EX39
リーゼロッテは、大講堂に残った沈黙をしばらく聞いていた。
先ほどまで生徒たちが座っていた席には、まだわずかな熱がある。椅子の脚が床を擦った跡、閉じられた鞄の音、誰かが息を呑んだ気配。そうしたものは、鐘が鳴って人が去った後も、しばらく空間の底に沈んでいる。
壇上の中央に、古い絵本が一冊あった。
『聖女伝説』。
表紙の角は擦り切れ、背の布は何度も開かれた分だけ柔らかくなっている。初版ではない。あれはもっと古く、もっと遠く、そして今は誰も簡単には手を伸ばせない場所にある。リーゼロッテが手元に残しているこれは、二版以降の、いくらか整えられた物語だった。
それでも、紙の匂いはよく似ていた。
リーゼロッテは表紙を撫でる。芝居の幕を下ろした指は、まだ魔王のものだった。壇上で話す時の角度、間、視線の配り方。生徒たちに見せるためのものは、いつも通りに整っていた。
だが、今は客がいない。
客がいなければ、舞台は舞台ではなくなる。ただ広いだけの部屋で、古い絵本を前にした女が一人残される。
ページを開く。
聖女は旅をしていた。
絵本の中の彼女は、村で薬を配り、町で魔獣を退け、道で泣く子どもの手を引いている。絵は単純で、線は柔らかく、子どもが怖がらないように痛みの輪郭は丸められていた。
娘がいた。
その娘は、いつか聖女と呼ばれるようになった。
そこまでは覚えている。
リーゼロッテはページに描かれた聖女の顔を見た。絵本の中には、金の髪と青い目、優しい微笑みが整えられている。だが、それは絵師が後世のために描いた顔であって、記憶ではない。
本当は、どんな背丈だったのか。
髪は長かったのか、短かったのか。
瞳の色は、声の調子は、笑う時に目尻が下がったのか、怒った時に唇を結んだのか。
何も出てこなかった。
欠けているのではない。削り取られている。そこに何かがあったという輪郭だけが残り、中身はきれいに空洞になっている。
あの子は聖女だった。
あの子は娘だった。
それなのに、リーゼロッテは娘の顔を知らない。
知らないまま、覚えているふりだけがうまくなった。
ページをめくると、聖女が生家へ戻る場面になる。絵本の中では、その家はどこにでもありそうな小さな家として描かれていた。壁は明るく、窓は小さく、花の鉢が置かれている。子ども向けの絵としては悪くない。
実際の家に、花があったかどうかは覚えていない。
ただ、風に塩の匂いが混じっていたことは覚えている。朝の床が少し湿っていて、戸の隙間から白い光が差し込んでいた。遠くで水の音がしていたような気もする。波だったのか、ただの風だったのか。そこまで確かなものではない。
場所は覚えているのに、そこにいた娘の姿だけがない。
リーゼロッテは小さく息を漏らした。
大講堂に反響するほどの声ではなく、喉の奥で割れた息だけが残った。
「ひどい話だね」
誰に向けた言葉でもなかった。
絵本の聖女は、不滅の魔女に看取られて終わる。子どもたちは、それを静かな結末として読む。旅の終わり。命の終わり。よく働いた者が、最後に帰る場所を得る物語。
だが、不滅の魔女に終わりはない。
看取る側だけが残る。
残って、忘れる。
忘れても、終われない。
壇の下で扉が開く音がした。
リーゼロッテは顔を上げる。入ってきたのは、次の授業の準備を確認しに来たステラだった。歩き方は静かで、無駄がない。講堂の入口で一度足を止め、壇上にリーゼロッテが残っていることを確認してから、礼を取る。
「魔王陛下。まだこちらに」
「少し余韻に浸っていただけだよ。次は何の授業だったかな」
「軍事教練の事前講義です。講堂の使用予定を確認しに来ました」
「それは悪いことをした。老人の昔話は片づけまでが長い」
リーゼロッテは本を閉じた。
ステラの視線が、絵本へ落ちる。ほんの一瞬だった。だが、リーゼロッテには、その一瞬に含まれた硬さが見えた。
ステラは整っている。
姿勢も、声も、視線の置き方も、すべてが丁寧に整えられている。だからこそ、わずかな乱れがよく目立つ。サニーと同じ顔ではない。似ているわけでもない。それでも、何かを返さなければならない者の立ち方はよく似ていた。
「授業は、滞りなく終わったようで何よりです」
「滞りなく、か。君は便利な言葉を使うね」
「必要な言葉です」
「必要な言葉は、時々いちばん残酷だ」
ステラは返答を急がなかった。
大講堂の奥で、魔導具の低い駆動音が続いている。人がいなくなった広さは、会話の間を大きくする。リーゼロッテは、その間を少し楽しんだ。
「君は、聖女の話をどう聞いた?」
「多くの者が、自分の役割について考える機会になったと思います」
「模範解答だ」
「そう言われることは、承知しています」
ステラは静かに言った。
責める響きはない。けれど、逃げもしない。そういうところが、サニーとは違う。サニーならば、もっと短い言葉で切ってくる。あるいは、切る必要すらないと判断して背を向ける。
「君自身は」
リーゼロッテは絵本の背を指で押さえた。
「何を考えた?」
ステラの目が、わずかに伏せられる。
「役割を引き受けた者が、最後に何を残すのかを」
「最後」
「はい」
「いい響きだね」
リーゼロッテは微笑んだ。
その言葉に、ステラの表情は動かなかった。ただ、指先だけがほんの少し強く握られる。リーゼロッテはそれを見て、見なかったことにした。
この子も、いつか何かを返すつもりでいる。
返さなくていいものまで、正しく返そうとしている。
そういう生き方を、誰が教えたのだろう。家か、責任か、血か、それとももっと古い誰かの手か。
「心配しなくても、講堂は空けるよ」
リーゼロッテは本を胸元に抱えた。
「次の子たちには、きちんと次の授業を受けてもらわないとね。物語だけでは、戦場には立てない」
「物語も、必要です」
「そうだね。人は物語がないと、ただの出来事に耐えられない」
ステラが顔を上げる。
その目は、何かを聞きたそうだった。だが、聞かなかった。踏み込むべきではないと判断したのか、踏み込む資格がないと思ったのか。どちらでもよかった。
リーゼロッテは壇を下りる。
ステラの横を通り過ぎる時、古い紙の匂いが少しだけ揺れた。塩の匂いはしない。ここは王都の大講堂で、床は磨かれ、窓の外には管理された光がある。
それでも、リーゼロッテの胸の奥には、遠い水音だけが残っていた。
「ステラ」
「はい」
「東の天気は、しばらく荒れるかもしれない」
ステラの瞳が、ほんのわずかに細くなる。
「気象の話でしょうか」
「さあ。私は昔話をした後だからね。少し詩的な気分なのかもしれない」
「……承知しました。必要があれば、各班へ確認を取ります」
「真面目だね」
「必要なことです」
「うん。必要なことだ」
リーゼロッテは笑った。
何を投げたのかは言わない。どこへ落ちるのかも言わない。投げたものが石なのか、種なのか、毒なのか、祈りなのかさえ、まだ誰にも分からなくていい。
ただ、波紋は広がる。
西で沈んだものが、東で別の形を取る。
そうして、誰かが選び、誰かが壊れ、誰かが前へ進む。その果てに、自分の終わりへ繋がる可能性が一つでも増えるなら、リーゼロッテは同じことを何度でもする。
大講堂の扉へ向かう足取りは、軽かった。
胸に抱いた絵本だけが、古い棺のように重かった。




