EX38
リリー・セヴァライドは、特別教室の扉が内側から閉まる音を聞いて、今年も逃げ場のない部屋が完成したことを確認した。
窓はある。だが、開かない。換気用の魔導具は動く。だが、外へ音は漏れない。奥には小さな洗面所とトイレがあり、教室の隅には昼食を置くための長机も用意してある。講義中に外へ出ないための設備としては十分だった。
公にすると色々まずい。
そういう理由で、この特別講義は毎年、似たような形で行われている。対象者がいない年は休みになる。魔法に深く踏み込みすぎる生徒がいない年という意味では、教育機関として健全なのだろう。
今年は健全ではなかった。
特別クラスの四人に加え、汎用魔法の成績が高い生徒が数名。前列には目を輝かせている者がいて、後列には緊張で固まっている者がいる。桐子は筆記具と弁当袋を並べ、何が始まるのか半分分からない顔をしていた。アイギスは姿勢が良く、クロエは配布物の山を見てすでに警戒している。リュウガは、少し居心地が悪そうだった。
「さて」
リリーは教卓に手を置いた。
「今日の講義は、汎用魔法概論の特別版です。朝から夕方まで使います。昼食は持参と伝えてあるね。途中退出は原則なし。具合が悪くなったら洗面所へ。魔力酔い、術式酔い、知恵熱、倫理的な不安感については、症状に応じて相談に乗ります」
「最後のものも症状扱いなのですか」
アイギスが真面目に聞いた。
「研究者の現場では頻出症状だよ」
「頻出させないでください」
桐子が小さく突っ込む。
よい反応だった。まだ始まっていないのに逃げ腰になられても困る。多少引きながらも席に残るくらいが、この講義の適性としてはちょうどいい。
リリーは教卓の下から、紐でまとめた本の束を持ち上げた。
ざわめきが起きた。
表紙には、リリー自身の筆跡で題名が印刷されている。
なんでも出来る魔法の書。
その題名を見た瞬間、上級生の一人が息を呑んだ。別の生徒は、喉まで出かかった声を飲み込む。クロエの眉がわずかに上がり、リュウガは桐子の方を見た。桐子は題名を読んでから、もう一度リリーを見る。
「これ、冗談みたいな題名ですけど」
「冗談ではないわ。題名に偽りもない」
「余計に怖いんですが」
「正しい感性ね」
リリーは一冊ずつ机へ配った。
生徒たちは受け取る。受け取ってしまう。汎用魔法の成績で呼ばれるような者たちは、大抵その時点で手を止められない。危険だと分かっていても、表紙を開きたい。何が書かれているのか知りたい。自分なら理解できるかもしれないと思ってしまう。
リリーは、その顔をよく知っている。
昔の自分も同じ顔をしていた。
「先に扱いを確認します。ここに来た君達に改めて言う必要もないと思うけれど、廃棄処分だよ。その扱いについては、分かっているね?」
教室が静かになった。
桐子だけが小さく首を傾げる。
「廃棄処分って、配ってますよね」
「配っていない。私は捨てた」
「今、手渡しで」
「捨てた」
「押し切る気だ」
桐子の呟きに、何人かが肩を震わせた。クロエは本を指先で持ち、明らかに面倒なものを見る目をしている。アイギスは表紙を見つめたまま、どう扱えばよいか考えていた。
「この本は販売も流通も禁止されています。内容の有用性は認められている。そこは大事。駄目な本だから禁書になったのではなく、有用すぎて危険性を排除しきれないから禁書になった」
リリーは黒板に、起動式と効果式、と書いた。
「汎用魔法は、大きく二つに分けて考えられます。起動式と効果式。起動式は、魔力を魔法現象として立ち上げるための式。効果式は、立ち上げた現象に何をさせるかを決める式。この本は、その二つを最小単位まで分解して並べたものです」
「つまり」
クロエが言った。
「部品表、ということかしら」
「そう。とてもよくできた部品表。理論上は、ここに載っている部品を組み替えれば、どんな魔法でも作れる」
前列の生徒の目が輝いた。
リリーはその輝きを見て、にこりと笑う。
「ただし、組み上げたものが君たちの意図通りに動く保証はありません」
輝きが少し曇った。
「飛行魔法を作ったつもりで射出魔法になる。照明魔法を作ったつもりで網膜を焼く。防壁を作ったつもりで内側に圧をかける。部品は正しくても、組み合わせを間違えれば結果は変わる。昔、これを読んだ上役の息子が安全弁を読み飛ばして負傷したことがあるけれど、あれは本のせいというより読解力と自制心の問題でした」
「それ、口にしてよいのですか」
アイギスが低い声で聞いた。
「もう昔の話だからね」
「昔の話なら何でも言っていいわけではありません」
「アージェント家の良識が眩しい」
「母に言われそうなことを言わないでください」
リリーは笑って、黒板の端にもう一つの言葉を書いた。
魔力。
「まず基本から。世界中に遍く存在している魔力と、個人が使う魔力は同じものではありません。外にある魔力は、素材です。私たちはそれを体内へ取り込み、魔石を通し、自分の固有魔力として扱える形にする」
リリーは小型の水晶を取り出した。
教卓の上で淡く光る。周辺魔力を拾うだけの簡単な観測具だ。
「外界の魔力は、まだ誰の癖もついていない水のようなもの。そこへ君たちの魔石を通すと、個人ごとの癖が出る。これを、ここでは魔力波形と呼びます」
リリーは水晶へ指を触れた。
水晶の中に細かな波が浮かぶ。青みを帯びた光が、ゆっくりと細かく震えた。
「これは私の波形。行政システムでは、この違いを個人認証に使っています。署名、通行許可、機密区画への入室、契約書類の本人確認。魔力波形は指紋や声紋に近い。ただし体調や疲労でも揺れるから、完全一致ではなく許容範囲を見る」
「偽装はできるのですか」
汎用魔法の成績で呼ばれた生徒が聞いた。
いい質問だった。
「できるかできないかで言えば、できる可能性はある。やったら犯罪。ここで詳しく説明したら私も怒られる。以上」
「露骨に切りましたね」
桐子が言う。
「切らないと実演まで行く人が出る」
数名が視線を逸らした。
リリーは満足した。逸らした者は、たぶん理解している。理解しているのに試したくなる。そういう生徒ほど、放っておくと壁に穴を開けるか、自分の指を焦がす。
「次に固有魔法。固有魔法は、本人の性質と固有魔力の波形が深く組み込まれています。たとえば武具創造。槍に寄る者、盾に寄る者、剣に寄る者。同じ武具創造でも、起動式と効果式の癖は違う。本人の体質、血筋、経験、魔石の位置、魔力の流し方まで関わる」
桐子とアイギスが、ほぼ同時に自分の手元を見た。
よい。
具体例が身近にいると、理解は早い。
「固有魔法は強い。速い。本人に馴染む。ただし、他人にそのまま渡せない。桐子ちゃんの槍をアイギスちゃんが同じように出すことはできないし、アイギスちゃんの盾をクロエちゃんが同じように扱うこともできない」
「当然でしょうね」
クロエが言った。
「当然だけど、ここが汎用魔法の価値に繋がる。汎用魔法は、固有魔力の波形を、共有可能な形へ変換してから起動式へ通します。個人の癖を翻訳し、共通語にして、誰でも扱える魔法として成立させる」
リリーは黒板に波線を三本描いた。太い波、細かい波、ゆっくりした波。それらを重ね、さらに横へ分解した線を描く。
「そこで出てくるのがフーリエ変換」
教室の空気が少し止まった。
桐子は素直に眉を寄せた。
「急に人間界の数学みたいな単語が出ました」
「数学は便利だからね。複雑な波は、単純な波の重なりとして分解できる。個人の固有魔力も、癖のある波として観測できる。なら、どの成分が本人の癖で、どの成分が汎用魔法に通せる基礎成分なのかを分けられる」
「魔力を分解するのですか」
アイギスが聞く。
「正確には、波形として見る。魔力そのものを切り刻むわけではないよ。観測し、分解し、必要な形へ変換する。汎用魔法の安定性は、この変換の精度にかなり左右されます。変換が荒いと、出力がぶれる。遅れる。無駄に消耗する。最悪、術式が本人の魔力と喧嘩する」
リュウガの表情がわずかに硬くなった。
気と魔力の反発を知った後では、この説明も別の意味を持つのだろう。リリーはそこへ踏み込みすぎないよう、黒板の端へ線を引いた。
「ここから先は、気とは別の話。今日は魔法の講義だからね」
「珍しく自制したわね」
「クロエちゃん、私はいつも自制しているよ」
「自制している人間は、禁書を配らないでしょう」
「配布していない。廃棄処分」
「便利な言葉ね」
クロエの皮肉に、教室の緊張が少し緩む。
昼まで、リリーは起動式と効果式の組み替えを実演した。小さな光を灯す魔法に、移動の効果式を足すと光が机の上を滑る。そこへ熱量の式を少し混ぜると、光は温度を持つ。さらに安全弁を外せば、机の表面が焦げる。
焦げた。
「今のは悪い例」
「焦げてから言うのですか」
アイギスが言った。
「焦げた方が記憶に残る」
「机は教材ではありません」
「教材費で直す」
「そういう問題ではありません」
昼食の時間になっても、教室の空気は緩みきらなかった。生徒たちは持参した弁当を広げながら、手元の禁書を閉じたり開いたりしている。食事と禁書は相性が悪いはずなのに、誰も本を遠ざけない。
リリーは自分の昼食を取りながら、その様子を眺めた。
やはり今年は健全ではない。
桐子は弁当の包みを開けながら、隣のアイギスに小声で聞いている。
「これ、持って帰っていいのかな」
「廃棄処分だそうです」
「廃棄処分って何だっけ」
「少なくとも、通常の意味ではありません」
クロエは本の端を指で押さえたまま、目次を見ていた。リュウガは興味がないふりをしているが、身体強化系の項目へ視線が行っている。前列の成績優秀者たちは、すでに自分の専門に近いページへ付箋を挟み始めていた。
いい顔だ。
危ない顔でもある。
午後は、リリーがあえて失敗例を多く見せた。起動式だけ正しくても効果式が曖昧なら、魔法は目的を見失う。効果式だけ精密でも起動式が弱ければ、立ち上がらない。固有魔力から汎用魔法用の波形へ変換する段階で雑音を残すと、術式は本人の癖に引っ張られる。
「だから、汎用魔法は誰でも使える魔法であって、誰でも雑に使える魔法ではありません」
リリーは言った。
「固有魔法を持たない者の代替手段でもない。社会を動かすための共通言語であり、誰かの固有性を翻訳する技術でもある。だからこそ、魔法を増やしたいなら、部品を増やす前に翻訳の精度を上げなさい」
教室が静かになる。
こういう瞬間が、リリーは嫌いではなかった。
危険な本を前にして、危険な知識を欲しがる者たちが、それでも一度立ち止まる。怖がる。怖がったうえで、もう一度見る。
それでいい。
怖がらない者は早死にする。怖がるだけの者は届かない。
鐘が鳴った。
講義終了の時間だった。
リリーは黒板の文字を消さずに、生徒たちを見渡した。
「最後にもう一度。この本は廃棄処分です。私は捨てた。君たちが何を拾ったのか、私には分からない。その後、何が起きても自己責任。ただし、相談には乗る。試す前に来なさい。失敗してからでも治せる範囲なら見るけど、できれば試す前に来なさい」
「後半の方が本音ではありませんか」
桐子が言った。
「全部本音よ」
リリーは笑った。
「魔法に魅入られるのは悪いことじゃない。けれど、魅入られたまま手を伸ばすなら、自分の指が何本あるかくらいは覚えておきなさい」
生徒たちは席を立った。
誰も、本を机に置いていかなかった。
リリーはそれを確認し、教室の鍵を開ける。
廊下へ出ていく背中は、朝より少し重く、少し危うく、少し楽しそうだった。コーイチもナタリーも、昔はああいう顔でこの部屋を出ていった。
リリーは焦げた机を撫で、修理申請の文面を頭の中で組み立てた。
教育的効果を伴う軽微な設備損耗。
悪くない表現だった。
通るかどうかは、また別の問題だった。




