第59話
リュウガは本戦会場へ入った時、観客席の熱が昨日よりも荒くなっていることに気づいた。
予選は終わった。
武闘部門の本戦に残った候補者は、いずれも東部領で名の通った家や地区の代表だ。筆記や素行調査の結果はまだ総合評価に組み込まれる途中だが、今日の勝敗が空気を大きく動かすことは間違いない。
リュウガは控え区画で武器を確かめた。
長剣、短剣、予備の棍、投げ刃。気は使わない。使う必要もない。ここで勝つために必要なのは、相手を見ること、自分の足を信じること、焦りで判断を濁らせないこと。
サニーは観客席ではなく、関係者用の通路にいた。昨日より表情が冷えている。
西部領から何か連絡があったらしい。
詳しいことは聞けていない。だが、サニーが短い通信を受けた後、一瞬だけ空気を変えたことにリュウガは気づいていた。彼女はすぐ平常の顔に戻したが、あの一瞬は戦場へ入る直前の顔だった。
桐子に何かあったのか。
その考えが浮かび、リュウガは奥歯を噛んだ。
桐子もまた、気に引き寄せられている。治療室で自分が投げた言葉が、彼女の中に残っていることをリュウガは知っていた。なぜ使わない、などと言った。あれは問いであり、八つ当たりでもあった。もしその言葉が彼女を余計な場所へ押したのなら、今ここで気にしているだけでは済まない。
けれど、その悔いを扱う時間はまだ与えられていなかった。
今は目の前だ。
自分がここで崩れても、誰も助からない。
係員が名を呼ぶ。
リュウガは会場へ出た。
対戦相手は、東部領南方地区の代表だった。槍を使う。背が高く、間合いも長い。桐子の槍とは違う、正統な武芸としての槍だ。リュウガは長剣を構え、相手の穂先を見た。
開始の合図と同時に槍が来た。速く、深い。だが癖は読みやすい。相手は基礎が固い分、崩れた状況に弱い。リュウガは二度受け、三度目で剣を絡め、踏み込みを横へずらした。槍の柄を蹴り上げ、懐へ入る。
相手は離れようとする。
リュウガは逃がさない。
短剣を抜き、柄頭で相手の肩を打つ。結界が薄く光る。槍が落ちる前に、相手は降参を告げた。
勝利の声が響く。
リュウガは息を整え、相手へ礼をした。
その時だった。
会場の奥、来賓席に近い通路が騒がしくなった。
係員が何かを確認している。通常の進行ではない。出場者の追加、あるいは代理。そんな言葉が断片的に聞こえた。武闘部門の途中で予定が変わることはほとんどない。まして、次期領主決定戦の本戦であればなおさらだ。
観客席の熱が、不安へ変わっていく。祭りを見る者のざわめきではない。規則が曲がる瞬間を目撃した者の、判断を待つ沈黙に近かった。東部領は武を尊ぶが、同時に手続きを重んじる。力だけで代表を選ばないからこそ、決定戦は決定戦として成立している。
伯耀が立ち上がった。
彼は周囲へ穏やかに笑いかけ、進行役へ何かの書面を渡す。公的な手続きとして整えられているのだろう。進行役は困惑しながらも、完全には拒めない顔をしていた。
その顔を見て、リュウガは伯耀の仕込みの深さを知った。乱入ではない。暴力で会場を破るのでもない。規則の隙間に書類を差し込み、東部領が大事にしてきた手続きそのもので、異常を中へ入れようとしている。拒めば、進行役が規則を曲げたことになる。受け入れれば、会場は異常を合法として見届けることになる。
サニーが通路の壁から離れた。
アイギスも観客席で姿勢を変える。
リュウガの背筋に、冷たいものが走った。
伯耀は会場へ向けて声を張った。
「諸君、少しばかり予定を改めさせてもらうよ」
僕、と言った。
公的な場であるにもかかわらず、妙に親しげな一人称だった。
「東部領の代表を選ぶ場であるならば、血筋、武、覚悟、そのすべてを問うべきだろう。私としても、手続きは尊重する。だから、きちんと資格のある者を連れてきた」
僕と私が揺れる。
その揺れが、リュウガにはひどく気持ち悪かった。
通路の奥から、人影が出てくる。
黒い。
ただの黒衣ではない。皮膚そのものが、光を吸うような黒に染まっている。西部領で報告されたルシアンの黒化。リリーの報告にあった不滅の魔石由来の変質。その資料が、リュウガの頭をよぎる。
だが、目の前のそれは、資料よりずっと悪い。
理性を失って暴れる魔獣ではない。
歩き方がある。
姿勢がある。
武人としての重心がある。
黒い化け物は、ゆっくりと会場中央へ進んだ。
観客席が静まり返る。
誰かが悲鳴を飲み込んだ。
リュウガは、顔を見た。
息が止まる。
赤銅の髪は黒く変色し、肌も闇に沈んでいる。それでも、輪郭は残っていた。目元、顎、肩の形、立ち方。幼い頃から見上げてきた背中。自分より優秀で、自分より先に東部領を背負うはずだった人。
東雲龍真。
兄の顔だった。
リュウガの指から力が抜けかける。
剣を落とすな、とリュウガは自分に命じた。ここで落とせば、兄の顔をした何かに、最初の一手さえ奪われる。
伯耀が笑った。
「どうしたんだい、リュウガ。君なら分かるだろう。この方は東雲龍真。東部領の血を引き、武を備え、代表戦へ立つ資格を持つ者だ」
「兄は死んだ」
声が出た。
自分の声とは思えないほど低かった。
「そうだね。死んでいる」
伯耀は軽く頷いた。
「だからこそ、余計な野心も迷いもない。素体としては極めて優秀だ。不滅の魔石は、死を終わりにしない。素晴らしいと思わないかい」
観客席がどよめく。死体、素体、不滅の魔石。言葉の一つ一つが、リュウガの中で形を持つ前に刺さった。伯耀は兄の死体を、代表戦の場で、東部領の人々の前に引きずり出したのだ。
リュウガの視界が狭くなる。
黒い龍真が、こちらを見た。
兄の目ではない。だが、体の奥に染みついた動きだけは残っている。構えを取る前の、肩の沈み方。踏み出す時の重心。リュウガが何度も真似しようとして、届かなかった動き。
それが、今は黒い化け物として目の前にある。
「リュウガ!」
アイギスの声が飛んだ。
同時に、盾が割り込む。
黒い龍真の踏み込みは、いつ始まったのか見えなかった。気づいた時には距離が消え、黒い拳がリュウガの胸元へ届こうとしていた。アイギスの盾が間に入り、鈍い音を立てて弾かれる。
衝撃でリュウガの身体が後ろへ滑った。
アイギスが観客席側から身を乗り出し、盾を追加で展開する。参加資格はない。だが、今はもう通常の試合ではない。
サニーが通路から会場へ踏み出した。
まだ銀の光は抜いていない。抜けば終わる。だが、終わらせる前に、リュウガが見るべきものがあると判断しているのかもしれない。
リュウガは震える手で剣を握り直した。
怒りも吐き気もあり、足元が崩れるような感覚もある。だが、兄の身体は動いている。誰かが止めなければならないのなら、それは自分だと分かっていた。
リュウガは一歩前へ出た。
目の前の黒い化け物は、兄ではない。
それでも、兄の身体だ。
「龍真兄上」
呼んでも返事はない。
リュウガは剣を構えた。
「俺が止める」
その言葉を言った瞬間、胸の奥で何かが裂けた。
けれど、足は止まらなかった。




