EX32
リュウガは、訓練場の土を踏んだ瞬間、自分が見られていることに気づいた。
特別クラスの面々だけではない。通常クラスの生徒も、訓練場の端や観覧用の通路からこちらを覗いている。誰も露骨には騒がない。だが、気配はある。東部領の次期領主候補が倒れ、数日安静にされた後、サニー・アージェント直々の許可制訓練を受ける。
見世物としては、十分だった。
リュウガは息を吐いた。
「気になる?」
正面でサニーが腕を組んでいる。
彼女はいつも通りだった。こちらの体調を気遣う顔でも、特別な技術を授ける師の顔でもない。面倒な問題児を、必要な範囲で叩き直す顔だ。
「ならないと言えば嘘になります」
「なら気にしなさい。見られて動きが乱れるなら、代表戦なんて出るだけ無駄」
初手から遠慮がない。
リュウガは苦笑しかけて、やめた。笑えるほど余裕があるわけではない。
東部領の次期領主決定戦は前倒しになった。理由は工作だと分かっている。こちらの準備を削り、焦らせ、判断を鈍らせるための動きだ。分かっていても、焦りは消えなかった。兄の代わりに立つと決めた。ならば負けるわけにはいかない。
その焦りで気に手を出し、倒れた。
強くなるための訓練で倒れてどうする。
サニーの言葉は、まだ胸の奥に刺さっている。
「今日は何をやるんですか」
「歩く」
「……歩く?」
「そう。歩く。構える。止まる。避ける。振る。以上」
「基礎だけ、ということですか」
「基礎だけじゃ不満?」
不満ではない。
ただ、時間がないという感覚が喉元まで出かかった。派手な技が欲しいわけではない。だが、今の自分に足りない何かを埋めなければならない。そうでなければ兄の影に追いつけない。
サニーは、その焦りを見透かしたように目を細めた。
「奇策に甘えるな。技術に頼るな。戦法に寄りかかるな」
「それは」
「次代を背負って立つつもりなら、まずは足腰を鍛えなさい」
言葉そのものは地味だった。
だが、リュウガの胸には妙に重く響いた。
領地を背負うという言葉は、武器の扱いや勝ち筋の多さだけでは済まない。倒れないこと。崩れないこと。前へ出る前に、自分の体重を自分で支えられること。
サニーが言っている基礎とは、そういう話だった。
「代表戦で気を使うつもり?」
「……いいえ」
言葉にすると、腹の底で重くなった。
気は切り札になる。魔法に対して、あれほど効くものはない。だが、自分の身体にも傷を入れる。運用を間違えれば吐血して倒れる。試合中にそれをやれば、勝つ前に終わる。
「なら捨てなさい。少なくとも今は」
サニーは淡々と言った。
「勝つために必要ないものを、勝つ前に抱えるな」
リュウガは奥歯を噛んだ。
遠くで誰かが小さく声を漏らした。見学している生徒の誰かだろう。奇策も新技も与えられず、基礎に戻される。それは地味で、派手な成長を期待した者には物足りない。
だが、サニーの前に立っているリュウガには、その地味さが重かった。
「始めるわよ」
サニーが片手を上げる。
武器は持っていない。
リュウガは長短の二刀を構えた。いつもなら、相手の装備を確認し、距離を測り、不得手を探す。だが、サニーに不得手があるようには見えない。少なくとも、今のリュウガに見える範囲にはない。
「踏み込み」
声が落ちる。
リュウガは前へ出た。
次の瞬間、肩を押されていた。
斬られたわけではない。殴られたわけでもない。ただ、踏み込みの線をずらされ、重心を奪われた。足が流れる。倒れはしない。だが、攻撃は死んだ。
「遅い」
「もう一度」
「言われなくても」
何度も繰り返した。
踏み込めば止められ、角度を変えれば崩され、武器を替えれば間合いの前で潰される。
サニーは強い。
それは分かっていた。分かっていたはずだった。けれど、実際に向き合うと、強さの種類が違う。出力で圧倒されるのではない。速さだけでもない。こちらが何をしようとしているのか、その形になる前に潰してくる。
焦りが少しずつ削られていく。
削られた分だけ、足元が見える。
代表戦に出る予定の者たちの中に、サニーより強い相手などいないだろう。少なくとも、こんなふうに基礎の前段階で選択肢を潰してくる相手はいない。ならば、ここで耐えられるなら、他の相手にも耐えられる可能性はある。
わずかな余裕が生まれた。
それは安心ではない。焦りを消すほどのものでもない。ただ、全部が手遅れだと思い込む状態から、一歩だけ戻るための余白だった。
「今、考えたでしょ」
サニーが言った。
リュウガの背筋が伸びる。
「顔に出ましたか」
「足に出た」
「厳しいですね」
「厳しくしてるの」
見学していた生徒たちが、少しざわめいた。
桐子の姿もあった。クロエと並んで、訓練場の端から見ている。アイギスは少し離れた場所で、腕を組んでいた。彼女の視線は冷静で、こちらの崩れ方まで見ているようだった。
リュウガは目を逸らしたくなった。
だが、逸らさなかった。
見られている。
それでいい。
兄の代わりになろうとして倒れた自分を、ここから作り直すなら、見られることから逃げるわけにはいかない。
「次」
サニーの声が飛ぶ。
リュウガは構え直した。
華々しい勝利など、今日の訓練場にはない。
あるのは、踏み込みと、崩れた重心と、土を噛む靴音だけだ。
それでも、その一歩が勝ち残るためのものなら、今はそれでいい。
リュウガは前へ出た。




