EX29
魔神が討たれたあと、旧王都は静かにならなかった。
瓦礫の奥、崩れた街路、かつて人の暮らしがあった区画。そこに黒い魔獣が現れるようになった。通常の魔獣とは発生の仕方も性質も違う。討伐しても、しばらくすると別の場所から湧く。黒く、重く、光を受けても色を返さない体は、魔神が残した影のようだと噂された。
英雄セレスティアは、その噂を噂のままにはしなかった。
魔神との関連を疑い、旧王都区域に留まることを決めた。けれど、彼女の腕には二人の幼子がいた。銀の髪と赤い瞳を持つ双子。サニーとステラ。何を代償にして魔神が討たれたのか、二人にはまだ分からない。ただ、抱き上げる腕がいつもより少しだけ強く、別れ際の声が、やけに柔らかかったことだけを覚えていた。
「少しの間、北部で暮らしなさい」
少しの間、という言葉は、大人が子どもに渡せる一番やさしい嘘だった。
双子は北部領ヴァーミリオン家へ預けられた。武門の名家であり、領地を背負う者たちの家。厚い石壁、磨かれた床、訓練場から響く金属音。子どもが泣いても、誰かがすぐ抱き上げてくれる場所ではない。けれど食事はあり、寝床はあり、教育もあった。守られているという事実と、居場所ではないという感覚は、幼い二人の中で矛盾せず同居した。
ステラは早くから行儀を覚えた。褒められた時に微笑む角度も、叱られた時に目を伏せる長さも、子どもにしては整いすぎていた。
サニーは、あまり整わなかった。言われたことは覚える。必要なことも理解する。ただ、理解したうえで気に入らなければ顔に出した。大人たちはそれを扱いづらさと呼び、ステラは、サニーが怒る前にそっと袖を引くことを覚えた。
* * *
四つか五つになる頃、ステラの手に剣が生まれた。
最初は短く、薄く、子どもの手の中で震えるような刃だった。それでも、ヴァーミリオン家の者たちは安堵した。武具創造。家の教育で磨ける才。鍛え、整え、役割に結びつけられる力。ステラは大人たちの視線を受け止め、小さな手で柄を握った。
同じ日に、サニーも力を見せた。
それは剣ではなかった。槍でも、盾でも、斧でもない。銀の光が、ただ空気を裂いた。訓練場の端に置かれていた木製の標的が、音もなく切り落とされる。子どもの魔力ではない。武具創造とも呼びづらい。大人たちが顔を見合わせる間、サニー自身も首を傾げていた。
「……何これ」
その一言に答えられる者はいなかった。
分からない力は、名家にとって扱いづらい。扱いづらい子どもは、さらに扱いづらい。
当時のヴァーミリオン家当主は、判断を早めた。サニーを北部領から離す。表向きの理由はいくらでも用意できた。教育環境、適性、家中の負担、本人の将来。どれも間違いではなく、だからこそ誰も強く否定できなかった。
ステラは玄関広間でサニーを見送った。
馬車の扉が開く。外套を着せられたサニーは、荷物らしい荷物も持たされていない。ステラは駆け寄りたかった。何か言いたかった。けれど、そこには当主がいて、家の者たちがいて、子どもが泣けば済む場ではないことだけは分かっていた。
サニーは振り返って、ステラの顔を見た。
「大丈夫でしょ」
何が大丈夫なのか、誰にも分からなかった。サニーにも分かっていなかったのかもしれない。ただ、その言葉を置いていかなければ、ステラが崩れると知っていた。
馬車が出る。
ステラは泣かなかった。泣かないことだけが、その時できる唯一の抵抗だった。
ダニエルは、その背中を見ていた。家を継ぐ者として育てられていた少年は、当主の判断を間違いとは言わなかった。言えなかったのではなく、言う必要を感じていなかった。家に合わないものは外へ出される。それは彼にとって、秩序の一部だった。
レイヴンは違った。
彼もまた何も言えなかった。けれど、言えなかったことを忘れなかった。
サニーは西部領の孤児院へ送られた。北部の硬い空気とは違う、潮の匂いを含んだ土地だった。そこでも長くはなかった。しばらくして、当時のシュヴァリエ家当主が彼女を引き取った。西部領を治める吸血鬼の家は、ヴァーミリオンとは違うやり方で子どもを見た。
「うちに来るかい」
問いかけは軽かった。けれど、決定は重かった。
シュヴァリエ家から英雄セレスティアへ報告が送られた。旧王都で黒い魔獣を討ち続ける彼女から、短い返答が届いた。頼む、とだけ記されていた。
こうしてサニーは、西部領で暮らすことになった。
そこにはローザがいた。領主家の娘らしく華やかで、よく笑い、よく怒り、サニーの不機嫌を面白がった。リリーもいた。まだ幼いのに、すでに魔法の仕組みを分解するような目で世界を見ていた。三人は姉妹ではない。親族でもない。けれど、同じ食卓につき、同じ廊下を走り、同じ大人に叱られる日々は、血の名前がなくても家族に似た形を作っていった。
サニーの銀の光は、そこでも正体不明のままだった。
ただ、シュヴァリエ家では、正体不明であることが即座に排除の理由にはならなかった。危ないなら危ないなりに扱えばいい。面倒なら面倒なりに距離を測ればいい。ローザはそういう家で育ち、サニーにも同じように接した。
リリーは違った意味で恐れなかった。
「分からないなら、分かるまで見ればいいんじゃない?」
「見るな」
「減るものでもないでしょ」
「削れるかも」
「どこが?」
こうして、サニーは西部領で息の仕方を覚えた。
一方で、ステラは北部領に残った。ダニエルとレイヴンと共に学び、ヴァーミリオン家の作法を身につけた。後にスカーレットが家へ入り、さらに時が流れてナタリーが生まれる。家の形は変わっていく。それでも、ステラの中で玄関広間の光景だけは変わらなかった。
サニーが乗った馬車。
言えなかった言葉。
泣かなかった自分。
それらは、消えずに残った。
* * *
再会は軍学校だった。
当時はまだ養成所とは呼ばれていない。軍属となる者、領地を担う者、各家の期待を背負う者たちが集められる場所。西部領から来たサニーは、入学初日から眠そうな顔をしていた。北部領から来たステラは、背筋を伸ばし、誰に見られても恥じない姿勢で立っていた。
二人はすぐに互いを見つけた。
似た髪。似た瞳。けれど、似ていない歩き方。
サニーは片手を上げた。
「久しぶり」
ステラは、用意していた言葉をすぐには出せなかった。何年も胸の奥で整えてきたはずなのに、本人を前にすると形が崩れた。
「ごめんなさい」
ようやく出たのは、それだけだった。
サニーは眉を寄せた。
「何が」
「あの時、止められませんでした」
「子どもだったでしょ」
「それでも」
「無し」
短い言葉だった。
ステラが顔を上げる。サニーは面倒そうに息を吐き、けれど目を逸らさなかった。
「お互い、どうしようもなかった。だから、それは無し」
許す、とは言わなかった。
許されるべき罪として扱えば、ステラはずっとそれを抱え続ける。サニーはそれを分かっていた。だから、謝罪そのものを受け取らない形で床へ落とした。
ステラは少しだけ唇を噛み、やがて小さく頷いた。
二人の距離は、それで元に戻ったわけではない。幼い頃の空白は、なかったことにはならない。ただ、同じ校舎に立ち、同じ授業を受け、同じ訓練場で汗を流すことはできた。
リリーは当然のようにサニーの隣へ来た。研究者の卵というより、すでに小さな研究者そのものだった。レイヴンはステラの近くにいた。北部領の次男として、家の論理を知りながら、それだけでは人を測らない目をしていた。
ステラとレイヴンは、少しずつ近づいた。
最初は訓練後の確認だった。次に授業の相談になり、やがて休日の図書室で隣に座るようになった。ステラは整いすぎた言葉を少しだけ緩め、レイヴンは家の話になると重くなる声を、彼女の前ではほんの少し柔らかくした。
ヴァーミリオン家の思惑は別にあった。
当時の当主は、家督を継ぐ予定のダニエルとステラを結びつけるつもりでいた。ステラの才、血筋、英雄セレスティアから預けられた子という扱いづらい重み。それらは家に取り込めば価値になる。そう考えるのは、北部の家の論理としては自然だった。
だが、レイヴンは自然だからといって黙らなかった。
何をどう言いくるめたのか、詳しいやり取りを知る者は少ない。家の面子、本人の意思、軍学校での評価、将来の役割。使える理屈を並べ、通せる隙間を探り、彼はステラの隣に立つ理由を作った。恋のためだけではない。家に飲み込まれないための、現実的な足場だった。
ダニエルはそれを面白く思わなかった。
彼にとってサニーは、家が一度外へ出した扱いづらい存在であり、戻ってきた今もなお目障りな存在だった。ステラが整った才として評価される一方、サニーの銀の光は規格外のまま、誰にも説明できない。説明できないのに、弱いわけではない。そこが余計に腹立たしかった。
ある日、ダニエルは訓練場でサニーに模擬戦を申し込んだ。
形式は整っていた。審判もいる。周囲には生徒もいる。いじめではなく訓練であり、制裁ではなく実力確認だと言い張れる場だった。
サニーは面倒くさそうに受けた。
「手加減いる?」
開始前の一言に、場の空気がひやりとした。
ダニエルは笑わなかった。
合図と同時に、彼は正面から踏み込んだ。ヴァーミリオン流の剣は重く、速く、若いながらに完成度があった。普通の相手なら、それだけで押し潰せた。
けれど、サニーは普通ではなかった。
一歩で間合いが消えた。銀の光が走るより先に、身体が動いていた。剣の軌道を外し、懐へ入り、膝を折らせ、肩を落とし、呼吸を奪う。軍用格闘術として教わる前から、彼女の身体は敵を終わらせる形を知っていた。
ダニエルが地面に倒れるまで、長くはかからなかった。
審判が止める。
訓練場に沈黙が落ちた。
サニーは肩を回し、倒れたダニエルを見下ろした。
「手加減、いらなかったみたいね」
その日、ダニエルはサニーを標的にすることをやめた。
ただし、忘れたわけではない。
屈辱は、北部の硬い土の下に沈むように残った。いつか掘り返されるまで、形を変えながら待つ。
サニーとステラは軍学校を卒業するまで、同じ場所で学んだ。失われた幼少期は戻らない。別々の家で育った時間も消えない。それでも、二人は同じ訓練場に立った。片方は銀の光を抱え、片方は剣を握り、互いに言えなかった言葉を少しずつ別の行動へ変えていった。
その頃にはもう、旧王都の黒い魔獣は遠い昔話ではなくなっていた。
英雄セレスティアは今も旧王都で戦っている。
西部領で育ったサニーも、北部領で育ったステラも、その事実だけは同じように知っていた。




