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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第2章:東の死と不死と未来
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第56話

 桐子はシュヴァリエ城の屋外訓練場で、槍の穂先が夏の光を受けるのを見ていた。

 西部領の中心部は天候が不安定だが、この日は珍しく雲が薄かった。崖の向こうには海があり、潮の匂いが風に混じっている。城の石壁には事件の名残がまだ残っていたが、壊れた場所の多くには足場が組まれ、修復の音が遠くから聞こえていた。

 死んだ場所ではない。

 直している場所だ。

 桐子はそう思うようになっていた。

 午前中はクロエの実務見学だった。行政棟で書類を見せられ、領主代行のローザが担当者へ指示を出し、クロエがそれを確認する。桐子は横で説明を聞きながら、数字と項目の多さに少しだけ目を回した。

 書類仕事は向いていない。

 はっきり分かる。

 ただ、書類の後ろに人がいることは分かった。修復費、補償、旧使用人の再雇用、港の倉庫、葡萄畑、医療費。数字で並ぶものの向こうに、西部領で見た街や畑や港がある。

 だから、午後に訓練場へ出た時、桐子は少しだけ息がしやすくなった。

 身体を動かす方が分かりやすい。

 槍を出す。

 以前より安定している。柄の重心はまだ完全ではないが、投げても、突いても、受けても、武器として使える形になった。アトラトルと予備短槍も持っている。魔法も、黒峰流の身体も、ようやく一つの戦い方へまとまり始めている。

 まとまり始めたからこそ、欠けているものが気になる。

 気。

 サニーに禁じられたもの。

 リュウガが失敗して倒れたもの。

 黒峰流の奥にあり、桐子の身体に染みついたまま、魔界に来てから封じていたもの。

 桐子は槍を消し、深く息を吸った。

 黒峰流の呼吸へ寄せない。ただの深呼吸。サニーに言われた通り、そこまでは守っている。

 守っている、という言い方がすでに怪しい。

 桐子は自分でも分かっていた。

 訓練場にはほかにも兵がいる。クロエは行政棟へ戻っているが、城内の人の目は完全には消えない。隠れて悪事をする場所としては向いていない。だからこそ、逆にここを選んだ。通常の自主訓練の延長なら、誰かに見られてもおかしくない。

 木を隠すなら森の中。

 そう考えている時点で、だいぶよくない。

 桐子は苦笑しかけ、すぐに表情を消した。

 ふざけている場合ではない。

 自分が考えていることは、禁止を破るための理屈だ。サニーが聞けば怒る。アイギスなら黙って見つめてくる。クロエならたぶん、怒った後でローザを呼ぶ。

 それでも、桐子は知りたかった。

 自分の身体で何が起きているのか。

 真希を刺した時、銀の槍はなぜ出たのか。

 魔力と気は、どうしてぶつかるのか。

 リュウガは、魔力を取り入れる量を極限まで減らして、扱うエネルギーを切り替えようとした。失敗した。桐子の身体は、もともと魔力を持っている。魔界の空気には魔力が満ちていて、呼吸しているだけで身体の内外を魔力が行き来する。

 なら、完全に遮断するのは無理だ。

 逆に、流れを止めない方がいいのではないか。

 外から入った魔力が身体を通り、また外へ出る。その流れを、気で押し返すのではなく、後押しする。ぶつけるのではなく、同じ方向へ流す。

 桐子はその仮説を、何度も紙に書いた。

 危険だと分かっている。

 だが、何もしなければ分からないままだ。

 サニーに相談すれば、たぶん止められる。リリーに相談すれば観測計画になる。クロエに言えばローザへ伝わり、アイギスに言えば一時間くらい黙って見つめられる。どれも正しい。正しいからこそ、桐子はその正しさを今は避けていた。自分の身体の中で起きることを、まず自分で確かめたかった。

 桐子は槍を出し直した。いつもの魔力の流れを確認する。固有魔法が起動し、武具創造が形を取る。身体の内側を通る魔力は、冷たい水のようにも、細い糸のようにも感じられる。

 その奥。

 筋肉の深いところ。

 黒峰流の踏み込みで使ってきた、別の熱がある。

 桐子は呼吸を変えないまま、そこへ意識を向けた。

 訓練場の音が少し遠くなる。潮風、修復の槌音、誰かの足音、槍の重さ、掌の汗。全部ある。全部あるまま、桐子の意識だけが奥へ沈んでいく。

 気を動かす、という感覚はまだ掴めない。けれど、黒峰流の身体は覚えている。真希と打ち合った時、踏み込む直前に腹の底が固まる感じ。徹心に何度も直された、力の通る位置。骨ではなく、筋肉でもなく、もっと奥を通す感覚。

 それを、魔力の流れと同じ方向へ。

 桐子は一歩踏み込んだ。

 槍を突く。

 その瞬間、体内で何かが噛み合った。

 ほんの一瞬だけ、槍の穂先が軽くなった。腕からではなく、足裏から、腹から、背中を通って力が抜ける。魔力の流れに気が触れ、反発せず、同じ方向へ滑ったように思えた。

 いける。

 そう思った。

 次の瞬間、腹の奥で音がした。

 実際に聞こえたわけではない。

 だが、桐子には何かが裂ける感覚として分かった。

 魔力が逆流する。

 気がそれを押す。

 同じ方向へ流したつもりだったものが、体内の狭い場所で向かい合い、互いを潰すように膨れ上がった。喉が焼け、視界が白くなる。

 桐子は槍を手放した。

 槍は消えない。

 消えないまま歪み、足元へ落ちた。

 おかしい。

 魔法を止めれば消えるはずなのに。

 そう思った時には、膝が折れていた。

 息が吸えない。

 胸ではなく、腹の奥が固まっている。外へ出ようとする魔力と、内側から押し上げる気が、身体の中心を挟んで潰し合っている。痛みは熱い。刃物で切られる痛みではなく、内側から肉をほどかれるような痛みだった。

 桐子は口を押さえた。

 間に合わない。

 血が指の間からこぼれた。

 地面に赤い点が落ちる。次の呼吸で、さらに多く出た。胃の中のものではない。もっと奥から、無理やり押し出されるような血だった。

 まずい。

 その言葉だけが浮かぶ。

 サニーの顔が頭をよぎった。怒るだろう。怒る前に、きっと助けようとする。クロエの顔も浮かぶ。アイギスなら、静かに怒る。リュウガなら、自分のせいだと思うかもしれない。

 思考がばらばらになる。

 桐子は立とうとした。

 立てなかった。

 体内の衝突が、足まで命令を届かせない。指先が痺れ、耳鳴りが強くなる。訓練場の音が遠くなり、代わりに自分の心臓の音だけが大きく聞こえた。

 誰かを呼ばなければ。

 声は出ず、桐子は地面を掴んだ。爪の間に砂が入り、身体を横へ転がそうとしたところで、また血を吐いた。

 自分がやった。

 また、制御できなかった。

 その認識が、痛みより先に来た。

 誰かを傷つけていないだけましだ、とは思えなかった。自分を壊せば、結局は周りを巻き込む。助けようとする人間が来る。心配する人間がいる。分かっていたはずなのに、桐子は一人で踏み込んだ。

 真希を刺した時と同じだ。違う。今回は誰かに向けたわけではない。けれど、自分の中で扱えない力を動かして、壊した。壊した対象が自分だっただけだ。

 視界の端に、訓練場の石畳が映る。

 その向こうで、誰かが駆け出す音がした。

 金の髪が揺れたように見えた。

 クロエ。

 桐子は名前を呼ぼうとした。

 血が喉に絡み、声にならない。

 最後に見えたのは、青い空ではなく、こちらへ伸びる白い手だった。

 その手に届く前に、桐子の意識は暗く沈んだ。


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