第48話
桐子は、養成所にも進路調査というものがあるのだと知って、少しだけ安心した。
魔界に来てからというもの、常識がずっと遠かった。警察署からの帰り道で異界へ飛ばされ、サニーに拾われ、養成所へ入り、西部領で教団と戦い、神から借りたような槍で人を殺した。そんな一年を過ごしていると、進路調査票という紙切れがやけに普通のものに見える。
普通であることは、ありがたい。
少なくとも最初はそう思った。
講義室の前で配られた紙には、希望進路、志望理由、得意分野、卒業後に所属を希望する領地や部署、軍属としての進路希望などが細かく並んでいた。人間界の学校で見た進路希望調査に似ているが、選択肢の中に軍、領地行政、魔獣討伐、研究班、地方補佐といった言葉が混じるあたり、ここが魔界であることを思い出させる。
「これは、二年次開始時点で一度提出するものです」
担当教官が言った。
「希望がそのまま通るわけではありませんが、適性、成績、各領地や部隊からの要望を照合し、三年次の進路面談ですり合わせを行います。卒業までに配属先を決めるための基礎資料になりますので、記入内容は真面目に」
周囲がざわめく。
新入生ほどではないが、二年目の生徒にとっても卒業後はまだ遠い。だが、遠いからこそ今のうちに希望を出し、時間をかけて調整するのだろう。法令関係や軍事教練も、三年かけてじわじわ重くなると聞いている。
桐子は紙を見下ろした。
希望進路。
書けと言われても困る。
元の世界に戻りたい、は進路に入るのだろうか。たぶん入らない。黒峰へ帰る、も違う。そもそも帰れるか分からない。かといって、この世界でどこへ行きたいかと聞かれても、王都、養成所、西部領くらいしか知らない。
「桐子」
サニーが横から紙を覗き込んだ。
今日の進路調査は通常授業の一環だが、特別クラスの四人についてはサニーも確認役として来ている。腕を組み、いつもの調子で無遠慮に言った。
「あなたは書かなくていいわよ。決まってるから」
桐子は顔を上げた。
「何がですか」
「進路」
「私の?」
「ええ」
聞き間違いではなかった。
桐子はもう一度紙を見る。希望進路欄は空白だ。何も書いていない。だが、サニーの中では決まっているらしい。
「決まってる、とは」
「西部領補佐方面」
「初耳です」
「今言ったもの」
「今言われました」
サニーは当然のような顔をしている。
桐子は助けを求めるように周囲を見た。アイギスは少し驚いた顔をしている。リュウガは訓練後の疲労が残っているのか、腕を組んだままこちらを見ている。クロエは、なぜか紙に視線を落とした。
目を合わせない。
ものすごく怪しい。
「クロエ」
「何かしら」
「知ってた?」
「何を」
「私の進路」
「進路は本人の希望と適性と受け入れ先の要望を照合して決まるものよ」
「それは今聞いた」
「なら、理解しているじゃない」
「クロエ」
桐子がじっと見ると、クロエは少しだけ唇を引き結んだ。
完全に知っている。
サニーが面倒そうに説明を引き取った。
「あなた、書類仕事は向いていない」
「そこからですか」
「でも、現地に出て交渉する、荒事を処理する、判断して動く、必要なら戦力として前に立つ。そういう適性は高い。西部領の事件でも役に立った」
「役に立ったというか、巻き込まれて必死だっただけですが」
「必死で動けるのは適性よ」
そう言われると、反論しにくい。
西部領の城で、桐子は確かに動いた。魔法無効化装置の中で、黒峰流と短槍と奪った武器で戦い、最後はルシアンを止めた。あれを仕事に向いていると言われるのは複雑だが、現地で何かが起きた時、机に座っているより動く方が自分らしいのは分かる。
「西部領側からも要望が来ている」
サニーは続けた。
「ローザ、クロエ、領内の関係者。正式な話にするにはまだ早いけど、外堀はかなり埋まっているわ」
「外堀」
桐子はクロエを見た。
クロエは今度こそ目を合わせた。
「誤解しないで。あなたを無理やり縛るつもりはないわ」
「外堀って言葉が出てきた後だと、少し信じにくい」
「外堀は母様と領の実務側が勝手に」
「クロエは?」
「……私は、来てくれるなら嬉しいと思っている」
その言い方はずるかった。
領主としての要望ではなく、友人としての言葉に聞こえたからだ。桐子は返事に困る。
嬉しいと言われること自体は、悪くない。
むしろ、胸の奥が少し温かくなる。
だが、進路という言葉になると急に重い。自分の将来は、まだ霧の中にある。真希のいる人間界へ戻る道も、戻った後にどうなるのかも分からない。この世界で生きると決めたわけでもない。
それなのに、この世界の誰かが自分の居場所を用意しようとしている。
ありがたい。
怖い。
どちらも本当だった。
「桐子」
アイギスが静かに言った。
「決定ではないはずです。現段階では、方向性が固まり始めているということかと」
「そう、だよね」
「ただ、あなたが望まれていることは事実でしょう」
望まれている。
その言葉も、桐子の中に残った。
黒峰では、望まれることと鍛えられることがほとんど同じだった。強くなれ、勝て、真希と並べ、真希を超えろ。言葉の形は違っても、そこには期待と役割があった。
魔界で望まれることは、少し違う。戦力として、友人として、西部領で動ける人間として、それらが混ざっている。
「希望がないなら、受ければいいという話でもないわ」
クロエが言った。
桐子は彼女を見る。
クロエは少しだけ真面目な顔をしていた。
「でも、希望がまだ見つからないなら、選択肢として置いておいて。西部領はあなたを歓迎する。少なくとも、私は」
最後の言葉は、少しだけ小さかった。
リュウガが横から言う。
「進路調査で領主から勧誘される奴は珍しいな」
「あなたも東部領の候補でしょう。人のことを言えないわ」
「俺は自分の家だ」
「私は自分の領地よ」
「桐子は自分の家ではない」
「だから今から」
「クロエ」
アイギスが止めた。
クロエは咳払いした。
「今のは言い過ぎたわ」
桐子は思わず笑ってしまった。
笑う場面ではないのかもしれない。だが、クロエが少し先走って、アイギスに止められ、リュウガが余計な一言を挟む。その流れが、あまりに特別クラスらしかった。
サニーだけは面倒そうに資料をめくっている。
「とりあえず、桐子の欄は希望未定で提出するわ」
「本人の希望欄なのに?」
「本人の希望が空欄だから、未定」
「未定でも提出していいんですか」
「二年次の調査票だもの。三年次の面談までに何度か確認が入る。私が後で適当な注釈を付けるわ」
「それ、信用していいやつですか」
「嫌なら今書きなさい」
桐子は紙を見た。
希望進路。
ペン先を欄の上へ置く。
何かを書こうとして、止まる。
西部領補佐。
その言葉は、まだ自分のものではない。だが、完全に他人事でもなくなっている。
「未定でお願いします」
桐子は言った。
サニーは頷く。
「賢明ね」
「賢明かどうかは分かりませんけど」
「分からない時に、未定として出しておくのも判断よ」
その言葉は、少しだけ優しかった。
桐子は進路調査票を畳む。
周囲では他の生徒たちが志望先を書き込んでいる。軍属を目指す者、研究班へ行きたい者、故郷の領地へ戻る者。皆、それぞれの道を紙の上に置いている。
桐子の紙だけが、まだ白い。
けれど、その白さの周囲には、少しずつ線が引かれ始めていた。
西部領、クロエ、ローザ、サニー、養成所、真希。
どの線を選ぶのか、まだ決められない。
それでも、自分を必要としてくれる場所があるのだと知った。
それは、思っていたよりずっと重く、思っていたより少し嬉しかった。
授業後、桐子はクロエと並んで廊下を歩いた。
アイギスは提出窓口へ、リュウガはサニーに呼ばれて別の訓練予定を確認しに行った。二人きりになると、クロエは少し居心地悪そうに口を開いた。
「怒っている?」
「びっくりしてる」
「怒ってはいないのね」
「外堀を埋められてるって聞いた時は、ちょっと」
「それは母様が」
「クロエも嬉しいって言った」
クロエは黙った。
桐子は歩きながら、窓の外を見た。訓練場では新入生が基礎訓練をしている。去年の自分も、似たように何も分からないまま走っていた気がする。
「嬉しいって言われるのは、嫌じゃないよ」
桐子は言った。
クロエの足が少しだけ遅れる。
「ただ、まだ分からない。私、帰れるかもしれないし、帰れないかもしれない。帰りたい気持ちもあるし、こっちでやらなきゃいけないことも増えてる」
「ええ」
「だから、今すぐ返事はできない」
「それでいいわ」
クロエは静かに言った。
「待つくらいはできる」
その言葉が本当かどうか、桐子には少しだけ怪しく思えた。西部領側はすでに外堀を埋めているらしいし、クロエ本人も時々先走る。
それでも、待つと言った声は真面目だった。
「ありがとう」
桐子が言うと、クロエは顔をそらした。
「礼を言うのは、来ると決めてからでいいわ」
「じゃあ、未定」
「ええ。未定」
未定。
今の自分には、ちょうどいい言葉だった。
決めない逃げではなく、三年次の面談まで考え続けるための時間。
桐子は空白の進路調査票を鞄にしまった。
真っ白だった欄は、まだ白い。
けれど、その白さはもう、何もない白ではなかった。




