第60話
黒峰徹心は、リリー・セヴァライドが通信を受けた瞬間、今日の実験はここまでだと判断した。
場所は黒峰屋敷の奥、普段は稽古に使う部屋だった。床には観測用の小型水晶、魔力膜の記録板、リリーが持ち込んだ計測器が並んでいる。気と魔力の反発を調べるには悪くない環境だが、部屋の半分はすでに研究者の巣に近い有様になっていた。
リリーは通信魔導具へ耳を傾けたまま、顔から軽さを消していく。
「……状態は」
短い問いの後に沈黙が落ち、徹心は茶を置いた。
リリーが使う通信魔導具の向こう側の声は、徹心には断片しか届かない。だが、声の質は分かる。急ぎだ。しかも、研究者としての興味ではなく、誰かの命に関わる急ぎだった。
通信を終えたリリーは、徹心を見た。
「緊急対応です。気と魔力の両方を扱える人物が、魔法治療を受け付けない状態で倒れています」
「今、キリコと聞こえたな」
リリーの目がわずかに動く。
「そこまで聞こえましたか」
「名だけだ。誰かは知らん」
徹心は立ち上がった。
魔界側に、気を有した誰かがいる。
それ自体は、これまでのリリーとの付き合いから想像していた。だが、名前も顔も事情も知らない。こちらへすべて開示する気がないことも分かった。構わない。今ここで問い詰めても、救命にはならない。
「理沙は出せん」
「分かっています。だからあなたに頼みます」
「どこだ」
「西部領、シュヴァリエ城」
徹心は少しだけ眉を上げた。
「聞いたことはある。遠いな」
「普通に行けば間に合いません。だから、少々まずい手を使います」
リリーは荷物を乱暴にまとめ始めた。研究者の手つきではない。軍属の手つきだった。必要な物だけを掴み、不要な物を置き捨てる。
「コーイチたちの事務所に、東部領行きのゲートがあります。行き先を変更して、西部領へ直行します」
「それは許可が下りているのか」
「下りていません」
リリーの答えは即座だった。
「後で処分を受けます」
「よく言う」
徹心は薄く笑った。無謀ではなく、判断が速いだけだ。リリーは危険を知らずに踏み込む者ではない。危険を測った上で、命と規則を秤にかけ、命を取った。それなら、こちらも合わせる。
徹心は壁際の木箱から布包みを取った。
中には鍼、細い刃、布、薬草、そして黒峰流の処置に使う短い棒が入っている。魔法治療ではない。気の乱れを外から鎮めるための道具だ。理沙ならもう少し柔らかく扱う。徹心の手は、治療と制圧の境が近い。
「初期処置だけならできる。だが、壊れ方次第では、助けるために痛めつける」
「構いません。死なせないで」
「死なせるつもりなら行かん」
リリーは頷いた。
移動は早かった。
屋敷から人間界側の事務所へ移るまでの手続きも、リリーは最短で処理した。コーイチは事務所にいなかったが、残された管理端末とリリーの権限でゲートが起動する。通常なら複数の承認が必要なはずの画面が、リリーの指先で次々と飛ばされていく。
「後で怒られるぞ」
「怒られるだけなら安いです」
「処分と言っていた」
「処分も安い」
徹心はそれ以上言わなかった。
ゲートの光が変わる。
東部領へ向かうはずの経路が、無理やり別の座標へねじ曲げられる。魔術式が軋むのが、徹心にも分かった。魔法の理屈は専門外だが、無茶をしていることくらいは気配で分かる。
次の瞬間、潮の匂いがした。
西部領。
シュヴァリエ城の一室へ出た時、待機していた使用人が青ざめた顔で頭を下げた。案内は不要だった。廊下の先から、濃い血の匂いと、乱れた魔力の圧が流れてくる。
徹心は歩きながら息を整えた。
魔界の空気は重い。
魔力が濃い。人間界の黒峰屋敷とは違う。これほど濃い場所で、気を扱う者が制御を誤ればどうなるか。想像はつく。
訓練場には、臨時の処置区画が作られていた。
桐子は布の上に寝かされている。口元には血の跡。顔色は悪く、呼吸は浅い。周囲には治療担当がいるが、魔法を使えずに手をこまねいている。ローザ・シュヴァリエが指示を出し、クロエが桐子の手を握っていた。
クロエの目がこちらへ向く。
警戒と期待と怒りが混ざった目だった。
「あなたが」
「黒峰徹心」
徹心は名だけ告げ、桐子の横へ膝をついた。
挨拶は後でいい。
まず見る。
桐子の身体の内側で、気が暴れていた。
魔力とぶつかっている。いや、ぶつかった後に、互いを押し潰したまま逃げ場を失っている。外から入る治療魔法は、その乱れに触れてほどける。アンチ・マジックのように術式を消しているわけではない。ただ、治療魔法が届く前に、内側の圧で弾かれている。
「馬鹿なことをしたな」
徹心は低く言った。
クロエが顔を強張らせる。
「今それを言う必要が」
「ある。馬鹿は馬鹿として扱わなければ、次もやる」
クロエが言葉を失う。
徹心は桐子の手首に指を置いた。脈が乱れている。魔力の流れは外から見れば川のようだが、その川底で気が石のように膨れ、流れを割っている。桐子はそれを同じ方向へ流そうとしたのだろう。考えとしては悪くない。実行が早すぎた。
徹心は短い棒を取り出し、桐子の腹部近くへ当てる。
「押さえる。暴れるかもしれん。動かすな」
ローザが治療担当へ頷く。クロエは桐子の手を離したくなさそうだったが、徹心の視線を受けて、ゆっくり手を退けた。
徹心は息を吐く。
気を外へ出すのではない。
桐子の内側で暴れている気へ、外から同じ質の圧を当てる。暴れる獣の首根っこを押さえるようなものだ。力任せに潰せば、桐子の身体ごと壊れる。逃がせば、魔力と衝突し続ける。
狭いところを通す。
痛みは出る。
桐子の身体が跳ねた。
クロエが息を呑む。
徹心は手を止めない。棒で一点を押さえ、反対の手で肩口へ触れる。黒峰流の呼吸を、外から無理やり思い出させる。桐子自身の意識はない。ならば身体に覚えさせた道を使うしかない。
気が動く。
暴れていた圧が、一瞬だけ徹心の方へ噛みつくように返ってきた。徹心は受け流す。若い頃なら笑ったかもしれない。よく育っている、と。
今は笑わない。
血を吐いて倒れている子どもを前に、褒めることではない。
「リリー」
「記録しています。魔力治療は?」
「まだ入れるな。入れればまた弾ける」
「了解」
リリーの声も硬い。
徹心は押さえる位置を変えた。
桐子の呼吸が一度止まりかけ、次に深く入った。喉に残った血が絡む。ローザが素早く布を当て、治療担当へ合図する。魔法ではなく、物理的な処置で呼吸を確保する。
気の暴れが、少しずつ弱まる。
完全ではない。
だが、内側で互いを潰し合う状態から、かろうじて流れの形を取り戻し始めていた。
徹心は最後に、桐子の鳩尾へ二本指を置いた。
強く押す。
桐子の身体が大きく震え、口元から血と息が漏れた。
その後、呼吸が少しだけ深くなった。
クロエが震える声で聞く。
「助かるの?」
徹心は手を離さずに答えた。
「今すぐ死ぬところからは引き戻した」
安堵の空気が広がりかける。
「だが、助かったとは言っていない」
それを切った。
甘い言葉は不要だ。
この状態で安心させれば、周囲の判断が鈍る。桐子自身にも、後で余計な誤解を残す。
「本格的な処置が要る。しばらくは動かすな。魔法治療も、こちらが許可するまで入れるな。気と魔力の流れを分けるのではなく、潰し合わない位置へ置き直す必要がある」
リリーがすぐに頷く。
「私の方で魔力側の観測と補助に回ります。治療担当にも共有する」
「桐子の身体は、そちらの治療の理屈だけでは治らん。黒峰の理屈だけでも足りん。両方を見る」
「分かった」
ローザが短く答えた。
クロエはまだ桐子を見ている。手を伸ばしたいのを堪えている顔だった。
徹心はその顔を一瞥した。
「触れるなら、手だけにしろ。強く握るな。呼びかけるのは構わん」
クロエは黙って頷き、桐子の指先へそっと触れた。
徹心はようやく、短く息を吐く。
黒峰流は、人ならざるものに立ち向かうための暴力装置だ。
だが、暴力は壊すためだけにあるのではない。壊れかけたものを押さえつけ、死の方へ転がる勢いを止めるためにも使える。
桐子の呼吸はまだ細い。
それでも、先ほどよりは生きている音がした。
徹心は血に濡れた布を見下ろし、静かに言った。
「さて」
誰に向けた言葉でもない。
「目を覚ましたら、まず説教だな」




