第54話
リュウガは東部領の空気を吸った瞬間、王都で押し込めていたものが胸の奥でほどけるのを感じた。
懐かしさではない。
安堵でもない。
ここは自分の生まれた土地であり、いずれ背負うべき場所だ。帰ってきたという感覚はある。だが同時に、帰ってきてしまったという重さもあった。
駅の屋根は反りの強い瓦で覆われ、柱には龍と狐を象った彫り物が施されている。王都の石造りとは違い、木と朱色と黒鉄が目立つ。線路沿いには東部領式の魔力灯が並び、風鈴に似た小さな魔導具が風に揺れて、細い音を立てていた。
音も匂いも、王都とは違う。
香辛料の混じった湯気、焼いた米粉の匂い、川魚を炙る煙。駅前の通りには和装に近い服を着た者もいれば、裾の長い中華風の衣をまとった者、南方の布を重ねた軽装の者もいる。角、尾、獣耳、鱗。東部領の種族は一つの形に収まらない。
アイギスが隣で周囲を見ていた。
「文化がかなり混ざっているな」
「東部領はそういう土地だ。東の人間界に近い地域の妖魔由来の種が多い。古い時代から混ざって、こうなった」
「武芸が盛んなのも、その影響か」
「それもある。代表に武力が求められるから、強い者を尊ぶ風潮が残っている」
説明しながら、リュウガは自分の言葉が少し硬いことに気づいた。
アイギスは観光客ではない。自分を見ている。東部領を背負うと言いながら焦りで倒れ、サニーに鍛え直されている男が、故郷でどんな顔をするのか見ている。
見られて困るものではない。
そう思いたい。
「まず宿ではないの?」
サニーが背後で言った。彼女は駅の柱に寄りかかるように立ち、荷物を片手で持っている。監督役というより、面倒な出張に来た大人に見える。
「迎えが来ています。そこへ荷物を預けた後、少し街を回る予定です。決定戦前に、東部領の空気を見てもらいたいので」
「それ、観光って言うのよ」
「……監督役への説明も兼ねています」
「はいはい」
サニーは興味なさそうに手を振ったが、目は街路の奥を見ていた。黒い化け物の報告がある以上、ただの観光として歩くつもりはないのだろう。
駅前から伸びる大通りは、緩い坂になっている。遠くには城郭の屋根が見えた。王都の城とは違う。高い石壁で囲むのではなく、複数の門と曲がった通りで敵を迷わせる構造だ。城下町そのものが、防衛と生活を兼ねている。
リュウガは案内役として歩いた。
露店の前を通ると、店主が顔を上げる。
「若様、お帰りなさいませ」
「ああ。世話になる」
何度も言われる。
若様。
その呼び方が、今日は少し重い。
龍真が生きていた頃、自分へ向けられるそれは、弟としての呼び方だった。期待はあったが、中心ではなかった。今は違う。兄がいない。代わりに自分が見られている。
リュウガは露店で蒸した饅頭を三つ買い、アイギスとサニーへ渡した。
「東部領の軽食です。中身は肉と香草」
「ありがとう」
アイギスは素直に受け取る。
サニーは包み紙を見て、少しだけ眉を上げた。
「昔より種類が増えた?」
「来たことが?」
「仕事で何度かね」
それ以上は言わなかった。
サニーがどこで何をしてきたのか、リュウガは詳しく知らない。だが、彼女はいつも、こちらが想像するより多くを知っている。
通りを進むうち、アイギスが一軒の店の前で足を止めた。
店先に掛けられた布看板には、魔界語と飾り文字で「KOTOKO」と書かれている。占いの店にしては、外装が妙に洗練されていた。黒と白の布が揺れ、金色の細い鈴が戸口に吊るされている。予約表らしき札はほとんど埋まっており、店の前には順番待ちの客が数人いた。
「有名なのか」
アイギスが尋ねる。
「……ああ」
リュウガは短く答えた。
喉の奥が少し詰まる。
古都子。
兄の婚約者になるはずだった人。自分が近づいてはいけないと思っている相手。
表向きは占い師KOTOKOとして知られている。東部領では、よく当たる占い師として評判で、その名の方がずっと通りがいい。予約は取りにくく、恋愛相談から商売の見通し、旅の吉凶まで幅広く受ける。本人はあの名を恥ずかしがっていたはずだが、今では店の看板になっている。
サニーが看板を見上げた。
「変な名前」
「本人もそう思っているはずです」
「知り合い?」
リュウガは答えるまでに一拍置いた。
「兄の知人です」
嘘ではない。
だが、正確でもない。
アイギスがこちらを見た。追及はしない。ただ、今の言い方が足りないことには気づいている。
店の戸が開いた。
中から出てきた客が、どこか安心したような顔で頭を下げて去っていく。その奥に、黒い髪が一瞬見えた。白と黒が半分ずつに分かれた和装。金の瞳。狐耳の先が、戸の影でわずかに動く。
古都子だった。
彼女はこちらに気づいた。
目が合う。
リュウガは、咄嗟に礼だけをした。
古都子も静かに頭を下げる。占い師として客へ向ける礼ではなく、昔を知る者へ向ける、少しだけ重い礼だった。
それ以上は近づかない。
近づけなかった。
「挨拶しなくていいのか」
アイギスが聞いた。
「今はいい」
「そうか」
アイギスはそれだけで引いた。
ありがたいと思う反面、情けなくもあった。自分が距離を置いているのは、古都子を責めたいからではない。責める資格がないからだ。兄は自分を庇って死んだ。古都子はその場にいて、何かを知っていた。そう思い続けているのに、何も聞けずにいる。
聞いたら、兄の死に向き合わなければならない。
自分が兄を死なせたという言葉から、逃げられなくなる。
サニーが饅頭を食べ終え、包み紙を丸めた。
「で、次は?」
「武闘会場の下見です。決定戦の武闘部門が行われます」
「観光の次にそれね」
「東部領では、十分観光になります」
「嫌な観光地」
軽い言葉だったが、リュウガは笑えなかった。
武闘会場へ向かう道は、城へ続く道とも重なっている。通りの奥に、代表決定戦の幟が並んでいた。予定より早まった日程。まだ街は平静を装っているが、空気の端には落ち着かない熱がある。
伯耀側の工作。
表向きには何も乱れていない。むしろ整いすぎている。出場者の調整、会場整備、観客席の案内、警備の配置。すべてが通常通り進んでいるからこそ、不自然だった。
リュウガは拳を握りかけ、途中で力を抜いた。
サニーに叩き込まれたことを思い出す。派手な技へ逃げる前に、足腰、呼吸、判断を整えろと言われた。面白みのない基礎ほど、崩れた時に最後まで残る。
焦って倒れるためにここへ来たわけではない。
アイギスが隣へ並ぶ。
「リュウガ」
「何だ」
「ここで見るべきものは、敵だけではないはずだ」
言葉は静かだった。
リュウガは少し遅れて頷く。
「分かっている」
見なければならないものは多い。東部領の街、領民の顔、自分へ向けられる期待、古都子の沈黙、伯耀の気配。そして何より、兄のいない場所で自分がどう立つのかを、リュウガ自身が見届けなければならない。
武闘会場の門が近づく。
その向こうから、訓練用の木剣がぶつかる音が聞こえた。
リュウガは背筋を伸ばした。
逃げるなら、来るべきではなかった。
来た以上、見る。
たとえ、見たくないものが待っているとしても。




