EX25
クロエは執務机の上に積まれた書類を見て、領主という言葉が持つ重さを改めて思い知らされていた。
戦場で命令を出すことと、紙の上で決裁を下すことは違う。
どちらも人を動かす。どちらも責任を伴う。だが、目の前の書類には血の匂いも、敵の足音も、魔法が消える絶望もない。そのかわり、遅れれば誰かの生活が止まり、間違えれば補償が届かず、曖昧にすれば責任の所在が腐っていく。
静かな重さだった。
「クロエ様」
執事が、机の左側に新しい束を置いた。
「中央行政への第一報に対する返信です。復旧支援の申請書式が変更されておりますので、旧様式で作成していた分は差し戻し前にこちらで整えます」
「また変わったの?」
「事件後に臨時の窓口が設けられました。通常手続きよりは早く進むはずです」
「それは良い知らせなのかしら」
「少なくとも、以前よりは」
以前。
その言葉が、机の上の空気を少しだけ変えた。
ルシアンがいた頃、この城の行政は奇妙な滞り方をしていた。必要な書類が遅れる。人員の配置が噛み合わない。使えるはずの予算が別名目で凍る。クロエはそれを、自分が未熟だから分からないのだと思っていた。
違った。
分からないようにされていた。
今、ルシアンがいないだけで、物事は不気味なほど素直に動き始めている。
その事実に安堵する自分がいる。
同じくらい、腹立たしさもあった。
「次は」
クロエは感情を机の下へ押し込め、書類へ視線を戻した。
「旧使用人の復帰希望者一覧です」
執事が別の紙束を示した。
「全員を一度に戻すのは難しいと判断します。城内の安全確認、身元の再確認、本人の意思確認が必要です。中には別の仕事へ移っている者もおります」
「当然ね。こちらの都合だけで呼び戻すわけにはいかない」
「はい」
執事の返事は、いつも通りだった。
祖父だと知った後でも、変わらない。
背筋の角度も、声の抑揚も、書類を置く位置も、すべて同じ。クロエの中だけが変わっている。目の前の老人は、自分の母の父であり、自分の祖父であり、それでもシュヴァリエ家の執事としてここに立っている。
それがクロエのためであることは分かる。
同時に、彼自身のためでもあるのだろう。
役目を失えば、この人は何として自分の隣に立てばいいのか分からなくなる。
「復帰希望者への面談は、母様にも同席してもらうわ」
「よろしいかと存じます。ローザ様を慕っていた者も多くおりますので」
「怒っている者も多いでしょうね」
「はい」
執事は否定しなかった。
その正直さが、今はありがたかった。
「怒っている者を避けるつもりはないわ。母様にも、私にも、聞くべきことがある」
「承知いたしました」
次の書類は、被害補償に関するものだった。
城下町の損壊、港倉庫の被害、葡萄畑の北側区画、負傷者の治療費、旧使用人への生活支援、解雇手続きに巻き込まれた者への再調査。項目は多い。数字は冷たい。だが、その一つ一つの後ろに人がいる。
クロエはペンを取った。
「この港倉庫の補償額、低すぎるわ」
「帳簿上は妥当です」
「帳簿上は、でしょう。倉庫が止まれば周辺の荷運びも止まる。日雇いの者への影響が入っていない」
「追加調査を命じますか」
「命じる。担当は、現地に詳しい者を使って。城内だけで数字を作らせないで」
「承知いたしました」
執事が短く記す。
クロエは次の紙へ目を移した。
「葡萄畑は」
「主区画と根は守られております。北側の棚は修復が必要ですが、今年分の全滅は避けられました」
「ナタリー隊の報告と一致しているわね」
「はい。第七班の共有情報とも矛盾はありません」
「なら、修復資材を優先して。『処女の生き血』の区画は、単なる嗜好品ではないわ。外向きの看板でもある」
「そのように」
言葉にしてみると、自分が本当に領地のことを考えているようで少し奇妙だった。
いや、考えている。
考えなければならない。
母が戻ったから終わりではない。ルシアンが消えたから片付いたわけでもない。書面上の領主はクロエで、母は領主代行として支える側に回った。ならば、これは自分の仕事だ。
逃げられない。
逃げる気もない。
「クロエ様」
執事が次の書類を差し出す前に、わずかに間を置いた。
「お疲れであれば、休憩を」
「まだ平気よ」
「判断が鈍る前に休むのも、領主の務めです」
「それは執事としての助言?」
「はい」
即答だった。
クロエは少しだけ目を細める。
「祖父としてではなく?」
「はい」
「本当に変わらないのね」
「変わってほしいのであれば、努力いたします」
「そういう意味ではないわ」
クロエはペンを置いた。
窓の外では、城の中庭を人が行き来している。修繕作業の音が遠くに聞こえた。事件の夜には、あの中庭にも敵がいた。今は職人と使用人と兵がいる。壊れたものを直すために、人が動いている。
「あなたは、私が知った後も執事でいるつもりなのね」
「そのつもりです」
「祖父と呼ばれたいとは思わないの」
問いは、口にした瞬間に少し幼く聞こえた。
クロエはそれを恥じたが、撤回はしなかった。
執事は静かに頭を下げた。
「クロエ様が望まれるのであれば、いかようにも」
「あなたの望みを聞いているの」
執事はすぐには答えなかった。
長い沈黙ではない。けれど、いつもの即答ではなかった。
「私は、シュヴァリエに仕える者です」
「またそれ」
「それが、私の立ち方です」
声は穏やかだった。
「父としてローザ様を守れなかった。祖父としてクロエ様に名乗ることもできなかった。ならば、せめて執事として、できることを間違えぬようにしたい」
クロエの喉が少し詰まった。
責める言葉はいくつもあった。どうして言わなかったのか。どうして一人で抱えたのか。どうして家族としてではなく、役目として側にいたのか。
だが、今そのすべてを投げつければ、この人はたぶん受け止める。
受け止めて、また執事の顔をする。
それが腹立たしかった。
そして、少しだけ悲しかった。
「分かったわ」
クロエはペンを取り直した。
「今は執事として働きなさい」
「はい」
「ただし、いつか祖父として話を聞く時間も作る」
執事の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「承知いたしました」
「逃げないで」
「逃げません」
その返事は、執事としてではなく、少しだけ別のものに聞こえた。
クロエはそれ以上追及しなかった。
仕事は山ほどある。
感情の整理は、今日一日では終わらない。
次の書類は、領民向け告知の文案だった。
ローザの生存、公的発表後の体制、復旧支援窓口、旧使用人に関する問い合わせ先、教団残党への警戒、中央行政との連携。文面は整っているが、どこか冷たい。
「これ、書き直すわ」
「どの部分を」
「全部」
「全部」
執事がめずらしく復唱した。
クロエは少しだけ気分がよくなった。
「領民へ出す文でしょう。正確なのは当然として、こちらが何をするのかが見えなければ意味がない。母様が戻った、私が領主として立つ、補償を進める、調査も続ける。それをもっと分かる言葉にする」
「クロエ様ご自身の言葉で?」
「そう」
「では、草案を」
「私が書くわ。あなたは後で整えなさい」
「承知いたしました」
クロエは新しい紙を引き寄せた。
最初の一文がなかなか出てこない。領主としての言葉であり、謝罪であり、約束であり、命令ではなく逃げないという表明でもある。
思っていたよりも、ずっと難しかった。
戦う方が簡単だと思った。
だが、簡単なことだけしていれば領主になれるわけではない。
クロエは息を整え、ペン先を紙へ下ろした。
西部領の皆様へ。
あまりに平凡な書き出しだった。
けれど、そこから始めるしかない。
執事は黙って隣に立っている。祖父ではなく、執事として。今はそれでいい。今は。
クロエは一文字ずつ書いた。
ルシアンがいなくなった城で、止まっていたものが動き始めている。腹立たしいほどに、滑らかに。
ならば、その流れを自分の手で掴む。
誰かに奪われていたものを、もう一度、自分のものにするために。




