第46話
桐子がリュウガの自傷を知ったのは、食堂へ向かう途中だった。
噂は、授業の連絡より早く広がる。夜の訓練場で特別クラスの生徒が倒れた。血を吐いたらしい。医療班が呼ばれた。サニー教官が現場にいた。そんな断片が廊下を流れていき、桐子は最初、それが誰の話なのか理解できなかった。
リュウガだと聞いた瞬間、足が止まった。
「桐子?」
アイギスが振り返る。
彼女もすぐに事情を聞き、表情を硬くした。クロエは眉を寄せたが、騒がずに周囲の噂を拾っている。
「治療室」
桐子はそれだけ言って歩き出した。
走るな、と言われた気がする。だが、足は速くなった。訓練場で倒れ、血を吐き、数日は安静だという言葉が、頭の中で何度もぶつかった。
リュウガは無茶をする。
それは分かっていた。出会った頃から、兄の話題になると顔つきが変わった。西部領には同行せず東部領へ帰り、戻ってきてからもどこか焦っていた。アイギスが気づき、クロエも気づき、桐子も気づいていた。
気づいていただけで、止められなかった。
治療室の前には、数人の生徒がいた。特別クラスの生徒が倒れたということで、物見高い者も混ざっている。アイギスが無言で一歩前に出ると、自然に道が開いた。
桐子は扉を叩き、許可を得て中へ入る。
治療室の空気は薬草と消毒液の匂いがした。
ベッドの上に、リュウガがいた。
顔色は悪い。普段の強気な目つきは残っているが、身体が明らかに重そうだった。胸元には治療用の布が巻かれ、傍らの器には血を拭った跡がある。
リュウガは桐子を見ると、苦い顔をした。
「来ると思った」
「来るでしょ」
「見世物じゃない」
「友人の見舞い」
桐子は椅子を引いた。
アイギスとクロエは少し離れた場所に立つ。入室の許可は下りたが、長居はできない空気だった。医療担当者は奥で記録をまとめている。サニーの姿はない。
「何したの」
桐子は聞いた。
リュウガは天井を見る。
「訓練」
「訓練で血を吐く?」
「吐くこともある」
「ないと思う」
「黒峰は違うのか」
不意に出たその言葉に、桐子は一瞬黙った。
リュウガの目がこちらへ戻る。
「お前の動きには、魔法だけじゃないものが混じっている」
「……黒峰流のこと?」
「半分はな」
リュウガは息を吐いた。痛むのか、少し眉が動く。
「武術だけなら説明できる。重心、間合い、関節の使い方、呼吸。だが、お前の身体操作は時々、魔力の流れと合っていない。外から押す力じゃなく、内側から線を通しているように見える」
桐子は手を握った。
リュウガは、かまをかけている。
そう分かった。
だが、完全な当てずっぽうではない。黒峰流の体捌きを見て、彼は本当に何かを感じ取っている。東部領にも気の概念がある。リリーが黒峰で観測したばかりのそれを、リュウガは別の道から見ていた。
「なぜ使わない」
リュウガは言った。
その声には、純粋な疑問があった。
そして、苛立ちもあった。
「使えるなら、なぜ使わない。お前はもっと強くなれるはずだ」
桐子の胸の奥で、古い感覚が揺れた。
畳。
外部大会の会場。
真希の腹を貫いた銀の光。
自分の中で暴発した何か。
魔法を学び始めてから、桐子は気の訓練をやめていた。意識して遠ざけた。魔力と魔法に慣れることを優先したからでもある。けれど、それだけではない。
気に触れれば、あの日の感覚が戻ってくる。
自分の身体の中で、制御できなかった力。
真希を刺した原因は魔法だった。今ならそう説明できる。魔石を持った身体で、気に近い運用をして、魔力と衝突し、銀の槍を暴発させた。理屈としては分かる。
だから恐怖ではない。
少なくとも、ただ怖いから避けているわけではない。
もっと厄介だった。
触れれば、使える気がする。
使えば、今より強くなれる気がする。
それが分かってしまうことが、怖い。
「リュウガは」
桐子はベッドの上の彼を見た。
「それを使おうとして、倒れたの?」
リュウガは答えない。
沈黙が答えだった。
クロエが低く言う。
「馬鹿なの?」
「否定はしない」
「否定しなさいよ、そこは」
「結果がこれだ」
リュウガは自分の胸元を見た。
「魔力と反発した。魔力を絞れば扱えると思ったが、絞り切れなかった。内側でぶつかって、身体の方が持たなかった」
桐子は喉の奥が乾くのを感じた。
リュウガの言葉は、未来の自分の失敗を先に聞かされているようだった。
魔力と気が反発する。
リリーもそう言っていた。黒峰で観測した結果として、魔法とは違う力だと。アンチ・マジックのように消すのではなく、現象の成立する場を押し返すものだと。
自分の身体の中で、それが起きたらどうなるのか。
今、目の前に答えがいる。
「使わない方がいい」
アイギスが言った。
桐子は振り返る。
アイギスの声は冷静だった。だが、冷たくはない。
「少なくとも、独力では。リュウガの状態を見る限り、魔力との反発は想像以上に危険です」
「分かってる」
桐子は言った。
分かっている。
それでも、胸の奥で何かが動く。
黒峰流は、自分の根だ。魔界に来てから、桐子は魔法を覚えた。武具創造も少しずつ形になってきた。だが、身体の奥に染みついているのは、徹心に叩き込まれた黒峰の動きで、真希と向き合うために磨いた体捌きだった。
そこへ戻れば、何かが変わる。
そう思ってしまう。
「お前は」
リュウガが言った。
「どうしてそこまで抑えていられる」
「抑えられてないよ」
桐子は小さく笑った。
笑いというより、息に近かった。
「今、使えるなら使いたいって思ってる」
リュウガの目がわずかに動く。
「じゃあ」
「でも、使わない」
桐子は自分の手を見た。
「今は」
あの日、真希を刺した。
今度は自分を壊すかもしれない。あるいは、誰かを巻き込むかもしれない。強くなるために必要なものだとしても、制御できないまま触れていいものではない。
拳を握る以上は、命を奪う覚悟を持て。
黒峰の教えは、敵に向ける時だけのものではなかった。力を握るなら、それが何を壊すか知っていなければならない。
リュウガは目を伏せた。
「俺は、急ぎすぎたか」
「うん」
桐子は即答した。
リュウガが苦い顔をする。
「少しは気を遣え」
「怪我人だから?」
「そうだ」
「じゃあ、かなり急ぎすぎた」
「言い直して悪化させるな」
クロエが呆れたように息を吐いた。
アイギスはほんの少しだけ表情を緩めた。治療室の空気が、わずかに緩む。
その時、扉が開いた。
サニーが入ってくる。
場の温度が変わった。
怒っているわけではない。少なくとも、声を荒げてはいない。だが、リュウガを見る目は訓練場で刃を抜く前のように静かだった。
「面会はそこまで」
サニーは言った。
桐子は立ち上がる。
「サニーさん」
「桐子」
呼ばれた瞬間、背筋が伸びた。
「あなたも、しばらく気に触らないこと」
桐子は息を止めた。
サニーは続ける。
「使うな、では足りない。訓練もしない。試さない。思いつきで呼吸を変えない。身体の内側を探らない」
「……はい」
「返事が遅い」
「はい」
今度はすぐに答えた。
サニーはリュウガを見る。
「あなたは後で話がある」
「説教か」
「説教で済むと思っているなら、まだ元気ね」
リュウガは黙った。
桐子は治療室を出る前に、もう一度だけ彼を見た。
焦っている顔。
悔しそうな顔。
自分と同じように、どこかへ届きたくて仕方がない顔。
扉が閉まる。
廊下に出ると、桐子は手を開いた。
そこには何もない。
槍も、気も、神威らしきものもない。
けれど、身体の奥では、忘れたふりをしていた流れが、静かに呼吸をしているような気がした。
使ってはいけない。
今は。
桐子はその言葉を、何度も自分に言い聞かせた。




