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いずれ空へと続く道  作者: 白銀スーニャ
第2章:東の死と不死と未来
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EX25

 クロエは執務机の上に積まれた書類を見て、領主という言葉が持つ重さを改めて思い知らされていた。

 戦場で命令を出すことと、紙の上で決裁を下すことは違う。

 どちらも人を動かす。どちらも責任を伴う。だが、目の前の書類には血の匂いも、敵の足音も、魔法が消える絶望もない。そのかわり、遅れれば誰かの生活が止まり、間違えれば補償が届かず、曖昧にすれば責任の所在が腐っていく。

 静かな重さだった。

「クロエ様」

 執事が、机の左側に新しい束を置いた。

「中央行政への第一報に対する返信です。復旧支援の申請書式が変更されておりますので、旧様式で作成していた分は差し戻し前にこちらで整えます」

「また変わったの?」

「事件後に臨時の窓口が設けられました。通常手続きよりは早く進むはずです」

「それは良い知らせなのかしら」

「少なくとも、以前よりは」

 以前。

 その言葉が、机の上の空気を少しだけ変えた。

 ルシアンがいた頃、この城の行政は奇妙な滞り方をしていた。必要な書類が遅れる。人員の配置が噛み合わない。使えるはずの予算が別名目で凍る。クロエはそれを、自分が未熟だから分からないのだと思っていた。

 違った。

 分からないようにされていた。

 今、ルシアンがいないだけで、物事は不気味なほど素直に動き始めている。

 その事実に安堵する自分がいる。

 同じくらい、腹立たしさもあった。

「次は」

 クロエは感情を机の下へ押し込め、書類へ視線を戻した。

「旧使用人の復帰希望者一覧です」

 執事が別の紙束を示した。

「全員を一度に戻すのは難しいと判断します。城内の安全確認、身元の再確認、本人の意思確認が必要です。中には別の仕事へ移っている者もおります」

「当然ね。こちらの都合だけで呼び戻すわけにはいかない」

「はい」

 執事の返事は、いつも通りだった。

 祖父だと知った後でも、変わらない。

 背筋の角度も、声の抑揚も、書類を置く位置も、すべて同じ。クロエの中だけが変わっている。目の前の老人は、自分の母の父であり、自分の祖父であり、それでもシュヴァリエ家の執事としてここに立っている。

 それがクロエのためであることは分かる。

 同時に、彼自身のためでもあるのだろう。

 役目を失えば、この人は何として自分の隣に立てばいいのか分からなくなる。

「復帰希望者への面談は、母様にも同席してもらうわ」

「よろしいかと存じます。ローザ様を慕っていた者も多くおりますので」

「怒っている者も多いでしょうね」

「はい」

 執事は否定しなかった。

 その正直さが、今はありがたかった。

「怒っている者を避けるつもりはないわ。母様にも、私にも、聞くべきことがある」

「承知いたしました」

 次の書類は、被害補償に関するものだった。

 城下町の損壊、港倉庫の被害、葡萄畑の北側区画、負傷者の治療費、旧使用人への生活支援、解雇手続きに巻き込まれた者への再調査。項目は多い。数字は冷たい。だが、その一つ一つの後ろに人がいる。

 クロエはペンを取った。

「この港倉庫の補償額、低すぎるわ」

「帳簿上は妥当です」

「帳簿上は、でしょう。倉庫が止まれば周辺の荷運びも止まる。日雇いの者への影響が入っていない」

「追加調査を命じますか」

「命じる。担当は、現地に詳しい者を使って。城内だけで数字を作らせないで」

「承知いたしました」

 執事が短く記す。

 クロエは次の紙へ目を移した。

「葡萄畑は」

「主区画と根は守られております。北側の棚は修復が必要ですが、今年分の全滅は避けられました」

「ナタリー隊の報告と一致しているわね」

「はい。第七班の共有情報とも矛盾はありません」

「なら、修復資材を優先して。『処女の生き血』の区画は、単なる嗜好品ではないわ。外向きの看板でもある」

「そのように」

 言葉にしてみると、自分が本当に領地のことを考えているようで少し奇妙だった。

 いや、考えている。

 考えなければならない。

 母が戻ったから終わりではない。ルシアンが消えたから片付いたわけでもない。書面上の領主はクロエで、母は領主代行として支える側に回った。ならば、これは自分の仕事だ。

 逃げられない。

 逃げる気もない。

「クロエ様」

 執事が次の書類を差し出す前に、わずかに間を置いた。

「お疲れであれば、休憩を」

「まだ平気よ」

「判断が鈍る前に休むのも、領主の務めです」

「それは執事としての助言?」

「はい」

 即答だった。

 クロエは少しだけ目を細める。

「祖父としてではなく?」

「はい」

「本当に変わらないのね」

「変わってほしいのであれば、努力いたします」

「そういう意味ではないわ」

 クロエはペンを置いた。

 窓の外では、城の中庭を人が行き来している。修繕作業の音が遠くに聞こえた。事件の夜には、あの中庭にも敵がいた。今は職人と使用人と兵がいる。壊れたものを直すために、人が動いている。

「あなたは、私が知った後も執事でいるつもりなのね」

「そのつもりです」

「祖父と呼ばれたいとは思わないの」

 問いは、口にした瞬間に少し幼く聞こえた。

 クロエはそれを恥じたが、撤回はしなかった。

 執事は静かに頭を下げた。

「クロエ様が望まれるのであれば、いかようにも」

「あなたの望みを聞いているの」

 執事はすぐには答えなかった。

 長い沈黙ではない。けれど、いつもの即答ではなかった。

「私は、シュヴァリエに仕える者です」

「またそれ」

「それが、私の立ち方です」

 声は穏やかだった。

「父としてローザ様を守れなかった。祖父としてクロエ様に名乗ることもできなかった。ならば、せめて執事として、できることを間違えぬようにしたい」

 クロエの喉が少し詰まった。

 責める言葉はいくつもあった。どうして言わなかったのか。どうして一人で抱えたのか。どうして家族としてではなく、役目として側にいたのか。

 だが、今そのすべてを投げつければ、この人はたぶん受け止める。

 受け止めて、また執事の顔をする。

 それが腹立たしかった。

 そして、少しだけ悲しかった。

「分かったわ」

 クロエはペンを取り直した。

「今は執事として働きなさい」

「はい」

「ただし、いつか祖父として話を聞く時間も作る」

 執事の目が、ほんの少しだけ揺れた。

「承知いたしました」

「逃げないで」

「逃げません」

 その返事は、執事としてではなく、少しだけ別のものに聞こえた。

 クロエはそれ以上追及しなかった。

 仕事は山ほどある。

 感情の整理は、今日一日では終わらない。

 次の書類は、領民向け告知の文案だった。

 ローザの生存、公的発表後の体制、復旧支援窓口、旧使用人に関する問い合わせ先、教団残党への警戒、中央行政との連携。文面は整っているが、どこか冷たい。

「これ、書き直すわ」

「どの部分を」

「全部」

「全部」

 執事がめずらしく復唱した。

 クロエは少しだけ気分がよくなった。

「領民へ出す文でしょう。正確なのは当然として、こちらが何をするのかが見えなければ意味がない。母様が戻った、私が領主として立つ、補償を進める、調査も続ける。それをもっと分かる言葉にする」

「クロエ様ご自身の言葉で?」

「そう」

「では、草案を」

「私が書くわ。あなたは後で整えなさい」

「承知いたしました」

 クロエは新しい紙を引き寄せた。

 最初の一文がなかなか出てこない。領主としての言葉であり、謝罪であり、約束であり、命令ではなく逃げないという表明でもある。

 思っていたよりも、ずっと難しかった。

 戦う方が簡単だと思った。

 だが、簡単なことだけしていれば領主になれるわけではない。

 クロエは息を整え、ペン先を紙へ下ろした。

 西部領の皆様へ。

 あまりに平凡な書き出しだった。

 けれど、そこから始めるしかない。

 執事は黙って隣に立っている。祖父ではなく、執事として。今はそれでいい。今は。

 クロエは一文字ずつ書いた。

 ルシアンがいなくなった城で、止まっていたものが動き始めている。腹立たしいほどに、滑らかに。

 ならば、その流れを自分の手で掴む。

 誰かに奪われていたものを、もう一度、自分のものにするために。


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