第62話
桐子が目を覚ました時、最初に感じたのは痛みではなく、身体の重さだった。
手足が自分のものではないように遠い。息を吸うだけで胸の奥が軋み、腹のあたりに鈍い熱が残っている。目を開けると、見慣れない天井があった。シュヴァリエ城の客室ではない。訓練場近くの処置室だろう。白い布、薬草の匂い、魔導具の低い振動音。そこに、少しだけ人間界の道場を思わせる木の匂いが混じっていた。
椅子に座る男の顔を見て、桐子の意識が一瞬だけ元いた時代へ滑った。
徹心。
黒峰の師匠。
けれど、目の前の男は桐子を知らない目で見ている。腕を組み、目を閉じているが、寝ているわけではない。桐子が息を乱した瞬間に反応できる姿勢だ。
「徹心……師匠?」
「師匠と呼ばれる覚えはない」
低い声だった。
「黒峰徹心だ。起きたなら水を飲め」
桐子は返事をしようとして、喉がひどく乾いていることに気づいた。声は出ず、代わりに咳が出た。徹心が水を差し出す。手を貸す動きに、元いた時代で知る厳しさの気配はあったが、目の前の徹心にとって桐子は初対面の相手だった。
水を飲むと、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
「私、どれくらい」
「一晩は越えた」
徹心は短く答え、桐子は唇を噛んだ。
「死にかけた自覚はあるか」
自覚は、ある。
倒れる直前の感覚は、まだ身体の内側に残っている。魔力の流れを気で押せると思った。外から入って、内側を通って、外へ出るものなら、流れを整えればいいと考えた。理屈としては悪くないと、どこかで思っていた。
だが、実際には違った。
流れは整わなかった。内側で噛み合わず、互いを削り、身体を割ろうとした。
「お前が生きているのは、俺の腕だけではない」
徹心は続けた。
「最初に見つけた者、動かさず場を整えた者、連絡を繋いだ者、たまたまあの研究者が俺の所にいたこと。どれか一つ欠けていれば間に合わなかった。運が良かった。そして、周囲の人間に恵まれた」
その言葉は、叱責よりも重かった。
桐子は自分の失敗が、自分だけで完結していないことを改めて知る。倒れた自分の周りで、誰かが走った。誰かが判断した。誰かが手を伸ばした。だから今、こうして水を飲めている。
「馬鹿なことをしました」
「馬鹿なことをした」
徹心は同じ言葉を返した。
桐子は視線を落とす。叱られることは分かっていた。サニーに禁じられた。リュウガの自傷も見た。それでも、休暇に入れば安全に試せると考えた。安全という言葉を、自分に都合よく使った。
「言い訳は」
「ありません」
「ならいい」
徹心は立ち上がった。
「起きられるなら、座れ。無理なら寝たままで聞け」
桐子は腕に力を入れた。腹の奥が痛む。けれど、座れないほどではない。寝たまま聞くのは嫌だった。起き上がると、徹心は止めずに見ていた。
処置室には、リリーもローザもクロエもいない。
それに気づいて、桐子は少しだけ不安になった。
「皆は」
「外だ。今からする話は、お前の身体の動きについてだ」
徹心は窓の方へ目を向けた。
「あの研究者は聞きたがったが、追い出した。魔力側の説明は後であちらに任せる。だが、ここから先は見世物ではない」
桐子は背筋を伸ばした。
「一つ確認する」
徹心の目が、桐子の肩、肘、指先、座ったままの重心へ順に落ちた。
「お前、黒峰の稽古を受けているな」
桐子は息を呑んだ。
「分かるんですか」
「分かる。起き上がり方、痛みを逃がす時の癖、力を入れる順番。黒峰の身体だ」
徹心は淡々と言った。
「名を聞いた時点では半信半疑だった。処置をして確信した。教えた者が誰かまでは知らんが、浅くはない」
黒峰。
人間界で、自分がいた場所。真希と並び、競い、時に置いていかれ、時に追いついたと思い込んだ場所。魔界へ来てから、その名前は遠ざかっていた。武術としては身体に残っている。だが、なぜそれを続けてきたのか、何のためにあったのかを、桐子は深く考えてこなかった。
徹心は、静かな断定として告げた。
「黒峰流は武道ではない」
「礼節も型もある。挑まれれば他流の試合を受けることもある。表に看板を出した時代もある。だが、根はそこではない。黒峰は、人ならざるもの、人にあだなすものに立ち向かうための暴力装置だ」
暴力装置、という言葉が桐子の中で重く落ちた。
「神仙妖魔。魔と呼ばれたもの。祟りと呼ばれたもの。時代によって名は変わる。相手が本当に人ではなかったこともあれば、人でありながら人にあだなすものとして扱うべきだったこともある。黒峰が敵と定めるのは種ではない。人を壊すものだ」
徹心の声には誇りも陶酔もなかった。
ただ、長く続いた役目を述べているだけだった。
「気は、そのために磨かれた。魔法、妖術、祟り、名のつかない現象。そういうものへ、魔法ではない理屈で触れるための手段だ。今は分かりやすく魔法に絞って話す」
徹心は右手を上げた。
何かを唱えることはない。魔術式らしい光も浮かばない。ただ、指先で空気を押すように動かしただけだった。次の瞬間、処置室の隅に漂っていた魔力が細く撓み、小さな光の粒になって弾けた。
桐子は目を見開いた。
それは魔法に見えた。
けれど、桐子が養成所で習った魔法とは違う。起動式も、効果式も、魔力を練る感覚もない。徹心自身の気が外界の魔力を押し、形を変え、結果として魔法めいた現象を作ったように見えた。
「今のは」
「魔法の再現だ。俺の気で、外にある魔力を動かした。術式を組んだわけではないから、魔法使いから見れば雑な真似事だろう。だが、触れることはできる」
徹心は手を下ろした。
「だから危うい。扱いを誤れば、自分の身体から壊れる。相手に触れる前に、自分の内側で反発を起こす」
「……私は、それを魔力と一緒に使おうとしました」
「使おうとしただけなら、まだいい」
徹心は桐子を見た。
「お前は理解したつもりで踏み込んだ。そこが悪い」
桐子は反論できなかった。
分からないから試したのではない。少し分かった気になったから試した。気と魔力は反発する。それなら流れを揃えればいい。そう仮定した。仮定の穴を、人に相談するより先に、自分の身体で確かめようとした。
真希を刺した時も、そうだった。
自分の中の力を、自分で扱えると思っていた。扱えるはずだと信じた。結果として、親友の腹を貫いた。
桐子は拳を握ったが、言葉が詰まる。
「私は」
「また、制御できませんでした」
「そうだ」
徹心は容赦しなかった。
「だが今回は、自分だけを壊した。巻き込む前に倒れた。そこは前よりましだ」
それは慰めではなく、評価だった。
だから、桐子はかえって息を吸えた。
優しい言葉なら、今の桐子は逃げ道にしてしまう。大丈夫だと言われれば、大丈夫だったことにしたくなる。仕方なかったと言われれば、次も仕方なかったで済ませるかもしれない。
徹心の言葉は、そのどれでもなかった。
悪いものを悪いと言い、ましなものをましと言う。痛みを軽くはしないが、痛みの形を誤魔化しもしない。その冷たさに、桐子は黒峰の道場で育った時間を思い出した。
「次はどうすればいいですか」
「まず、どうにかできると思うな」
徹心は即座に言った。
「気を制御する、魔力を制御する。その言い方から捨てろ。お前の身体は、もうどちらか一方の理屈だけで動いていない。気と魔力は反発する。だが、完全に分けられるものでもない」
「置き場」
「そうだ。黒と白を別々の箱に入れるのではない。同じ円の中で、互いを食い破らない位置を覚える。押すな。引くな。通そうとするな。反発しているものが、同じ身体の中にあると認めろ」
処置室の外から、誰かの足音が近づき、すぐ離れた。クロエかもしれない。ローザかもしれない。桐子は扉を見かけて、徹心の視線に戻った。
徹心は続ける。
「詳しい理屈を他の者に話すな。同じ事故を起こす。魔力と気を両方持つ者が少ないからこそ、お前の失敗は、余計な誘惑になる」
「はい」
「しばらく俺が見る。魔力側の助言はリリーとかいう研究者に任せる。あれは危ないが、見る目はある」
その評価に、桐子は少しだけ笑いそうになった。
笑うと腹が痛むので、すぐにやめた。
「クロエたちにも、話さない方がいいですか」
「事故の原因までは話せ。心配している者に何も言わないのは不義理だ。だが、やり方を話すな。何をどう試したか、どこで壊れたか、それは伏せろ」
「……分かりました」
「心配と興味は違う。お前の周りには、どちらも強い連中がいる」
桐子は否定できなかった。
クロエは心配する。ローザも心配する。リリーは心配しながら興味を持つ。サニーは怒るだろう。アイギスがいれば、黙って正座させられるかもしれない。そんな想像をして、少しだけ胸が痛む。
徹心は布包みから短い棒を取り出し、桐子の膝の上へ置いた。
「握れ」
桐子は棒を握った。
「力を入れるな。だが落とすな」
言われた通りにする。
簡単なはずだった。けれど、握った瞬間、腕の内側を通る気配と、周囲から染み込んでくる魔力の感覚がずれた。昨日なら、そのずれを押し込もうとした。今はしない。
ただ、あると認める。
指先は震えたが、棒は落ちなかった。
徹心が頷く。
「そこからだ」
桐子は自分の手を見た。
真希を刺した手。
ルシアンを殺した手。
自分を壊しかけた手。
それでも、まだ握れる。
握れるなら、選べる。
なら、ここから覚えるしかない。
桐子はその事実だけを、深く息と一緒に身体へ沈めた。




