第45話
夜の訓練場は、昼間よりも音が少ない。
リュウガはその静けさが嫌いではなかった。木剣が空を切る音、靴底が床を擦る音、呼吸が胸の奥で跳ねる音。余計な声がない分、自分の未熟さがよく聞こえる。
養成所の訓練場は夜間も一部が開放されている。正式な授業や模擬戦ではなく、自主鍛錬のための時間だ。もちろん、危険な訓練は禁止されている。監視用の魔導具もある。だが、すべての動きを細かく見るほど厳密ではない。
少なくとも、この時点では。
リュウガは長剣を振り下ろした。
踏み込み、切り返し、短剣へ持ち替える。東部領式の武器術は、一つの武器に執着しない。相手の間合いを奪い、不得手を押しつけ、必要なら敵の武器さえ奪って使う。兄はその切り替えが上手かった。
兄なら、同じ動作でももっと軽く、もっと深く踏み込む。
思考がそこへ行った瞬間、刃筋が乱れた。
リュウガは動きを止める。
「またか」
自分の声が訓練場に落ちた。
兄。
何をしていても、そこへ戻る。
東部領に帰省していた間もそうだった。朝の稽古で兄の足運びを思い出し、会議で兄の判断を思い出し、使用人の何気ない沈黙からも兄の不在を突きつけられた。次期領主決定戦が早まると聞いた時、最初に浮かんだのも兄の顔だった。
兄なら勝てた。
兄なら疑われなかった。
兄なら、古都子の叔父たちに付け入る隙を与えなかった。
そして兄は、もういない。
自分を庇って死んだ。
リュウガは剣を握り直した。
固有魔法の身体強化を流す。筋肉に熱が入り、骨格の奥まで力が満ちる。汎用魔法の身体強化よりも馴染みがいい。自分の血筋に刻まれた魔法だからだ。
それでも足りない。
身体強化だけでは、兄に届かない。
武器術だけでは、東部領を取り戻せない。
なら、別の力が要る。
リュウガは剣を置いた。
息を整える。
気。
東部領では、古くからその存在が知られている。魔力とは違う、身体の内側を通る力。人間界側の武術体系に近いものだと聞いたこともある。だが魔族にとって、気は扱いにくい。魔石を持つ身体には常に魔力が流れ込み、内側の力とぶつかる。
だから、魔力を入れなければいい。
理屈だけなら単純だ。
外から取り込む魔力を極限まで絞り、身体の内側に残る別の流れへ意識を移す。扱うエネルギーを切り替える。魔力で身体を動かすのではなく、もっと深い場所から押し出す。
東部領の古い鍛錬書には、そう書かれていた。
成功例は少ない。
失敗例は、書かれていない。
書かれていないということは、残せなかったということでもある。
リュウガは目を閉じた。
魔力を吸う感覚を止める。魔界の空気には魔力がある。呼吸をすれば、自然と身体へ入ってくる。それを拒む。肌の表面で弾き、魔石へ向かう流れを細くする。
すぐに息苦しさが来た。
魔族の身体にとって、魔力は空気に近い。完全に断つことはできない。断てば動けなくなる。だから細く、限界まで細くする。
胸の奥が冷える。
手足の感覚が鈍る。
そこで、別の流れを探す。
呼吸の奥、筋肉の内側、骨の芯、腹の底。魔力ではない熱があるはずだ。黒峰流の者たちは、それを当たり前のように使うのだろう。桐子の体捌きにも、その痕跡があった。
なぜ桐子は使わない。
ふと、その疑問が浮かぶ。
あれだけの格闘術を持ちながら、今の桐子は気を運用していない。魔力と魔法の訓練を優先しているからだと聞いているが、それだけなのか。
考えが逸れる。
リュウガは歯を食いしばった。
今は自分のことだ。
腹の底に意識を沈める。
細い熱が、確かにあった。
魔力のように外から満ちるものではない。内側に沈んでいる。静かで、重く、扱い方を間違えれば身体ごと沈みそうな力。
掴む。
リュウガはそれを引き上げた。
瞬間、魔石が反応した。
内側の熱と、身体に残った魔力がぶつかる。火花ではない。もっと鈍い。体内で金属同士を無理やり擦り合わせたような感覚だった。
痛い。
だが、まだ耐えられる。
リュウガは踏み込んだ。
身体強化ではない力が足裏へ集まる。床を蹴る。いつもより鋭い。空気が裂けるような感覚があった。
成功した。
そう思った瞬間、胸の奥が軋んだ。
魔力を絞り切れていない。
気を通した場所へ、魔力が遅れて流れ込む。二つの流れが衝突し、筋肉の奥で暴れる。呼吸が詰まる。
リュウガは剣を拾おうとした。
指が動かない。
膝が落ちる。
喉の奥に熱いものが込み上げた。
吐血した。
訓練場の床に、暗い赤が散る。
リュウガは片手をついた。息ができない。胸の中で何かが絡まり、ほどけず、さらに締まっていく。魔力を戻そうとすれば、気の残滓に弾かれる。気を消そうとすれば、魔力が傷口のように流れ込む。
失敗した。
単純な失敗ではない。
自分の身体の内側で、二つの力が噛み合わずに互いを削っている。
「くそ」
声が掠れた。
立て。
立たなければならない。
この程度で倒れてどうする。兄なら倒れない。兄なら、こんな未完成な技に手を出す前に、もっと正しい手順を踏んだだろう。
兄なら。
またそこへ戻った。
リュウガは床を殴った。
拳に痛みが走る。だが、胸の奥の痛みに比べれば薄い。
足音がした。
訓練場の入口から、別の生徒が駆けてくる。夜の自主鍛錬に来た者だろう。顔は見覚えがあるが、名前まではすぐに出てこなかった。
「おい、大丈夫か!」
「触るな」
反射的に出た声は低く荒く、生徒はその響きに足を止めた。
リュウガは自分でも分かっていた。今、身体の中が安定していない。下手に魔力を流されれば、さらに反発する可能性がある。
「教官を呼べ」
それだけ言うのが精一杯だった。
生徒は一瞬迷い、それから走り出した。
訓練場の天井にある監視用魔導具が、淡く光っている。倒れたことは、おそらくどこかへ伝わっている。サニーが執務室にいるなら、すぐに気づくかもしれない。
気づかれる。
その事実に、リュウガは奥歯を噛んだ。
情けない。
勝つために強くなろうとして、床に血を吐いている。次期領主候補が、誰にも挑まれていない訓練場で勝手に倒れている。
これでは兄の代わりどころではない。
意識が揺れる。
床の冷たさが頬に近づく。いつの間にか、片肘で身体を支えることもできなくなっていた。
遠くで足音が増える。
誰かが自分の名を呼んだ。
リュウガは返事をしようとして、また血を吐いた。喉が焼ける。視界の端が暗くなる。
それでも、頭の奥にはまだ同じ言葉が残っていた。
足りない。
このままでは足りない。
兄の死を無駄にしないためには、もっと強くならなければならない。
だが、身体は言うことを聞かなかった。
訓練場の扉が乱暴に開く音がした。
その足音だけは、倒れたままでも分かった。
軽い。
軽いのに、訓練場の空気が一瞬で張り詰める。
「動かさないで」
サニーの声だった。
普段と変わらない、淡々とした声。
リュウガは目だけを動かそうとしたが、うまくいかなかった。
「馬鹿ね」
その言葉は短かった。
怒鳴られたわけではない。
だが、剣で柄頭を押し込まれたように胸に刺さった。
サニーが膝をつく気配がする。魔力が近づき、すぐに引いた。彼女も異常を察したのだろう。無理に回復魔法を流し込まない。
「医療班を呼びなさい。魔力干渉は最小限。内側で反発している」
誰かが返事をした。
リュウガは目を閉じる。
悔しさで、吐き気とは別の熱が込み上げる。
兄の代わりになる。
そう決めたはずだった。
なのに今の自分は、床に転がる未熟者でしかない。
意識が沈む直前、サニーの声がもう一度聞こえた。
「強くなるために壊れるなら、それはただの失敗よ」
反論したかった。
だが、声は出なかった。
リュウガは血の匂いと床の冷たさの中で、闇に落ちた。




