第9話
魔王の執務室には、冷めかけた茶と、枯れかけた花が置かれていた。
リーゼロッテは書類に目を通しながら、時折その二つへ視線を向けた。茶は湯気を失い、花は花弁の端から少しずつ色を変えている。どちらも、時間が進めば終わるものだった。
その事実が、ひどく好ましい。
好ましいと思う自分の輪郭が、もう随分前から歪んでいることも知っている。
扉の外では、秘書官が次の決裁書類を待っている。机の上には、地方軍の報告、鉄道路線の補修予算、危険区域の魔獣発生数、養成所の人事案、各領からの陳情が積まれていた。
魔王という役職は、物語に出てくる悪の王ほど自由ではない。
行政の頂点に座るということは、毎日、退屈な数字と署名と責任の山に埋もれるということでもある。リーゼロッテはその退屈さを嫌ってはいなかった。終わりのない人生の中で、日々の業務だけは一枚ずつ片づき、処理済みの箱へ移っていく。
終わる仕事は美しい。
終わらないものより、よほど。
リーゼロッテは補修予算の書類へ署名した。先ほど、王都へ向かう装甲列車が小型魔獣と接触したという報告が上がっている。走行に支障はなく、死傷者もない。防護膜の張り替えと線路脇の清掃だけで済むらしい。
つまらない事故。
ありふれた日常。
その列車に、白銀桐子が乗っていた。
別の書類では、西部領の治安維持費について追加承認を求められていた。さらにその下には、東部領からの形式ばった照会、北部領からの兵站関連の申請、養成所からの設備更新依頼が続いている。
世界は紙の上でも騒がしい。
リーゼロッテは一つずつ読み、不要な文言を削り、承認し、保留し、差し戻した。魔王の印は重い。だからこそ、軽く押す。
リーゼロッテは次の報告書を開いた。
サニー・アージェントからの簡潔な報告だった。文面には感情が少ない。少ないように見せているだけで、読む側が読めば、行間の苛立ちまではっきり見える。
桐子を回収。
負傷軽微。
魔力酔いあり。
固有魔法は武具創造系、形状は槍に偏る。
初期発現は歪な棒状金属。制御不安定。
一週間の基礎訓練で、短時間の発動と停止を確認。
養成所特別クラスへの入所手続きに移行。
リーゼロッテは声を出さずに笑った。
サニーは、報告書を書く時だけ妙に几帳面になる。口では面倒だと吐き捨て、態度では投げやりに見せながら、必要な観察は抜かない。だからこそ、使いやすい。
だからこそ、怒らせると面白い。
「武具創造」
リーゼロッテは、そこだけ小さく読み上げた。
銀の槍。
未来から来た少女。
黒峰の気に触れ、魔力を知らず、親友を刺した子ども。
どれも単独では決定打にならない。桐子自身に、世界を終わらせるほどの力を期待しているわけでもない。あの子は刃ではない。少なくとも、リーゼロッテを終わらせる刃ではない。
だが、火種にはなる。
静かに積まれた盤面へ、横から投げ込む小さな異物。正しい位置に落ちれば、均衡は崩れる。均衡が崩れれば、人は本音を出す。隠していた傷も、埋めていた秘密も、守っていた嘘も、形を保てなくなる。
リーゼロッテは、そういう瞬間が好きだった。
好きだった、というより、必要だった。
花弁が一枚、机の上へ落ちた。
リーゼロッテはそれを見た。
終わったものは、静かだ。
役目を終えた花弁は、もう何かを装う必要がない。色を失い、形を失い、やがて掃き捨てられる。それだけのことが、どうしようもなく羨ましい時がある。
羨ましい。
羨ましい?
リーゼロッテはペンを止めた。
いま何の書類を読んでいたのか、一瞬だけ分からなくなった。机の上には報告書があり、茶があり、花があり、自分の手がある。どれも見慣れたものなのに、位置だけが少しずれているように感じる。
指先に持ったペンの重さも、椅子の背に触れている肩も、どこか遠い。
昨日も同じ花を見た気がした。いや、昨日の花は違う色だったかもしれない。先週だったか、百年前だったか。似たような部屋で、似たような花が落ちるのを見た記憶が、紙の束の間に挟まっている。
不要な記憶だ。
今見るべきものではない。
数秒後、意識が戻る。
サニーの報告書。
白銀桐子。
特別クラス。
リーゼロッテは微笑んだ。
他者が見るなら、いつもの魔王の笑みだったはずだ。余裕があり、芝居がかっていて、すべてを見通しているように見える顔。
執務室には誰もいない。
だから、その笑みが途中でひどく空っぽになっても、咎める者はいなかった。
通信端末が震えた。
別件の報告だった。北部領の軍備関連、東部領の継承問題、西部領の治安報告。世界は今日もきちんと動いている。どこかで誰かが怒り、誰かが死に、誰かが生まれ、誰かが帳尻を合わせる。
リーゼロッテは順番に処理した。
魔王としての仕事は滞らせない。
壊れていることと、役目を果たせないことは別だ。
少なくともリーゼロッテは、そういうことにしている。芝居がかった威厳も、退屈な決裁も、各領への調整も、すべては魔王という役職に必要な外殻だった。
外殻が残っている限り、周囲は中身の腐食を見ないで済む。
世界を実験場にしているからといって、世界を雑に扱ってよいわけではない。壊すにしても、終わらせるにしても、盤面は整っている方がいい。
それは責任感に似ている。
似ているだけで、たぶん違う。
サニーからの報告書へ、リーゼロッテは短い返信を打ち込んだ。
確認した。予定通り養成所へ。特別クラスの設置を承認済み。必要な権限は第七班へ委任する。
最後に、少しだけ余計な一文を足した。
大事に育ててくれたまえ、君の可愛いひ孫だ。
送信。
数秒後、端末に短い返信が返ってきた。
殴るぞ。
リーゼロッテは今度こそ声を出して笑った。
その笑いは明るく、楽しげで、部屋の外にいる者が聞けば、魔王が上機嫌なのだと思っただろう。
笑い終えると、また静けさが戻った。
茶は完全に冷めていた。
リーゼロッテはカップを持ち上げ、冷えた茶を口に含んだ。温かい時より香りは鈍く、味は少しだけ硬い。それでも、冷めたという変化がそこにある。
始まり、温まり、冷め、飲み干される。
美しい。
カップを置くと、底にわずかな茶が残った。
リーゼロッテはそれを見つめたまま、次の書類へ手を伸ばした。
白銀桐子は、まだ自分が何に巻き込まれたのか知らない。サニーも、すべてを理解しているわけではない。養成所の子どもたちは、これから互いを知り、傷を持ち寄り、少しずつ形を変えていくだろう。
アイギス・アージェント。
西部領の娘。
東部領の少年。
そして、未来から落とされた白銀桐子。
まだ線にもなっていない点が、ひとつの部屋に集まろうとしている。偶然のように見える配置ほど、後から振り返れば必然の顔をする。
それでいい。
何かが変わるなら、それでいい。
変化の先に終わりがあるかどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも退屈ではない。
リーゼロッテは署名欄へペンを走らせた。
花弁が、もう一枚落ちた。
今度は拾わなかった。
落ちたものは、落ちたままでよかった。




