第51話
桐子は、養成所の大講堂に集められた人数を見て、今日の授業が思っていたより大きなものだと知った。
特別クラスだけではない。通常クラスの生徒もいる。上級生もいれば、新入生らしき姿も混じっている。教師陣の席にはサニーが腕を組んで座り、その少し離れたところにステラもいた。
サニーはいつも通りに見える。
ステラは穏やかに座っている。
だが、二人の間には、言葉にしにくい距離があった。
仲が悪いわけではない。むしろ、互いをよく知っているからこそ、無理に近づかないようにしている感じがする。桐子にはその理由が分からない。分からないが、時々そういう気配を感じることがあった。
隣の席で、アイギスが背筋を伸ばしている。
母であるステラの姿があるからだろう。表情はいつも通り落ち着いているが、姿勢に少しだけ緊張が混じっている。
「今日は何の授業なんだっけ」
桐子が小声で聞くと、アイギスが同じ声量で答えた。
「歴史と文化に関する合同授業です。毎年、どこかの時期に行われます」
「歴史と文化」
「今回は絵本『聖女伝説』についてだと聞いています」
「絵本?」
桐子は少し驚いた。
養成所の授業で絵本を扱う。人間界の学校でも昔話や神話を扱うことはあるが、魔王軍の候補生たちが集まる場所で絵本という言葉を聞くと、少し不思議な感じがした。
前方の壇に、一人の女性が上がる。
リーゼロッテだった。
桐子は思わず背筋を伸ばした。
謎の女として出会い、魔王として王都の頂点に立ち、何度か常識の外側からこちらを見てくる人物。彼女が授業に来るだけで、大講堂の空気が一段変わる。
派手な威圧ではない。
むしろ、今日のリーゼロッテは穏やかに微笑んでいる。だが、その穏やかさが、少し芝居めいていた。舞台の上に立つ役者のように、自分が見られていることを知っている微笑み。
「さて」
リーゼロッテは壇の中央で足を止めた。
「今日は皆さんに、とても古いお話をしましょう」
大講堂が静まる。
新入生の何人かは緊張した顔をしている。上級生の中には慣れている者もいるが、それでも私語はない。魔王が絵本を語る、という光景そのものに、妙な説得力があった。
「『聖女伝説』。この題名を聞いたことがある人は多いでしょう。魔界で広く流通している絵本です。幼い頃に読んでもらった人もいるかもしれませんね」
何人かが小さく頷いた。
桐子は知らない。
魔界に来てから、軍事や魔法の基礎は叩き込まれたが、子ども向けの絵本までは追いついていない。
リーゼロッテは、どこからか古い絵本を取り出した。
表紙は擦れている。新しい版ではないのかもしれない。けれど、大切に扱われてきたことは分かった。彼女の指が、表紙の縁をゆっくり撫でる。
「昔々、聖女と呼ばれる人がいました」
その声は、講義ではなく語りだった。
「聖女は、特別な王冠を持っていたわけではありません。世界を変える軍勢を率いていたわけでもありません。ただ、誰かが困っていると聞けば、そこへ向かった。病に倒れた村、魔獣に怯える町、飢えた子どもたちがいる道。聖女は各地を巡り、多くの人を助けました」
桐子は絵本の挿絵を見た。
遠くて細部までは分からない。だが、金髪らしき人物が人々の間に立っている絵が見える。聖女という言葉から想像する通りの、優しく、強い人の絵。
「聖女は剣を取りました。薬を配りました。時には嘘をつき、時には怒り、時には誰かの手を引いて逃げました。絵本では優しい言葉に置き換えられていますが、助けるということは、いつもきれいなことばかりではありません」
桐子は少しだけ意外に思った。
絵本の話なのに、リーゼロッテの語りは甘くない。聖女をただ清らかな存在として扱うのではなく、現実の痛みを少しだけ混ぜている。
サニーを見る。
彼女は腕を組んだまま、無表情で聞いていた。
ステラは、静かに目を伏せている。
桐子には、その違いが気になった。
「やがて聖女は、多くの人々に名を知られるようになります。助けられた人々は彼女を称え、子どもたちはその話を聞いて育ちました。ですが、聖女自身はいつまでも旅を続けられるわけではありません」
リーゼロッテはページをめくる。
「長い旅の終わりに、聖女は自分の生家へ戻ります」
生家。
その場所がどこなのか、リーゼロッテは言わなかった。周囲の生徒たちも気にしていないようだった。古い時代の話だからだろう。桐子も、昔話の村がどこにあるかをいちいち気にしない。
「そこには、不滅の魔女がいました」
大講堂の空気が少しだけ変わった。
不滅の魔女。
桐子はその言葉を聞いて、リーゼロッテを見た。
彼女は微笑んでいる。
何かを隠す笑みではない。むしろ、隠していることも含めて見せているような笑みだった。
「不滅の魔女は、死ぬことがありません。どれだけ時が流れても、肉体を失っても、また戻ってくる。終わりを持たない存在です」
桐子は、サニーとリーゼロッテが同じ場にいる時の空気を思い出した。
上司と部下、という言葉だけでは片づかない。命令する側と従う側というより、互いに刃の位置を知ったまま会話しているような、妙に冷えた緊張が二人の間にはあった。
不滅。
言葉だけなら強そうに聞こえる。だが、リーゼロッテの声で聞くと、なぜか冷たい。
「聖女は、不滅の魔女に看取られます。多くの人を救った人が、最後には一人の魔女に見送られる。絵本はそこで終わります」
リーゼロッテは本を閉じた。
大講堂に沈黙が落ちる。
桐子は少し戸惑った。
もっと明るい結末を想像していた。聖女が人々に祝福されるとか、国が平和になるとか、そういう分かりやすい終わり方。だが、この絵本の最後は、どこか静かで寂しい。
リーゼロッテは生徒たちを見渡した。
「さて、皆さん。この物語は何を教えるものだと思いますか」
何人かが手を挙げた。
人を助ける尊さ。
旅の終わり。
死を受け入れること。
不滅であることの孤独。
答えはさまざまだった。
リーゼロッテはどれも否定しない。
「物語は、読む者の年齢や経験によって姿を変えます。幼い頃は、聖女の優しさに目が向く。戦いを知れば、彼女が剣を取った意味が見えてくる。失うことを知れば、不滅の魔女が最後に何を見送ったのかを考えるようになる」
桐子は手元を見た。
自分なら、どこを見るのだろう。
聖女の旅。
剣を取ること。
助けるために嘘をつくこと。
それとも、最後に看取る不滅の魔女。
真希の顔が浮かびかけて、桐子は息を整えた。
自分はまだ、誰かの最後を穏やかに見送れるような人間ではない。むしろ、誰かを傷つけた側だ。ルシアンを殺した。真希を刺した。どちらも、自分の手から切り離せない。
「聖女は偉大です」
リーゼロッテが言う。
「けれど、偉大だから傷つかなかったわけではない。人々を助けたから、すべてを救えたわけでもない。物語に残る名の裏には、語られない選択があります」
その言葉は、絵本の解説というより別の何かに聞こえた。
桐子はリーゼロッテの顔を見る。
微笑みは変わらない。
だが、その笑みの奥を見ようとすると、何もない穴を覗き込んでいるような気がした。
「皆さんは、これから多くの現場に立つでしょう。軍属として、行政官として、研究者として、あるいは領地へ戻る者として。誰かを助けることもある。助けられないこともある。助けるために、きれいではない選択をすることもある」
大講堂の空気が重くなる。
これは子どもの絵本の授業ではない。
養成所の生徒たちへ向けた話だ。
「その時、物語の聖女のようにあれ、とは言いません」
リーゼロッテはゆっくりと言った。
「ただ、誰かの物語の中に立つことになるのだと、覚えておきなさい」
授業が終わる鐘が鳴った。
誰もすぐには動かなかった。
リーゼロッテは絵本を閉じたまま、壇の上で静かに礼をした。芝居がかった動きなのに、軽くは見えない。
桐子は席を立つ。
隣のアイギスは、ステラの方を見ていた。ステラはいつの間にか顔を上げている。サニーは相変わらず腕を組んでいたが、口元がほんの少しだけ硬い。
「桐子」
アイギスが小さく言う。
「どう感じましたか」
「分からない」
桐子は正直に答えた。
「いい話だった気もするし、怖い話だった気もする」
「私も、少しそう思いました」
クロエが後ろから来る。
「不滅の魔女の扱いが、子ども向けにしては寂しすぎるわね」
「魔界の絵本って、こういうもの?」
「ものによるわ。ただ、『聖女伝説』は昔からそういう話として読まれているはずよ。幼い頃は、もっと単純に聖女が立派だと思っていたけれど」
リュウガは少し離れた場所で、新入生たちがざわめくのを見ていた。
「旅を終えた者を、死なない者が看取る。東部領にも似た話はある」
「あるんだ」
「大抵、看取る側が壊れる」
桐子は返す言葉を失った。
リュウガは自分で言って、少しだけ顔をしかめた。兄のことを思い出したのかもしれない。
大講堂の前方では、リーゼロッテがサニーと何か短く言葉を交わしていた。内容までは聞こえない。ステラはその少し後ろで、二人を見ている。
桐子はその光景に、授業とは別の違和感を覚えた。
三人の間に、何かがある。
だが、桐子が知っていいものではない気がした。
リーゼロッテがこちらを見た。
視線が合う。
彼女は微笑んだ。
桐子は軽く頭を下げる。
その一瞬、絵本の中の不滅の魔女が、壇の上の彼女と重なった気がした。
馬鹿な想像だと思う。
けれど、そう見えてしまった。
大講堂を出る時、桐子はもう一度だけ『聖女伝説』という題名を頭の中で繰り返した。
聖女、不滅の魔女、旅の終わり、そして誰かの物語の中に立つこと。
その言葉は、授業が終わっても胸の奥に残り続けた。




