真実を知ったとして
今回は本当に長いです。
分割したほうがよかったと思いつつ、間延びすると思って1話にしました。
襲撃後の資料庫は、静まり返っていた。先ほどまで警報が鳴り響いていたとは思えないほど、空気は重く、冷たい。
破られた隔壁。円形にくり抜かれた扉。
床に散らばった記録媒体の破片。焼け焦げたように赤く変色した魔法陣の痕。
どれも、オブスキュリテがここにいた証だった。
魔法少女局本部の奥深く。本来なら、限られた職員しか入ることのできない資料庫。
そこが、無残に踏み荒らされている。
結衣は、資料庫の入口でしばらく立ち尽くしていた。
鼻をつくのは、焼けた魔力回路の匂いだった。普通の焦げ臭さとは違う。
金属と埃と、古い紙と、何かもっと生々しいものが混ざったような匂い。
赤い雷に焼かれた魔法陣は、まだところどころで小さく火花を散らしていた。
ぱち、と音が鳴るたびに、結衣の指先がわずかに震える。
赫塵。
祈の魔法。
いや、今はオブスキュリテの魔法。その残滓が、資料庫のあちこちに残っている。
棚に刻まれた保護術式も。記録媒体を封じる認証魔法も。閲覧権限を確認する魔法式も。
本来なら淡い青色で静かに光っているはずだった。
けれど今は違う。
赤い雷に侵され、ひび割れたように明滅している。青い光の中に、赤い線が混じっていた。
まるで、資料庫そのものが傷口を晒しているようだった。
白瀬 結衣は、その前に立っていた。 足元には、割れた記録媒体がいくつも転がっている。
壊されたものもある。けれど、すべてが失われたわけではなかった。
棚の一角に、まだ無事な記録媒体が残っていた。結衣は、その中の一つに目を留める。
二年前の大規模襲撃事件。正式名称は、もっと長かった。発生日時、場所、被害規模、関係部署、調査分類。いくつもの事務的な言葉が並んでいる。
けれど結衣にとって、それはただ一つの事件だった。
祈が消えた事件。瑠香先輩が死んだ事件。観客席の上空が割れた事件。防御機構が作動しなかった事件。
そして。
自分が、親友の手を取れなかった事件。
結衣は、ゆっくりと手を伸ばした。指先が、記録媒体の表面に触れる。
冷たい。
ただの記録媒体なのに、まるで氷のように冷たかった。
本来であれば、結衣にこの情報を見る権限はない。これまで何度か、確認しようとしたことはあった。
瑠香先輩の死に関する詳細。防御機構の不作動原因。祈への事後対応。世論対策の記録。
二年前、自分が何もできずにいる間、局の内部で何が起きていたのか。
知りたかった。
けれど、端末に手をかざすたび、返ってくるのはいつも同じだった。
『閲覧権限がありません』
『上位承認が必要です』
『該当記録は機密指定されています』
無機質な文字。冷たい拒絶。それ以上、踏み込むなという壁。
結衣は、その言葉を見るたびに引き下がった。
自分には権限がないから。上層部が管理しているから。今は見るべきではないから。
そう言い聞かせた。
本当は、怖かっただけかもしれない。
もし記録の中に、自分が見たくない真実があったら。
もし祈が責められるべきではなかったと分かったら。
もし、自分が何もできなかったあの時間に、局がもっと別の判断をしていれば祈を守れたのだと知ってしまったら。
それを知って、自分はどうすればいいのか。
分からなかった。だから、見られないことに少しだけ安心していた。
権限がないなら仕方ない。見ることができないなら仕方ない。自分は知らなくても仕方ない。
そうやって、逃げていた。
けれど今は違う。
オブスキュリテの赤い雷が、資料庫の防護魔法を痺れさせている。閲覧制限の術式が、正常に機能していない。認証魔法は壊れ、拒絶の青い光は弱々しく点滅しているだけだった。
今なら見られる。今なら、二年前の真相に手が届く。
結衣の胸が、嫌な音を立てた。鼓動が速くなる。指先が冷たくなる。喉が乾く。
手元の記録媒体を開けば、何かが分かるかもしれない。
あの日、防御機構はなぜ動かなかったのか。誰が管理していたのか。敵の侵入は本当に想定外だったのか。
オブスキュリテが言ったことは、本当なのか。二年前の襲撃時、誰かが故意に防御機構へ細工していたのか。
魔法少女局は、それを知っていたのか。そして、それを隠したのか。
もし本当に、祈だけが悪かったわけではないのなら。
もし誰かが、防御機構に細工していたのなら。
もし魔法少女局が、それを知っていて隠していたのなら。
祈は。赤羽 祈は。
一人で、何を背負わされたのだろう。
結衣は息を呑んだ。
知りたい。知らなければならない。
だって、祈はそれを知ろうとしていた。
オブスキュリテは、ただ破壊するためにここへ来たわけではない。魔法少女局への復讐だけなら、資料庫など狙わなくてよかった。
もっと人の多い場所を襲えばいい。もっと象徴的な施設を壊せばいい。
けれど彼女は、ここへ来た。魔法少女局の過去が眠る場所へ。
二年前の記録が封じられた場所へ。自分を壊した事件の真実を探すために。
祈はただ世界を壊そうとしているだけではない。自分を壊した事件の真実を探している。
なら、自分も知らなければ。
結衣の指が、記録媒体を開こうとする。ほんの少し力を込めるだけでいい。今なら拒絶されない。今なら、扉は開く。
ずっと閉ざされていた二年前が、自分の前に広がる。
知ってしまえば、もう戻れない。
それでも。知らないままでは、祈の前に立てない。
そう思った。
結衣は震える息を吐き、記録媒体に魔力を流そうとした。
「その情報は、お前にはアクセスできないよ、結衣」
背後から声がした。結衣の手が止まる。指先に集めかけていた魔力が、記録媒体の表面で小さく揺れた。
あと少しだった。あと少し力を流せば、封じられていた記録が開く。二年前の真実に、手が届く。
そう思った瞬間に、止められた。
結衣はゆっくりと振り向いた。資料庫の入口に、森山 奈央が立っていた。
奈央はいつもの穏やかな表情をしていなかった。
候補生に笑いかける時の優しい顔ではない。
疲れた後輩に水を差し出す時の柔らかい顔でもない。
冗談を言って空気を軽くする時の、あの飄々とした顔でもなかった。
厳しい顔だった。
けれど、怒っているだけではない。痛みを堪えているようにも見えた。
結衣は記録媒体を握ったまま、かすれた声で呼んだ。
「奈央さん……」
「それは機密記録だ」
奈央は静かに言った。
「今は防護魔法が乱れているだけで、閲覧権限が下りたわけじゃない」
「でも」
結衣は、記録媒体を見下ろした。
赤い雷に侵された認証魔法は、まだ明滅している。普段なら結衣を拒むはずの魔法式が、今だけは壊れている。
「今なら見られます」
「だから止めてる」
奈央の声は硬かった。
資料庫に沈黙が落ちる。ぱち、と赤い火花が床で弾けた。
奈央は、ゆっくりと結衣へ近づいてくる。
一歩。
また一歩。
その足取りは静かだったが、引く気がないことだけは伝わってきた。
結衣は、記録媒体を握りしめた。
「奈央さんは、知りたくないんですか」
自分の声が震えているのが分かった。
悔しさなのか。恐怖なのか。怒りなのか。自分でも分からなかった。
「二年前に、何があったのか」
奈央の表情が、わずかに揺れた。その一瞬だけ、厳しさの奥にあるものが見えた。
後悔。
痛み。
そして、結衣と同じように消えない疑問。
「知りたいさ」
奈央は即答した。
「知りたくないわけがない」
結衣は息を詰める。
奈央は、資料庫の奥に並ぶ古い記録棚を見た。その視線は、目の前の棚を見ているようでいて、もっと遠いものを見ているようだった。
「私は赤羽 祈を知っている」
奈央の声が、少しだけ低くなる。
「候補生時代のあの子を知っている。あの子がどんなふうに笑って、どんなふうに自分の魔法を怖がって、それでも誰かを守ろうとしていたかを知っている」
結衣は黙って聞いていた。
奈央の言葉が、一つ一つ胸に落ちてくる。祈は、確かにいた。
世界を壊すものではなく。
オブスキュリテではなく。
赤羽 祈という名前の、魔法少女だった。
「二年前、何が本当に起きたのか。防御機構はなぜ動かなかったのか。あの子がなぜ一人で責められなければならなかったのか。私だって知りたい」
「だったら――」
「だけど」
奈央の声が硬くなる。結衣の言葉を、静かに切った。
「規則を破ってまで、今ここで知るべきことじゃない」
「規則……?」
結衣の声が、低くなった。胸の奥に、熱いものが込み上げる。
「祈は、その規則に守られなかったんですよ」
奈央は何も言わなかった。否定しない。言い返さない。
それが、余計に結衣の感情を刺激した。
「局は適切に対応しているって言って、祈を守らなかった。家の前にはメディアが来て、知らない人が落書きして、家族まで追い詰められて」
言葉が止まらない。
「学校にも居場所がなくなって、ネットではずっと叩かれて、誰も止めなくて」
結衣は記録媒体を握りしめる。手のひらが痛い。
「家族も壊れた。父親は帰ってこなくなった。妹さんも学校に行けなくなった。お母さんも倒れた」
どこまでが自分の知っている事実で、どこからが想像なのか。結衣にはもう分からなかった。
それでも、祈が壊れていくまでに何があったのかは、知っている。知らないふりはできない。
「魔法少女局は、祈の責任だとは言わなかった。でも、守りもしなかった」
声が震える。
「白瀬 結衣は――」
自分で自分の名前を出しかけて、結衣は唇を噛んだ。
違う。
ここで自分を第三者みたいに呼ぶな。逃げるな。
「私は、助けられなかった」
言葉にした瞬間、胸の奥が抉られた。
あの日、何度も届いていたメッセージ。開けなかった通知。既読をつけることすら怖がった自分。
それを思い出す。
「祈は、ただの被害者だったのかもしれないんですよ」
結衣は、縋るように言った。
「本当は何も悪くなかったのかもしれない。誰かが防御機構を止めていたなら、祈は罪を背負わされただけだったのかもしれない。だったら、ちゃんと知るべきじゃないんですか」
「それを知って、どうする?」
奈央の問いに、結衣は息を詰めた。
「え……?」
「その記録を読んで、祈が本当に被害者だったと分かったとして」
奈央は一歩近づく。その目は、結衣から逃がさない。
「お前はどうする?」
「それは……」
「世間に公表する気か?」
結衣は言葉に詰まった。
公表。
その言葉が、急に現実の重さを持ってのしかかる。
「魔法少女局が隠していた二年前の真実を、全部明らかにする。赤羽祈は悪くなかった。彼女は被害者だった。責められるべきは局だった。そう発表するのか?」
「そうすれば、祈は――」
「戻ってくるかもしれない、か?」
奈央の声が、結衣の言葉を切った。
結衣は何も言えなくなった。
図星だった。そう思っていた。
もし真実が分かれば。
もし祈が悪くなかったと証明できれば。
もし世間が間違っていたと認めれば。
そうすれば、祈は戻ってきてくれるかもしれない。
赤羽 祈に戻ってくれるかもしれない。
結衣の前で、また笑ってくれるかもしれない。
そう願っていた。
奈央は、まっすぐ結衣を見ていた。
「結衣」
その声は静かだった。けれど、逃げ場がなかった。
「お前は真実が知りたいんじゃない」
胸が、ずきりと痛んだ。
「祈に戻ってきてほしいんだろ」
結衣の喉が震える。何か言い返さなければと思った。
でも、何を言えばいいのか分からない。
「それの、何がいけないんですか」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど幼かった。
「祈に戻ってきてほしいんです。あの子は悪くなかったって、言ってあげたいんです。もう一度、名前を呼びたいんです。今度こそ、手を伸ばしたいんです」
言いながら、涙が滲みそうになった。必死にこらえる。
泣く資格なんてない。
そう思うのに、声は勝手に震えた。
「それは本当に祈のためか?」
奈央の問いが、結衣の胸を刺した。
鋭く。
深く。
「それとも、お前が許されたいだけじゃないのか」
「それは……」
違う。
そう言いたかった。
祈のためだ。祈を助けたいからだ。
祈に戻ってきてほしいからだ。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
祈に許してほしい。その気持ちは、確かにあった。
二年前、返事をしなかったこと。
会いに行かなかったこと。
局の指示に従うふりをして、自分を守ったこと。
一番苦しい時の祈から、目を逸らしたこと。
全部、許してほしかった。
祈に「もういいよ」と言ってほしかった。
結衣のせいじゃない。
仕方なかった。
あの時は誰だって怖かった。
そう言ってほしかった。
そうすれば、胸の奥に空いた穴が少しだけ埋まる気がした。
ずっと重くのしかかっていた罪悪感が、ほんの少し軽くなる気がした。
そのために、真実が欲しかったのではないか。
祈は悪くなかったという証拠が欲しかった。
祈を救うために。同時に、自分を救うために。
結衣は、記録媒体を握る手を震わせた。
奈央は、そんな結衣を責めるようには見なかった。
けれど、許すようにも見なかった。ただ、逃げるなと告げる目だった。
「違うって、言えないんだな」
奈央の声は、少しだけ柔らかくなった。その柔らかさが、かえって痛かった。
結衣は俯いた。
「……分かりません」
やっと出た声は、小さかった。
「祈を助けたいのは本当です。でも、許してほしいのも本当で。戻ってきてほしいのも本当で。何が祈のためで、何が自分のためなのか、分からないんです」
記録媒体に、ぽたりと涙が落ちそうになった。
結衣は慌てて顔を上げる。泣きたくなかった。
でも、涙は目の奥に溜まっていた。
「でも、知りたいんです」
結衣は言った。
「知らないままじゃ、祈の前に立てない気がするんです」
奈央はしばらく黙っていた。
資料庫の奥で、赤い火花がまた一つ弾ける。
やがて奈央は、静かに息を吐いた。
「知ること自体は、間違いじゃない」
結衣が顔を上げる。
「二年前の真実には、いずれ向き合わなきゃいけない。局が隠しているものがあるなら、暴かなきゃいけない。赤羽 祈に背負わせたものがあるなら、取り戻さなきゃいけない」
「だったら――」
「でも、今のお前がそれを見るのは違う」
奈央は断言した。
「今のお前は、真実を真実として受け止めようとしていない。祈を連れ戻すための理由として使おうとしている。自分が許されるための材料として求めている」
結衣の胸が痛む。
「その状態で見たら、お前はきっと間違える」
「間違える……?」
「ああ」
奈央は頷いた。
「祈が被害者だったと分かった瞬間、今の祈がしていることまで正当化したくなる。祈は悪くなかったんだから、仕方ないんだって思いたくなる。そうなれば、お前はオブスキュリテを止められなくなる」
結衣は息を呑んだ。
「それは……」
「違うと言えるか?」
言えなかった。
祈が本当に被害者だったと分かったら。
局が本当に隠蔽していたと分かったら。
その怒りに、自分も呑まれてしまうかもしれない。
祈を止めるのではなく、祈の側に立って局を責めたくなるかもしれない。
それが間違いだとは言い切れない。
「お前が知るべき時は来る」
奈央は言った。
「でも、それは今じゃない。少なくとも、お前が自分のために真実へ縋ろうとしている間は、まだ早い」
結衣は、手元の記録媒体を見つめた。
開けば分かるかもしれない。祈の痛みが。二年前の真実が。局の罪が。
そして、自分の罪も。
でも、奈央の言葉は正しいのかもしれない。
今の自分は、真実を祈のためだけに求めているわけではない。
自分が楽になりたい。自分が許されたい。
その気持ちが確かに混ざっている。
結衣は唇を噛んだ。
苦しかった。認めたくなかった。
でも、否定できなかった。
奈央は、結衣の沈黙を責めなかった。違うと言えないことも。
祈を助けたい気持ちの中に、自分が許されたい願いが混ざっていることも。
そのことに気づいて、結衣自身が傷ついていることも。
奈央には分かっていた。
だから、責めなかった。
ただ、少しだけ声をやわらげた。
「別に、その想いが悪いとは言わない」
結衣は顔を上げた。
責められると思っていた。甘いと言われると思っていた。
今さらだと、遅すぎると、祈に許されたいなんて都合がよすぎると。
そう言われる覚悟をしていた。
けれど奈央の声には、責める響きはなかった。
「許されたいと思うのは自然なことだ。取り返したいと思うのも、戻ってきてほしいと思うのも、悪いことじゃない」
「……奈央さん」
「失くしたものが大きければ、大きいほど、人は戻りたいと思う。やり直したいと思う。あの時こうしていればって、何度でも考える」
奈央は、資料庫の床に残る赤い雷の痕を見た。
焼け焦げた魔法陣。ひび割れた閲覧制限の術式。オブスキュリテがここにいた証。
「でも、今の祈は純粋な被害者じゃない」
その言葉に、結衣の肩が震えた。
分かっていた。分かっていたはずだった。
それでも、誰かの口からはっきり言われると、胸の奥が鋭く痛んだ。
「加害者にもなっている」
資料庫の外から、負傷者を運ぶ職員たちの声がかすかに聞こえた。
「担架、こっちです!」
「魔力回路の乱れあり、医療区画へ!」
「変身解除後に打撲。意識はあります!」
慌ただしい声。車輪の音。誰かの呻き声。
それらが、薄い扉越しに資料庫の中へ流れ込んでくる。
結衣の脳裏に、先ほどの光景が蘇った。
赫塵を付与された異形兵に追い詰められた魔法少女たち。
魔力を乱され、変身が不安定になった後輩。
恐怖に顔を引きつらせながら避難する職員。
赤い雷を避けきれず、床に膝をついた少女。
祈は傷ついた。祈は守られなかった。祈は被害者だった。
たぶん、それは間違いではない。
けれど今、祈は誰かを傷つけている。
それもまた、事実だった。
結衣が目を逸らしてはいけない事実だった。
「そんな祈に許してほしいのか」
奈央は静かに問う。
「それとも、止めたいのか」
結衣は答えられなかった。
許してほしい。その気持ちはある。戻ってきてほしい。
その気持ちもある。
でも、止めたいのか。今の祈を。
オブスキュリテとして誰かを傷つけている彼女を。
親友として、魔法少女として、止める覚悟があるのか。
結衣には、まだ答えがなかった。
「はっきりさせておくんだ」
奈央の声は厳しかった。
けれど、その厳しさは結衣を突き放すためのものではなかった。
もう一度、同じ場所で動けなくならないように。
これ以上、結衣自身が自分を傷つけないように。
そのための厳しさだった。
「次に祈と向き合う時、そこが曖昧なままだと、お前はまた動けなくなる」
結衣の指から力が抜けた。記録媒体が、かすかに震える。
今なら開ける。まだ閲覧制限は壊れている。今この瞬間なら、二年前の記録を見ることができる。
けれど、奈央の言葉が結衣の手を止めていた。
「真実を知るなとは言わない」
奈央は続けた。
「知るべき時は来る。局が隠しているものがあるなら、いずれ向き合わなきゃいけない。赤羽 祈に背負わせたものがあるなら、取り戻さなきゃいけない」
奈央の声に、わずかな苦さが混じる。
「私たち大人もな」
結衣は、その言葉に顔を上げた。
奈央は自嘲するように笑った。
「二年前、私たちも結局何もできなかった。現場を退いた大人として、候補生を見ていた先輩として、守るべき後輩が壊れていくのを止められなかった」
「奈央さんは……」
「私にも責任はある」
奈央は静かに言った。
「だから知るべき時が来たら、私も逃げない。でも」
彼女は、結衣の手元の記録媒体を見る。
「今のお前は、その真実を武器にしようとしている」
「武器……?」
「祈を連れ戻すための武器だ」
奈央は、一歩だけ近づいた。
「これを見れば、祈は被害者だったと証明できる。そうすれば祈は戻ってくる。自分を許してくれる。そう思っている」
結衣は何も言えなかった。
図星だった。真実を知りたい。それは本当だ。
でも、心のどこかで期待していた。
この記録の中に、祈を救える答えがあるかもしれないと。
祈は悪くなかったと証明できるものがあるかもしれないと。
それを突きつければ、祈は戻ってきてくれるかもしれないと。
自分を許してくれるかもしれないと。
「でもな、結衣」
奈央は低く言った。
「真実は、祈を自動的に救ってくれる魔法じゃない」
その言葉が、資料庫に静かに落ちた。
結衣は息を止める。
「祈が被害者だったとしても、今の祈が傷つけた人たちの痛みは消えない。局に責任があったとしても、祈がオブスキュリテとして選んだ行動はなくならない。お前が真実を知ったとしても、二年前に手を伸ばせなかった事実は変わらない」
一つ一つの言葉が、結衣の胸に刺さる。痛かった。
けれど、目を逸らせなかった。
「真実は大事だ。でも、真実だけで全部が元に戻るわけじゃない」
奈央は言った。
「祈が受けた痛みも、祈が与えた痛みも、お前が抱えている罪悪感も、全部そこに残る。何か一つ分かったからって、全部が綺麗になるわけじゃない」
結衣の目に、涙が滲んだ。資料庫の光がぼやける。
赤い残滓も、青い魔法式も、古い記録棚も、全部が揺れて見えた。
「じゃあ、私はどうすればいいんですか……」
声は小さかった。
自分でも情けなくなるほど、頼りない声だった。
「祈を助けたいんです。止めたい気持ちもあります。でも許してほしい気持ちもあって、戻ってきてほしくて、何が正しいのか分からなくて」
結衣は、記録媒体を握る手を震わせた。
「何を選べばいいのか、分からないんです」
「決めろ」
奈央は言った。短く、はっきりと。
「許されたいのか。止めたいのか。救いたいのか。償いたいのか」
結衣は唇を噛む。
「全部、同じじゃないんですか」
「違う」
奈央は即答した。迷いのない声だった。
「許されたいなら、お前は祈の前で膝をつくだけでいい。謝って、泣いて、許してくれと縋ればいい」
結衣の肩が震える。
「止めたいなら、祈に拳を向ける覚悟がいる。あの子が誰かを傷つけるなら、たとえ嫌われても、憎まれても、力ずくで止める覚悟がいる」
奈央は続ける。
「救いたいなら、祈に拒絶されても手を伸ばし続ける覚悟がいる。お前なんかいらないと言われても、今さら遅いと罵られても、それでも手を引っ込めない覚悟がいる」
結衣は、何も言えなかった。
「償いたいなら、許されなくても背負い続ける覚悟がいる。祈が一生お前を許さなくても、二年前に手を伸ばせなかった自分を言い訳で薄めずに、生きていく覚悟がいる」
資料庫の中に、長い沈黙が落ちた。
結衣は、手の中の記録媒体を見つめる。これを開けば、何かが変わるかもしれない。
そう思っていた。
でも、今分かった。変わるとしても、全部ではない。
真実を知ることで、祈が自動的に戻ってくるわけではない。
自分が許されるわけでもない。
傷つけられた後輩たちの恐怖が消えるわけでもない。
二年前の自分が、手を伸ばしたことになるわけでもない。
結衣は、震える息を吐いた。
そして、手にしていた記録媒体をゆっくりと棚へ戻した。
指はまだ震えていた。離したくなかった。知りたかった。
今すぐ開いて、答えを見つけたかった。
それでも、離した。
記録媒体が棚の中で小さく音を立てる。
「……今は、見ません」
声はかすれていた。でも、確かに自分の意思で言った。
奈央は小さく頷いた。
「それでいい」
「でも」
結衣は顔を上げた。涙はまだ目の奥にあった。
けれど、視線は逃げなかった。
「いつか、ちゃんと知ります」
「ああ」
「祈のためだけじゃなくて。自分が楽になるためだけでもなくて。二年前に何があったのか、ちゃんと向き合うために」
言葉にしながら、結衣は自分の中で何かが少しだけ形を持つのを感じた。今はまだ答えではない。
でも、逃げではない。
祈を許したいのか。
祈に許されたいのか。
祈を止めたいのか。
その全部を混ぜたまま、真実に縋ってはいけない。まず、自分が何をするのか決めなければならない。
奈央は、少しだけ表情をやわらげた。
「その時は、私も一緒に見る」
結衣は驚いたように奈央を見た。奈央は苦く笑う。
「私だって、知りたいんだ。後輩に何が起きたのか」
「奈央さん……」
「それに、一人で見るな」
奈央は静かに言った。
「一人で抱えるな。二年前も、今も、そうやって一人で抱え込んだ子たちが壊れてきた。祈も、お前も」
結衣は、息を詰めた。
「だから、見る時は一緒だ。逃げ道じゃなく、向き合うために見る。その時まで、これはここに置いておけ」
結衣は、小さく頷いた。
「はい」
資料庫の防護魔法は、まだ赤い雷の影響で不安定に揺れている。
今なら、見られる。手を伸ばせば、開ける。
けれど結衣は、もう手を伸ばさなかった。
真実から逃げたわけではない。
ただ、今の自分がそれを扱える状態ではないと、初めて認めた。
祈を許したいのか。
祈に許されたいのか。
祈を止めたいのか。
その答えを出さないまま真実に縋っても、きっとまた間違える。
結衣は、そう思った。
資料庫の外では、まだ慌ただしい足音が続いている。
負傷者の声。
職員の指示。
戦いの後始末。
現実は、何も待ってくれない。
それでも結衣は、棚に戻した記録媒体をもう一度見た。
いつか必ず向き合う。逃げるためではなく。誰かに許してもらうためでもなく。
二年前に何があったのか。赤羽祈に何を背負わせたのか。
そして、自分が何から目を逸らしてきたのか。
その全部を見るために。
今は、手を離した。いつか、本当に手を伸ばすために。




