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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第2章:東の死と不死と未来
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EX30

 軍学校を卒業してからも、ヴァーミリオン家の石壁は変わらなかった。

 北部領の本家にある広間は、磨かれた床も、高い天井も、壁に掛けられた古い武具も、見る者に家の歴史を押しつけるように整えられている。そこでは個人の喜びも、怒りも、悲しみも、まず家の面子という形へ整え直される。

 ステラとレイヴンの婚姻は、その壁に亀裂を入れた。

 軍学校で育った関係を、二人は家の許しへ持ち込んだ。レイヴンは使える理屈を並べた。本人同士の意思、軍学校での評価、将来の役割、家にとっての損得。感情だけで押し通せば潰されると知っていたから、彼は感情を理屈の中へ丁寧に隠した。

 ステラもまた、正面から頭を下げた。整った姿勢で、整った言葉で、けれど誰かに与えられた役割ではなく、自分で選んだ相手の隣に立つために。

 ヴァーミリオン家の当主は、それを認めなかった。

 表向きには、家格、血筋、役割、将来の安定。理由はいくつもあった。だが、根にあるものは単純だった。ステラは家が扱うべき価値ある駒であり、家督を継ぐ予定のダニエルと結びつけるのが最も都合がいい。次男であるレイヴンが、家の予定を崩してまで手に入れていい相手ではない。

 ダニエルは、その判断を支持した。

 むしろ計画を形にしたのは彼だった。式まで進んでしまったなら、式を壊せばいい。レイヴンを表に出せなければ、婚姻は成立しない。ステラは恥をかき、アージェント側は怒るだろう。それでも、ヴァーミリオン家が力で押し切れば、最後には政治の話になる。

 当主は許可した。

 その時点で、計画は家の意思になった。

 式の前日、レイヴンは本家の奥へ呼び出された。話し合いという名目だった。部屋へ入った時点で扉は閉められ、護衛が外に立つ。武具は取り上げられ、通信手段も封じられた。荒い拘束ではない。怪我をさせないよう配慮された、家族を閉じ込めるための監禁だった。

「そこまでするか」

 レイヴンの声は低かった。

 当主は答えなかった。

 ダニエルだけが、扉の向こうで短く言った。

「家を乱す方が悪い」

 その言葉は、レイヴンを怒らせるには十分だった。だが、怒りで扉は開かない。彼は部屋の構造を見て、窓の位置を確認し、外にいる護衛の足音を数えた。力ずくで破れる状況ではない。式までの時間を奪われれば、それで終わる。

 このままなら、ステラは式場で待つことになる。

 その想像だけが、レイヴンの呼吸をわずかに乱した。


* * *

 異変に気づいたのは、ナタリーだった。

 幼かった彼女は、家の大人たちから見れば警戒対象ではなかった。何かを知っても意味が分からない。何かを見ても、子どもの勘違いで済ませられる。だからこそ監視が緩かった。

 ナタリーは、兄の部屋が空であることを知った。レイヴンの名を出すと使用人が目を逸らすことも知った。廊下の奥に普段より多い護衛が立っていることも、子どもの目は見逃さなかった。

 彼女は走った。

 誰かに聞けば止められる。大人に頼れば、家の大人に握りつぶされる。そう判断できるほど賢かったわけではない。ただ、胸の中で鳴っている嫌な音を無視できなかった。

 式場へ着いた時、準備は進んでいた。

 白い布、花、整えられた椅子。北部領の重い空気とは違い、そこには祝福の形が置かれている。ステラは式装束に身を包み、背筋を伸ばしていた。いつものように整っている。整いすぎている。

「ステラ様」

 ナタリーは息を切らして、その前に飛び込んだ。

 周囲がざわめく。子どもが入っていい場ではない。使用人が止めようとしたが、ナタリーはその手を振り払った。

「レイヴン兄様が、いません」

 ステラの表情が変わった。

 大きく崩れたわけではない。けれど、目の奥の温度が一瞬で落ちた。式場の空気が凍りつく。誰かが取り繕う前に、入口側から別の声がした。

「やっぱりね」

 サニーだった。

 彼女の隣にはリリーがいる。二人とも式にふさわしい顔をしていない。サニーは面倒そうで、リリーは事態を分析するように周囲を見ていた。

「お姉様」

 幼いナタリーは、その呼び方をまだ知らなかった。けれど、後にそう呼ぶことになる相手を、この時初めて救世主のように見上げた。

 サニーはナタリーを見て、すぐに視線を式場の奥へ移した。

「ステラ。場所は」

「本家の奥だと思います」

 ステラは即答した。

 そこへ、さらに一人が現れた。

 セレスティア。

 英雄の名を持つその人が式場へ入った瞬間、空気が変わった。誰もが息を呑む。祝福の場を壊すには、あまりにも強すぎる名前だった。

「ステラ、行きましょう」

「はい」

 二人は迷わず式場を出た。

 レイヴンを救出するのは、ステラとセレスティアの役目になった。家の奥へ踏み込むには、正面から押し通すだけの重みが必要だった。

 残された式場では、別の動きが起きていた。

 ナタリーを連れ戻すため、本家の工作員が入ってくる。幼い子どもを回収するための動きとしては、あまりに手慣れていた。式場の扉が閉められ、招待客の一部が青ざめる。

 サニーは舌打ちした。

「子ども相手に人数かけすぎ」

「式場、壊していい?」

 リリーが聞いた。

「壊さず済むと思う?」

「思わない」

「じゃあ聞かないで」

 次の瞬間、銀の光が床を走った。

 柱の飾りが斜めに落ち、扉の金具が切れる。工作員が武器を抜くより早く、サニーは間合いを潰していた。肘が入り、膝が折れ、息が止まる。式場を血の海にする気はない。ただし、立っていられる者も残さない。

 リリーは別の意味で容赦がなかった。

 派手な魔法ではなく、床、壁、照明、布の支柱。周辺の物を使い、相手の足場と視界を崩す。逃げ道を塞ぎ、ナタリーの周囲だけを空ける。式場は祝福の場から、精密に壊される箱へ変わった。

 ナタリーはその中心で震えていた。

 怖かった。怖くないはずがなかった。けれど、サニーの背中だけは、やけに大きく見えた。

「下がってなさい」

 サニーは振り返らずに言った。

 その声を、ナタリーは一生忘れなかった。


* * *

 レイヴンが救い出された時、式場は半壊していた。

 扉は斜めに外れ、花は床に散り、椅子は壁際へ押しやられている。祝福の形は壊れていた。だが、ステラはレイヴンの手を取った。壊れた式場の中央で、それだけは揺らがなかった。

 セレスティアは何も言わなかった。

 ただ、ヴァーミリオン家の使者たちを見渡した。その視線だけで、誰も動けなくなる。英雄の名がどれほど重いか、その場の全員が思い出した。

 騒動の決着は、式の場だけでは終わらなかった。

 計画を立てたのはダニエルだった。だが、当主として許可し、実行させたのはジョージの息子だった。家の意思として動かした以上、責任もまた家の頂点へ向かう。

 死罪が下った。

 それは北部領の内部処理であり、外から見れば家の面子を守るための切断でもあった。計画を立てたダニエルは残る。家は残る。けれど、当主の首を差し出すことで、これ以上の拡大を防ぐ。

 ジョージは、その決着を黙って受け止めた。

 息子を失った父としての顔と、暴走を止められなかった先代としての顔。そのどちらも、彼は人前に大きく出さなかった。出せば、残された者たちが立てなくなる。

 スカーレットは隣に立っていた。

 炎の魔女としてではなく、家族として。

 ナタリーは何がどこまで終わったのか、まだ完全には理解していなかった。ただ、家の空気がもう元には戻らないことだけは分かった。

 ジョージは家長権を放棄した。

 そして、ナタリーとスカーレットを連れてヴァーミリオン家を離れた。家を正せなかった責任を背負うように。これ以上、幼い子どもを家の論理へ差し出さないように。

 アージェントとヴァーミリオン本家の決別は、そこで決定的になった。

 ステラとレイヴンの婚姻は成立した。

 だが、それは祝福だけで飾られたものではなかった。壊れた式場、監禁された新郎、走った幼子、倒された工作員、死罪となった当主。いくつもの傷の上に、二人は立った。

 レイヴンは、ヴァーミリオン本家を捨てた。

 ステラは、家の論理に飲み込まれない道を選んだ。

 サニーは半壊した式場を見て、後から請求される修繕費を想像し、露骨に嫌な顔をした。

 リリーは壊れた照明の構造を眺めていた。

 ナタリーは、その二人の背中を見ていた。

 恐怖の記憶よりも強く、助けに来てくれた姿が焼きつく。家の大人たちが怖かった日、式場が壊れた日、サニーが自分の前に立った日。

 後に彼女がサニーをお姉様と呼ぶようになる原点は、そこにあった。

 北部領の石壁は、その後も変わらず立ち続けた。

 けれど、その中で起きたことは、誰の中でも元には戻らなかった。


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