EX31
アイギスが部屋を空けたのを確認してから、桐子は寮室の鍵を閉めた。
やましいことをしている自覚はある。だから鍵を閉めた。やましくないなら、机の上に紙を広げるだけで済む。人が入ってきても、勉強していたと言えばいい。
けれど、これは勉強ではない。
少なくとも、サニーが見たら勉強とは認めない。
桐子は机の上に数枚の紙を並べた。授業で使った魔力制御の写し、汎用魔法概論の板書、治療室で聞いたリュウガの説明を思い出しながら書いた走り書き。そして一番端に、黒峰流の呼吸について自分の記憶だけでまとめた紙を置く。
気。
その文字を書くだけで、指先に妙な重さが残った。
サニーには禁じられている。
気を使うな、訓練するな、呼吸法を変えるな、体内を探るな。
言い方は違ったが、意味はそうだった。桐子も分かっている。リュウガは気と魔力をぶつけて倒れた。吐血して、立てなくなって、数日は安静になった。強くなるための訓練で倒れてどうする、とサニーに言われていた。
正論だ。
正論は、正しいから厄介だ。
「やらない。まだ」
桐子は小さく声に出した。
言い訳のように聞こえた。
実際、言い訳だった。
今すぐ実行するつもりはない。休暇に入るまではやらない。訓練場も監視されているし、寮で倒れたらアイギスに見つかる。そうなればサニーに知られる。サニーに知られたら、たぶん叱られる。叱られるだけで済めばいいが、場合によっては訓練そのものから締め出される。
だから今は、考えるだけ。
どうすれば禁止された範囲を、安全に踏み越えられるか。
桐子はその一文を書きかけて、手を止めた。
安全に踏み越える。
言葉として、だいぶろくでもない。
禁止を守るのではない。禁止された理由を理解したうえで、破る方法を探している。黒峰流の道場で徹心が聞いたら、笑うかもしれない。理沙なら額を押さえるかもしれない。真希なら、どうだろう。
真希なら、たぶん先に試す。
そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。
桐子はペンを置く。
真希を刺した時、自分は選べなかった。公式試合の最中、衆人環視の中で、銀の光が暴発し、親友の腹を貫いた。今ならあれが魔法の暴発だったと分かる。武具創造の形すら取れていない、制御不能の力だった。
選んでいないから許されるわけではない。
むしろ、選べなかったことが罪の中心にある。
ルシアンを殺した時は違った。分からない力を握り、クロエの声を聞き、アイギスの背中を見て、それでも自分で決めた。戦場で必要だったから殺した。あの選択が正しかったのか、軽く言うつもりはない。ただ、背負う場所は分かる。
真希の時は、背負う場所すら分からなかった。
桐子はもう一度ペンを握った。
だから、気を避け続けることはできない。
黒峰流は、身体の動きだけではない。呼吸、重心、相手との距離、力の通し方。その奥に気がある。リュウガが見抜いたのは、桐子の動きにそれが残っているからだ。使っていないつもりでも、黒峰流である限り、完全に切り離せない。
魔力と気は反発する。
リュウガの身体は、それを証明した。
自分の事故は、魔法が制御できなかったことで起きた。だが、もしあの時、自分の中にある別の力も関わっていたなら。
魔力だけではなく、気も、何かを邪魔したのなら。
紙の上に、桐子は線を引いた。
魔力。
気。
その間に、反発、と書く。
次に、分離、と書きかけて止めた。
完全に分けることが正解なのかは分からない。リュウガは、魔力を取り入れる量を極限まで減らして、扱うエネルギーを切り替えると言っていた。ならば、魔力と気を同時に強く動かすのが危険なのか。順番を間違えると衝突するのか。魔力を弱めた状態なら気を探れるのか。
呼吸法変更は禁止。
体内を探るのも禁止。
気の訓練も禁止。
桐子は紙の端に、サニー禁止事項、と書いた。
その下に、実行不可、と書く。
さらにその下に、小さく、休暇まで、と付け加えた。
自分でも性格が悪いと思う。
けれど、何もしないで待つことはできなかった。
強くなりたい、だけではない。
制御したい。
二度と、向ける先を間違えないために。
桐子は深く息を吸い、いつもの呼吸で止めた。黒峰流の呼吸へ寄せない。ただの深呼吸。ここで少しでも変えたら、計画ではなく実行になる。
それは駄目だ。
まだ駄目だ。
机の上の紙を見下ろす。仮説は穴だらけだった。リュウガの話も、授業の知識も、自分の記憶も、どれも足りない。けれど足りないことが分かっただけでも、何も考えずに突っ込むよりはましだ。
桐子は紙を畳んだ。
捨てるべきか迷ったが、捨てなかった。寮室の引き出しの奥、訓練用の手袋の下へ入れる。見つかったら終わりだ。アイギスなら、たぶん見つける。だから場所は後で変える必要がある。
鍵を開ける前に、桐子はもう一度だけ机へ向き直った。
「やらない。休暇までは」
今度は言い訳ではなく、確認として言った。
それでも、先へ進むための準備は始まっている。
禁止された扉の前で、桐子は鍵の形を紙に描いた。




