加害者と被害者
医療区画は、消毒液の匂いがした。
白いベッド。薄いカーテン。魔力回路を測定する小さな機械音。低く抑えられた職員たちの声。
廊下を行き来する足音は慌ただしいのに、この区画だけは妙に静かだった。
戦闘直後の熱が、白い壁と白い布に吸い取られていくような場所だった。
そこに、先日の襲撃で負傷した魔法少女たちがいた。
腕に包帯を巻いた子。足を固定されている子。魔力回路の検査装置につながれて、ベッドの上で眠っている子。
命に関わるような重傷者はいない。肉体的な傷だけを見れば、そこまで深くはなかった。
けれど、だから大丈夫だとは言えなかった。
赫塵を受けた子たちは、まだ変身できずにいた。
「魔力の流れが、痺れているような状態です」
医療担当者は、端末に表示された検査結果を見ながら説明した。
画面には、魔力回路を示す青い線が映っている。本来なら滑らかに流れているはずの光が、ところどころで途切れ、赤く乱れていた。
「肉体の損傷は軽微です。数日安静にしていれば、体の方は問題なく回復するでしょう」
「魔力の方は?」
結衣が問うと、医療担当者は少しだけ眉を寄せた。
「個人差があります。赫塵の残留は薄れていますが、魔力の流れに乱れが残っている。変身しようとすると、その乱れが本人の感覚に強く出るようです」
「感覚……」
「はい。本人たちにとっては恐怖でしょう」
医療担当者は静かに言った。
「自分の魔力が、自分のものではないように感じるはずです。手を伸ばそうとしたら、手が自分の意思と違う方向に動くようなものです。魔法少女にとっては、かなり不安定で怖い状態です」
結衣は、拳を握った。
祈の魔法。
訓練場で、何度も見た赤い雷。あの頃、祈自身もその力を怖がっていた。
味方の魔力まで乱してしまうことを気にしていた。
連携訓練で誰かの魔法陣を崩してしまうたび、申し訳なさそうに笑っていた。
自分でも抑えきれない時があるのだと、不安を吐露していた。
それでも、祈は誰かを守ろうとしていた。その力で、異形を止めようとしていた。
なのに今、その赤い雷は後輩たちを怯えさせている。
魔法少女であることを、奪うための力になっている。
結衣の胸の奥が、鈍く痛んだ。
「結衣先輩」
呼ばれて、結衣は顔を上げた。
薄いカーテンの向こう。ベッドの上に、三枝 ミナが座っていた。
新人の魔法少女。ライブ襲撃の日、結衣の話を真剣な顔で聞いていた後輩の一人だった。
あの時、結衣は彼女たちへ言った。
魔法少女は敵を倒すだけでは駄目だ。
怖がっている人、不安な人、追い詰められている人に寄り添うことも大切だと。
今思えば、どの口で言っていたのだろうと思う。
祈が一番追い詰められていた時、寄り添えなかった自分が。
結衣は、胸の痛みを押し込めてミナのベッドへ近づいた。
「ミナ。起きてて大丈夫?」
「はい。体は平気です」
ミナは笑った。いつものように明るくしようとしているのが分かった。
けれど、その笑顔はぎこちなかった。唇の端が少し震えている。
膝の上に置かれた手は、シーツをぎゅっと掴んでいた。
「でも、変身しようとすると……怖くて」
彼女は自分の手を見つめた。
小さな手。まだ新人らしい、傷の少ない手。その指先が、微かに震えている。
「魔力が、途中でばらばらになる感じがするんです」
ミナは、ゆっくりと言葉を探すように話した。
「胸の奥から出てくるはずのものが、どこかで引っかかって、散って、分からなくなるんです。いつもなら、変身って……怖い時でも、体の中から光が広がって、自分が魔法少女になるって分かるんですけど」
彼女は、俯いた。
「今は、その光が途中で消えちゃう感じがして」
結衣は何も言えなかった。
変身できない。魔法少女にとって、それはただ戦えないというだけではない。
自分が自分でいられない。守ると決めたものの前に立てない。逃げることしかできなくなる。
その恐怖を、結衣は痛いほど想像できた。
「すみません、結衣先輩」
「謝らないで」
結衣は即座に言った。少し強い声になってしまった。
ミナが驚いたように顔を上げる。
結衣は、少しだけ声をやわらげた。
「あなたは悪くない。怖かったのに、ちゃんと戦ってた」
「でも、私、逃げました」
「変身が解けたんだよ。逃げるしかなかった」
「でも」
「逃げるしかない時に逃げるのは、悪いことじゃないよ」
結衣は言った。それは、後輩に言い聞かせる言葉だった。
同時に、自分に言い聞かせる言葉でもあった。
逃げるしかない時。本当にそうだったのか。
二年前の自分は、本当に逃げるしかなかったのか。
その問いが胸を刺す。
ミナは、しばらく自分の手を見つめていた。それから、ぽつりと言った。
「じゃあ」
結衣は、ミナを見る。ミナも、結衣を見た。不安そうな目だった。責める目ではない。
ただ、答えが欲しい子どものような目。
「悪いのは、オブスキュリテですか?」
結衣の呼吸が止まった。
答えるべきだった。そうだよ、と。
彼女は敵だ。魔法少女を傷つけた。あなたを怖がらせた。このシティを危険に晒した。
だから、止めなければならない。
そう言うべきだった。
それが、エースとしての答えだった。
後輩を安心させるための答えだった。
魔法少女として正しい答えだった。
けれど、言えなかった。
オブスキュリテ。
赤羽 祈。
世界に見捨てられた親友。
二年前、助けを求めていたのに自分が手を伸ばせなかった少女。
祈は悪い。今の祈は、誰かを傷つけている。
それは事実だ。
でも、祈だけが悪いと言ってしまったら。自分はまた、祈一人に全部を背負わせることになるのではないか。二年前と同じように。
結衣は、言葉を探した。何か言わなければならない。
ミナは答えを待っている。怖かった後輩が、自分の恐怖に名前をつけようとしている。
誰が悪かったのか。自分は何に怯えているのか。それを知ろうとしている。
なのに、結衣はすぐに答えられなかった。
沈黙が落ちる。
その沈黙は、ミナにも伝わった。彼女は少しだけ目を伏せた。
「……すみません」
「ミナ」
「変なこと聞きました」
「違う」
結衣は首を横に振った。
「変じゃない。あなたが聞くのは、当然だよ」
そう言いながらも、答えはまだ出ていなかった。
オブスキュリテは悪い。
祈は傷ついた。祈は被害者だった。
でも今、ミナは祈に傷つけられた。
その事実から、結衣は目を逸らすことができなかった。
ミナは、少しだけ目を伏せた。何かを言うべきか迷っているようだった。
けれど、やがて小さく息を吸う。
「ネットで、見ました」
結衣の胸が、嫌な音を立てた。
「オブスキュリテって、赤羽 祈さんなんじゃないかって」
「ミナ」
思わず名前を呼んだ。
止めようとしたのか。これ以上聞きたくなかったのか。結衣自身にも分からなかった。
ミナは、布団の上で指を握りしめる。
「ごめんなさい。勝手に調べたりして」
「……ううん」
「でも、見ちゃったんです。動画とか、昔の記事とか、二年前の事件のまとめとか」
ミナの声は、少しずつ震えていった。
「赤羽さんのことも、少し調べました」
結衣は、何も言えなかった。
赤羽 祈。
その名前が、後輩の口から出る。それだけで胸が痛む。
「ひどいことをされた人なんだと思います」
ミナは言った。
「事件の時、先輩魔法少女が亡くなって、たくさんの被害が出て、それで赤羽さんが責められて。学校でも、家でも、ネットでも、ずっと叩かれて」
結衣の視界が、わずかに揺れた。
あの頃のニュース。見出し。コメント欄。祈の家に向けられたカメラ。
返信できなかったメッセージ。
全部が、一瞬で蘇る。
「誰も守ってくれなかったんだと思います」
ミナの声は、責めるものではなかった。
ただ、調べた事実を、どう受け止めればいいのか分からない子の声だった。
「かわいそうだって、思いました」
結衣の胸が痛む。
そうだ。祈はかわいそうだった。
そんな一言で済ませられるものではないけれど、でも確かに、祈はあまりにもひどい目に遭った。
守られるべきだった。誰かが手を伸ばすべきだった。
自分が、手を伸ばすべきだった。
「でも」
ミナは、布団を握りしめた。指が白くなるほど強く。
「それでも、私は怖かったです」
その一言は、結衣の胸に静かに突き刺さった。
鋭く叫ばれたわけではない。責められたわけでもない。
ただ、怖かったと告げられただけだった。
それなのに、結衣は息が詰まった。
「変身が解けて」
ミナの声が震える。
「足に力が入らなくなって、魔力がぐちゃぐちゃになって、自分が魔法少女じゃなくなっていく感じがして」
彼女の瞳が、あの日の恐怖を映す。
「異形が近づいてきて、周りの音が遠くなって、もう死ぬんだって思いました」
結衣は、ミナの手元を見た。布団を掴む指が震えている。
その震えは、戦闘が終わった今も消えていない。
「オブスキュリテがどれだけ傷ついていたとしても」
ミナは、泣きそうな顔で言った。
「私は、あの人が怖いです」
結衣は、何も言えなかった。
祈は被害者だった。それはたぶん、本当だ。
二年前、祈は守られなかった。世間に責められ、局にも守られず、親友にも手を伸ばしてもらえなかった。
その痛みは本物だ。
でも。
今ここにいるミナもまた、被害者だった。
祈に傷つけられた少女だった。赫塵を受け、変身を剥がされ、死の恐怖を味わった後輩だった。
どちらか一方だけを見てはいけない。
祈の痛みを見たいなら、祈が与えた痛みも見なければならない。
そうでなければ、また誰かを見捨てることになる。
「結衣先輩」
ミナは、ゆっくり顔を上げた。目元が赤い。
けれど、涙はまだこぼれていなかった。
「次にあの人が来たら、先輩は……戦ってくれますか?」
結衣の喉が震えた。
すぐに「もちろん」と言えなかった。言うべきだった。
後輩を安心させるために。エースとして。魔法少女として。
けれど、言葉が出なかった。
祈と戦う。
赤羽 祈に拳を向ける。
あの日、助けられなかった親友を、今度は敵として止める。
それがどういうことなのか、結衣にはまだ怖かった。
その沈黙で、ミナの顔が少しだけ曇る。
「あ……」
ミナは慌てたように笑おうとした。
「すみません。困らせるつもりじゃなくて」
その気遣いが、余計に痛かった。
怖がっているのはミナの方なのに。
傷つけられたのはミナの方なのに。
それでも彼女は、結衣を困らせたことを謝ろうとしている。
結衣は、自分の弱さを呪った。ここで言えなければ、また同じだ。
また誰かを不安にさせる。また誰かを見捨てる。二年前の祈のように。
今度は、目の前の後輩を。
結衣は、拳を握った。右手の爪が掌に食い込む。
痛みがあった。その痛みで、ようやく声を絞り出せた。
「……戦う」
声は小さかった。けれど、逃げなかった。
ミナが、結衣を見る。
「まだ、どうすればいいのか全部は分からない」
結衣は正直に言った。
「オブスキュリテをどう止めればいいのか。祈に何を言えばいいのか。私があの子に許してほしいだけなのか、それとも本当に救いたいのか。まだ、全部は分からない」
言いながら、自分の胸の奥が痛んだ。けれど、言葉を濁さなかった。
「でも」
結衣は、ミナの目を見た。
「次にオブスキュリテが誰かを傷つけようとしたら、私は止める」
ミナは、じっと結衣を見た。その目は、まだ不安を残している。
でも、先ほどより少しだけ強かった。
「赤羽 祈さんでも?」
結衣の胸が、痛んだ。
その名前。もう何度も聞いているはずなのに。自分でも何度も呼んできたはずなのに。
今この場で、後輩に問われると、喉が焼けるようだった。
赤羽 祈でも。
親友でも。
二年前に手を伸ばせなかった相手でも。
祈が誰かを傷つけるなら。これ以上、誰かを怖がらせるなら。
そして何より、祈自身が戻れない場所まで進もうとするなら。
止めなければならない。
結衣は、息を吸った。痛い。苦しい。
でも、答えた。
「うん」
声はかすれていた。それでも、確かに言った。
「赤羽 祈でも」
ミナは、しばらく何も言わなかった。それから、ゆっくりと息を吐く。
「……よかった」
小さな声だった。
「すみません。こんなこと、聞いて」
「謝らないで」
結衣は首を横に振った。
「聞いてくれて、ありがとう」
「え?」
「私、ちゃんと言葉にしなきゃいけなかったから」
ミナが少し驚いたように瞬きをする。
結衣は、ベッドのそばに立ったまま、静かに言った。
「あなたが怖かったことを、なかったことにはしない。オブスキュリテが傷ついていたとしても、あなたが傷ついたことも本当だから」
ミナの目が揺れる。
「だから、次は止める」
結衣は、自分にも言い聞かせるように続けた。
「祈を憎むためじゃない。あなたたちを守るために。祈に、これ以上誰かを傷つけさせないために」
ミナの手から、少しだけ力が抜けた。
布団の皺が、ゆっくりと戻っていく。
「……結衣先輩」
「うん」
「私、また変身できるようになりますか」
結衣は、今度は迷わず答えた。
「なるよ」
ミナは不安そうに結衣を見る。
「本当に?」
「うん。医療担当の人も、時間はかかるけど回復するって言ってた。焦らなくていい。怖いなら怖いままでいい。戻る時は、私も一緒に訓練する」
ミナの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……お願いします」
「うん」
結衣は笑った。今度は、少しだけ自然に笑えた気がした。
医療区画の白い光の中で、ミナはまだ震えていた。
それでも、その震えを一人で抱えなくていいのだと、少しだけ思えたように見えた。
結衣は、胸の奥で静かに誓う。
祈。
あなたの痛みも、見なかったことにはしない。
でも、あなたが傷つけた人の痛みも、なかったことにはしない。
どちらかだけを選ぶのではなく。
どちらからも逃げずに。
私は、あなたを止める。
そう思った時、奈央の言葉が胸に蘇った。
許されたいのか。止めたいのか。救いたいのか。償いたいのか。
まだ答えは、完全には出ていない。
けれど少なくとも一つ。今の結衣には、はっきり言えることがあった。
次にオブスキュリテが誰かを傷つけようとするなら。
自分は、戦う。たとえ相手が、赤羽 祈でも。




