第49話
クロエは、桐子を西部領へ引き込むための書類が思っていたより多いことに、少しだけ苛立っていた。
執務机の上には、領主家から養成所へ送る予定の照会文、ローザがまとめた受け入れ計画の草案、領内の各部署から届いた意見書、そして桐子本人にはまだ見せられない雇用条件の下書きが並んでいる。
養成所の寮室に持ち込む量ではない。
分かっている。
だが、寮室の机の上に広げてみると、西部領が本気であることがよく分かった。戦力としての評価、現地交渉への適性、魔法無効化下での対応力、黒峰流と武具創造の組み合わせ。行政側の文面は冷静で、数字と実績だけを並べている。
そこに、クロエの感情は書かれていない。
当たり前だ。
書かれていたら困る。
それでも、クロエは意見書の余白を指でなぞった。
桐子が西部領に来てくれるなら嬉しい。
その言葉を、進路調査の日に口にしてしまった。
言い過ぎではない。
嘘でもない。
ただ、あまりにもそのまま言いすぎた気がする。
「何をしているのですか」
アイギスの声がして、クロエは顔を上げた。
寮室の扉が開いている。桐子とアイギスが立っていた。桐子は訓練着の上に上着を羽織り、手には購買で買ったらしい包みを持っている。
クロエは反射的に書類を伏せた。
「何でもないわ」
「何でもない人の動きじゃなかった」
桐子が言う。
「見せられない書類?」
「現時点では」
「現時点では、って言い方」
アイギスが机の端に視線を落とす。
彼女は無理に覗き込まない。そういうところが、彼女らしい。
「西部領関係ですか」
「ええ」
「桐子の進路に関わるものなら、本人の知らないところで進みすぎないよう注意した方が良いかと」
正論だった。
正論は、時に雷撃より痛い。
クロエは椅子にもたれた。
「分かっているわ」
「分かっていて伏せているのですね」
「まだ見せる段階ではないの」
桐子が包みを机の空いた場所に置く。
「お菓子買ってきた。話す?」
「何を」
「見せられない書類を見せずに、話せる範囲のこと」
そういう踏み込み方をしてくる。
桐子は鈍いようで、妙なところは逃さない。真っ直ぐ問い詰めるのではなく、座る場所を作って待つことを覚え始めている。
西部領で死と裏切りを見たからだろうか。
それとも、もともとそういう人間なのか。
クロエは小さく息を吐いた。
「あなたは、卒業後のことをどのくらい考えているの」
「正直、あんまり」
桐子は即答した。
あまりに正直すぎて、クロエは少し肩透かしを食らう。
「あんまり、なの」
「うん。帰れるかどうかも分からないし、こっちで何をしたいかも、まだ全部は分からない。西部領に来てって言われるのは嬉しいけど、嬉しいだけで決めていいのかも分からない」
桐子は包みを開きながら言った。
中から焼き菓子が出てくる。養成所の購買で売っている、少し硬めのものだ。西部領の菓子ほど凝ってはいないが、訓練後にはちょうどいい。
アイギスが茶を淹れる準備を始めた。自然な流れで三人の時間になる。こういう場が増えたことに、クロエは今さら気づいた。
「西部領側は、あなたを欲しがっているわ」
クロエは言った。
「戦力として」
「それは聞いた」
「現地で動ける人間として」
「それも、まあ」
「領民からの要望もある」
桐子が手を止めた。
「領民?」
「西部領の事件後、あなたのことを覚えている者は多い。城での戦闘を直接見た者は少ないけれど、教団兵を止めた者、ルシアンを討った者として話は広がっている」
「それ、ちょっと困る」
「英雄扱いされるのは苦手?」
「苦手というか、違う気がする」
桐子は焼き菓子を割った。
「私は、あの時そうするしかなかったから動いただけだし。戦場で必要だったから殴ったし、刺した。感謝されるのは、変な感じがする」
「それでも、救われた側は感謝するわ」
クロエの声は、自分で思っていたより静かだった。
桐子がこちらを見る。
「私も、その一人だから」
言ってしまった。
まただ。
最近の自分は、桐子に対して少し抑えが利かない。
クロエは紅茶のカップを取った。まだ注がれていないことに気づき、何事もなかったように置き直す。
アイギスが見て見ぬふりをした。
ありがたいような、腹立たしいような気遣いだった。
「クロエはさ」
桐子が言う。
「領主として私に来てほしいのと、友達として近くにいてほしいのと、どっちが大きい?」
直球だった。
クロエは答えに詰まった。
その問いは、クロエ自身も分けられていないものだった。
領主としてなら、桐子は欲しい。魔法無効化下でも動ける対人戦力は貴重だ。魔界の常識に縛られず、現地で判断できる。西部領の外れで起きる小規模な事件、領民との交渉、危険地帯の調査。どれも桐子に向いている。
友人としてなら、近くにいてほしい。
西部領の過去を知ってなお、クロエを変に哀れまず、遠ざけもしなかった。血を味見させても、怖いと言いながら手を引かなかった。桐子の血は美味しかった。そこに吸血鬼としての評価が混じることは否定できない。
それ以外の感情も、混じっている気がする。
まだ名前はつけたくない。
「両方よ」
クロエは言った。
「割合は」
「その質問、意地が悪いわ」
「だって、分けられてない顔してる」
「あなた、最近そういうところが鋭い」
「西部領で学びました」
その返しに、クロエは少し笑ってしまった。
アイギスが茶を置く。
「クロエの感情が混ざっていること自体は、悪いことではないと思います」
「アイギスまで」
「ただし、それを桐子の選択より先に進めるのは、良くありません」
やはり正論は痛い。
クロエはカップを両手で持った。
「分かっているわ。西部領側が先走っているのも、私が止めきれていないのも、認める」
「止める気はある?」
桐子が聞く。
「完全に止める気はないわ」
「正直」
「だって、あなたに来てほしいもの」
今度は、意図してはっきり言った。
桐子は少し困った顔をした。
困らせたいわけではない。
だが、伝えなければ伝わらない。クロエはこの一年で、それを嫌というほど学んだ。隠したもの、伏せたもの、知らなかったものが、どれだけ人を傷つけるかも知った。
だから、少なくとも自分の感情については、嘘をつきたくない。
「来てほしい」
クロエは繰り返した。
「領主としても、友人としても。あなたが西部領にいれば、できることが増える。領民も安心する。私も、少し安心する」
桐子は黙って聞いていた。
クロエは続ける。
「でも、あなたを所有したいわけではない。……少しは、あるかもしれないけど」
「あるんだ」
「吸血鬼なので」
「便利な言い訳」
「事実よ」
アイギスが静かに茶を飲む。
彼女はこの手の会話に巻き込まれすぎず、必要な時だけ言葉を置く。それがありがたかった。
「独占欲があることと、それに従って行動することは別です」
アイギスが言った。
「クロエは、後者を抑えられる人でしょう」
「買いかぶりでは?」
「抑えられないなら、今頃もっと強引に進めています」
クロエは反論できなかった。
実際、もっと強引に進めることはできる。領主家として要望を出し、サニーを説得し、桐子の適性を強調し、周囲の許可を先に固める。外堀は埋められる。
だが、桐子の顔を見ていると、それだけで済ませてはいけないと分かる。
桐子は、自分で選ぶ必要がある。
たとえ、選ばれなかったとしても。
「私は待つわ」
クロエは言った。
「待ちながら、外堀は?」
桐子が聞く。
「少しだけ」
「少しだけ?」
「完全に止めるとは言っていないもの」
桐子は呆れたように笑った。
その笑い方が嫌ではなかったので、クロエは少し安心した。
話はそこで一度途切れた。
三人で焼き菓子を食べ、茶を飲む。訓練の話、新入生の話、サニーの追加訓練に巻き込まれているリュウガの話。桐子は時々笑い、アイギスは穏やかに相槌を打つ。
クロエは、その時間を手放したくないと思った。
西部領に欲しい。
自分の近くにいてほしい。
桐子が帰る場所を探しているなら、その候補に西部領を入れてほしい。
それは領主としての打算であり、友人としての願いであり、吸血鬼としての独占欲でもあった。
まだ恋と呼ぶには早い。
呼んでしまえば、何かが急に形を持ちすぎる気がする。
だから今は、別の言葉でいい。
「桐子」
クロエは声をかけた。
「何?」
「次に西部領へ来る時は、港の方も案内するわ。前は騒動でまともに見られなかったでしょう」
「観光?」
「視察よ」
「観光でいいじゃん」
「視察」
「はいはい、視察」
桐子が笑う。
その横顔を見ながら、クロエは胸の奥にある混ざった感情を、もう少しだけ混ざったままにしておくことにした。
急ぐ必要はない。
急がない方がいい。
それでも、桐子のための椅子を西部領に用意しておきたいと思う気持ちは、消えなかった。




