EX27
コーイチは事務所の机に突っ伏したい気持ちを、どうにか椅子の背に預けるだけで抑えていた。
リリーは黒峰の屋敷へ残った。
彼女の言い分では、コーイチには人間界側の窓口として事務所で待機し、必要な後処理を進める義務があるらしい。言葉だけなら筋は通っている。だが、実際には自分がいない方が実験を続けやすいからだろうと、コーイチはほぼ確信していた。
机の上には、魔界側へ送る報告書、人間界側で処理する帳簿、黒峰家との接触記録、娘の落書きが同じ顔で散らばっている。
仕事場と家庭が混ざった空間。
最近は、その混ざり方が少し危険な方向へ進んでいる。
「お疲れ様、コーイチ」
奥の扉からサーシャが出てきた。
落ち着いた声だった。艶はあるが、媚びるような甘さではない。世帯を持ち、家庭を回し、夫の疲労具合を見て水を差し出す妻の声だ。
その後ろから、ルチアが小さな人形を抱えてついてくる。
「ぱぱ、おしごと?」
「仕事だな。たぶん仕事だ」
「たぶん?」
「分類に困る仕事が増えた」
ルチアはよく分からない顔をした。
サーシャはくすりと笑い、水の入ったグラスを机に置く。
「リリーには、だいぶ叱られたわ」
「だろうな」
「あなたも少し叱られていたじゃない」
「俺は報告した側だ」
「監督責任、だったかしら」
「それを言われると弱い」
コーイチはグラスを手に取った。
リリーの叱責は筋が通っていた。サーシャが黒峰側と深く関わったこと。現地協力者との距離管理を、報告と承認なしに踏み越えたこと。種族や家の倫理が、行政手続きを免除する理由にはならないこと。
叱る相手はサーシャだった。
コーイチは報告者として評価され、同時に、巻き込まれすぎた点を軽く刺された。軽く、とはいえリリーの言葉は逃げ道を残さない。研究者のわりに、ああいう部分は妙に行政の人間だった。
「でも、叱られても、起きたことが巻き戻るわけではないわ」
サーシャはルチアの髪を撫でながら言った。
その言い方があまりにも穏やかで、コーイチは少しだけ顔をしかめた。
「そこを穏やかに言うな」
「では、深刻に言う?」
「深刻に言われても困る」
「困ることばかりね」
「本当にそうだよ」
ルチアが椅子によじ登り、机の端に置かれた紙を覗き込んだ。文字は読めないが、大人たちが何か大事な話をしていることは分かるらしい。
「まま、しかられたの?」
「ええ。リリーに」
「わるいことした?」
「手順を間違えたの」
「てじゅん?」
「先に相談して、許可を取って、みんなが困らないようにすること」
「まま、こまらせた?」
「少し」
サーシャは隠さなかった。
そこは彼女らしい。都合の悪い事実を柔らかく包むことはあっても、なかったことにはしない。
ただ、その柔らかさが時々、人間界の感覚から見るとずれる。
「それで」
コーイチは声を落とした。
「もし、授かったらどうする」
ルチアは人形の腕を動かしている。
聞いていないようで、聞いているかもしれない。コーイチは言葉を選び直そうとしたが、サーシャは普通に頷いた。
「うちで扱う話ね」
「幼児の前で言う話か?」
「家族の話でしょう」
「そういうところだぞ」
「サキュバスとしては自然なのだけれど」
「人間界側ではかなり早い」
サーシャは少し考えた。
コーイチの感覚に合わせようとしている顔だった。彼女はずれているが、ずれを直す努力をしないわけではない。むしろ、家族については真面目だ。
「では、ルチアには分かる範囲で話しましょう」
「話すのか」
「隠すと余計に気にするわ。この子、あなたに似て目がいいもの」
「目の話を軽率にするな」
コーイチは思わず言った。
その目のせいで、黒峰に目をつけられ、サーシャに見出され、今こうして妙な家族会議をしている。
サーシャは悪びれない。
「ルチア」
「なあに」
「もしかしたら、家族が増えるかもしれないの」
「あかちゃん?」
「そうかもしれないし、少し違う形かもしれないわ」
「ちがうかたち?」
ルチアが首を傾げる。
コーイチも同じような顔をしたい気分だった。
「サーシャ」
「大丈夫。難しい話はしないわ」
「すでに難しい」
「では、簡単に。もし増えたら、その子をどう守るかを考えないといけないの」
ルチアは人形を抱きしめた。
「まもる」
「ええ。家族だから」
サーシャの声は、そこだけ少し違った。
サキュバスの倫理観がどうだとか、行政手続きがどうだとか、黒峰との距離がどうだとか。そういう面倒なものを全部通り越したところに、彼女の家族観がある。
狭くない。
血だけでもない。
だが、無責任でもない。
コーイチはそれを知っているから、厄介だと思う。
「俺は、簡単に家族って言葉でまとめるのが怖い」
「ええ」
「ルチアもいる。お前もいる。魔界側の手続きもある。黒峰は黒峰で普通じゃない。生まれてくるものがいるとして、その子に大人の都合を全部背負わせるわけにはいかない」
「そうね」
「そうね、で済ませるな」
「済ませていないわ。あなたが怖がってくれるから、私は安心して少し前に進めるの」
コーイチは言葉を失った。
サーシャはときどき、こういうことを言う。
自分がどれだけ相手を振り回しているか理解した上で、それでも相手の慎重さを信頼していると言ってくる。責めるには落ち着きすぎていて、許すには問題が多すぎる。
だから夫婦は面倒だ。
そして、面倒なまま続いている。
「黒峰側には、俺からも話す」
「理沙さんに?」
「まずは理沙だろうな。徹心さんに真正面から言うのは胃が痛い」
「あの方、面白いわよ」
「お前の面白いは信用できない」
「でも、悪い方ではないわ」
「悪い方じゃないのに厄介な人間が一番厄介なんだよ」
ルチアが人形を机に座らせた。
「ぱぱ、いがいたい?」
「今のところはな」
「なでる?」
「ありがとう。だが胃は外から撫でても治らない」
「じゃあ、あたま?」
「頭も痛い」
ルチアが小さな手でコーイチの頭を撫でた。
サーシャが笑う。
その笑い声は、叱責を受けた者のものとは思えないほど穏やかだった。けれど、軽く見ているわけではない。彼女はきっと、この先の面倒も責任も、自分なりに引き受けるつもりでいる。
コーイチはその横顔を見た。
美人の嫁を捕まえたのか、捕まえられたのか。
結婚して数年経っても、まだ答えは出ていない。
「とりあえず、今日の報告書には余計なことを書くなよ」
「余計なこと?」
「家庭内会議の詳細」
「リリーなら読みたがるかしら」
「読むだろうから書くな」
サーシャはわずかに目を細めた。
「では、必要最低限にするわ」
「お前の必要最低限も信用できない」
「夫婦の信頼が揺らいでいるわね」
「揺らいでない。元からそのへんは信頼していない」
ルチアが不思議そうに二人を見比べる。
「ぱぱとまま、けんか?」
「してない」
「していないわ」
二人の声が重なった。
それがおかしかったのか、ルチアは笑った。
コーイチは少しだけ肩の力を抜いた。
問題は山ほどある。
叱責を受けても、事実は消えない。やってしまったことは、なかったことにはならない。生まれてくるものがあるなら、その子は大人たちの理屈と欲望と手続きの先に置かれることになる。
だからこそ、笑って済ませるわけにはいかない。
だが、笑わずに抱えれば壊れる。
コーイチは報告書の端に、家庭内確認事項、とだけ書いた。
その下には何も書かない。
今はまだ、言葉にするには早い。
ただ、家族が増えるかもしれないという事実だけが、事務所の片隅でルチアの人形と同じように、妙に自然な顔をして座っていた。




