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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第1章:西の不死と死と過去
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第10話

 養成所の寮は、軍の施設という言葉から桐子が想像していたものよりも、ずっと生活の匂いが強かった。

 外観は石造りで、古い寄宿舎のように見える。だが廊下には柔らかな光を放つ照明が等間隔に浮かび、壁には今日の食堂メニューや訓練場の使用予定が映し出されていた。誰かが笑いながら階段を駆け上がっていく音がして、そのすぐ後に、寮監らしい女性の叱る声が飛ぶ。

 学校だ。

 そう思った瞬間、桐子は少しだけ息を詰めた。

 人間界の学校とは違う。ここは魔王軍の養成所で、廊下を歩く生徒たちは全員、いずれ軍に属するために鍛えられる者たちだ。腰に剣を提げている者もいれば、鞄から魔導具らしい金属片をはみ出させている者もいる。笑い声の向こう側に、戦うための場所特有の硬さが混ざっていた。

 それでも、同じ年頃の子どもたちが当たり前のように生活しているというだけで、桐子の胸には変な痛みが走った。

 真希は今、どこにいるのだろう。

 病院だろうか。意識は戻ったのだろうか。怒っているだろうか。笑って、馬鹿だなと言ってくれるだろうか。

 考え始めると、足が止まりそうになる。

「ここ」

 前を歩いていたサニーが、何の前触れもなく立ち止まった。

 桐子は慌てて顔を上げた。廊下の突き当たりに近い部屋の前で、扉には二つの名前が表示されている。

 アイギス・アージェント。

 白銀桐子。

 自分の名前が、知らない文字列の中に馴染んだ顔で並んでいる。そのことが妙に現実味を持って、桐子はしばらく表示を見つめた。

「荷物は後で届く。と言っても、あんたの私物はほとんどないけど」

「言い方」

「事実」

 サニーは短く答え、扉横の小さな板に指を当てた。淡い光が走り、扉が開く。

「先に入ってるはず。揉めたら自力で解決しなさい」

「放任が早い」

「寮生活の揉め事まで面倒見てたら、私が先に死ぬ」

「死ぬんですか」

「比喩」

 サニーはそこで面倒くさそうに手を振った。

「夕方、説明会。明日から訓練。逃げても無駄だから、場所だけは覚えておきなさい」

「逃げません」

「そう。じゃあ頑張って」

 ひどく軽い言葉を残して、サニーは本当に行ってしまった。

 廊下に残された桐子は、しばらく閉まりかけの扉とサニーの背中を交互に見た。保護者という言葉の意味を、いま一度辞書で確認したくなる。

 部屋の中から、静かな声がした。

「入って大丈夫だ」

 桐子は小さく息を吸い、部屋へ入った。

 寮室は二人部屋だった。左右に一つずつベッドがあり、それぞれの脇に机と収納棚が置かれている。窓の外には訓練場の一部が見え、遠くで生徒たちが走る姿が小さく動いていた。

 その片側、すでに整えられたベッドの前に、一人の少女が立っていた。

 銀色の髪が肩の少し下で揺れている。瞳は橙色で、桐子を見る目に余計な警戒はない。背は桐子より少し高く、姿勢が真っ直ぐだった。軍服に近い訓練用の上着を着ているせいもあるのだろうが、同年代のはずなのに、ずっと落ち着いて見えた。

「アイギス・アージェントだ。今日から同室になる」

 彼女はそう言って、丁寧に頭を下げた。

 桐子も慌てて頭を下げる。

「白銀桐子です。えっと、よろしくお願いします」

「こちらこそ。サニー教官が後見人だと聞いている」

 その言葉に、桐子の肩が少しだけ強ばった。

 後見人。

 たしかに、公開されている情報はそうなるのだろう。未来から来たとか、真希を刺したとか、サニーのひ孫だとか、そんな話を寮の同室相手にいきなり説明できるはずがない。

「そんな感じ、です」

「なるほど」

 アイギスはそれ以上を聞かなかった。

 聞かないでいてくれた、と言うべきかもしれない。桐子の返答が曖昧だったことには気づいているはずだ。それでも、彼女は視線を責める形にはしなかった。

「ベッドはそちらを使うといい。まだ備品は届いていないが、最低限の寝具は入っている。机の端末は初期設定が必要だ。分からなければ手伝う」

「ありがとうございます」

「食堂は一階。浴場は階段を下りて右。洗濯室はその奥。夜間外出は申請制で、訓練場の使用は時間割と予約が必要になる」

 情報がすらすら出てくる。

 桐子は途中から聞き取るのに必死になった。

「すみません。ちょっと待ってください。メモしていいですか」

「もちろん」

 アイギスは表情を変えずに頷いた。

 桐子は机の上に置かれていた薄い板状の端末を恐る恐る触った。光が浮かび上がり、見たことのないはずの文字が読める形で並ぶ。使い方までは分からない。指を滑らせると、画面が意味不明な方向へ動いた。

 アイギスが横から手を伸ばす。

「ここを押す。記録用の項目が開く」

「あ、はい。すごい。ありがとうございます」

「最初は皆そうなる。魔導具に慣れていないのか?」

 桐子は指を止めた。

 慣れていない。そもそも魔導具というものを見たのが数日前だ。けれど、それをそのまま言うわけにはいかない。

「あまり、こういうのが身近じゃなくて」

「そうか」

 また、それ以上は聞かれなかった。

 桐子は端末に教えられたことを打ち込みながら、横目でアイギスを見た。整った横顔。落ち着いた声。無理に踏み込まない距離感。

 いい人そうだと思う。

 同時に、怖くもあった。

 相手が優しいほど、自分が隠しているものの形がはっきりする。白銀桐子は、ここに来るまでの理由をまっすぐ話せない。親友を刺したことも、未来から来たことも、自分の家族のことも。

 同室という近さで、その全部を隠し続ける。

 それは、思ったより息苦しい。

「白銀」

 呼ばれて、桐子は顔を上げた。

「桐子でいいです。名字だと、ちょっと硬いので」

 言ってから、少しだけ後悔した。馴れ馴れしかったかもしれない。

 だがアイギスは、ほんのわずかに目元を緩めた。

「分かった。では、私のこともアイギスでいい」

「はい。アイギス」

「ああ。桐子」

 名前を呼ばれた。

 それだけのことに、胸の奥が軽く揺れた。

 この世界で、桐子の名前を呼ぶ人間はまだ少ない。サニーは呼ぶが、あれはなんというか、訓練対象を識別するための呼び方に近い。リーゼロッテという謎の女は、そもそも信用していいのか分からない。

 アイギスの声は、静かだった。

 特別に優しいわけではない。だが、そこには桐子を今ここにいる相手として扱う温度があった。

 窓の外で、訓練場の鐘が鳴った。低い音が寮の壁を震わせ、生徒たちの声が遠くで流れていく。

「明日から訓練だと聞いた」

 アイギスが言った。

「サニー教官の?」

「はい」

「なら、今夜は早く寝た方がいい」

 あまりに真剣な声だったので、桐子は思わず姿勢を正した。

「そんなにですか」

「そんなにだ」

 アイギスは即答した。

「サニー教官は怠惰に見えるが、訓練に関しては容赦がない。基礎がない者には基礎を叩き込み、基礎がある者には基礎が無意味に見えるほど上を見せる」

「逃げたくなってきました」

「逃げても追いつかれる」

 淡々とした声に、冗談の余地がなかった。

 桐子は自分のベッドに腰を下ろした。寝具は柔らかい。部屋は清潔で、窓の外は明るく、同室相手は礼儀正しい。それなのに、明日という言葉だけが地獄の入口のように見える。

 サニーは、ようこそ地獄へと言った。

 あれは誇張ではなかったのかもしれない。

「アイギス」

「何だ」

「明日、もし私が死んだら」

「死なないようにする」

 返答は早かった。

 桐子は少し驚いて、アイギスを見た。

「守るのは得意だ」

 アイギスはそう言って、自分の右手を見下ろした。手のひらに淡い光が集まり、薄い盾のような輪郭が一瞬だけ浮かぶ。銀色の光はすぐに消えたが、その形は桐子の目に焼きついた。

 盾。

 桐子の槍とは違う、守るための武器。

「すごい」

 思わず言うと、アイギスは少しだけ困ったような顔をした。

「まだまだだ。母なら、もっと正確に使える」

「お母さんも、武具創造を?」

「ああ。剣を創る」

 剣と盾。

 槍。

 同じ武具創造でも、形が違う。形が違えば、きっと背負うものも違う。

 桐子は自分の手を見た。あの歪な槍は、誰かを貫いた。だが、ここでなら別の使い方を覚えられるかもしれない。

 覚えなければならない。

「私も、死なないようにします」

 桐子が言うと、アイギスは静かに頷いた。

「それがいい。守る側としても、その方が助かる」

 真面目な声だった。

 だから少しだけ笑えた。

 異世界の寮で、知らない少女と同じ部屋にいる。明日から地獄の訓練が始まる。真希のことも、自分の罪も、何一つ解決していない。

 それでも、その夜、桐子は久しぶりに誰かの生活音を聞きながら眠ることになった。

 ベッドの向こうで、アイギスが端末を閉じる小さな音がした。

 桐子は目を閉じた。

 明日はきっと痛い。

 それでも、ひとりではない。

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