EX36
クロエは、領主としての実務が感情よりも先に机へ積まれることを、最近になってよく理解するようになった。
西部領事件の後、彼女は正式に領主となった。とはいえ、養成所に在籍している間、日々の政務をすべて担うことはできない。だからローザが領主代行として動き、クロエは王都から確認できる範囲の書類に目を通す。
母が生きていて、代行として動いてくれる。
その安心は大きい。
だが、安心したところで書類は減らない。
寮室の机には、養成所への照会文、サニー・アージェント宛の相談書、西部領内の部署から上がってきた意見書、雇用条件の草案が並んでいた。どれも桐子に関わるものだ。本人にはまだ見せられない。見せる段階ではない。
ただし、進めていないわけではない。
むしろ進めている。
クロエはその事実を否定する気がなかった。
「領主として必要な確認よ」
誰もいない部屋で、クロエは小さく言った。
言い訳に聞こえた。
領主として、白銀桐子は欲しい。魔法無効化下でも動ける対人戦力。現地に赴いて交渉できる柔軟さ。魔界の常識に染まりきっていない判断力。西部領の事件で証明された実績。行政側の言葉に置き換えれば、理由はいくらでも並ぶ。
友人としても、近くにいてほしい。
その一文は、どの書類にも書けない。
クロエはペンを取った。
まず養成所への照会文。卒業後配属を前提とした、適性確認と受け入れ可能性の照会。表現は慎重にする必要がある。養成所側からすれば、生徒本人の意思より先に領地が手を回しすぎるのは好ましくない。だが、早めに調整しなければ配属枠は埋まる。
次に、サニーへの相談書。
こちらはさらに難しい。
サニーは桐子の後見人だ。形式上だけではない。桐子の安全、成長、帰る場所があるかどうかも含めて、彼女は見ている。雑な理屈で押せば、書類ごと切られるかもしれない。比喩ではなく、本当に切られそうな気がする。
クロエは文面を読み返した。
白銀桐子氏の卒業後進路について、西部領として受け入れの意思があり——
硬い。
硬すぎる。
かといって、桐子を西部領へください、と書くわけにもいかない。吸血鬼文化としては、血を味見した相手を気に入ったから近くに置きたい、という感覚も完全におかしくはない。だが、それを王都の養成所へ送る文書に書けば、確実に突き返される。
ローザなら笑う。
執事なら静かに差し戻す。
サニーなら目を細める。
クロエはため息をつき、文面を直した。
西部領は事件後の復旧と行政再編の過程にあり、現地対応力を持つ若手人材を必要としている。白銀桐子氏は、事件当時における判断力、対人戦闘能力、魔法無効化下での対応実績から、領主補佐候補として高い適性を示した。
これなら通る。
感情は隠れている。
隠れているが、消えてはいない。
次は雇用条件だった。
住居、給与、任務範囲、危険手当、訓練環境、王都との連絡手段、帰省に相当する移動支援。桐子が人間界へ戻れるかどうかは分からない。分からないからこそ、選択肢を閉じない条件が必要になる。
戦力として使い潰す気はない。
そう見える条件では駄目だ。
クロエは領主印の扱いを確認した。自分の名で出せるものと、代行であるローザの確認が必要なものを分ける。正式な領主はクロエだ。だが、養成所にいる間はローザが代行として領地を動かす。その二重の形は少し面倒だが、今の西部領には必要だった。
通信端末が震えた。
ローザからだった。
「進んでる?」
開口一番、軽い声が来る。
「母様、もう少し領主代行らしい聞き方はありませんの」
「じゃあ、領主殿。外堀の造成状況はいかが?」
「言い方」
「実態に合わせた」
クロエは額に指を当てた。
否定しきれないのが腹立たしい。
「養成所への照会文と、サニーへの相談書を整えています。雇用条件は草案段階です」
「サニーには正直に書いた方がいいわよ」
「正直に書きすぎると怒られます」
「隠しても怒られるわよ」
「それはそうですが」
ローザは楽しそうだった。
娘が領主として書類に向き合っていることが嬉しいのだろう。だが、楽しんでいるだけではない。彼女は代行として、西部領側の部署を動かしている。人事、財務、警備、復旧、領民への説明。ルシアンがいなくなったことで、行政は驚くほど回り始めた。
それが安心でもあり、苛立ちでもある。
もっと早く、こうなっていれば。
その思いは、クロエの中にまだ残っている。
「桐子ちゃん本人には、まだ言わないのね」
「正式な段階ではありません」
「友達としては?」
クロエは黙った。
通信の向こうでローザが笑う気配がした。
「領主として必要だから、友達として近くにいてほしいから。その両方でいいじゃない」
「混ぜるべきではありません」
「混ざるものよ」
「母様」
「混ざったうえで、相手の選択を奪わなければいい」
その言葉に、クロエは少しだけ息を止めた。
相手の選択を奪わない。
簡単に見えて、とても難しい。ルシアンはそれを奪った。クロエから、使用人から、領地から、選ぶ余地を奪い続けた。だからこそ、自分は同じことをしてはいけない。
外堀を埋めている時点で、かなり危うい気もする。
「……分かっています」
「分かっているなら、あとは書類を上手に作りなさい。サニーは甘い文面より、逃げ道を残した文面の方が通しやすいわ」
「逃げ道」
「桐子ちゃんが断れる余地。王都側が再調整できる余地。西部領側が条件を変えられる余地。全部残しておけば、強引さは減る」
実務の助言だった。
クロエはすぐにメモを取る。
ローザの軽さに隠れているが、こういうところは確かに領主だった。十一年の空白があっても、西部領を知っている。人を動かす言葉を知っている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。あと、個人的な好意は別紙に書かないように」
「書きません」
「本当に?」
「書きません」
通信を切った後、クロエは書類へ向き直った。
外堀を埋めていることは認める。
けれど、橋も残す。桐子が渡るかどうかを選べる橋を。
クロエは新しい紙を取り出し、雇用条件の欄に追記した。
本人の意思確認を最優先とする。
領主としても、友人としても。
そこだけは譲れなかった。




