそう言っていた。


 でも今の二人の間には、触れられないほど深い溝がある。

 たった数歩。伸ばせば届く距離。

 けれど、その数歩が、二年分の絶望と罪悪感で埋め尽くされていた。


 オブスキュリテは、シティを見下ろした。

 街の明かりが、彼女の横顔を照らす。綺麗だった。憎いほどに。


「壊すべきものが、一目で分かるんですもの」


 結衣の胸が痛んだ。

 昔は、守るものが見えると言った場所で。今の彼女は、壊すべきものが見えると言う。

 その反転が、あまりにも残酷だった。


「祈……!」


「オブスキュリテよ」


 即座に訂正される。冷たい声だった。鋭く切り捨てるような声。

 けれど、結衣はもう目を逸らさなかった。何度訂正されても、その名前を呼びたかった。

 赤羽 祈は死んだと言われても。

 オブスキュリテだと名乗られても。

 目の前にいるのは、結衣がかつて親友と呼んだ少女だった。


「これ以上、罪を重ねないで」


 声が震えないように、必死に抑えた。抑えなければ、泣きそうだった。


「一緒に帰ろう」


 オブスキュリテは、少しだけ目を細めた。

 笑ったようにも見えた。

 呆れたようにも見えた。

 あるいは、あまりにも都合のいい言葉を聞かされて、怒る前に感情が冷えたようにも見えた。


「帰る?」


 その声には、乾いた響きがあった。


「どこに?」


 結衣は答えられなかった。

 帰る場所。その言葉を、自分がどれほど軽く言ってしまったのか、問われて初めて気づく。

 祈の家はどうなった。学校はどうなった。

 魔法少女局は、祈にとってまだ帰る場所なのか。

 結衣の隣は。

 自分は本当に、祈が帰ってこられる場所を用意できているのか。


 答えられない結衣を見て、オブスキュリテは小さく笑った。

 優しさのない笑みだった。


「私の帰る場所は、組織だけよ」


「そんなの、違う」


 結衣は反射的に言った。けれど、その声は弱かった。


「違わないわ」


 オブスキュリテはシティを見下ろしたまま言った。


「家は壊れた。学校に居場所はなかった。魔法少女局は守ってくれなかった」


 一つ一つ、淡々と並べる。淡々としているからこそ、重かった。


「親友は返事をくれなかった」


 結衣の喉が詰まる。その言葉だけは、刃のようだった。

 祈からのメッセージ。


 助けて。


 会いたい。


 私、どうしたらいいの。


 お願い、返事して。


 あの文字列が、今も結衣の記憶に焼きついている。既読をつけることすらできなかった。

 会いに行かなかった。手を伸ばさなかった。


「私が赤羽 祈として戻れる場所なんて、もうどこにもない」


「それでも……」


「それに、罪なら今さらよ」


 オブスキュリテの声が、わずかに低くなる。

 彼女は、ゆっくりと片手を上げた。指先に赤い火花が灯る。夜風の中で、赤い雷が小さく弾けた。


「ライブ会場への襲撃」


 一つ目。


「魔法少女局への襲撃」


 二つ目。


「魔法少女たちの変身解除」


 三つ目。


「資料強奪」


 四つ目。


 彼女は淡々と並べていく。まるで、自分の罪を確認しているように。

 あるいは、結衣に聞かせることで、自分はもう戻れないのだと証明しているように。


「そして」


 一拍置いた。

 結衣の心臓が強く鳴る。何を言われるか、分かってしまった。


「四条 瑠香を死なせたこと」


「それは祈のせいじゃ――」


「そんなこと言って、誰が信じてくれるの?」


 結衣の言葉を、オブスキュリテが切った。冷たい目だった。昔の祈なら、そんな目はしなかった。

 誰かと分かり合いたいと願っていた少女の目ではなかった。

 言葉を尽くせば、いつか届くと信じていた少女の目ではなかった。


「あなたが信じてくれる? 奈央が信じてくれる? 魔法少女局が今さら本当のことを調べてくれる?」


 オブスキュリテは笑った。乾いた、痛々しい笑いだった。


「それで、世間は? あの日、私に人殺しって言った人たちは? 家の前に集まったカメラは? 塀に落書きした誰かは? 妹をいじめた誰かは?」


 結衣の胸が締めつけられる。


「そんな人たちが、今さら『ごめんなさい』って言ってくれるの?」


「それは……」


「言わないわ」


 オブスキュリテは断言した。


「言ったとしても、それが何になるの?」


 風が吹く。高台の草が揺れる。

 遠くのシティでは、何も知らない人々の明かりが瞬いている。


「誰が助けてくれるの?」


 オブスキュリテは、ゆっくりと結衣を見る。

 その瞳には、怒りだけではないものがあった。


 諦め。


 憎悪。


 そして、まだ消えきらない痛み。


「誰が、私の前に立ってくれるの?」


 結衣の心臓が、嫌な音を立てる。

 その問いは、今のことだけを言っているのではなかった。二年前のことだ。


 祈が孤立していた時。

 家に押しかけるメディアに晒されていた時。

 学校で居場所を失った時。

 ネットで叩かれ続けていた時。

 父が帰ってこなくなり、妹が学校に行けなくなり、母が倒れた時。


 その時、誰が祈の前に立ったのか。

 誰が、彼女を守ろうとしたのか。


「誰も手を差し出してくれなかった」


 オブスキュリテは言った。


「世間も」


 赤い火花が、指先で弾ける。


「局も」


 結衣は息を止める。


「あなたも」


 その一言で、結衣の胸が深く抉られた。


 返す言葉がない。

 否定できない。

 違うと言えない。


 あの日、祈は助けを求めていた。

 結衣はそれを知っていた。知っていて、動かなかった。

 局の指示を言い訳にした。


 世論を刺激するかもしれないと言われた。

 祈の立場が余計に悪くなるかもしれないと言われた。

 だから待った。


 でも、本当は怖かった。

 炎上に巻き込まれたくなかった。

 ようやく手に入りかけていた魔法少女としての居場所を失いたくなかった。

 自分を守った。

 そして、祈を一人にした。


 だから、その言葉だけは受け止めるしかなかった。


 結衣は、拳を握る。爪が掌に食い込む。痛みがあった。

 でも、その痛みで少しだけ立っていられた。


「……うん」


 結衣は、小さく言った。

 オブスキュリテの目がわずかに動く。


「私は、手を差し出さなかった」


 声が震える。それでも、逃げなかった。


「あの日、あなたを一人にした」


 オブスキュリテは黙っていた。

 結衣は続ける。


「だから、今さら一緒に帰ろうなんて、都合がいいって分かってる」


「分かっているなら――」


「でも」


 結衣は顔を上げた。涙は出なかった。泣く資格などないと思った。

 それでも、目は逸らさなかった。


「それでも、私はあなたをこのまま行かせたくない」


 オブスキュリテの指先で、赤い雷が強く弾けた。


「今度こそ、手を伸ばす」


 その言葉に、オブスキュリテの表情が一瞬だけ歪んだ。


 怒りか。


 痛みか。


 失望か。


 結衣には分からなかった。

 ただ、分かったことがある。祈はまだ、痛がっている。

 オブスキュリテという名前で、赤羽 祈を殺したふりをして。

 世界を壊すものだと名乗って。

 それでも、この場所に来ている。かつて二人で守るものを見た場所に。


 そして結衣に、誰も手を差し出してくれなかったと言っている。

 それは完全な拒絶ではないのかもしれない。


 責めている。


 怒っている。


 でも同時に、まだあの日の痛みを見ろと突きつけている。

 結衣は、それを受け止めなければならなかった。


「いい機会だから、宣言しておくわ」


 オブスキュリテはシティへ向き直った。眼下には、無数の光が広がっている。


 ビルの窓。

 住宅街の明かり。

 道路を流れる車のライト。

 駅前の大型モニター。

 まだ営業している店の看板。

 遠くで明滅する防御機構の塔。


 そのすべてを見下ろすオブスキュリテの横顔は、美しかった。


 月明かりと街の光に照らされ、白い頬が冷たく浮かび上がっている。

 黒い髪が夜風に揺れ、指先では赤い雷が小さく弾けていた。


 かつての祈は、こんな顔をしなかった。

 街の明かりを見る時、祈はいつも少し緊張した顔をしていた。

 守るものって、こんなに大きいんだね。そう言って、怖がりながらも笑っていた。


 けれど今の彼女は違う。

 同じ景色を見ているはずなのに、その瞳に宿っているのは憧れでも責任でもなかった。


 憎しみ。


 失望。


 怒り。


 そして、何もかもを焼き尽くそうとする冷たい決意。


「私は、このシティをめちゃくちゃにする」


 結衣の背筋が凍った。

 言葉の意味だけではない。その声に、迷いがなかった。


「私に石を投げつけてきた人間たちに復讐する」


 オブスキュリテは、シティの光を見下ろしたまま続ける。


「守られて当然だと思っていた連中に思い知らせる。自分たちが何に守られていたのか。誰が傷つきながら前に立っていたのか。何を踏みつけて笑っていたのか」


 赤い火花が、彼女の指先で弾けた。


「この結界も。魔法少女局も。魔法少女という偶像も。希望だの笑顔だの、都合よく飾り立てられたもの全部」


 オブスキュリテの声が、わずかに低くなる。


「壊して、引きずり下ろして、思い知らせる」


 結衣は息を呑んだ。目の前にいる少女が、遠く感じた。

 同じ顔。同じ声。けれど、あまりにも遠い。


「……どうしても、止まらないの?」


 結衣は問いかけた。

 自分でも、その声が弱いと分かった。それでも、聞かずにはいられなかった。


「このシティには、何も関係がない人も大勢いるんだよ」


 オブスキュリテの目が、ゆっくりと結衣へ向く。


「関係がない?」


 彼女は笑った。乾いた笑いだった。

 楽しそうではなかった。おかしくて笑っているのでもない。

 あまりにも馬鹿馬鹿しい言葉を聞いたとでも言うような笑いだった。


「笑わせるわ」


「祈……」


「みんなして私を責めたくせに」


「全員じゃない」


 結衣は、ほとんど反射的に言った。言わなければならないと思った。


 この街の全員が祈を責めたわけではない。

 この街の全員が祈を傷つけたわけではない。

 何も知らずに暮らしている人もいる。

 祈を責めなかった人もいる。

 むしろ、祈のことを心配していた人もいたかもしれない。


「そうね」


 オブスキュリテは、あっさり認めた。


「全員じゃないかもしれない」


 けれど、その声は少しも揺れなかった。

 結衣の反論を受け止めた上で、それでもどうでもいいと言っている声だった。


「でも、誰が私を責めた人間で、誰が黙って見ていた人間で、誰があとから同情したふりをした人間なのか、私にはもう分からない」


 結衣は何も言えなかった。


「画面の向こうで私を叩いた誰か。家の前でカメラを回した誰か。塀に落書きした誰か。学校で妹を追い詰めた誰か。ニュースを見て、何となく私が悪いと思った誰か」


 オブスキュリテは、淡々と並べる。


「その全員の顔を、私は知らない」


 赤い雷が、彼女の周囲に細く走った。


「知らないから、分けられない」


「だからって……」


「分ける気もないわ」


 オブスキュリテは言い切った。


「私は、すべてを壊す」


 その言葉。その目。

 結衣は理解してしまった。


 本気なのだと。これは脅しではない。

 復讐者のふりをして、誰かに止めてもらおうとしているわけでもない。

 悲劇の被害者を演じて、同情を誘っているわけでもない。


 今のオブスキュリテは、本気でこのシティを壊そうとしている。

 祈が。かつて一緒にこの街を守ろうと誓った親友が。

 守るものって、こんなに大きいんだね。そう言っていた少女が。

 今、その同じ街を見下ろして、すべてを壊すと宣言している。


 結衣は、ゆっくりと息を吸った。胸が痛い。

 今すぐ膝をつきたかった。謝りたかった。

 許してほしかった。帰ってきてほしかった。

 昔みたいに笑ってほしかった。

 もう一度、結衣、と呼んでほしかった。

 けれど、それだけでは駄目だ。


 奈央の声が、胸の奥で蘇る。


 許されたいのか。

 止めたいのか。

 救いたいのか。

 償いたいのか。


 ミナの声も蘇る。

 私は、あの人が怖いです。


 祈の痛みは本物だ。祈は確かに傷ついた。

 守られなかった。見捨てられた。

 けれど今、祈は誰かを傷つけようとしている。


 この街にいる人々を。魔法少女たちを。何も知らない子どもたちを。

 そして、祈自身を。


 なら。


「祈」


「オブスキュリテ」


 即座に訂正される。

 それでも、結衣は言葉を止めなかった。


「あなたがどれだけ傷ついていても」


 声が震えた。

 でも、逸らさなかった。


「誰かを傷つけるなら、私は止める」


 夜風が吹いた。高台の草が揺れる。フェンスがかすかに軋む。

 遠くの街では、何も知らない光が瞬いている。


 オブスキュリテは、しばらく黙って結衣を見ていた。赤い雷だけが、指先で静かに弾けていた。やがて、彼女は薄く笑った。


「やっと魔法少女らしいことを言うのね」


 その言葉は、褒め言葉ではなかった。

 皮肉だった。刃だった。

 赤い火花が、ぱちりと弾ける。


「あの日は、何もしてくれなかったのに」


 結衣の胸が、深く抉られた。呼吸が止まりそうになる。


 それでも、今度は目を逸らさなかった。

 ここでうつむいたら、また同じだ。

 また祈の痛みから逃げることになる。


 結衣は、唇を噛む。


「うん」


 小さく頷いた。


「あの日、私は何もしなかった」


 声は震えていた。喉の奥が痛かった。

 けれど、逃げなかった。


「祈が助けを求めていたのに、私は返事もしなかった」


 あの日の通知。

 既読をつけられなかったメッセージ。

 怖くて開けなかった画面。


「局の言葉を言い訳にして、自分を守った」


 対応が決まるまで待て。

 世論を刺激するな。

 祈の立場が余計に悪くなるかもしれない。

 そう言われた。それに従った。

 でも、本当は怖かった。


「あなたを一人にした」


 言葉にした瞬間、結衣の胸が軋んだ。それは、ずっと自分の中で言えなかった言葉だった。


 祈を見捨てた。自分の弱さで。自分の保身で。自分の臆病さで。

 オブスキュリテの目が、わずかに揺れた。

 ほんの一瞬。夜の光の中で、本当にかすかな揺れだった。


 けれど、結衣は見逃さなかった。

 そこに怒り以外のものがあった。


 痛み。


 驚き。


 あるいは、今さらそんなことを認めるのかという、苦い感情。


「だから」


 結衣は拳を握った。


「今度こそ止める」


「止める?」


 オブスキュリテが静かに繰り返す。


「うん」


「私を?」


「あなたを」


「殴ってでも?」


 結衣は一瞬だけ息を詰めた。

 祈を殴る。その言葉の重さに、胸が痛む。

 訓練場で手合わせをした時とは違う。笑いながら勝ち負けを競った時とは違う。

 今、拳を向けるということは、オブスキュリテを敵として止めるということだ。


 赤羽 祈を傷つける覚悟を持つということだ。

 それでも。結衣は頷いた。


「必要なら」


 声はかすれていた。けれど、言い切った。

 オブスキュリテは、静かに目を細めた。


「そう」


 その一言には、いくつもの感情が混じっていた。


 失望。


 納得。


 怒り。


 そして、どこか寂しさにも似たもの。


 二人の視線がぶつかる。


 かつて親友だった二人。

 同じ夢を見た二人。

 同じ街を見下ろし、守るものの大きさを確かめ合った二人。

 いつか二人でセンターに立とうと誓った二人。


 今、その間にあるのは、守る者と壊す者の距離だった。


 結衣は、その距離を見つめた。手を伸ばせば届く。

 けれど、ただ手を伸ばすだけでは届かない。

 謝るだけでは足りない。

 泣くだけでは戻らない。

 許してほしいと願うだけでは、祈は止まらない。


 だから、拳を握る。

 手を伸ばすために。止めるために。

 これ以上、祈が戻れない場所へ行かないように。


 オブスキュリテは、結衣のその手を見た。

 そして、薄く笑う。


「それなら」


 赤い雷が、彼女の足元で弾けた。


「本当に止められるか、試してあげる」


 結衣は構えなかった。ここで戦うつもりはない。

 まだ、オブスキュリテも攻撃してこない。

 けれど、もう言葉だけの時間が終わりに近づいていることは分かった。


 夜風が二人の間を通り抜ける。

 シティの明かりは、変わらず輝いていた。


 守るもの。


 壊すもの。


 二人は、同じ光を見ていた。

 けれど、その意味はもう、同じではなかった。


 オブスキュリテは、ゆっくりと背を向ける。


「壊し甲斐がなくて退屈していたところだったもの」


「待って」


「週末」


 結衣の声を遮り、オブスキュリテは言った。


「私は、このシティを守る結界を司る施設を襲撃する」


 結衣の顔色が変わる。


 防御機構中枢施設。


 シティ全体を覆う結界を維持する、最重要施設。そこを破壊されれば、シティは無防備になる。

 外縁部に群がる異形の侵入を防ぐ術が、一時的にでも失われる。


「本気で……」


「本気よ」


 オブスキュリテは振り返らない。


「止められるものなら、止めてみなさい」


「オブスキュリテ!」


 結衣が一歩踏み出す。

 その瞬間、オブスキュリテの足元に黒いゲートが開いた。


 赤い雷が、夜の空気を裂く。

 彼女はゲートの縁に立ったまま、一度だけ結衣を見た。


「今度は、間に合うといいわね」


 その言葉だけを残して、オブスキュリテは闇の中へ消えた。ゲートが閉じる。


 高台に、夜風だけが残された。

 結衣はしばらく、その場から動けなかった。


 眼下には、シティの明かりが広がっている。

 昔、祈と一緒に守りたいと願った光。

 今、祈が壊そうとしている光。


 結衣は、拳を握った。もう迷えない。

 許してもらうためじゃない。

 昔に戻るためでもない。

 祈がこれ以上、壊す側へ進まないように。

 この街にいる人たちを守るために。

 そして、二年前に伸ばせなかった手を、今度こそ伸ばすために。


「止める」


 小さく、結衣は呟いた。


「絶対に、止める」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

 シティの光に。過去の自分に。そして、闇へ消えた親友に。

 結衣は、もう一度誓った。


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