第44話
リュウガは講義室の窓際で、二年目の養成所が思っていたより騒がしいことを知った。
新入生が入ってきたからだ。
廊下の足音が増え、食堂の席取りが少し面倒になり、訓練場の使用申請には去年より細かな時間指定が必要になった。王都の養成所はもともと大きな施設だが、それでも人が増えれば空気は変わる。桐子が初めて来た頃のような、何も知らない顔をした者たちが、真新しい訓練着であちこちを歩いていた。
去年は自分も、あちら側だったのだろう。
そう思いかけて、リュウガはすぐに考えを切った。
自分は違う。
東部領シノノメ家の次代候補として、最初から背負っているものが違う。養成所に入ったのは、ただ学ぶためではない。兄の代わりに立つためで、兄が残した空白を埋めるためで、東部領の名を損なわないためだった。
だから、二年目になった程度で浮かれている暇はない。
「汎用魔法とは、固有魔法を持たない者の代替手段ではありません」
講師の声が、教室の前方から響く。
今日の授業は汎用魔法概論だった。特別クラスだけの授業ではない。サニーによる実技のような例外を除けば、桐子たち四人も基本的には他のクラスと合同で授業を受ける。四人だけのために全科目の講義枠を設けるほど、養成所は暇ではないらしい。
広い講義室には、二年目以上の生徒が混ざって座っている。
前列には真面目そうな生徒が固まり、後方には退屈を隠しきれない者がいる。桐子は中央寄りで、板書を追いながら時々首を傾げていた。魔界の常識がまだ身体に染み切っていない彼女にとって、汎用魔法の理屈は基礎であると同時に、異国語の文法に近いのだろう。
アイギスは背筋を伸ばして聞いている。
クロエは一見余裕のある顔で座っているが、講師の説明が粗くなると指先がわずかに動く。吸血種として固有魔法の扱いに長けている分、汎用魔法への評価はやや辛い。
リュウガは、その全員を視界の端に置きながら、講師の言葉を聞いていた。
「汎用魔法は、魔術式を共有し、訓練によって再現性を高める技術体系です。固有魔法が血筋や個体差による才能に寄る一方、汎用魔法は軍や行政、医療、輸送、生活基盤にまで広がる社会技術でもあります」
黒板に、いくつかの魔術式が描かれる。
魔力を集め、式へ通し、現象を起こす。簡単に見える。だが実際には、魔力の量、密度、流れ、式の安定、周辺環境との干渉まで、多くの要素が噛み合って初めて成立する。
リュウガは、そういう理屈が嫌いではない。
ただ、今は頭に入りにくかった。
東部領で聞いた話が、まだ耳に残っている。
次期領主決定戦が早まる。
もともとの予定より早く、候補者たちは結果を示さなければならない。理由は表向きならいくらでも並べられる。領内情勢の変化、周辺への示し、行政上の都合。だが、リュウガには分かっていた。
古都子の叔父側が動いている。
東部領内で、あの一派が工作を進めている。兄が死に、家の柱が一本折れた後、誰が次を握るか。そこへ割り込むために、時期を早めたのだ。
リュウガは拳を握った。
指先に力が入りすぎ、机の端が小さく軋む。
「リュウガ」
隣から低い声がした。
アイギスだった。
彼女は前を向いたまま、こちらを見ていない。だが、気づいている。
「机が気の毒です」
「……悪い」
リュウガは手を離した。
机の端には、ほんの少しだけへこみができていた。固有魔法の身体強化を使ったわけではない。ただ、苛立ちが力として漏れた。
情けない。
そう思う。
兄なら、こんな場所で焦りを見せただろうか。
兄なら、もっと冷静に、もっと広く、もっと先を見ていたはずだ。東部領の者なら誰もが認める優秀な次代。リュウガ自身も、兄が立つ姿を疑ったことは一度もなかった。
その兄が死んだ。
自分を庇って。
胸の奥に、古い棘が刺さる。
講義が終わる鐘が鳴った時、リュウガは自分が最後の十分ほどをほとんど聞いていなかったことに気づいた。
「おい、リュウガ」
桐子が振り返る。
「さっきの式、東部領だと別の使い方したりする?」
「何の話だ」
「何の話だ、じゃない。今やってた身体強化系の基礎式。東部領式の武器術と相性よさそうだなって思ったんだけど」
桐子は真面目に聞いている。
彼女は魔法に慣れていない分、使えるものをすぐ身体の動きへ結びつけようとする。そこが面白くもあり、危うくもあった。
「身体強化は使う。だが、俺の固有魔法とは別物だ。汎用魔法の式を噛ませると、動きが遅れることもある」
「なるほど。強くなればいいってものでもないんだ」
「強くなるだけなら猿でも考える」
「言い方」
桐子が眉を寄せる。
クロエが横から口を挟んだ。
「あなた、最近ずっとそんな調子ね」
「どんな調子だ」
「余裕がない調子」
リュウガは言い返しかけて、やめた。
図星だった。
クロエは取り繕うのが得意な分、他人の取り繕いにも敏い。アイギスも同じようにこちらを見ている。桐子だけが、少し遅れて何かを察した顔になった。
「東部領で何かあった?」
桐子の問いはまっすぐだった。
悪意はない。
だから、余計に答えにくい。
「代表決定戦が早まる」
リュウガは短く言った。
それ以上は続けなかった。
桐子は瞬きをする。
「それって、次期領主の?」
「ああ」
「早まると、困るの?」
「準備期間が減る」
「それは困る」
「それだけだ」
自分で言って、嘘だと思った。
準備期間だけの問題ではない。兄の死から十分に立ち直れていないこと、兄の代わりとして立つにはまだ足りないこと、敵対陣営の工作に後手を踏んでいること。困る理由はいくらでもある。
だが、それをここで並べても何も変わらない。
クロエが目を細めた。
「それだけ、という顔ではないわね」
「顔つきで政治はできない」
「政治の話をしているのではなく、友人として聞いているの」
友人。
その言葉が、妙に引っかかった。
リュウガは桐子、クロエ、アイギスを見た。去年の自分なら、この三人をそういう言葉で括ることはなかったかもしれない。西部領の事件を経て、互いに命を預ける場面もあった。それでも、領主候補としての自分は、誰かに弱さを見せることをまだ覚えていない。
「心配はいらん」
結局、そう言った。
アイギスが静かに息を吐く。
「心配するかどうかは、こちらが決めることです」
「……お前は時々、真っ直ぐ殴ってくるな」
「盾役なので、正面から受け止める方が得意です」
軽い冗談に聞こえる。
だが、リュウガには少し痛かった。
授業が終わり、講義室から人が流れ出す。新入生らしき者たちが廊下の端で迷い、上級生に道を聞いている。二年目になった桐子たちは、もう完全な新人ではない。だが、卒業までの道はまだ長く、背負うものだけは早く重くなっていく。
リュウガは廊下を歩きながら、東部領の空気を思い出した。
夏季休暇の間、彼はほとんど休まなかった。朝から剣を振り、昼には武器を替え、夜には身体強化の維持時間を伸ばした。誰かに止められれば、休んでいるふりをした。
それでも足りない。
兄に届かない。
兄の代わりに立つには、まだ何かが足りない。
その何かを探すたび、東部領に古くから伝わる技法が頭をよぎる。
気。
魔力とは違う、身体の内側を通す力。東部領では存在そのものは知られている。だが、魔族の身体と相性が悪く、実用化は進んでいない。魔力と反発し、扱いを誤れば自分を傷つける。
だからこそ、切り札になる。
リュウガは足を止めた。
廊下の窓から訓練場が見える。昼の訓練を終えた生徒たちが、片付けをしている。夕方になれば空く時間がある。申請すれば使える。いや、申請が要るのは正式な訓練枠だけだ。自主鍛錬なら、まだいくらでも抜け道はある。
アイギスが隣で立ち止まった。
「リュウガ」
「何だ」
「今、良くないことを考えましたね」
「顔に出ていたか」
「出ていました」
彼女は即答した。
リュウガは苦笑しかけ、うまく笑えなかった。
「大丈夫だ」
「その言葉を、最近よく聞きます」
「便利だからな」
「便利な言葉ほど、信用できないことがあります」
アイギスの声は責めていない。
ただ、見ている。
その視線から逃げるように、リュウガは窓の外へ目を向けた。
「俺は、勝たなければならない」
「はい」
「なら、強くなるしかない」
「それも、はい」
「倒れるほど急ぐ必要があるかは、別問題です」
リュウガは答えなかった。
アイギスはそれ以上追わなかった。
廊下の向こうで、桐子がクロエに何かを言われている。クロエは不満そうで、桐子は困った顔をしている。去年なら見過ごしていた日常が、今はやけに遠く見えた。
リュウガは拳を握り直す。
強くならなければならない。
兄の代わりに立つために。
東部領を、あの叔父たちに渡さないために。
次の授業を告げる鐘が鳴る。
その音を聞きながら、リュウガはもう夜の訓練のことを考えていた。




