第57話
古都子は店の奥で、閉じた扉の向こうに残る足音を聞いていた。
リュウガは入ってこなかった。
当然だと思う。
彼には、入ってこない理由がある。古都子にも、呼び止める資格がない。占い師KOTOKOとしてなら、予約客を呼び、悩みを聞き、曖昧な未来をやわらかく整えて差し出すことができる。だが、東雲龍真の婚約者になるはずだった古都子として、リュウガを呼ぶことはできなかった。
店内には香が薄く漂っている。
卓の上には占いに使う札、水晶、狐火を封じた小さな灯り。どれも表向きの道具だ。古都子の一族に伝わる占術は、札や水晶そのものより、そこから先を読む者の目に重きを置く。けれど客は、何もない場所で未来を告げられるより、何かを挟んだ方が安心する。
未来など、安心のために見るものではないのに。
それでも、KOTOKOの名で語る未来は柔らかく加工できる。今日は旅に向いています、契約は急がない方が良いでしょう、想いを伝えるなら夕暮れを待ちなさい。そんな言葉なら、人は少し笑って帰れる。
古都子は自分の袖を見下ろした。
白と黒が半分ずつに分かれた衣。
婚姻の白。
喪の黒。
誰かに説明したことはない。説明する必要もない。だが、毎朝これを選ぶたびに、古都子は自分がどこにも進めていないことを思い知らされる。
龍真が死んだ日から、ずっと。
奥の棚に置いた予約帳が小さく揺れた。狐火の灯りが、風もないのに細く伸びる。未来が近い。
古都子が尻尾を一本増やすと、視界が細かく割れた。店の扉が開く未来、開かない未来、リュウガが怒鳴り込んでくる未来、サニーが店ごと引きずり出す未来、伯耀が先に動く未来。どれも薄い線になって重なり、目を凝らせば凝らすほど、意味のあるものと意味のないものが混ざっていく。
一族に伝わる占術は万能ではない。
見える範囲には偏りがあり、見た未来を避けようとした結果、別の破滅へ近づくこともある。古都子はそれを知っている。知っていてなお、見ないという選択肢を取れなかった。
かつて、魔界の滅びを見た。
空が裂ける未来だった。
旧王都の黒い魔獣が外へ流れ出すのとも違う。北も西も東も、境界が意味をなくし、人が生きるための場所が少しずつ削られていく。誰が死ぬ、どこが燃える、という単純な未来ではない。もっと大きく、もっと遅く、逃げ場そのものがなくなっていく未来。
それを古都子は見た。
見てしまった。
見た以上、黙っていることはできなかった。
母の命と引き換えに生まれた忌子として、古都子は幼い頃から未来を見る意味を教え込まれてきた。東部領で忌子は遠ざけられる。それでも、必要な時だけは頼られる。都合の悪い未来を告げれば疎まれ、都合の良い結果だけを求められる。そういう扱いに慣れていたはずなのに、魔界の滅びだけは、誰かの都合に合わせて黙れる規模ではなかった。
最初に話したのは龍真だった。
彼は驚かなかった。古都子が忌子として忌避される理由も、未来を見る重さも、分かっている人だった。だから、古都子が震える声で滅びの話をした時も、馬鹿にせず、慰めもせず、最後まで聞いた。
「それを避ける手はあるのか」
龍真はそう聞いた。
古都子は答えたくなかった。
いくつもの枝分かれの中で、一本だけ、滅びが遠ざかる線があった。だが、その線には龍真の死があった。襲撃。流血。リュウガへ向けられた刃。弟を庇って倒れる兄。表向きには不幸な事件として処理できる形の、計画された犠牲。
古都子が提示した。
提示してしまった。
龍真は長く黙っていた。
その沈黙の間、古都子は何度も、今の言葉をなかったことにしてほしいと思った。占術が外れることもある。別の手が見つかるかもしれない。あなたが死ぬ必要はない。そう言えばよかった。
言えなかった。
なぜなら、古都子は見えていた。
龍真が生き残る未来の多くで、リュウガが死ぬ。
リュウガが生き残っても、東部領が内側から割れる。
東部領が保っても、魔界全体の滅びが近づく。
完全な正解はなかった。
ただ、最も遠くまで次を残せる線に、龍真の死があった。
「なら、俺が選ぶ」
龍真は静かに言った。
古都子は顔を上げた。
「あなたが選ぶことではありません」
「俺の命を使う話だ。俺が選ばずに誰が選ぶ」
「リュウガ様は」
「あいつには言うな」
その声に、初めて命令の重さが混じった。
「あいつは背負おうとする。背負わなくていいものまで、自分の責任にする。だから、俺が選んだことにするな。事故でいい。襲撃でいい。俺が間に合わなかったことにすればいい」
「それでは、リュウガ様は自分を責めます」
「生きていれば、いつか間違いを直せる」
龍真はそう言った。
古都子はその言葉を、今でも許せない。
生きていれば直せるものもある。けれど、死んだ者は戻らない。残された者が自分を責め続ける時間は、誰かが綺麗に整理できるものではない。
それでも龍真は選んだ。
古都子は止められなかった。
襲撃は、成功した。
表向きには。
龍真は死に、リュウガは生き残り、東部領は揺れながらも崩れなかった。魔界の滅びは遠ざかった。少なくとも、古都子が見た最悪の未来はその場では消えた。
代わりに、リュウガの中へ別の傷が残った。
兄の死は自分のせいだという傷。
古都子の中にも、同じ傷がある。
龍真を犠牲にする選択を提示した自分。
彼の決断を止めなかった自分。
そして、その死さえ今、伯耀に踏みにじられようとしている。
古都子は尻尾をもう一本増やした。
視界の奥で、黒い影が動く。武闘会場の歓声、伯耀の笑み、黒く変質した身体、龍真の顔、リュウガが凍りつく瞬間、アイギスの盾が走る線、サニーの銀の光がまだ抜かれない未来。それらが短い断片として重なり、どれが避けられる未来で、どれがすでに近づきすぎた未来なのか、境目が曖昧になっていく。
古都子は唇を噛んだ。
伯耀は不滅の魔石を手に入れた。誰が渡したのか、古都子には薄く見えている。だが今、それを追及する余裕はない。伯耀は龍真の遺体を利用する。代表戦の中で。政治工作として。リュウガの心を折るために。
伯耀は、いつも古都子の占術を便利な道具のように扱った。見えるなら勝てるだろう、見えるなら避けられるだろう、見えるなら支配できるだろう。古都子がどれだけ否定しても、彼は未来を選択の重みとしてではなく、他者を動かすための地図として見ていた。
人の命を駒として扱う。
それだけは、古都子にも怒る資格がある。
たとえ、自分がかつて似た場所に立っていたとしても。
店の奥で、予約時間を知らせる鈴が鳴った。
次の客が来る。
古都子は尻尾を戻し、衣の乱れを整えた。占い師KOTOKOとしての顔を作る。今日も誰かの恋や商売や旅の吉凶を聞く。そうして表の顔を保ちながら、裏で伯耀を引きずり出す機会を待つ。
扉が開く前に、古都子は小さく息を吐いた。
「龍真様」
声は誰にも届かない。
「もう一度だけ、あなたの選択を使わせていただきます」
許してほしいとは言わない。
許されたいわけではない。
ただ、今度こそ、リュウガへ真実を渡さなければならない。
扉が開いた。
古都子は柔らかく微笑む。
「ようこそ、KOTOKOの占いへ」
その声だけは、少しも震えていなかった。




