第56話
桐子はシュヴァリエ城の屋外訓練場で、槍の穂先が夏の光を受けるのを見ていた。
西部領の中心部は天候が不安定だが、この日は珍しく雲が薄かった。崖の向こうには海があり、潮の匂いが風に混じっている。城の石壁には事件の名残がまだ残っていたが、壊れた場所の多くには足場が組まれ、修復の音が遠くから聞こえていた。
死んだ場所ではない。
直している場所だ。
桐子はそう思うようになっていた。
午前中はクロエの実務見学だった。行政棟で書類を見せられ、領主代行のローザが担当者へ指示を出し、クロエがそれを確認する。桐子は横で説明を聞きながら、数字と項目の多さに少しだけ目を回した。
書類仕事は向いていない。
はっきり分かる。
ただ、書類の後ろに人がいることは分かった。修復費、補償、旧使用人の再雇用、港の倉庫、葡萄畑、医療費。数字で並ぶものの向こうに、西部領で見た街や畑や港がある。
だから、午後に訓練場へ出た時、桐子は少しだけ息がしやすくなった。
身体を動かす方が分かりやすい。
槍を出す。
以前より安定している。柄の重心はまだ完全ではないが、投げても、突いても、受けても、武器として使える形になった。アトラトルと予備短槍も持っている。魔法も、黒峰流の身体も、ようやく一つの戦い方へまとまり始めている。
まとまり始めたからこそ、欠けているものが気になる。
気。
サニーに禁じられたもの。
リュウガが失敗して倒れたもの。
黒峰流の奥にあり、桐子の身体に染みついたまま、魔界に来てから封じていたもの。
桐子は槍を消し、深く息を吸った。
黒峰流の呼吸へ寄せない。ただの深呼吸。サニーに言われた通り、そこまでは守っている。
守っている、という言い方がすでに怪しい。
桐子は自分でも分かっていた。
訓練場にはほかにも兵がいる。クロエは行政棟へ戻っているが、城内の人の目は完全には消えない。隠れて悪事をする場所としては向いていない。だからこそ、逆にここを選んだ。通常の自主訓練の延長なら、誰かに見られてもおかしくない。
木を隠すなら森の中。
そう考えている時点で、だいぶよくない。
桐子は苦笑しかけ、すぐに表情を消した。
ふざけている場合ではない。
自分が考えていることは、禁止を破るための理屈だ。サニーが聞けば怒る。アイギスなら黙って見つめてくる。クロエならたぶん、怒った後でローザを呼ぶ。
それでも、桐子は知りたかった。
自分の身体で何が起きているのか。
真希を刺した時、銀の槍はなぜ出たのか。
魔力と気は、どうしてぶつかるのか。
リュウガは、魔力を取り入れる量を極限まで減らして、扱うエネルギーを切り替えようとした。失敗した。桐子の身体は、もともと魔力を持っている。魔界の空気には魔力が満ちていて、呼吸しているだけで身体の内外を魔力が行き来する。
なら、完全に遮断するのは無理だ。
逆に、流れを止めない方がいいのではないか。
外から入った魔力が身体を通り、また外へ出る。その流れを、気で押し返すのではなく、後押しする。ぶつけるのではなく、同じ方向へ流す。
桐子はその仮説を、何度も紙に書いた。
危険だと分かっている。
だが、何もしなければ分からないままだ。
サニーに相談すれば、たぶん止められる。リリーに相談すれば観測計画になる。クロエに言えばローザへ伝わり、アイギスに言えば一時間くらい黙って見つめられる。どれも正しい。正しいからこそ、桐子はその正しさを今は避けていた。自分の身体の中で起きることを、まず自分で確かめたかった。
桐子は槍を出し直した。いつもの魔力の流れを確認する。固有魔法が起動し、武具創造が形を取る。身体の内側を通る魔力は、冷たい水のようにも、細い糸のようにも感じられる。
その奥。
筋肉の深いところ。
黒峰流の踏み込みで使ってきた、別の熱がある。
桐子は呼吸を変えないまま、そこへ意識を向けた。
訓練場の音が少し遠くなる。潮風、修復の槌音、誰かの足音、槍の重さ、掌の汗。全部ある。全部あるまま、桐子の意識だけが奥へ沈んでいく。
気を動かす、という感覚はまだ掴めない。けれど、黒峰流の身体は覚えている。真希と打ち合った時、踏み込む直前に腹の底が固まる感じ。徹心に何度も直された、力の通る位置。骨ではなく、筋肉でもなく、もっと奥を通す感覚。
それを、魔力の流れと同じ方向へ。
桐子は一歩踏み込んだ。
槍を突く。
その瞬間、体内で何かが噛み合った。
ほんの一瞬だけ、槍の穂先が軽くなった。腕からではなく、足裏から、腹から、背中を通って力が抜ける。魔力の流れに気が触れ、反発せず、同じ方向へ滑ったように思えた。
いける。
そう思った。
次の瞬間、腹の奥で音がした。
実際に聞こえたわけではない。
だが、桐子には何かが裂ける感覚として分かった。
魔力が逆流する。
気がそれを押す。
同じ方向へ流したつもりだったものが、体内の狭い場所で向かい合い、互いを潰すように膨れ上がった。喉が焼け、視界が白くなる。
桐子は槍を手放した。
槍は消えない。
消えないまま歪み、足元へ落ちた。
おかしい。
魔法を止めれば消えるはずなのに。
そう思った時には、膝が折れていた。
息が吸えない。
胸ではなく、腹の奥が固まっている。外へ出ようとする魔力と、内側から押し上げる気が、身体の中心を挟んで潰し合っている。痛みは熱い。刃物で切られる痛みではなく、内側から肉をほどかれるような痛みだった。
桐子は口を押さえた。
間に合わない。
血が指の間からこぼれた。
地面に赤い点が落ちる。次の呼吸で、さらに多く出た。胃の中のものではない。もっと奥から、無理やり押し出されるような血だった。
まずい。
その言葉だけが浮かぶ。
サニーの顔が頭をよぎった。怒るだろう。怒る前に、きっと助けようとする。クロエの顔も浮かぶ。アイギスなら、静かに怒る。リュウガなら、自分のせいだと思うかもしれない。
思考がばらばらになる。
桐子は立とうとした。
立てなかった。
体内の衝突が、足まで命令を届かせない。指先が痺れ、耳鳴りが強くなる。訓練場の音が遠くなり、代わりに自分の心臓の音だけが大きく聞こえた。
誰かを呼ばなければ。
声は出ず、桐子は地面を掴んだ。爪の間に砂が入り、身体を横へ転がそうとしたところで、また血を吐いた。
自分がやった。
また、制御できなかった。
その認識が、痛みより先に来た。
誰かを傷つけていないだけましだ、とは思えなかった。自分を壊せば、結局は周りを巻き込む。助けようとする人間が来る。心配する人間がいる。分かっていたはずなのに、桐子は一人で踏み込んだ。
真希を刺した時と同じだ。違う。今回は誰かに向けたわけではない。けれど、自分の中で扱えない力を動かして、壊した。壊した対象が自分だっただけだ。
視界の端に、訓練場の石畳が映る。
その向こうで、誰かが駆け出す音がした。
金の髪が揺れたように見えた。
クロエ。
桐子は名前を呼ぼうとした。
血が喉に絡み、声にならない。
最後に見えたのは、青い空ではなく、こちらへ伸びる白い手だった。
その手に届く前に、桐子の意識は暗く沈んだ。




