EX26
真希の父は、稽古場の端で古い紙束を開いていた。
紙は乾いている。墨の色は薄れ、ところどころ文字が欠けている。それでも、黒峰の家に残された記録の中では比較的新しい方だ。古いものになると、紙ではなく木簡や写しの写しになり、書いた者の意図よりも、書き継いだ者の癖の方が濃く残る。
稽古場の中央では、真希が動いていた。
目覚めてから、娘の目は変わった。
壁の向こう、床下、死角の裏、相手の肩の角度、天井から吊るした布の揺れ。見えないはずのものまで視界に入る。その異常は、ただ見えるというだけなら便利な道具に見えるかもしれない。
だが、見えすぎることは弱さにもなる。
父は竹刀の先で、床に置いた小球を弾いた。
球は真希の視界の外、柱の陰から転がる。普通なら音で拾う。真希なら、柱の向こうを透かして見える。だからこそ、父は同時に三方向から布を落とし、足元の板をわずかに鳴らし、奥の壁に吊るした鈴を揺らした。
情報を増やす。
増やして、捨てさせる。
真希は一歩踏み込み、布を避け、小球を蹴り返し、竹刀を受けた。
受けは浅い。
父は力を抜かず、そのまま押し込んだ。
「遅い」
真希の足が畳を削る。
怪我は治った。
腹を深く刺された傷は、医療の力と黒峰側の処置でふさがっている。だが、ふさがっただけだ。傷を受けた事実も、素手の試合で白銀桐子が銀の槍を暴発させた事実も、消えたわけではない。
父には怒りがあった。
娘が傷を負ったことへの怒りではない。武術家として未熟だったなら、そこは鍛えるしかない。敗北も負傷も、道の上にはある。
だが、素手の試合で武器が現れた。
その規則違反には怒りがある。
同時に、怒りより深いところに疑問があった。
あれは何だったのか。
白銀桐子はどこへ消えたのか。
なぜ黒峰の気と反発するような力が、あの場で槍の形を取ったのか。
「もう一本」
真希が言った。
息は荒い。だが、目は折れていない。
桐子の生死も、居場所も知らないまま、真希は再戦を信じている。信じているというより、そう決めている。黒峰の血にしては感情が真っ直ぐすぎるが、真っ直ぐな執着もまた武の燃料になる。
「休め」
「まだできます」
「できるかどうかを聞いていない」
父は竹刀を下ろした。
真希は不満を顔に出したが、反論はしなかった。目の異常に適応する訓練は、ただ身体を追い込めばいいものではない。疲労で判断が鈍れば、見える情報に飲まれる。飲まれた状態で動けば、身体が間違ったものを覚える。
真希が水を飲みに下がる。
父は紙束へ目を戻した。
古文書には、気と反発する力についての記述がある。
表記は一定しない。ある箇所では妖術、ある箇所では異国の術、別の写しでは天の火、また別のものでは人ならざるものの息と書かれている。世界観として同じものを指しているのか、記録者が理解できない現象をそれぞれの語彙で書き留めただけなのか、簡単には判断できない。
ただ、共通する点がある。
黒峰の気が、それらとぶつかった時、互いに食い合うような反応を起こす。
片方が片方を消すのではない。
押し合い、裂け、弾け、時には術者の身体を内側から壊す。
父は眉を寄せた。
白銀桐子の事故と似ている。
似すぎている。
古文書には、さらに古い時代の戦闘記録も残っていた。
人の形をしていないもの。
人の言葉を話すが、人ではないもの。
夜に現れ、病や怪異として語られ、時には神仏の名を借りて恐れられたもの。
黒峰はそれらと戦っていたらしい。
らしい、という言い方になるのは、記録が断片的だからだ。技の記録は残る。負傷の記録もある。誰が何を斬り、誰が死に、どの土地でどの術が効かなかったかまで書かれているものもある。
だが、ある時期を境に、その戦闘記録が途絶えている。
技の伝承は続いている。
稽古の記録もある。
家の婚姻や出生の記録も残る。
なのに、敵に関する記述だけが薄くなる。まるで戦う相手が消えたか、あるいは、相手について書くことをやめたかのように。
父は紙の端を指で押さえた。
消えたのか。
隠されたのか。
それとも、別の場所へ移ったのか。
「父さん」
真希が声をかけた。
父は顔を上げる。
真希は水を置き、すでに構え直していた。休めと言ったはずだが、目の中の熱は引いていない。
「桐子に勝つには、もっといる」
「何がいる」
「見えるものを捨てる速さ。あと、見えないものを疑う感覚」
父はわずかに目を細めた。
いい答えだ。
見える目を得た者が、見えないものを疑うと言う。便利さに溺れていない。少なくとも、溺れまいとしている。
「では、次は目を閉じろ」
「は?」
「見えるものを捨てるのだろう」
真希は一瞬だけ顔をしかめ、それから目を閉じた。
父は鈴を三つ外し、床に置いた。布も片づける。視覚情報を奪った上で、音も減らす。今度は、足運び、気配、空気の揺れ、己の身体の傾きだけで受けさせる。
以前よりも、ずっと厳しい。
だが、真希には必要だった。
見えすぎる目を使うには、見ない稽古も必要になる。
父は竹刀を構え、踏み込みを殺し、呼吸の間もわずかにずらした。
初撃は肩ではなく、膝へ向ける。
真希は遅れて反応した。
竹刀が足を打つ。
倒れはしなかった。歯を食いしばり、片足で踏み止まり、反撃の拳を出す。目を閉じたままの拳は、父の胸元から指二本分ずれた場所を通った。
「外れた」
「分かってる」
「目を開ければ当たったか」
「たぶん」
「では、開けても当たらない相手がいたらどうする」
真希は黙った。
父はもう一度打ち込んだ。
今度は真希が受けた。浅いが、受けた。
稽古場に竹の音が響く。
古文書の文字が、父の脳裏に残っている。気と反発する力。人ならざるものとの戦闘。途絶えた記録。白銀桐子の銀の槍。娘に宿った、本来見えないものまで拾う目。
繋がっている。
まだ輪郭は見えない。
だが、無関係ではない。
父は真希の竹刀を弾き、距離を取った。
「今日はここまで」
「まだ」
「ここまでだ。続きは、記録を読む」
「記録?」
真希が目を開けた。
父は古い紙束を示した。
「桐子の行方を追う手がかりになるかもしれない」
真希の顔が変わった。
疲労も痛みも、その一言で奥へ押し込まれる。危うい。だが、その危うさを消せば真希ではない。
「読む」
「読め。だが、信じるな」
「どういうこと」
「古い記録は、事実だけでできていない。恐怖、誤解、隠蔽、願望。そういうものも一緒に残る。必要なのは、書かれたことを信じる目ではなく、書かれなかったことを見る目だ」
真希は少しだけ笑った。
「それ、今の私向きじゃない」
「だから読ませる」
父は紙束を畳の上へ置いた。
白銀桐子は消えた。
だが、消えたものを追う道は、完全には閉じていない。
黒峰の家が長い間しまい込んできた記録の隙間に、何かがある。戦闘記録が途絶えた理由。気と反発する力の正体。人ならざるものと呼ばれた相手の行き先。
父は娘が古文書へ手を伸ばすのを見た。
再戦のため。
行方を追うため。
そして、黒峰が何と戦ってきたのかを知るため。
稽古場の外では、夏の光が強くなっていた。だが、古い紙の上に落ちる影は深い。
父はその影を見下ろし、調査の手がかりがようやく一つ増えたことを、静かに認めた。




