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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第2章:東の死と不死と未来
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EX39

 リーゼロッテは、大講堂に残った沈黙をしばらく聞いていた。

 先ほどまで生徒たちが座っていた席には、まだわずかな熱がある。椅子の脚が床を擦った跡、閉じられた鞄の音、誰かが息を呑んだ気配。そうしたものは、鐘が鳴って人が去った後も、しばらく空間の底に沈んでいる。

 壇上の中央に、古い絵本が一冊あった。

 『聖女伝説』。

 表紙の角は擦り切れ、背の布は何度も開かれた分だけ柔らかくなっている。初版ではない。あれはもっと古く、もっと遠く、そして今は誰も簡単には手を伸ばせない場所にある。リーゼロッテが手元に残しているこれは、二版以降の、いくらか整えられた物語だった。

 それでも、紙の匂いはよく似ていた。

 リーゼロッテは表紙を撫でる。芝居の幕を下ろした指は、まだ魔王のものだった。壇上で話す時の角度、間、視線の配り方。生徒たちに見せるためのものは、いつも通りに整っていた。

 だが、今は客がいない。

 客がいなければ、舞台は舞台ではなくなる。ただ広いだけの部屋で、古い絵本を前にした女が一人残される。

 ページを開く。

 聖女は旅をしていた。

 絵本の中の彼女は、村で薬を配り、町で魔獣を退け、道で泣く子どもの手を引いている。絵は単純で、線は柔らかく、子どもが怖がらないように痛みの輪郭は丸められていた。

 娘がいた。

 その娘は、いつか聖女と呼ばれるようになった。

 そこまでは覚えている。

 リーゼロッテはページに描かれた聖女の顔を見た。絵本の中には、金の髪と青い目、優しい微笑みが整えられている。だが、それは絵師が後世のために描いた顔であって、記憶ではない。

 本当は、どんな背丈だったのか。

 髪は長かったのか、短かったのか。

 瞳の色は、声の調子は、笑う時に目尻が下がったのか、怒った時に唇を結んだのか。

 何も出てこなかった。

 欠けているのではない。削り取られている。そこに何かがあったという輪郭だけが残り、中身はきれいに空洞になっている。

 あの子は聖女だった。

 あの子は娘だった。

 それなのに、リーゼロッテは娘の顔を知らない。

 知らないまま、覚えているふりだけがうまくなった。

 ページをめくると、聖女が生家へ戻る場面になる。絵本の中では、その家はどこにでもありそうな小さな家として描かれていた。壁は明るく、窓は小さく、花の鉢が置かれている。子ども向けの絵としては悪くない。

 実際の家に、花があったかどうかは覚えていない。

 ただ、風に塩の匂いが混じっていたことは覚えている。朝の床が少し湿っていて、戸の隙間から白い光が差し込んでいた。遠くで水の音がしていたような気もする。波だったのか、ただの風だったのか。そこまで確かなものではない。

 場所は覚えているのに、そこにいた娘の姿だけがない。

 リーゼロッテは小さく息を漏らした。

 大講堂に反響するほどの声ではなく、喉の奥で割れた息だけが残った。

「ひどい話だね」

 誰に向けた言葉でもなかった。

 絵本の聖女は、不滅の魔女に看取られて終わる。子どもたちは、それを静かな結末として読む。旅の終わり。命の終わり。よく働いた者が、最後に帰る場所を得る物語。

 だが、不滅の魔女に終わりはない。

 看取る側だけが残る。

 残って、忘れる。

 忘れても、終われない。

 壇の下で扉が開く音がした。

 リーゼロッテは顔を上げる。入ってきたのは、次の授業の準備を確認しに来たステラだった。歩き方は静かで、無駄がない。講堂の入口で一度足を止め、壇上にリーゼロッテが残っていることを確認してから、礼を取る。

「魔王陛下。まだこちらに」

「少し余韻に浸っていただけだよ。次は何の授業だったかな」

「軍事教練の事前講義です。講堂の使用予定を確認しに来ました」

「それは悪いことをした。老人の昔話は片づけまでが長い」

 リーゼロッテは本を閉じた。

 ステラの視線が、絵本へ落ちる。ほんの一瞬だった。だが、リーゼロッテには、その一瞬に含まれた硬さが見えた。

 ステラは整っている。

 姿勢も、声も、視線の置き方も、すべてが丁寧に整えられている。だからこそ、わずかな乱れがよく目立つ。サニーと同じ顔ではない。似ているわけでもない。それでも、何かを返さなければならない者の立ち方はよく似ていた。

「授業は、滞りなく終わったようで何よりです」

「滞りなく、か。君は便利な言葉を使うね」

「必要な言葉です」

「必要な言葉は、時々いちばん残酷だ」

 ステラは返答を急がなかった。

 大講堂の奥で、魔導具の低い駆動音が続いている。人がいなくなった広さは、会話の間を大きくする。リーゼロッテは、その間を少し楽しんだ。

「君は、聖女の話をどう聞いた?」

「多くの者が、自分の役割について考える機会になったと思います」

「模範解答だ」

「そう言われることは、承知しています」

 ステラは静かに言った。

 責める響きはない。けれど、逃げもしない。そういうところが、サニーとは違う。サニーならば、もっと短い言葉で切ってくる。あるいは、切る必要すらないと判断して背を向ける。

「君自身は」

 リーゼロッテは絵本の背を指で押さえた。

「何を考えた?」

 ステラの目が、わずかに伏せられる。

「役割を引き受けた者が、最後に何を残すのかを」

「最後」

「はい」

「いい響きだね」

 リーゼロッテは微笑んだ。

 その言葉に、ステラの表情は動かなかった。ただ、指先だけがほんの少し強く握られる。リーゼロッテはそれを見て、見なかったことにした。

 この子も、いつか何かを返すつもりでいる。

 返さなくていいものまで、正しく返そうとしている。

 そういう生き方を、誰が教えたのだろう。家か、責任か、血か、それとももっと古い誰かの手か。

「心配しなくても、講堂は空けるよ」

 リーゼロッテは本を胸元に抱えた。

「次の子たちには、きちんと次の授業を受けてもらわないとね。物語だけでは、戦場には立てない」

「物語も、必要です」

「そうだね。人は物語がないと、ただの出来事に耐えられない」

 ステラが顔を上げる。

 その目は、何かを聞きたそうだった。だが、聞かなかった。踏み込むべきではないと判断したのか、踏み込む資格がないと思ったのか。どちらでもよかった。

 リーゼロッテは壇を下りる。

 ステラの横を通り過ぎる時、古い紙の匂いが少しだけ揺れた。塩の匂いはしない。ここは王都の大講堂で、床は磨かれ、窓の外には管理された光がある。

 それでも、リーゼロッテの胸の奥には、遠い水音だけが残っていた。

「ステラ」

「はい」

「東の天気は、しばらく荒れるかもしれない」

 ステラの瞳が、ほんのわずかに細くなる。

「気象の話でしょうか」

「さあ。私は昔話をした後だからね。少し詩的な気分なのかもしれない」

「……承知しました。必要があれば、各班へ確認を取ります」

「真面目だね」

「必要なことです」

「うん。必要なことだ」

 リーゼロッテは笑った。

 何を投げたのかは言わない。どこへ落ちるのかも言わない。投げたものが石なのか、種なのか、毒なのか、祈りなのかさえ、まだ誰にも分からなくていい。

 ただ、波紋は広がる。

 西で沈んだものが、東で別の形を取る。

 そうして、誰かが選び、誰かが壊れ、誰かが前へ進む。その果てに、自分の終わりへ繋がる可能性が一つでも増えるなら、リーゼロッテは同じことを何度でもする。

 大講堂の扉へ向かう足取りは、軽かった。

 胸に抱いた絵本だけが、古い棺のように重かった。


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