第61話
アイギスは観客席の柵を越える前に、会場の空気が試合のものではなくなったことを理解していた。
東部領の代表を選ぶ場。そこに、すでに死んだはずの人物が立っている。肌は黒く染まり、光を吸うように沈んでいる。それでも立ち姿だけは武人のものだった。リュウガが幼い頃から追いかけてきた背中なのだと、アイギスにも分かった。
だからこそ、危なかった。
リュウガは剣を落としてはいない。構えも崩しきってはいない。けれど視線が、相手ではなく記憶に引きずられている。目の前の敵を敵として見るより先に、兄の姿を探している。
黒い龍真の踏み込みが沈んだ。
アイギスは迷わず盾を割り込ませた。
衝撃が盾から腕へ、肩へ、胸の奥へ抜ける。観客席から張った盾では足りない。アイギスは柵を越え、会場へ降りた。歓声ではなく、ざわめきが背中に降る。規則違反だと誰かが叫んだ。
「見学者の介入だぞ!」
東部領の者だろう。怒りより、混乱を言葉へ変えただけの声だった。
アイギスは会場中央へ歩きながら、リュウガの前にもう一枚盾を置いた。
「死人が代表者になれるだなんて、東部領の規則はずいぶん柔軟なのですね」
言葉を荒げる必要はなかった。
ただ事実を並べればいい。
「でしたら、盾役が一人増える程度は誤差でしょう」
観客席の一部が黙った。怒号の行き場を失ったような沈黙が、会場の端に広がる。
伯耀は専用席で微笑んでいた。乱入を咎めるでも、止めるでもない。むしろこの程度の歪みは織り込み済みだと言いたげに、扇子をゆっくり開く。
「よろしいのではありませんか。東部領の代表に求められるのは、ただの勝利ではない。想定外の事態をどう扱うかもまた、見極めるべき資質でしょう」
穏やかな声だった。
その穏やかさが、アイギスには不愉快だった。彼はリュウガの傷を見ている。観客の不安も見ている。そのうえで、それらすべてを自分の演出に組み込んでいる。
この会場には、王都の試験会場や養成所の模擬戦で使われるような安全結界はない。少なくとも、アイギスが知るあの手の保護機構の気配は感じ取れなかった。東部領の武闘大会は、痛みも流血も結果の一部として扱う場なのだろう。
そこへ死体を送り込んだ時点で、伯耀は試合を試合でなくしている。
ならば、こちらだけが形式に縛られる理由はない。
アイギスは自分の立場を確認した。参加資格はない。東部領の次期領主決定戦に、他領の者が手を出すべきではない。それでも、今リュウガが倒れれば、東部領の次代だけでなく、彼自身が兄の姿をした化け物に呑まれる。盾が届く場所でそれを見過ごす理由はなかった。
黒い龍真が再び動いた。
リュウガと同じ長短の二刀。いや、順番が逆なのだろう。リュウガがこの動きを追いかけてきたのだ。長い刃で間合いを押し、短い刃で逃げ道を切る。踏み込みは重く、退き際に迷いがない。死体であるはずの身体が、生前の訓練だけを忠実になぞっている。
アイギスは盾を三枚、斜めに展開した。
一枚目が長剣を受ける。
二枚目が短剣の軌道をずらす。
三枚目をリュウガの足元へ置き、後退ではなく横へ踏める道を作る。
「リュウガ」
呼ぶ。
返事はなかった。だが、リュウガの目が一瞬だけこちらへ向いた。
「見ろ」
アイギスは短く言った。
「兄ではなく、いま斬りかかってきている相手を」
リュウガの喉が動く。
黒い龍真が、盾ごと押し潰す勢いで前に出る。重い。単なる身体能力ではない。肉の奥から無理やり力を引き出しているような、嫌な圧がある。不滅の魔石による強化。西部領で聞いた言葉が、アイギスの中で形を持った。
リュウガは一歩引いた。
逃げたのではない。
間合いを取り直した。
長剣を握り直し、短剣の角度を変える。呼吸が戻る。肩の力が少し抜ける。兄の顔を見ていた目が、敵の足と刃を見る目へ変わっていく。
その変化を、アイギスは盾越しに感じた。
守られるだけの相手ではない。そもそもリュウガは、誰かの背後に隠れていられる性質ではない。倒れそうな時は支える。視界が狭まったなら広げる。けれど、最後に前へ出るのはリュウガ自身でなければならない。
それが、彼が背負いたがっている東部領というものの重さなのだろう。
アイギスはそれを見届けて、前に置いていた盾を横へ開いた。
「今です」
リュウガが踏み込む。
刃と刃がぶつかった。黒い龍真の剣筋は鋭い。だが、リュウガは知っている。誰よりもその動きを見てきたからだ。受けるのではなく、半歩遅らせて噛ませる。長剣を滑らせ、短剣で手首を狙う。
黒い龍真の肉が裂けた。
血は少ない。傷口は黒く、すぐに塞がろうとする。
観客席から、低いどよめきが起きた。
伯耀が扇子の陰で笑う。
「やはり龍真様は素晴らしい。死を越えてなお、この完成度です」
完成度。
死者の身体に向ける言葉ではない。
アイギスは盾を動かしながら、胸の内でその言葉を切り捨てた。誰かを守るために強くなる者と、誰かを材料として強さを飾る者は違う。同じ戦場に立っていても、向いている先がまるで違う。
会場の端で、金属音が鳴った。
係員が戸惑いながら、設備を操作している。武闘大会用の武器供給機構だろう。演習や選抜で、武器種を変えながら適性を見るためのものだと聞いたことがある。だが、この試合で使う予定だったとは思えない。
床の一部が開き、二振りずつの武器がせり上がる。
薙刀。
長い柄に、反った刃。
伯耀が声を張った。
「同じ剣では物足りないでしょう。東部領の武は、多様な武器に通じてこそです」
表向きは会場設備の運用。
実態は、龍真の優位を示すための仕込み。
アイギスはすぐに盾の配置を変えた。長柄の武器は、剣とは間合いが違う。盾を近くに置きすぎれば、刃ではなく柄で払われる。遠くに置きすぎれば、リュウガの踏み込みを邪魔する。
「持ち替えますか」
「ああ」
リュウガが短く答えた。
その声には、先ほどまでの震えが残っていない。
黒い龍真が薙刀を取る。リュウガも同じ武器へ手を伸ばした。兄の身体が持つ武の記憶を、現在のリュウガが真正面から受ける。
アイギスは盾を展開したまま、リュウガの横顔を見た。
もう守るだけでは足りない。
守って、立たせる。
立った者が、自分の足で前へ出るまで支える。
それが盾の役目だと、アイギスは思った。
母ならどうするだろう、と一瞬だけ考えた。
ステラなら、もっと広く戦場を見たかもしれない。サニーなら、そもそもこの歪んだ舞台ごと斬り捨てるかもしれない。けれどアイギスはアイギスだ。自分にできるのは、目の前で倒れそうな仲間に盾を置き、次の一歩を作ることだった。
その一歩を、リュウガは踏む。
盾は主役にはならない。
それでいい。
前へ出る者の足元に、壊れない場所を作る。恐怖で狭くなった視界に、まだ進める道を置く。自分が目立つかどうかではなく、守った相手が前を向けるかどうかだ。
アイギスは、そのためにここへ降りた。
その選択だけは、誰に咎められても撤回しない。
盾とは、そういうものだ。
リュウガが一歩前へ出る。
黒い龍真も、同じだけ前へ出る。
薙刀の刃が、会場の光を細く裂いた。




