第55話
リュウガは武闘会場の控え区画で、自分の名前が書かれた札を見下ろしていた。
次期領主決定戦。
その名だけを聞けば、武闘大会で一番強い者を選ぶ行事のように思われがちだが、実際にはもっと面倒で、もっと東部領らしい。出身地と素行の調査、行政運営能力を測る筆記、東部領の歴史や地理への理解、各地区の推薦状、そして直接的な戦闘能力を示す武闘部門。すべてを合わせて、次代の候補が評価される。
武だけでは足りない。
だが、武がなければ始まらない。
東部領はそういう土地だった。
筆記試験はすでに終わっている。結果はまだ正式には開示されていないが、リュウガは悪くない手応えを持っていた。問題は、そこではない。伯耀側が開始時期を前倒ししたことで、準備の時間が削られた。心の準備だけではない。根回し、身体の調整、対戦相手の情報。すべてが薄くなった。
薄くなった分だけ、焦りが顔を出す。
リュウガは息を吐き、足裏の感覚を確かめた。
奇策に甘えるな。技術に頼るな。戦法に寄りかかるな。
サニーの声が、頭の奥に残っている。
次代を背負って立つつもりなら、まず足腰を鍛えなさい。
面白みのない言葉だった。
だからこそ、今は効いている。
控え区画の外では、観客席がざわめいていた。東部領の領民にとって、決定戦は政治行事であり、祭りであり、武芸を見る場でもある。王都の入所試験ほどの賭博色はないが、誰が勝つか、どの候補が伸びているか、どの家が次に力を持つかという視線は熱い。
リュウガは観客席の一角を見た。
アイギスとサニーがいる。
東部領の領民ではないため、アイギスに参加資格はない。見学者として席にいるだけだ。だが、ただ座って見ているわけではない。彼女は会場の構造、出入口、警備の流れ、候補者の癖まで見ている。盾役の視線だ。
サニーは隣でつまらなさそうにしているが、彼女もまた会場全体から目を離していない。
監督役。
黒い化け物の調査役。
その二つが、今は同じ席にいる。
「リュウガ・シノノメ」
係員が呼んだ。
リュウガは札を返し、会場へ出た。
広い円形の闘技場だった。床は石と木を組み合わせた東部領式で、踏み込みの音がよく響く。四方には結界柱が立ち、致命傷を防ぐための魔術式が薄く光っている。安全は確保されている。だが、痛みも衝撃も消えるわけではない。
対戦相手は、猿系の妖魔の血を引く青年だった。腕が長く、脚も軽い。両手には短い棍を持っている。直接の力比べより、距離をずらして削るタイプだ。
リュウガは長剣と短剣を抜いた。
開始の合図と同時に、相手は横へ跳んだ。速いが、軽い。床を蹴った時に音が散り、空中で体勢を変える癖がある。リュウガは追わずに中央を取った。相手が外周を使うなら、こちらは外へ出る道を潰せばいい。
棍が右から来る。
短剣で受けず、肩を引いて空かす。次に左。長剣で払う。相手は手首を返し、棍の先でリュウガの膝を狙った。
リュウガは半歩だけ下がる。
下がった先に、相手が踏み込む。
そこを待っていた。
長剣を捨てる。
観客席がざわめいた。
リュウガは空いた手で相手の棍を掴み、短剣の柄で相手の肘を打った。棍が落ちる。落ちた棍を足で跳ね上げ、逆手で取る。自分の武器でなくても使える。混戦で叩き込んできた基本だった。
相手が距離を取ろうとする。
リュウガは奪った棍を投げた。相手の肩に当たり、体勢が崩れる。そこへ低く入り、足を払う。倒れた相手の首元へ短剣の刃を寸止めした。
結界が淡く光る。
「勝者、リュウガ・シノノメ」
歓声が上がった。
リュウガは相手へ手を差し出す。青年は悔しそうに笑い、手を取った。
「強くなったな、若様」
「まだだ」
自然に出た言葉だった。
相手は少しだけ目を丸くし、それから頷いた。
控え区画へ戻る途中、リュウガは観客席の別の一角に視線を向けた。
伯耀がいた。
狐耳を持つ男。整った衣をまとい、周囲の者へ穏やかに言葉を返している。公的な場にふさわしい顔をしているが、その笑みは薄い。古都子の叔父。伯耀。表向きは、東部領の有力者の一人としてこの場にいる。
彼はリュウガの視線に気づいた。
口元が動く。
声は届かない。
だが、言葉の形だけは読めた。
よくできました。
子どもを褒めるような口の動きだった。
リュウガは奥歯を噛みかけ、やめた。
怒りに反応するな、とリュウガは自分へ言い聞かせた。ここは会場であり、公的な場だ。伯耀が通常通りに振る舞っているなら、こちらも崩れるわけにはいかない。政治工作とは、相手を乱し、乱れた方を悪者にするものでもある。
控え区画へ戻ると、サニーが壁際に立っていた。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「でも、あの狐を見てから足が荒れた」
リュウガは返事に詰まった。
サニーは本当に見ている。
「すみません」
「謝る相手は私じゃない。次にやるなら、相手に気づかれないように荒れなさい」
「……それは指導として正しいんですか」
「戦場なら正しい」
言い切られた。
リュウガは少しだけ息を吐いた。こういう時、サニーの言葉は妙に救いになる。綺麗事を言わない。怒るな、とも言わない。怒りを持ったまま、使い方を間違えるなと言ってくる。
アイギスも控え区画の入口まで来ていた。
「勝利、おめでとう」
「ああ。だが、まだ一戦だ」
「それでも勝ちは勝ちだ」
淡々とした言葉だったが、そこに温度があった。
リュウガは礼を言おうとして、言葉を選び損ねる。結局、短く頷くだけになった。
アイギスが何かを期待していたわけではないと分かっている。だからこそ、きちんと礼を言えない自分が少し歯がゆかった。彼女は東部領の人間ではない。それでも、ここで起きることを自分の問題として見ようとしている。その姿勢に、リュウガはまだうまく返せない。
その時、会場の奥で別の歓声が上がった。
次の候補者が勝ったらしい。
伯耀側に近い家の若者だった。実力はある。だが、勝ち方が妙に整いすぎていた。相手の癖をあらかじめ知っていたような動き。偶然と言えば偶然で済む範囲だが、リュウガの中に小さな違和感が残る。
サニーも同じ方を見ていた。
「候補者は何人残る?」
「今日は予選の一部です。明日以降、武闘部門の本戦に入ります」
「その間に、黒い化け物とやらも調べたいところね」
「報告では、東部領外縁で数度確認された程度です」
「報告に上がっている時点で、程度で済まないことが多いのよ」
リュウガは否定できなかった。
黒い化け物。
西部領の報告では、不滅の魔石に関わる黒化が出ていた。東部領のものも同じ系統かもしれないと、大人たちは見ている。リュウガ自身はまだ見ていない。だから、頭では危険だと理解していても、実感は薄かった。
伯耀が関わっている。
古都子が何かを知っている。
兄の死と、まだ繋がらない。
繋がってほしくない。
リュウガは自分の手を見た。
さっき奪った棍の感触がまだ残っている。武器を選び、相手の動きに合わせ、勝つために必要な一手を取る。そこまではできた。
だが、東部領の次代として立つなら、相手を倒すだけでは足りない。
何が仕込まれているのか。
誰が傷つくのか。
どこで自分が動くべきなのか。
それを見なければならない。
会場の外では夏の光が強く、幟が風に揺れている。
東部領は祭りの顔をしていた。
その下で、何かが静かに腐り始めている。
リュウガはそう感じた。




