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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第2章:東の死と不死と未来
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第53話

 夏季休暇の初日、桐子は王都駅の広い待合区画で、自分の荷物が思ったより軽いことに気づいた。

 最初に魔界へ来た時、桐子は服さえまともに持っていなかった。サニーの上着を借り、サイズの合わない訓練着を着て、何も知らないまま走らされていた。それから一年が過ぎ、今は自分の訓練着があり、予備短槍があり、手入れの仕方を覚えたアトラトルがある。持ち物は増えたはずなのに、荷物の重さはあまり感じない。

 魔界の空気にも、駅の喧騒にも、魔道列車の低い振動にも慣れたのだと思う。そのことが少し怖かった。慣れるというのは、ここで生きていくためには必要なことだ。けれど同時に、元いた場所から少しずつ遠ざかっているような気もする。

「桐子、こっちの受付は終わったわ」

 クロエが書類を片手に戻ってくる。旅行用の装いでも、彼女はきちんと整っていた。西部領の領主として実務経験を積むための帰省であり、桐子は領主補佐役の体験という名目で同行する。名目、と桐子は心の中で繰り返した。最近の西部領は、桐子の進路を本人より先に決めにかかっている節がある。

「ありがとう。私、何か書くやつあった?」

「今回はないわ。あなたは客人兼、見習い補佐扱い。面倒な手続きはこちらで済ませてあるもの」

「それ、だいぶ巻き込まれてない?」

「今さらね」

 クロエは澄ました顔で言ったが、口元が少しだけ緩んでいた。

 駅の待合区画には、休暇へ向かう養成所の生徒や軍属、各領へ戻る行政官らしき者が混ざっている。去年の桐子なら、誰がどの立場なのかも分からず、ただ人の流れに押されていただろう。今は制服の章や荷札の色で、おおよその行き先くらいは見分けられる。知ってしまえば便利だが、知らなかった頃の自分が少しだけ遠くなる。

 桐子は文句を言おうとして、結局やめた。嫌ではない。西部領へ行くこと自体は、自分で選んだ。クロエの領地をもう一度見たいと思ったし、事件の跡ではなく、直そうとしている場所として覚え直したいとも思っている。

 ただ、望まれていることと、自分の行き先が決められていくことは似ていて、少し違う。

 その違いをうまく言葉にできないまま、桐子は駅の奥へ視線を向けた。

 別の乗降口には、リュウガとアイギスがいた。東部領へ向かう列車は、西部領行きとは反対側のホームから出る。リュウガの荷は少なく、姿勢はいつもより硬い。アイギスはその横で、周囲と彼の両方を見ていた。

 さらに少し離れて、サニーが壁に寄りかかっている。

 監督役、というのが表向きの理由だった。リュウガとアイギスの東部領行きに付き添い、ついでに東部領で報告されている黒い化け物を調査する。ついで、という言い方をサニーはしたが、たぶん本当に軽い案件ではない。

 サニーが桐子の視線に気づき、顎をしゃくった。

「こっち来なさい」

 桐子はクロエへ目で断ってから、サニーのもとへ歩いた。

「何ですか」

「念押し」

 その一言で、桐子は少しだけ肩に力が入った。

 サニーは荷物の中身を見るような目で桐子を眺めた。槍、アトラトル、予備短槍。そこまではいい。問題は、持ち物ではなく身体の内側にある。

「気に触るな」

 声は低くない。強くもない。

 それでも逃げ場はなかった。

「……分かってます」

「使うな、じゃない。訓練するな。呼吸を変えるな。体内を探るな。以前言ったことを、休暇中だから忘れました、は通らない」

「忘れてません」

 桐子は答えた。

 嘘ではない。

 忘れていないから、余計に意識してしまう。黒峰流の呼吸。徹心に叩き込まれた身体の使い方。真希と向かい合っていた時の感覚。リュウガに「なぜ使わない」と言われてから、桐子の奥でそれはずっと沈んだ熱のように残っている。

 サニーはしばらく黙っていた。

「あんたが悪い子なのは知っている」

「その言い方はどうなんですか」

「禁止されたからやめます、で済むなら、私はここまで言わない」

 言い返せなかった。

 桐子は少しだけ目を伏せる。サニーは桐子が計画を立てていることまで見抜いているのかもしれない。見抜いていないとしても、似たような人間を何人も見てきた顔だった。

「西部領にはクロエとローザがいる。何かあれば私へ連絡が来る。だから、あんたは余計なことをしない。いい?」

「……はい」

「返事は良い」

 サニーは短く言い、リュウガの方へ目を向けた。

 リュウガは二人の会話を聞かないようにしているが、こちらを気にしているのは分かる。彼もまた、気に手を出して倒れた人間だ。桐子より先に失敗したことで、桐子の危うさを照らしてしまった。

 桐子はリュウガのもとへ歩いた。

「リュウガ」

「何だ」

「東部領、気をつけて」

「そっちもな」

 それだけだった。

 以前なら、もう少し勝負の話になったかもしれない。けれど今は、互いに別の場所へ向かう重さの方が先に立つ。リュウガは兄の影を背負い、東部領へ帰る。桐子は西部領へ向かい、自分の身体の奥にあるものを抱えたまま、クロエの隣に立つ。

 アイギスが桐子へ近づいた。

「クロエのことを頼む」

「うん。そっちはリュウガを頼む」

「分かっている」

 アイギスの返事はいつも通りだった。だが、東部領へ行くと決めた彼女の目には、ただ同行するだけではない硬さがある。盾として誰を守りたいのか。その答えを探しに行く目だった。

 発車案内が響く。

 西部領行きと東部領行きの案内が、少しの間だけ重なって聞こえた。

 クロエが桐子を呼ぶ。

 リュウガは東部領行きのホームへ向かい、アイギスとサニーが続いた。サニーは最後に一度だけ振り返り、桐子へ視線を投げる。言葉はなかった。さっきの念押しで十分だと言っている。

 桐子はその視線を受け止めた。

 分かっている。

 そう思った。

 思っただけで、身体の奥に沈んだ熱は消えなかった。

 西部領行きの列車へ乗り込むと、窓の向こうで東部領行きのホームが遠ざかっていく。別々の線路と別々の行き先が、同じ休暇という言葉の中に無理やり収められているように見えた。桐子たちが向かうのは、事件の後処理を終えたばかりの西部領。リュウガたちが向かうのは、次期領主決定戦を前に熱を帯びる東部領。どちらも休暇先と呼ぶには、少し重すぎる。

 クロエが隣に座り、書類束を膝の上で整えた。

「西部領に着いたら、まずは領主代行への挨拶。次に行政棟。時間があれば訓練場も使えるわ」

「休暇だよね?」

「実務経験よ」

「うん、知ってた」

 桐子は苦笑した。

 向かいの座席には、クロエが用意した予定表が置かれていた。行政棟、港湾管理局、補償窓口、訓練場。観光の文字はどこにもない。けれど、クロエがそれを見せる時の顔には、桐子を客人として扱いたい気持ちと、将来の戦力として見極めたい気持ちが同時に混ざっていた。

 列車が動き出す。王都の屋根が後ろへ流れ、魔力灯の並ぶ線路が夏の光に溶けていく。

 桐子は手首に残る、以前クロエが牙を立てた感覚を思い出した。小さな痛み。近づくために受け入れた痛み。今から向かう場所には、まだ知らない仕事と、直りきっていない傷と、たぶん自分の知らない自分の役割が待っている。

 そして、触れてはいけないものが自分の内側にある。

 桐子は窓に映った自分の顔を見た。

 その顔は、思ったより落ち着いていた。

 だから余計に、危なかった。


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