第58話
クロエは行政棟から訓練場へ向かう途中で、胸の奥が妙に騒ぐのを感じた。
理由はない。
少なくとも、言葉にできる理由はなかった。実務見学を終えた桐子が、午後は訓練場を使うと聞いている。城内の屋外訓練場は安全確認済みで、修復区画からも離れている。危険な魔導具は置かれていないし、桐子が一人でできる範囲の訓練なら、問題はないはずだった。
問題はないはず。
そう思った時点で、クロエは足を速めていた。
石廊下を抜ける。窓の外から潮風が入る。遠くで修復作業の音がし、使用人が慌てて道を譲った。クロエは礼を言う余裕もなく、訓練場へ続く扉を開ける。
最初に見えたのは、地面に落ちた槍だった。
武具創造で作られた桐子の槍。
それが歪んだまま、まだ消えずに石畳の上へ転がっている。
次に見えた赤い点が、ただの汚れではなく血だと分かった瞬間、クロエは桐子が倒れていることを理解した。
クロエの足が、一瞬だけ止まった。
理解が追いつかない。敵はいない。争った跡もない。結界の破損も、魔導具の暴走も見えない。ただ、桐子が地面に横たわり、口元と手を赤く濡らしている。
「桐子!」
声が出た。
クロエは駆け寄り、膝をつく。
桐子の呼吸はある。だが浅い。喉に血が絡み、胸が不自然に上下している。触れた手首は熱いのに、指先は冷え始めていた。
「聞こえる? 桐子、返事をなさい」
返事はない。
クロエは桐子の肩を動かしかけて、手を止めた。何が起きたのか分からない以上、下手に動かせば悪化する可能性がある。魔法治療を呼び、ローザを呼び、必要ならサニーへ連絡する。順番を間違えてはいけない。
クロエは近くにいた兵へ振り返った。
「母様を。今すぐ。治療担当も連れてきなさい」
「は、はい!」
「急ぎなさい」
兵が走る。
クロエは桐子へ視線を戻した。
血を拭う。口元を塞がないよう、布を当てる。呼吸の邪魔にならない姿勢へ少しだけ整える。自分の手が震えていることに気づき、クロエは唇を噛んだ。
落ち着け、とクロエは自分に命じた。自分は領主で、同時に桐子の友人だ。ここで取り乱して何になる。
そう言い聞かせても、視界の端が冷たくなる。
桐子は強く、無茶をして、傷を負っても立つ。西部領の城で、魔法を封じられた状態でも戦い、ルシアンを止めた。クロエはその背中を見た。自分が守られる側へ回った時、桐子に願いを託した。
その桐子が、何もない訓練場で倒れている。
それが怖かった。
ローザが到着したのは、数分後だった。
普段の軽さはない。後ろには治療担当が二人いる。
「クロエ」
「訓練場に来たら倒れていました。敵影なし。魔導具の異常も見えません。口から出血、呼吸が浅い。武具創造の槍が消えずに残っていました」
クロエはできるだけ情報だけを並べた。
感情を混ぜると、声が崩れそうだった。
ローザは一瞬だけ桐子の顔を見て、すぐに治療担当へ指示を出す。
「魔力循環を見て。内臓損傷の確認。出血止めを先に」
治療担当が頷き、魔法を展開した。
淡い光が桐子の身体を包む。
包むはずだった。
光が、弾かれるように乱れた。
治療担当の一人が息を呑む。
「魔法が入りません」
「もう一度」
「はい」
再度、魔法が組まれる。
結果は同じだった。
桐子の身体の表面で、治療魔法が薄くほどける。アンチ・マジックとは違う。魔術式そのものが妨害されているというより、桐子の内側で暴れている何かが、外から入る魔法を受け付けない。
ローザの表情が変わった。
クロエはその変化を見逃さなかった。
「お母様」
「サニーに連絡する」
「そんなに悪いの?」
聞いた瞬間、自分の声が幼くなったことにクロエは気づいた。
ローザはすぐに答えなかった。
それが答えだった。
母の沈黙を、クロエは昔からよく知っている。軽口で場を回す人が、笑わずに黙る時は、本当に悪いものを見ている時だ。十一年ぶりに戻ってきた母が、今また目の前で誰かを失うかもしれない顔をしている。その事実が、クロエの喉を締めつけた。
クロエは桐子の手を握った。強く握りすぎないように気をつける。血で滑る。手首には、以前自分が牙を立てた場所がある。あの時の桐子は、吸血鬼にならないことだけ確認して、あっさりと手を差し出した。
痛みに強い人だと思った。
距離を縮めるための小さな痛みを、受け入れられる人だと思った。
それが今、目の前で血を吐いている。
血を味わった時、クロエはそこに妙な強さを感じた。魔力の質だけではない。体温、鼓動、恐れを押し殺してでも相手へ踏み込む気配。桐子の血は、本人と同じように真っ直ぐで、扱いづらく、妙に忘れがたいものだった。今その血が、生命を支えるためではなく、身体の内側から押し出されている。
ローザが通信魔導具を起動する。
数拍の後、サニーの声が聞こえた。
「何」
「桐子が倒れた。魔法治療が入らない。吐血、意識なし。訓練場で発見。外傷は目立たないけど、内側で何かが暴れている」
短い沈黙があった。
「……気に触ったわね」
クロエは顔を上げた。
気。
リュウガが倒れた原因。桐子が触れることを禁じられていたもの。
桐子が何をしたのか、クロエには分からない。けれど、サニーの声で、事態がただの訓練事故ではないことは分かった。
「サニー、来られる?」
ローザが聞く。
「東部領。すぐには無理。こっちも変な匂いがしてる」
「じゃあ誰を」
「リリーに繋ぐ。黒峰側にいるはず。理沙は今、動かせない。徹心を連れて行かせる」
徹心。
クロエには詳しいことは分からない。ただ、黒峰という言葉だけで、桐子の故郷側の誰かだと察した。
「桐子の出自は伏せる」
サニーの声が続く。
「説明は、気と魔力の両方を扱える人間が、魔法治療を受け付けない状態で倒れている、でいい。ローザ、持たせられる?」
「持たせる」
「クロエ」
急に名を呼ばれ、クロエは息を止めた。
「聞こえてる?」
「……聞こえているわ」
「桐子を動かしすぎない。呼吸を確保。血を詰まらせない。治療魔法は無理に入れない。あの馬鹿は、自分の内側で自分を殴ってる状態に近い」
「分かった」
分かったと言った。
分かるわけがなかった。
それでも、今は返事をするしかない。
通信が切れる。
ローザはすぐに使用人へ指示を出し、医療室ではなく、訓練場に臨時の処置区画を作らせた。移動の負荷を避けるためだ。治療担当は魔法を抑え、呼吸と出血管理に徹する。
クロエは桐子の手を握ったまま、邪魔にならない位置へ身をずらした。
「桐子」
声をかけても、桐子からの反応はない。
「勝手に倒れて、勝手に死ぬなんて許さないわ」
言葉が震えた。
命令形にしなければ、泣きそうだった。
桐子の指が動いた気がした。実際には、痙攣かもしれない。けれどクロエは、その小さな動きを逃がさないように手を包む。
血の匂いが濃い。
吸血鬼であるクロエにとって、血はただの恐怖ではない。情報であり、相性であり、力であり、時には親愛の証でもある。だが今、桐子の血の匂いは美味などという言葉から最も遠い場所にあった。
壊れかけている匂いがする。
クロエは唇を噛み、視線を逸らさなかった。
リリーでも、黒峰でも、誰でもいいから間に合ってほしい。その願いだけが、胸の中で何度も繰り返された。




