EX28
リリーは第3班の会議室で、黒峰屋敷から持ち帰った記録帳を机の中央に置いた。
持ち帰れたのは記録だけだ。
気そのものは瓶に詰められない。魔力のように残留を採取することもできず、魔術式の写しも存在しない。観測した瞬間の数値、映像、リリー自身の目で見た現象、黒峰側から聞き取った言葉。それらを束ねて、ようやく机の上に乗せられる資料になる。
「結論から言うわ」
リリーは会議室を見回した。
元魔法研究所の者、最初から軍属の研究員、記録担当、分析担当。第3班の人員は、表情だけ見れば真面目だった。問題は、真面目な研究者ほど未知を前にすると危ないことだ。
「黒峰流の気は、アンチ・マジックではない」
室内の空気が少し動いた。
西部領の事件で回収された魔法無効化装置は、すでに第3班の解析対象になっている。大人たちが口にする時のアンチ・マジックという名は、便利であると同時に忌々しい。魔法を消す装置。魔術式の構築を阻害し、発動済みの魔法すら巻き込んで消す代物。
黒峰の気は、それとは違う。
「アンチ・マジックは魔術式へ干渉する。気は魔術式を持たない。魔力波形もない。だけど魔法へ接触できる。観測上は、現象の成立する場を押し返すように見える」
「場を押し返す、ですか」
研究員の一人が言った。
「魔力場ではなく?」
「少なくとも魔力場ではないわ。魔力場なら私たちの器材で拾える。拾えないものが、魔力でできた膜を歪ませ、低出力魔法の軌道を逸らし、照明魔導具の動作を不安定化させた」
「魔導具にも影響が出たのですか」
「出た。ただしアンチ・マジックのような停止ではない。出力が押し戻される。例えるなら、回路そのものを切るのではなく、流れようとした水に別の圧をぶつけている感じね」
リリーは黒峰屋敷での観測図を広げた。
紙の上には、水晶の偏り、魔力膜の変形、照明魔導具のちらつき、理沙の手首に生じた浅い傷の位置まで細かく記録してある。
傷の項目で、記録担当が目を止めた。
「負傷者が出ていますが」
「治療済みよ」
「観測計画書には、負傷許容範囲の設定がありません」
「現地で偶発的に発生したから」
「偶発的に発生するほど踏み込んだ、という意味では」
「そうとも言うわね」
会議室の端に置かれた通信端末から、コーイチの声がした。
「言うわね、じゃないんですよ」
画面越しのコーイチは、いつもの事務所にいるらしい。背後には書類棚と、幼い子どもの落書きが貼られた壁が見える。彼も行政上は第3班所属として扱われる。人間界側との窓口であり、今回の観測における一番現実的な止め役でもある。
「コーイチ、あなたは現地窓口として有用な意見を出しなさい」
「有用な意見ならあります。黒峰の人間を持ち帰ろうとしないでください」
会議室の何人かが視線を逸らした。
リリーは眉を上げる。
「誰か、そんな提案をしたの?」
「今まさに三人くらい、言いかけた顔をしていました」
「研究協力者の招聘は正規手続きなら可能よ」
「持ち帰るって表現をまず消してください」
「だから私は言っていないでしょう」
「顔が言っていました」
リリーは少しだけ不本意だった。
確かに、黒峰側の協力者を一定期間こちらへ招く案は有効だ。環境を固定し、観測器材を揃え、治療班を置き、条件を変えながら反応を見る。研究としては当然考える。
ただし、人間を物品のように扱ってはいけない。
それは分かっている。
分かっているので、書類上は協力者招聘と記す。
「次の論点に移るわ。気と魔力は反発する。この反発は、魔法への外部干渉としては利用価値がある。一方で、同一の肉体内で同時運用すれば危険性が高い」
「内臓損傷の可能性ですか」
「ええ。黒峰側も生身で試すことの危険性は認識している。むしろ、認識した上で実践する文化がある」
「それは文化なのでしょうか」
「黒峰という家の文化ね」
リリーは記録帳をめくった。
理沙の柔らかな声と、徹心の静かな存在感を思い出す。彼らは無謀ではない。無知でもない。危険を知らないから踏み込むのではなく、危険を測った上で踏み込む。
研究者とよく似ている。
だから危ない。
「アンチ・マジックとの差異を整理します」
軍属上がりの研究員が別紙を出した。
「アンチ・マジックは魔術式の構築阻害、発動済み魔法のキャンセル、魔導具停止を引き起こす。気は魔法を消さず、成立位置や軌道へ圧をかける。魔導具には停止ではなく不安定化が出る。人体内では魔力との反発により損傷リスクがある」
「いいまとめね」
「ただ、軍事運用の観点では厄介です。アンチ・マジック対策とは別系統の対策が必要になります」
「それも議題に入れる」
記録担当が手を挙げた。
「確認ですが、気を魔力で再現する試みは」
「現時点では不可。再現しようとした瞬間、魔力で別物を作ることになる。まずは現象を現象として扱う」
「では、気を検出する専用器材の開発は」
「必要ね」
「気そのものが採取できない場合、検出器の校正には黒峰側の協力者が必要です」
「だから招聘手続き」
「持ち帰らないでください」
コーイチの声が即座に割り込んだ。
会議室に小さな笑いが起きる。
リリーは咳払いをした。
「言い方を改めましょう。現地協力者との共同観測計画を立案する。場所は人間界、黒峰屋敷、または中立的な施設。治療担当、行政窓口、倫理確認、損壊補償を含める」
「損壊補償」
通信端末の向こうで、コーイチが重く復唱した。
「前回の地面と壁の件、まだ片付いていませんからね」
「あれは低出力だった」
「低出力で壁に穴を作ったんですよ」
「穴ではないわ。損傷」
「言い換えで軽くしないでください」
リリーは視線を逸らした。
研究員たちは真面目な顔で資料を見ている。だが、その目が少しずつ輝き始めているのを、リリーは見逃さなかった。
未知の力。
魔法ではない。
アンチ・マジックでもない。
既存の体系に収まらず、それでいて魔法へ干渉する。
研究者が惹かれないはずがない。
「次回観測案を出して」
リリーが言うと、すぐに複数の声が重なった。
「照明魔導具以外の生活魔導具への反応を見たいです」
「魔力膜の厚みを変えましょう」
「距離減衰の測定が必要です」
「人体負荷の計測は」
「それは慎重に」
「黒峰側は負傷慣れしているようですが」
「だからこそ慎重に」
「低出力の攻撃魔法を複数属性で」
「その前に補修予算を確保してください」
最後だけコーイチだった。
リリーは笑いそうになったが、堪えた。
真面目な議論のつもりだった。
実際、議論は真面目だ。危険性を確認し、既存装置との差異を整理し、次の観測計画を立てている。
ただ、真面目な研究者が未知へ向かう時、その真面目さはしばしば暴走と見分けがつかなくなる。
「では、次回計画の仮題を決めましょう」
リリーは白紙にペンを置いた。
「魔術式を介さない外部圧による魔法現象干渉の共同観測」
「長いです」
コーイチが言った。
「正式書類は長い方が通りやすいの」
「そんなことはありません」
「あるわよ。たぶん」
会議室の研究員たちが、誰も否定しなかった。
リリーは満足して仮題を書き込む。
横道に逸れている。
神に関する伝承調査から見れば、これは明らかに横道だ。
だが、リリーは黒峰の気を見た時から、その横道がどこかで本来の目的地へ合流する予感を捨てられずにいた。魔術式を介さない現象。こちらの理屈では掴めない力。観測しているはずなのに、別の何かに観測されているような気配。
神威の残滓を見た時の違和感と、完全に同じではない。
それでも、無関係とは言い切れない。
「次回までに、観測項目を十一まで絞る」
「十一」
研究員の一人が悲しそうな顔をした。
「最低でも三十は必要では」
「十一」
「二十」
「十一」
「十五」
「十一」
リリーは譲らなかった。
サニーに桐子との面談項目を削られた時の悔しさを思い出す。あの時は納得できなかったが、今なら少し分かる。未知に触れる時、欲張りすぎると対象も協力者も壊す。
壊したら、次の観測はない。
「十一項目で、最大限の情報を取る」
リリーは言った。
「それが研究者の腕の見せ所よ」
会議室の空気が引き締まる。
それでも、研究員たちの目は輝いている。
リリー自身も、きっと同じ目をしていた。
通信端末の向こうで、コーイチが深くため息をついた。
「次は俺も現地で止めますからね」
「期待しているわ」
「止める側を期待されるの、全然嬉しくないんですが」
リリーは記録帳を閉じた。
気は持ち帰れない。
だから、また見に行くしかない。
その結論だけは、会議室の誰もが異論を挟まなかった。




