EX24
ローザの挨拶回りは、桐子が想像していたよりもずっと忙しく、そして想像していたよりもずっと観光に近かった。
出発前、ローザは城の玄関広間で手袋をはめながら言った。
「公務よ。領主代行としての大事なお仕事。だから、途中でおいしいものを食べても公務なの」
「今の理屈、通るんですか」
「通すのよ」
桐子が思わず聞くと、ローザは当然のように笑った。
隣に立つアイギスは、すでに諦めたような顔をしている。クロエは別件の処理で城に残ることになり、今回の同行者はローザ、桐子、アイギス、それから最低限の護衛と案内役だけだった。ローザが戻ってきたことを各地へ直接知らせる。死を偽装していたことを謝る。領地の現状を自分の目で見る。
理由は真面目だった。
ローザ本人の態度が軽いだけで。
「二人とも、今日は難しい顔をしすぎないこと。西部領を戦場としてだけ覚えられると、私は少し寂しいから」
その言葉で、桐子は背筋を伸ばした。
ローザは笑っている。だが、その軽さの下にあるものを、もう知らないふりはできなかった。
「分かりました」
「うん。いい返事。じゃあまずは城下町からね」
城下町は、事件の傷をまだ残していた。
崩れた壁を補修する足場、焦げ跡の残る門扉、荷車に積まれた瓦礫。だが、人の動きはあった。店先では布が干され、露店には焼き菓子や果物が並び、修繕用の資材を運ぶ者たちが互いに声をかけている。死んだ場所ではない。直そうとしている場所だ。
その言葉が、桐子の中でまた形を持った。
「ローザ様だ」
誰かが言った。
声はすぐに広がった。人が集まる。驚き、安堵、疑い、涙。感情の種類が多すぎて、桐子は一瞬どこを見ればいいのか分からなくなった。
ローザは一人一人に目を向けた。
「ごめんなさい。生きてました」
城前広場での発表と同じような軽い言い方だった。
だが、ここでは距離が近い。軽さだけでは済まなかった。
「十一年ですよ」
年配の女性が、手に持っていた籠を握りしめた。
「十一年、私たちはあなたを弔ったんです。お嬢様がどんな顔で城に立っていたか、あなたは知らないでしょう」
「知っているとは言えないわ」
ローザは笑わなかった。
「ごめんなさい」
女性はしばらくローザを睨んでいた。
そして、籠の中から小さな包みを取り出して押しつける。
「食べてください。痩せてはいませんけど、どうせろくでもない食生活をしていたんでしょう」
「あら、優しい」
「怒ってるんです」
「うん。ありがとう」
ローザは包みを受け取った。
怒られているのに、嬉しそうだった。許されたわけではない。けれど、怒りを向けられることもまた、帰ってきた者にしか許されないのだと、桐子には少しだけ分かった。
その後、桐子とアイギスは城下町の店をいくつか回った。
焼き菓子は葡萄の香りがして、外側は硬く、中はしっとりしている。アイギスは真面目に味を分析し、桐子は単純においしいと思った。ローザは店主に怒られ、抱きしめられ、また怒られた。
公務は、思ったより体力を使う。
次に向かった葡萄畑は、城下町とは空気が違っていた。
中心部の重い雲が嘘のように、外縁部の空は明るい。斜面に沿って葡萄の棚が続き、葉の間に小さな実が影を作っている。ところどころに戦闘の痕跡はあった。折れた支柱、踏み荒らされた土、焦げた柵。だが、根は守られている。
「ここが、『処女の生き血』の畑ですか」
アイギスが尋ねると、案内役が頷いた。
「一部区画がそうです。毎年、出来の良い新酒の一部だけがその名で呼ばれます」
「名前が強い」
桐子が言うと、ローザが肩を揺らした。
「吸血鬼の領地だからね。名付けが少し悪趣味なの」
「少し?」
「かなり」
畑の管理をしている者たちも、ローザを見ると手を止めた。
ここでも歓迎はされた。
そして怒られた。
「葡萄の世話もせずに十一年も外にいた領主様に、今年の出来を語る資格がありますかね」
「ごもっとも」
「でも戻ってきたなら見ていってください。北側の棚は傷みましたが、主区画は守りました」
「ありがとう。ナタリーにも礼を言わないとね」
ローザは土に膝をつき、葡萄の根元を見た。
華やかな人だと思っていた。けれど、その手つきは丁寧だった。領地を飾りとして見ているのではなく、そこにあるものがどう生きているかを確かめている。
桐子は葡萄畑の風を吸い込んだ。
土の匂い、葉の青い匂い、遠くの海の気配。西部領は暗い城だけではない。雷のようなクロエの魔法や、血の味だけでもない。
「桐子」
アイギスが小さく声をかけた。
「どうした?」
「いや、顔が緩んでいた」
「緩んでた?」
「観光客の顔だ」
「だって、半分観光って言ってたし」
「公務でもある」
「アイギス、真面目だな」
「真面目に観光するべきだ」
言い方がおかしくて、桐子は笑った。
ローザは少し離れた場所で畑の人たちと話している。謝罪、近況、今後の補償、販路の確認。軽口の間に、必要な話が自然に挟まる。あの人は、たぶんこうやって領地を回していたのだろう。
次の港では、空気がさらに変わった。
潮の匂いが濃い。倉庫が並び、船が揺れ、荷を運ぶ者たちの声が飛び交っている。吸血鬼の遺灰を海風へ撒く風習があると聞いていたから、桐子は港をもっと静かな場所だと思っていた。だが実際には、港は生活の音で満ちていた。
「弔いと商売は同じ海にあるのよ」
ローザが言った。
「別々に分けられるほど、暮らしは上品にできていないから」
港の者たちは、ローザに対して城下町よりも遠慮がなかった。
「戻るのが遅い」
「本当にね」
「おかげでこっちは書類も荷も滞った」
「それはルシアンのせいにしていい?」
「半分はな」
「半分は私ね」
「分かってるなら働け」
「働きます」
ローザは笑って頭を下げた。
その横で、桐子は魚の焼ける匂いに意識を持っていかれていた。
港の食堂で出された魚は、皮が香ばしく、身は驚くほど柔らかかった。アイギスは礼儀正しく食べていたが、二口目から箸の動きが早くなった。桐子は見逃さなかった。
「おいしい?」
「……非常に」
「だよね」
ローザは二人を見て満足そうに頷いた。
「若い子が食べてるところを見るのはいいわね。生きてるって感じがする」
その言葉は軽かった。
けれど、桐子は箸を止めた。
ローザは死んだことになっていた人だ。十一年、死者として扱われた人だ。その人が、生きていると言う。食べることを見るだけで、生きていると感じる。
軽い言葉の奥に、長い不在が沈んでいた。
午後には、歓楽街にも足を伸ばした。
サキュバス自治区だと聞いた瞬間、アイギスの背筋が少し硬くなった。桐子も少し身構えた。だが、昼の通りは思ったより落ち着いていた。華やかな看板、香りの強い茶を出す店、衣装を扱う店、音楽の聞こえる建物。夜になれば違う顔を見せるのだろうが、昼は生活の場所だった。
「ここも西部領の大事な区画よ。歓楽街って言うと遊びだけに聞こえるけれど、情報も金も人の流れも集まる」
「勉強になります」
アイギスが硬い声で答えた。
「アイギスちゃん、緊張しすぎ」
「していません」
「してるしてる」
ローザは楽しそうだった。
自治区の代表らしい女性たちもローザを迎えた。華やかな笑顔で、刺すような言葉を投げる。
「十一年分、客の噂を拾っておきました。高くつきますよ」
「請求書が怖いわね」
「怖がってください」
「はい」
桐子は、そのやり取りの温度に少し感心した。
怒りと親しみが同じテーブルに乗っている。西部領の人たちは、ローザをただ許しているわけではない。ただ、戻ってきたなら働けと、当たり前のように場所を空けている。
最後に寄った森林エリアは、それまでの場所より静かだった。
エルフ自治区と呼ばれる一帯は、木々の密度が高く、道も舗装されすぎていない。風が葉を揺らし、足元には柔らかい土の感触がある。城下町や港のような賑やかさはないが、人の手が入っていないわけではない。木道、灯り、案内板、樹皮を傷つけないように設えられた建物。静けさの中に、丁寧な生活があった。
ここでもローザは頭を下げた。
相手は長い沈黙で迎え、短い言葉で怒った。
「遅い」
「はい」
「だが、戻った」
「はい」
「なら、次は遅れるな」
「努力します」
「努力では足りない」
「肝に銘じます」
ローザの返事は、今日一番真面目だった。
桐子はその横顔を見た。軽く笑う人、怒られる人、領主代行として戻った人。どれもローザで、どれか一つだけではない。
城へ戻る頃には、空の色が変わり始めていた。
馬車の中で、アイギスは少し疲れた顔をしている。桐子も足が重い。戦闘とは違う疲労だった。食べ、歩き、話を聞き、何度も謝る人の背中を見る。それだけで、体の奥に何かが溜まっていく。
「どうだった?」
ローザが向かいの席で聞いた。
「西部領観光」
「観光って言っていいんですか」
「半分はね」
桐子は窓の外を見た。
葡萄畑の斜面、港の光、森の影、華やかな通り、怒っていた人たち、笑っていた人たち。
「広いですね」
「うん」
「事件の場所っていうより、人が住んでる場所でした」
言ってから、当たり前のことを言った気がした。
けれど、ローザはその当たり前を大事なもののように受け取った。
「そう。そこを覚えていてくれると嬉しい」
ローザは目を細めた。
「クロエが背負うのは、事件の後始末だけじゃない。今日見た全部よ」
桐子は頷いた。
少し前なら、その重さをただ大変そうだと思ったかもしれない。今は違う。重いからこそ、誰かが支えなければならないのだと分かる。
クロエはあの城で、その重さを受け取ろうとしている。
なら、自分にできることも、たぶんどこかにある。
馬車が城へ近づく。
崖上の城は夕暮れの中で黒く見えたが、窓には灯りが戻っていた。死んだ場所ではない。直そうとしている場所。そして、帰ってくる人を待つ場所だった。




