EX34
会議室に残った資料の匂いは、レイヴンに北部領の冬を思い出させた。
紙とインクと、石壁に染みついた冷えた空気。行政施設の会議室は王都にある。北部領の本家とは違う。違うはずなのに、ダニエルの名が資料の上に置かれただけで、古い石壁の影が足元まで伸びてくるようだった。
会議は終わっている。
ステラは行政側の人員と短く言葉を交わし、サニーは面倒そうな顔のまま先に出ていった。リリーは資料を抱え、第3班の研究室へ戻る準備をしている。第4班から第6班の王都駐在員も、それぞれ本隊への連絡を急ぐだろう。
レイヴンは席を立たなかった。
隣にはナタリーがいた。
いつもならサニーの後を追いかけていてもおかしくない。だが今日は違った。彼女は膝の上で拳を握り、資料の中にある北部領ヴァーミリオン家の文字を見つめている。
「ナタリー」
レイヴンが声をかけると、彼女は顔を上げた。
「はい」
「無理に残らなくてもいい」
「残ります」
返事は早かった。
その速さに、レイヴンは少しだけ幼い頃の彼女を思い出した。式場まで走ってきた子ども。息を切らし、泣きそうな顔をしながら、それでもレイヴンがいないとステラへ伝えた子ども。
あの日から、家は決定的に割れた。
それでも血縁だけは消えない。
「兄様」
ナタリーは小さく言った。
「ダニエル兄様は、どこまで関わっているのでしょうか」
「今の資料では、資金提供元としての関与までだ」
「それだけで済むと思いますか」
「思わない」
レイヴンは正直に答えた。
ナタリーの目が少し揺れる。だが、目を逸らさなかった。
「俺たちは、もう本家の人間ではない」
「分かっています」
「だからこそ、感情で動くな」
「分かっています」
二度目の返事は、少しだけ硬かった。
分かっていることと、納得していることは違う。ナタリーはサニーへの敬愛を前面に出すせいで誤解されやすいが、職務能力は高い。今回の報告が何を意味するかも理解している。北部領が不滅の魔石破壊研究の失敗産物を量産し、魔神教団の蜂起に資金を流した可能性がある。現当主のダニエルがその中枢にいる。
それは、レイヴンの兄が敵になるという話であり、ナタリーの異母兄が敵になるという話でもあった。
レイヴンは通信端末を開いた。
ジョージとスカーレットが王都に借りている部屋へ繋ぐ。
二人は今、同じ屋根の下で暮らしている。ナタリーも本来ならそこへ帰る場所があるが、第7班の宿舎を使うことが多い。任務とサニーへの敬愛が生活の中心にあるせいで、家にいる時間は決して長くなかった。
少し待って、老いた声が応じた。
「会議は終わったか」
「終わりました」
ジョージは驚かなかった。レイヴンがこの時間に連絡する時点で、良い報告ではないと分かっていたのだろう。
続いて、通信の向こうにスカーレットの気配が入る。
「こちらも聞いています。話して」
穏やかな声だった。
けれど、その奥にある熱をレイヴンは知っている。紅蓮の魔女は、怒りをすぐ炎に変える人ではない。燃やすべき時を知っているからこそ、普段は静かにしている。
「北部領ヴァーミリオン家から、アンチ・マジック量産への資金提供が確認されました。現当主ダニエルの承認なしに動く規模ではありません」
言葉にすると、重さが増した。
通信の向こうで、短い沈黙があった。
「そうか」
それだけだった。
レイヴンはその沈黙を知っている。ジョージは感情を荒らさない。荒らせば、周囲が立てなくなると知っている。だが、何も感じていないわけではない。
「祖父上」
ナタリーが身を乗り出した。
「私も同席しています」
「分かっている。顔が見えずとも、声で分かる」
ジョージの声が少しだけ柔らかくなる。
「お前はどう受け止めた」
「腹が立ちました」
ナタリーは即答した。
「お姉様に面倒をかけることにも、領民を巻き込んだことにも、北部の名を使ってそんなものに手を出したことにも」
「そうか」
「ですが、勝手に動きません」
「それでいい」
ジョージの返事は短い。
レイヴンは端末の向こうにいる二人を思った。息子を死罪で失い、家長権を放棄し、ナタリーとスカーレットを連れて本家を離れたジョージ。後妻として家に入り、家の歪みを見届けたうえで離れたスカーレット。二人とも、家の暴走を止められなかった責任を、それぞれの中に置いている。
「ダニエルは」
レイヴンは言いかけて、少し止まった。
深く思い悩んでいるわけではない。
ダニエルとは、もう決別している。式の前日に監禁された時点で、兄弟としての道はかなり遠くなった。後の年月で、その距離はさらに開いた。
それでも、どうしてそうなったのかは気にかかる。
サニーに負けた屈辱か。
家を背負う重圧か。
父である当主の死か。
不死兵団の話を聞かされ続けた北部領の空気か。
理由はいくらでもある。だが、理由が分かっても、許されるわけではない。
「兄は、ずっと家の論理を信じていました」
レイヴンは言った。
「それがいつから、ここまで歪んだのか。俺には分かりません」
「歪みは、急に生まれるものではない」
ジョージの声は低かった。
「見逃されたものが積もる。都合のいい言葉で包まれる。家のため、領地のため、未来のため。そう言っているうちに、誰も止められなくなる」
レイヴンは目を閉じた。
分かっている。
自分も止められなかった側にいる。
サニーが西部領へ送られた時も、ステラを家の駒にしようとした時も、レイヴンはずっと遅れて声を上げてきた。間に合ったこともある。間に合わなかったこともある。
「スカーレット」
レイヴンは通信の向こうへ声を向けた。
「北部領側の情報で、何か気づくことがあれば共有してください」
「分かっているわ。あの家が何を隠す時に、どこへ力を入れるかは覚えている」
スカーレットの声は静かだった。
「ただし、あなたもナタリーも、すぐに背負いに行かないこと。これは一人で抱える話ではないわ」
「はい」
「ナタリー」
「はい」
「サニーを追いかけるなとは言わん。ただ、北部に関しては熱だけで走るな」
ナタリーが一瞬だけ言葉に詰まる。
「……努力します」
「そこは断言しろ」
「断言します。努力もします」
レイヴンは少しだけ息を吐いた。
緊張が解けたわけではない。だが、ナタリーがいつもの形を取り戻しかけたことに、わずかな安堵があった。
通信を切った後、会議室は静かになった。
ナタリーが資料を閉じる。
「兄様」
「何だ」
「私たちは、北部を捨てたのでしょうか」
レイヴンはすぐには答えなかった。
捨てた。
そう言えば簡単だ。
だが、捨てたからといって何も残らないわけではない。血筋、記憶、責任、怒り、後悔。どれも身勝手に消えてはくれない。
「本家とは決別した」
レイヴンは言った。
「だが、北部領で生きる者たちまで捨てたわけではない」
ナタリーは黙って頷いた。
その表情に、幼い日の面影が一瞬だけ重なる。式場へ走った子どもは、今や第7班の副隊長として北部の名と向き合っている。
敵対軸が兄弟姉妹へ向かっている。
その事実を、レイヴンは静かに受け止めた。
ダニエルがなぜそうなったのか。
答えはまだ出ない。
けれど、答えを探すことと、止めることは別の話だ。
必要なら、止める。
たとえ相手が兄であっても。




